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「夢は叶う」池田弘一さん講演記19 [2012年03月09日(Fri)]
皆さんこんばんはわーい(嬉しい顔)
10月末より毎週金曜日にご紹介してきました、池田弘一さんによる25の小さな夢基金「夢は叶う」講演もいよいよ今日で最終回です。

雲南の貧しい山岳地帯で育った少数民族の女の子たちは、高校に進学して省都昆明に出てきたこと自体が夢のようだと口をそろえます。今、遥か海の彼方からやってきた世界的大企業の元リーダーを目の前にして、夢は決して夢のままではなく、自分次第で実現させることができるかもしれないと気付き始めました。
人生はまだまだ始まったばかりexclamation若者よ、大志を抱けexclamation×2






最終回 人生の本舞台は常に将来にあり

最後に、私の尊敬する政治家の言葉を皆さんにお伝えし、本日のお話を終わらせていただきます。

尾崎行雄さんという日本の古い政治家がいらっしゃいました。

その方は戦前・戦後を通じた60年間に渡って国会議員をなさった方で、96歳で亡くなられたのですが、国会議員を辞めた94歳のときの言葉が、今、国会議事堂の前にある憲政記念館に掲げてあります。

『「人生の本舞台は常に将来にあり」 94歳 尾崎行雄』

94歳の尾崎行雄先生ですら、人生の本舞台は将来にある、というわけですから、若い皆さんの本舞台はこれから先の限りない将来に限りなく広がっているわけです。どうか皆さん、94歳の勢いに負けないように、日々精進してください。

本日は大変つたないお話にお付き合いいただき、どうもありがとうございました。皆さんがますますご成長されることを期待して、終わりにさせていただきます。

謝謝、再見。


「夢は叶う」講演会

「夢は叶う」講演会

「夢は叶う」講演会


=おわり=



池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。


「夢は叶う」池田弘一さん講演記18 [2012年03月02日(Fri)]



第18回 「頑張る力」

今ひとつは、人間も企業も限りなく成長できる、ということです。「もういいんだ」「もう大丈夫だ」と思ったときに、退歩や停滞が始まるのではないでしょうか。

私がアサヒビールの中で大過なくやってこられたのは、色々な人に支えられながらも、そういった気持ちを持ち続けていたからだと思います。

若い社員たちには、もっともっと可能性がある、自分の可能性を自分で裏切るな、可能性には限りが無い、ということを常に話しています

今日、お集まりの皆さんも大変若く、今までもじゅうぶん頑張ってきたのでしょうが、これから真の意味で、自分の可能性にチャレンジしていくことになると思います。どうか、自分の可能性を裏切らないように、益々頑張ってください。



「お客様満足」を求めて

アサヒビールの経営理念に「お客様満足を求めて」という言葉があります。

アサヒビールはもとより、すべての企業が成長するかしないかは、お客様の満足をどう求めていくかということに尽きるかと思います。しかし、それはなかなか難しいもので、一度満足したお客様は、次にはもっと高いレベルの満足を求めます。今日の満足は、必ず明日の不満につながるのです。

ですから、「お客様満足」を求めるということは、常に努力をしてチャレンジすることであり、皆さん方のこれからの頑張りにも通じると思います。皆さんは、自分の満足を高めるために努力するわけですが、一旦満足しても、翌日は更に高いレベルの満足を求めて、常に自分に対して挑戦していってください。

日々新しいスタートラインに立ったつもりで毎日を過ごし、皆さんの色々な夢に日付を打って、実現していってほしいと思います。





池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。


「夢は叶う」池田弘一さん講演記16-17 [2012年02月17日(Fri)]


こんにちはびっくり
昨日から「笑顔を君に」in聖蹟桜ヶ丘が始まっていますキラキラ
雲南と日本の子どもたちが作った「小さな壁新聞」が一堂に会すのは初めてのこと。皆さん、このチャンスをどうぞお見逃しなく〜ラブ

さて、池田さん率いるアサヒビールは2001年、とうとう全国制覇を果たしますジョッキ
そして、世界への挑戦が始まるのですダッシュ
池田弘一さん講演、16回-17回分を一気にご紹介しますラブ
人間の情熱の前には、言葉の違いだって大した壁にはならないのかもしれません笑い






