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「夢は叶う」加藤丈夫さん講演記7 [2013年07月12日(Fri)]

これまで6回に渡ってご紹介してきた25の小さな夢基金「夢は叶う」講演会・加藤丈夫さんの講演も、今回で最終回です。

夢基金生は皆貧しい山村の出身で、入学の際の調査票にはほとんどの女の子が「知識で運命を変えたい」と書いていました。
彼女たちにとっては、山奥から省都昆明に出て勉強するだけでも夢のようなこと。でも世界はもっと広く、無限の可能性に溢れています。

これから先、彼女たちがもっと大きな夢を抱いて、希望に満ちた人生を送ることができますようにexclamation



>>>前回はこちら



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7.自分の信念を貫く


こうして謙一の生き方を見ると、父が成功したのは、人生のある時期から「自分はどうしてもこれを成し遂げたい」という強い希望を抱いたことであり、それが自分の得意とすることにピッタリ合っていたことだと思います。

自分の得意なことに合った仕事を「天職」と言いますが、実は天職を見つけるのはそれほど簡単なことではありません。

幼いころから「やりたい仕事」を見つけて、それで成功する人もいるし、いくつも仕事を変えてみてようやく天職にたどりつく人もいるし、中には一生かかっても天職を見つけないで終わってしまう人もいます。

私自身の経験を言うと、私は幼い頃は藤子不二雄と同じように手塚治虫のような漫画家になりたいと思っていました。中学生のころは新聞記者になりたいと思っていたし、
大学に進んでからは学者になりたいと考えました。

最後は会社に入って経営者になりましたが、いまでは(もう変えようもありませんが)それが天職だったと思っています。

ただ、私のように年をとるにつれて考えが変るのは誰にでもあることで、むしろ幼いころから一つの道を決めて進む人は例外かもしれません。

私自身の経験から言えることは、自分が何をするかをあまり早く決めないで、周りの人たちの意見をできるだけ多く聞いて、その中から進む道を決めた方が良いと言うこと。

そして、ある時期に“これ”と決めたらすぐに投げ出さないで、時間をかけてそれに取り組んでみることだと思います。

いまお話した加藤謙一も「子どものために尽くしたい」という気持ちは変わらなかったけれど、それを実現するために学校の先生から雑誌の編集者になりました。

手塚治虫も医者になりたいと思っていたのに、まったく違う漫画家になりましたが、
この二人に共通していたには、悩んだあげくに「やろう」と決めたことを徹底してやり抜く強い気持ちだと思います。

今日は「夢は叶う」というテーマでお話しましたが、夢を叶えるにはまず「大きな夢を持つこと」が大切です。これから皆さんが大きな夢を持って、それに向かって元気に突き進んでいくことを期待しています。

≪終わり≫


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加藤丈夫さん略歴 東京大学法学部卒業。富士電機株式会社に入社し、企画部長、人事勤労部長を務める。1989年に取締役就任後、取締役副社長、取締役会長を歴任。企業経営に携わるかたわら、企業年金連合会理事長、社団法人日本経済団体連合会労使関係委員会委員長、中央労働委員会使用者委員、学校法人開成学園理事長兼学園長などの要職も歴任した。

「夢は叶う」加藤丈夫さん講演記6 [2013年07月05日(Fri)]

先週土曜日に日本を出発した「25の小さな夢基金ふれあいの旅」の一行は、1週間かけて得たかけがえのない思い出を胸に、もう間もなく日本に到着する予定です。

旅では、夢基金生の故郷・シーサンパンナを訪ね、素朴な生活を営む人々とふれあいました。シーサンパンナの子どもたちは、一体どんな夢を描いて日々を送っているのでしょうexclamation&question

折りしも世間は七夕、皆さんはどんな願い事をしますか?
そして私たちが子どもの頃描いた夢は、果たして現実になっているのでしょうかー

加藤丈夫さんの「夢は叶う」講演会、第6回目をお届けします。



>>>前回はこちら



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6.ロボットにかける夢

さて、皆さんも知っていると思いますが、鉄腕アトムはロボットです。
ただ普通の機械でなく、宇宙を自由に飛び回り、60か国の言葉を話し、身につけたマシンガンで悪者をやっつける強い力を持ったスーパーロボットです。そして良いことと悪いことを見分ける力を持ち、人間を幸せにするために大活躍をします。

