「夢は叶う」加藤丈夫さん講演記5 [2013年06月28日(Fri)]
25の小さな夢基金「夢は叶う」講演会、加藤丈夫さん講演の第回目をお届けします。 皆さんが子どもの頃慣れ親しんだ漫画やアニメは、たった1人の「夢」から始まったと言っても過言ではない加藤さんのお父さんは、実は私たちの人生にも小さくない影響を与えた人だったのです。 >>>前回はこちら 5.子どものために一生を捧げる―加藤謙一(かとうけんいち)の話 [後編] 雑誌にはいろいろな作品が掲載されるので、編集長の仕事というのは、小説家や詩人や画家や漫画家の中から、どんな人にどんなものを書いてもらうかを決めることです。 読んで面白いもの、役に立つものでなければ雑誌は売れないので、それを決める編集長の仕事はとても大切です。 当時の小説家や画家は大人向けのものは一生懸命書くけれど、子ども向けのものにはあまり力入れないのが普通でした。しかし謙一は「子どもは国の宝なのだから、子どもには一番良いものを与えなければならない」という信念を変えず、どんなに有名な作家や画家でも力を抜いた作品は「少年倶楽部]には採用しませんでした。 そして、謙一は若くて才能のある作家や漫画家を思い切って起用しましたが、その人たちの作品が素晴らしいという評判が全国に広まり、やがて「少年倶楽部」の発行部数は月に80万部を超えて日本一の雑誌になりました。 特に謙一は小説と漫画に力をいれましたが、小説は読者に元気と勇気を与えるし、漫画は家族が皆で読めて家が明るくなると考えていました。 その中で、「少年倶楽部」に掲載された「のらくろ」という漫画の主人公は日本中の人気者になり、「のらくろ」の絵の入った商品が全国に溢れるほどでした。 その後、謙一は講談社をやめて自分で学童社という会社を作り、そこで「漫画少年」という雑誌を発行しました。 その「漫画少年」で活躍したのが、手塚治虫や藤子不二雄などの漫画家です。 若い頃の手塚治虫には医者になりたいという希望があって医学博士にもなったのですが、謙一が手塚治虫の才能を見抜いて「ぜひ漫画家になりなさい」と強く勧め、それがきっかけで「ジャングル大帝」や「鉄腕アトム」など多くの漫画を描き、日本で一番有名な漫画家になりました。 藤子不二雄は「手塚治虫のようになりたい」と考えて少年のころから漫画を描くことに熱中していましたが、作品が謙一に認められて「漫画少年」に掲載されるようになり、プロの漫画家になる決心をしました。そして「ドラえもん」や「おばけのQ太郎」などの明るく楽しい漫画を描いて人気者になりました。 私が10才くらいの頃、手塚治虫や藤子不二雄は私の家を仕事場にしていたので、私は彼らが一生懸命漫画を描くのをそばで見て育ちました。 また、手塚治虫は漫画だけでなく、日本で初めてテレビのアニメーションを作りました。いま世界の多くの国で「鉄腕アトム」や「ドラえもん」のテレビ・アニメが放映されていますが、そのアニメの作者たちは謙一が漫画家になることを勧めた人が多いのです… ≪続く≫ 加藤丈夫さん略歴 東京大学法学部卒業。富士電機株式会社に入社し、企画部長、人事勤労部長を務める。1989年に取締役就任後、取締役副社長、取締役会長を歴任。企業経営に携わるかたわら、企業年金連合会理事長、社団法人日本経済団体連合会労使関係委員会委員長、中央労働委員会使用者委員、学校法人開成学園理事長兼学園長などの要職も歴任した。 |