第16回-第17回 真の「コミュニケーション力」


康師傅には、魏さんという4兄弟が経営している台湾系の「頂新」という親会社がありますが、そこは当時インスタントラーメンで既に中国一の会社でした。その魏兄弟の長男・應州さんとお会いし、年末には合弁会社のサインをすることになりました。

この合弁会社は大変順調で、昨年はおそらく中国でコカ・コーラを抜いて飲料会社一番の売上を達成したのではないかと思います。今年も引き続き成長していて、アサヒビールに大きな寄与をしてくれています。

2009年のリーマンショックの時には、青島ビールの株取得に動くことになりました。当時、青島ビールにはアンハイザー・ブッシュという会社が1/4程出資していましたが、リーマンショックによりその株を放出するのではないかと考え、ベルギーのアンハイザー・ブッシュ・インベブCEOを訪ね、申し入れを行ったのです。

その後色々な経緯はありましたが、2010年に青島ビール株20%を無事取得しました。そして、青島ビールと我々は、戦略的パートナーとして中国で一緒にビール事業を行うことで合意したのです。

その他、オーストラリアやタイなど、様々な国で様々な事業がスタートしました。

私は日本語以外、英語も中国語も話せないのですが、「你好(ニイハオ)」「謝謝(シェイシェイ)」「再見(サイチェン)」でなんとかやってきました。色々な方のご支援があって、無事海外の方とビジネスをすることができたのです。







私が社長・会長を歴任する間に学んだたくさんのことから、少しだけお話させていただきます。

まずは、コミュニケーションの力、ということです。
今は大変世の中が便利になり、私は苦手ですが、様々な端末を使えばインターネット上にある世界中のあらゆる情報や知識が瞬時に手に入るようになりました。

知る、ということに関してはたちどころにできるようになりましたが、逆に、自分の考えや思いをどうやって他人に伝えるか、ということについては、昔と比べて劣ってきたのではないかと思います。

世の中、自分ひとりで全てのことができるわけではなく、様々な人の支えや応援で成り立っているのですから、自分というもの、自分の考え・思いを知ってもらうためのコミュニケーションは欠かせません。

もちろん、言葉が話せればそれに越したことはないのですが、言葉が話せないからといってコミュニケーションができないということはありません。コミュニケーションというのは、個人、あるいは会社の情熱をどのように伝えるかという、私の言葉で言いますと「全人格による力」が大切だと思っています。

人間で言えば、フェイスtoフェイスでコミュニケーションすることが何よりで、メールのやり取りだけでは熱い思いが伝わらないこともあるでしょう。コミュニケーション力には、それぞれの会社なり個人なりの深みがモノをいいます。それぞれの文化や歴史に裏打ちされた「全人格の力」が大切なのです。



≪続く…≫




池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。


「夢は叶う」池田弘一さん講演記15 [2012年02月10日(Fri)]

こんにちは!
来週は会報第40号の発送と写真展「笑顔を君に」in聖蹟桜ヶ丘の開催があり、事務所は準備に追われて大忙し走る汗今日もボランティアさんに色々とお仕事をして頂き、大助かり!大変心強いです笑顔キラキラ

さて、今回は、昨年9月に「25の小さな夢基金」支援校である昆明女子中学校で行われた夢は叶う講演会第15回目をお届けします!

これまでの講演内容はこちらからどうぞびっくり






第15回 社長としてのコミュニケーション力


その後、私は首都圏の営業責任者を経て本社の専務になり、2002年には社長に就任しました。

2002年というのは、日本のバブル景気崩壊から10年も続く苦しい時期の最中で、人口も横ばいで少子高齢化が始まり、国内の成長はむしろ縮小していたような時代でした。実際、日本全体のビールの消費量も1994年をピークに減少していました。しかし、アサヒは幸いなことに、「夢に日付を」の合言葉の下、スーパードライが他社のシェアを奪って成長、2001年にビールの最高売上量を達成していたのです。