40年以上も前から、日本の子どもたちは「鉄腕アトム」のファンでしたが、その中には「自分は大きくなったら鉄腕アトムのようなロボットを作りたい」と考える人たちが沢山いました。日本の子どもたちにとってロボットは仲の良い友達なのです。

そんな子どもたちが大人になって、ロボットを作る技術者になりましたが、その人たちが作ったホンダの「アシモ」というロボットは、鉄腕アトムと同じように歩いたり、走ったり、楽器を演奏したりできるようになってきました。最近はさらに技術が進んで、人が話す言葉を聞き分けて命令通りに動くこともできるようになっています。

先程、原子力発電所の事故の話をしましたが、ロボットであれば人の入れない危険な場所で仕事をすることもできるし、工場では人間の何倍もの速さで作業をすることが可能です。また一人暮らしのお年寄りの世話もできるようになります。

アシモはまだ良いことと悪いことを見分ける力はもっていませんが、あと10年もすれば「鉄腕アトム」のような優しい心をもった強いロボットができるかもしれないし、
それは人類の幸せに繋がるに違いありません。

その意味では手塚治虫は、子どもたちに大きな夢を与えてくれたし、彼に漫画家になるように勧めた謙一も編集者として素晴らしい仕事をしたと思います。

≪続く≫


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加藤丈夫さん略歴 東京大学法学部卒業。富士電機株式会社に入社し、企画部長、人事勤労部長を務める。1989年に取締役就任後、取締役副社長、取締役会長を歴任。企業経営に携わるかたわら、企業年金連合会理事長、社団法人日本経済団体連合会労使関係委員会委員長、中央労働委員会使用者委員、学校法人開成学園理事長兼学園長などの要職も歴任した。
「夢は叶う」加藤丈夫さん講演記5 [2013年06月28日(Fri)]

25の小さな夢基金「夢は叶う」講演会、加藤丈夫さん講演の第5回目をお届けします。

皆さんが子どもの頃慣れ親しんだ漫画やアニメは、たった1人の「夢」から始まったと言っても過言ではないexclamation&question加藤さんのお父さんは、実は私たちの人生にも小さくない影響を与えた人だったのです。

>>>前回はこちら



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5.子どものために一生を捧げる―加藤謙一(かとうけんいち)の話
[後編]


雑誌にはいろいろな作品が掲載されるので、編集長の仕事というのは、小説家や詩人や画家や漫画家の中から、どんな人にどんなものを書いてもらうかを決めることです。
読んで面白いもの、役に立つものでなければ雑誌は売れないので、それを決める編集長の仕事はとても大切です。

当時の小説家や画家は大人向けのものは一生懸命書くけれど、子ども向けのものにはあまり力入れないのが普通でした。しかし謙一は「子どもは国の宝なのだから、子どもには一番良いものを与えなければならない」という信念を変えず、どんなに有名な作家や画家でも力を抜いた作品は「少年倶楽部]には採用しませんでした。

そして、謙一は若くて才能のある作家や漫画家を思い切って起用しましたが、その人たちの作品が素晴らしいという評判が全国に広まり、やがて「少年倶楽部」の発行部数は月に80万部を超えて日本一の雑誌になりました。

特に謙一は小説と漫画に力をいれましたが、小説は読者に元気と勇気を与えるし、漫画は家族が皆で読めて家が明るくなると考えていました。

その中で、「少年倶楽部」に掲載された「のらくろ」という漫画の主人公は日本中の人気者になり、「のらくろ」の絵の入った商品が全国に溢れるほどでした。

その後、謙一は講談社をやめて自分で学童社という会社を作り、そこで「漫画少年」という雑誌を発行しました。
 
その「漫画少年」で活躍したのが、手塚治虫や藤子不二雄などの漫画家です。

若い頃の手塚治虫には医者になりたいという希望があって医学博士にもなったのですが、謙一が手塚治虫の才能を見抜いて「ぜひ漫画家になりなさい」と強く勧め、それがきっかけで「ジャングル大帝」や「鉄腕アトム」など多くの漫画を描き、日本で一番有名な漫画家になりました。

藤子不二雄は「手塚治虫のようになりたい」と考えて少年のころから漫画を描くことに熱中していましたが、作品が謙一に認められて「漫画少年」に掲載されるようになり、プロの漫画家になる決心をしました。そして「ドラえもん」や「おばけのQ太郎」などの明るく楽しい漫画を描いて人気者になりました。