つまり私は、最高の状況の中社長に就任したのです。これからのアサヒビールを、新しい目標の中でどのように成長させていくかが大事な役目となりました。

そこで構想したのは、ビール以外の色々な酒類を扱う総合酒類会社になる、ということです。飲料・食品等のグループ企業も強化することで、アサヒビールだけでなく、アサヒグループ全体で成長する、そのために、これまで手がけていなかった他の酒類や飲料や食品の会社とM&A(買収・合併)をしようと計画しました。実際、酒類で3社、飲料では数々の会社とM&Aをしていったのです。

一方で、飽和状態になっていた日本以外の市場も求めようと、初めて海外にも目を向けました。まずは、身近にある中国を初め、アジアやオセアニアの地域でアサヒの商品を売ることができないかと計画を練りました。

私はそれまで日本国内でビールの営業をしていたので、海外で仕事をした経験は全くありません。個人的にもハワイやアメリカに旅行した程度で、中国には全く縁がありませんでした。そんな私でしたが、社長就任の年の秋、飲料の合弁事業の話が持ち上がり、天津の「康師傅」という皆さんにおなじみの会社を訪ねることになったのです。




≪続く…≫




池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。


「夢は叶う」池田弘一さん講演記14 [2012年02月03日(Fri)]

こんにちは!
今日は節分ですね猫
これまで節分と言えば「豆まき」でしたが、最近では「恵方巻」が新たに加わり、今日もあちこちで売られているのを目にしました笑顔
今年の無病息災を願って恵方に向かって無言で食べ切らなければならないこの恵方巻き。今年の方角は「北北西」だそうですよびっくり


さて、今回は、昨年9月に「25の小さな夢基金」支援校である昆明女子中学校で行われた夢は叶う講演会第14回目をお届けします!

これまでの講演内容はこちらからどうぞびっくり






第14回 「夢に日付を打とう」「アサヒは西から昇る」


ここで、「夢に日付を」というお話をしたいと思います。

スーパードライでアサヒは復活したわけですが、まだまだ当時No.1のキリンビールには追いつけず、2番手でした。その後、新しい社長が「もう一度一番になりたい」と強い目標を打ち出し、全員で「夢に日付を打とう」を合言葉に、ビールNo.1への挑戦が始まったのです。

その頃、私は広島の支社長から九州・中国・四国を含む大きなエリアの責任者になりました。九州は自分の生まれ育ったところで、入社直後13年も過ごしたということもあって、強い愛着がありました。そのため、何とか全国に先駆けて一番になりたい、シェアトップになりたいと強く思い、社員たちにも訴えました。

当時、私が社員に向かって言ったのは「アサヒは西から昇る」という言葉です。これはある新聞に大きく取り上げられ、私たちのスローガンになりました

当時の社長も支援してくれました。アサヒは2001年に全国No.1になることができるのですが、社員やお得意先、卸の皆様が一致協力したことで、わたしたちはそれに先駆けて、1999年に地域No.1となることができたのです。

こうして、みんなが強く思ったことをうまくまとめれば必ず実現できるということを、自分の担当エリアの中で学ぶことができました。翌々年には、アサヒビール全体としても経験することができたわけですが、これは私の人生において本当に大きな出来事でした。まさしく当時の社長が言った「夢に日付を」ということが実現できたのであり、アサヒビールの夢は本当に叶ったのです。その当時は、大変な感激に浸ったものでした。




≪続く…≫




池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。


「夢は叶う」池田弘一さん講演記13 [2012年01月27日(Fri)]
皆さんこんにちはびっくり寒い日が続きますね悲しい

23日は中国最大の祝日「春節(旧正月)」でしたOK
中国の年越しは例年夜を徹した花火や爆竹で本当に賑やかなのですが、今年はその花火と爆竹のやりすぎで、北京市では翌日の大気汚染が、通常の80倍にまでなったそうですよ困った
さすがは中国、スケールが違いますね炎

池田弘一さんの講演も、いよいよ佳境。
第13回目をお届けしますびっくり







第13回 一人の英雄より多彩な人材


一方、急成長の中で、色々な人材がアサヒビールに入ってくることになりました。急激に売り上げが広がったことで、特に営業部門が人員不足となり、パートタイムの女性社員を増員することになったのです。最盛期には全国で3,000名のパートタイム社員を各販売店頭に配置することになりました。