私が10才くらいの頃、手塚治虫や藤子不二雄は私の家を仕事場にしていたので、私は彼らが一生懸命漫画を描くのをそばで見て育ちました。
また、手塚治虫は漫画だけでなく、日本で初めてテレビのアニメーションを作りました。いま世界の多くの国で「鉄腕アトム」や「ドラえもん」のテレビ・アニメが放映されていますが、そのアニメの作者たちは謙一が漫画家になることを勧めた人が多いのです…

≪続く≫



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加藤丈夫さん略歴 東京大学法学部卒業。富士電機株式会社に入社し、企画部長、人事勤労部長を務める。1989年に取締役就任後、取締役副社長、取締役会長を歴任。企業経営に携わるかたわら、企業年金連合会理事長、社団法人日本経済団体連合会労使関係委員会委員長、中央労働委員会使用者委員、学校法人開成学園理事長兼学園長などの要職も歴任した。



「夢は叶う」加藤丈夫さん講演記4 [2013年06月21日(Fri)]

「25の小さな夢基金」プロジェクトで応援する昆明女子中学にて5月に開催した「夢は叶う」講演会
本日は加藤丈夫さんの講演第4回目です。  第3回記事は>>>こちら

お話の主人公は父・謙一さんに。「国の宝である子どもたちのために尽くす」という一人の教師の大きな夢は、やがて青森を飛び出しますぴかぴか(新しい)


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4.子どものために一生を捧げる―加藤謙一(かとうけんいち)の話
[前編]

  
謙一は1896年(今から117年前)に日本の東北地方の青森県で生まれました。

師範学校を卒業して地元で小学校の先生になり2年生(8才)のクラスの担任になりましたが、先生の仕事が大好きで、「子どもは国の宝だ。子供が良くならなければ日本は良くならない。この子どもたちのために尽くそう」と考えて仕事に励みました。

特に国語の授業に力をいれて、教科書のほかに自分で作った「なかよし」というクラス雑誌―そこには、自分が作った物語や生徒たちの作文や詩が載っていましたが、それを生徒たちに配ったところ子どもたちが目を輝かせて喜びました。

それを見ているうちに、謙一の心の中に「こんなに子供たちが喜ぶなら、この喜びを地方の一つのクラスのものだけでなく日本全国の子どもたちに広めたいものだ。そのためには東京に出て出版社に入り、少年雑誌を作ろう」という希望がわき上がり、それを抑えることができなくなってしまいました。

そこで、両親や生徒たちが別れを惜しむのを振り切って、東京に出てきました。
そのころは飛行機もなく、青森と東京は汽車で20時間以上かかったので、いまなら外国に飛び出すような気持ちだったのでしょう。

ところが、東京ではそれほど簡単に就職先を見つけることができず、3年間も決まった仕事のない苦しい生活が続きましたが、やっとのことで望みが叶って、講談社という大きな出版社に就職することができました。

そして運の良いことに、入社して間もなく、社長に認められて「少年倶楽部」という子ども向けの雑誌の編集長につくことになりました。

その社長は、謙一が子どもに喜ばれる雑誌を作りたいと決心して故郷を飛び出し、3年間も苦労しながら、その気持ちを変えなかったことを知って、「この男ならやるだろう」と思って編集長にしたそうです。

ところが、編集長一人が張り切っても雑誌が売れるものでなく、最初の3〜4年は苦しい日々が続きました。
≪続く≫


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加藤丈夫さん略歴 東京大学法学部卒業。富士電機株式会社に入社し、企画部長、人事勤労部長を務める。1989年に取締役就任後、取締役副社長、取締役会長を歴任。企業経営に携わるかたわら、企業年金連合会理事長、社団法人日本経済団体連合会労使関係委員会委員長、中央労働委員会使用者委員、学校法人開成学園理事長兼学園長などの要職も歴任した。
「夢は叶う」加藤丈夫さん講演記3 [2013年06月14日(Fri)]

25の小さな夢基金」加藤丈夫さんの講演第3回目です。
私たちのターニングポイントになった大震災から、実際に"夢を叶えた"という、加藤さんのとても身近なある方のお話へ…。講演は続きまするんるん

>>>前回はこちら


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3.エネルギー問題を見直す


二つ目は、「エネルギー問題を考えよう」という気持ちが強まったことです。
日本ではこれまで全体の電力使用量の約25%を原子力発電でまかなっていましたが、
今回の事故によって「原子力発電所の安全性を確かめるまで発電をストップしよう」ということになり、現在でも50基ある原子力発電所の中で、安全性が確認された2基だけが動いています。

不足する分は火力発電所などをフル回転させて補っていこうとしていますが、電力の使用量が供給量を少しでも上回ると大規模な停電が発生して人々の生活に大きな影響が出てしまいます。

いま私たちが検討している対策は、
@原子力発電所の安全性を高めること
A太陽光発電や風力発電などの安全なエネルギーを増やすこと
B人々が協力して使用する電力を節約すること
などですが、新しいエネルギーの普及には時間がかかるので、何といっても使用する電力を節約すること―“節電”が大切です。

実は、東日本大震災の後、昨年も一昨年も日本の夏は大変暑い日が続いたので電力が不足するのではないかと心配されました。しかし、家庭ではエアコンをできるだけ使わないようにしたり、工場では機械を動かす時間を調整したり、事務所では室内の温度を下げないで軽装で過ごすなど、さまざまな努力をして何とか電力不足にならないで乗り切ることができました。
さらに電力使用量の少ない電球や冷蔵庫、エアコンなどの普及も急速に進んでいます。
おそらく、エネルギーを上手に使うことは、これから日本だけでなく世界中の国々にとって大切な問題になると思いますが、その意味で日本はこの2年間貴重な経験をしたと考えています。

そこで本題の「夢を叶えた人」の話に入りますが、その人は実は私の父・加藤謙一です。身近と言えば、こんなに身近な人はいないでしょうが、ここでは父と言わずに「謙一」と呼ぶことにします。

≪続く≫


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加藤丈夫さん略歴 東京大学法学部卒業。富士電機株式会社に入社し、企画部長、人事勤労部長を務める。1989年に取締役就任後、取締役副社長、取締役会長を歴任。企業経営に携わるかたわら、企業年金連合会理事長、社団法人日本経済団体連合会労使関係委員会委員長、中央労働委員会使用者委員、学校法人開成学園理事長兼学園長などの要職も歴任した。
「夢は叶う」加藤丈夫さん講演記2 [2013年06月07日(Fri)]

一昨年に日本を襲った東日本大震災は、私たち1人1人が”生きる”ということを見つめなおす大きなきっかけになりました。
同時にそれは、世界の人々とのつながりを実感する出来事だったのではないでしょうか。
今だからこそ、もう一度ゆっくり考えたいことですね。

加藤丈夫さんの「夢は叶う」講演、第2回目をお届けしますグッド(上向き矢印)

>>>連載第1回はこちら



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2.東日本大震災から学んだこと


昨年もここ雲南省で大きな地震が発生したというニュースが、日本でも大きく報道されて、皆が災害にあった人たちのことを心配していました。

一昨年(2011年)3月11日、日本の東北地方にマグニチュード9.0という大地震が発生し、その直後、海岸の近くに30メートルを越す大津波がおそいました。

さらに、地震と津波の影響により福島の原子力発電所が壊れ、放射能が外に漏れ出すという事故が起こりました。

地震と津波による死者・行方不明者は合わせて約1万9千人に上り、全壊した建物は約13万戸で、46万人以上の人が住む場所を失いました。

また、原子力発電所の事故では、発電所の近くに住む人たちが全員家を離れて避難することになり、広い範囲で水や食料が放射能でよごれるという被害が発生しました。
あれから2年、国は「大震災の被害からの復旧・復興」に全力をあげて取り組んでいますが、まだ多くの人が自宅を離れて不自由な生活を続けており、この地域が完全に立ち直るには長い時間がかかると予想されています。

それは日本にとって大変不幸な出来事でしたが、私はこの大震災によって「日本が大きく変わった」と思っています。日本が・・・というより「日本の人たちの気持ちが変わったと言った方が良いかもしれません。

その中で、私が強い印象を受けた二つのことをお話すると、その一つは、人々の“絆”が強まったということです。

震災の様子がテレビやインターネットで世界に報道されると、すぐに中国をはじめ世界中の国からたくさんの人たちが救援に駆けつけてくれました。

その人たちは大きな余震が続く中で、夜も寝ないで倒れた家の下敷きになっている人を助け出したり、怪我をした人の手当をしたり献身的な活動をしてくれました。

国内でも、消防隊や警察はもちろんですが、全国から何万人ものボランティアが来て壊れた家の片づけをしたり、水や食料を配ったり、住宅の建設を手伝ったりしました。
中でも若いボランティアの人たちの活躍が目立ちました。

また、国内だけでなく世界中の国々から多くの義捐金が寄せられましたが、ミュージシャンやスポーツ選手はコンサートやさまざまなイベントを開催して被災した人たちを励ましました。

こうした活動が、災害にあった人たちをどんなに元気づけたことでしょうか。
そして、救援に駆けつけた人たちや義捐金を出した人たちの中にも、「困ったときにはお互いに助け合うことが大切だ」という気持ちが強くなり、それは世界中の人々の“心の絆”を強めることにつながったと思います。

≪続く≫



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加藤丈夫さん略歴 東京大学法学部卒業。富士電機株式会社に入社し、企画部長、人事勤労部長を務める。1989年に取締役就任後、取締役副社長、取締役会長を歴任。企業経営に携わるかたわら、企業年金連合会理事長、社団法人日本経済団体連合会労使関係委員会委員長、中央労働委員会使用者委員、学校法人開成学園理事長兼学園長などの要職も歴任した。

「夢は叶う」加藤丈夫さん講演記1 [2013年05月31日(Fri)]

少数民族の女の子たちの夢を後押しするため、協会は2009年より"25の小さな夢基金"昆明女子中学(中高一貫校)で「夢は叶う」講演会を開催してきました。

雲南の山奥で育った女の子たちにとって、大都市昆明で勉強すること自体が夢のような話ぴかぴか(新しい)
でも、世界はもっと広く、若さというのは無限の可能性に溢れています。
彼女たちがより大きな視野を持ち、大きな夢を抱いて社会に羽ばたけるよう、毎年の講演会では日本の各界で活躍する方々がさまざまなお話しをしてくださいました。

今年は518日、富士電機株式会社元会長加藤丈夫さんが昆明に夢を届けてくださいました。

2009年のアルバート・アインシュタイン医学大学・丘ヤス名誉教授
2010年の日本経済センター・新井淳一会長(当時)
2011年のアサヒグループホールディングス・池田弘一相談役

に続く、4度目の講演会です。

これから毎週金曜日、全7回に渡って加藤さんの講演内容をご紹介していきたいと思いますわーい(嬉しい顔)





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1.はじめに

最初に私の自己紹介をしておきましょう。
私は1938年の生まれで、現在74才です。
  
1961年に大学を卒業して富士電機という電機メーカーに入社して、その会社に一昨年までちょうど50年間勤めました。

富士電機は主に発電所や工場などで使う大型の電気機械や設備を作っていますが、現在日本はじめ世界の国々で約2万5千人の人が働いています。

富士電機は中国でも広く事業を行っており、全国に工場が10か所あってモーターやインバータを作っていますが、そこでは中国の人が約4千人働いています。

また、中国の国内に多くの発電所も作っています。

私は約20年前、富士電機がはじめて中国に工場を作ろうという計画の責任者でしたが、その仕事で何度も来たので、私にとって中国は大変なじみの深い国です。

私は富士電機では20年間取締役を務め、そのうちの4年間は会長でしたが、私の会社生活の大半は人事部門で、社員を採用したり、教育をしたり、給料を決めたり、一人ひとりを最も適した仕事に配置するなどの仕事をしてきました。

会社には「ヒト・モノ・カネ」の3つが大切だと言われますが、私はその中のヒトの部分を仕事にしてきたわけです。

特に教育の仕事には熱心に取り組みましたが、会長になってからは、会社の中だけでなく、私の母校である開成学園という学校の理事長もつとめました。

開成学園には、12才から18才までの中学生と高校生の男子2100名がいますが、現在日本では最も学力レベルの高い学校だと言われており、卒業生の中には社会のさまざまな分野で活躍している人がたくさんいます。

今日は、私がよく知っている人の中で、大きな夢に挑戦してそれを叶えた人の話をしたいと思っていますが、その前に、一昨年3月に日本で発生した「東日本大震災」のことをお話しましょう。

≪続く≫


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加藤丈夫さん略歴 東京大学法学部卒業。富士電機株式会社に入社し、企画部長、人事勤労部長を務める。1989年に取締役就任後、取締役副社長、取締役会長を歴任。企業経営に携わるかたわら、企業年金連合会理事長、社団法人日本経済団体連合会労使関係委員会委員長、中央労働委員会使用者委員、学校法人開成学園理事長兼学園長などの要職も歴任した。