彼女たちは大体週に4日ほど、10時〜16時の勤務時間で、一人当たり小売店6軒〜10軒担当しました。アサヒの商品を他社よりも目立つように陳列したり、売れ行きや在庫の状況をこまめにチェックし、本社にすばやく情報を届ける仕組みを作りました。店頭での商品の動きを的確に把握できるようになったことは、アサヒにとって苛烈な競争を勝ち抜くための大きな助けになりました。素人の女性たちの草の根の力が、いかんなく発揮されたのです。

一方で、様々な会社からも様々な人が入ってきました。違った考え方、違った文化を持った人たちがアサヒの仲間になることで、一層活発な議論が起こるようになり、必然的に組織が活性化しました。

その後、アサヒビールは色々な会社を買収・合併し、現在は組織の1/3が中途入社の人材です。そのような中ですごしてきた私も、自然と様々な考え方を知ることになりました。





≪続く…≫




池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。


「夢は叶う」池田弘一さん講演記12 [2012年01月20日(Fri)]
皆さんこんにちはびっくり
ブログでは少しご無沙汰してしまいましたすいません

年末にかけて、たくさんの方から「25の小さな夢基金」サポートのお申し出を頂きました。本当にありがとうございますラブ
皆さんがそれぞれ応援してくださることになった1年生の女の子たちは、昨年9月にこの池田さんの講演を生で聴いているんです音符
ひょっとしたら過去の記事でご紹介した写真の中に、あなたの「雲南の娘」が写っていたかもしれません笑い

それでは、池田弘一さんの講演、12回目をお届けしますびっくり






第12回 チャンスは貯金できない

アサヒの売り上げが一挙に増えたことで、ドライビールは大変な脚光を浴びました。ライバル会社も翌年にそれぞれドライビールを発売し、当時のマスメディアは「ドライ戦争」などと煽って、話題を呼びました。

そのような厳しい競争を経て、我々のアサヒスーパードライがお客様に認められ、今日のアサヒビールの勢いを築いたのです。当時の2人の社長の経営判断が、今も私の記憶に鮮明に残っています。

ひとつは、売り上げが低調だったアサヒビールの中にあって、おのおのの危機感を上手くまとめあげ、「100周年を迎えるにあたってもう一度素晴らしいアサヒビールに戻ろう」と、会社全体の求心力を高めて新しい計画を創り上げたこと。

もうひとつは、三千万箱余りの製造能力しかなかった会社が一挙に年間七千万箱売り上げられるような設備投資を行い、生産体制を築いたこと。

ドライ戦争といわれた当時、アサヒビールはあらゆるタンクをすべてスーパードライに集中することによってお客様の要望に応え、結果として競争に勝ちました。当時の社長は、そのことを「チャンスに後ろ髪はない、前髪をつかめ。チャンスは貯金できない。」と、後の講演で振り返っています。

私は、トップの決断力の凄さをつくづく実感しました。健全な危機感を常に持つことで、会社の求心力は高まっていく。そして、チャンスはどのような状況の会社にも常にあり、それをいかに使うかが大切なのだということを学びました。

これは、個人においても同じです。
「左遷」だと思った異動が自分にとって大きな財産になったこと、自分の意に染まない人事の中で将来の師と仰ぐような上司に出会えたこと。人生には自分では分からないような、大きな巡り会わせがあります。色々な環境の中で、いかに前向きに生きていくかということが、人間にとって非常に大切なことなのではないでしょうか。

先程、出向時代に順調な環境によって人が大きく成長するということを目の当たりにしたお話しをしましたが、私が戻った後のアサヒビールもまた、スーパードライによる急成長の渦中にありました。その好循環の中で、会社も、社員も、それから消費者からの評価も大きく変化していったのではないかと思います。





≪続く…≫




池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。


「夢は叶う」池田弘一さん講演記11 [2012年01月13日(Fri)]
新年も半月が過ぎましたダッシュ
今日から「夢は叶う」講演も連載再開ですびっくり
いよいよアサヒの反撃が始まります笑い




第11回 マーケティングの原点

当時一番売れていたビールは「キリンラガービール」でしたが、消費者調査によって、お客様はその味にも満足はしておらず、もっと新しいビールを期待しているということがわかりました。そして私たちは、お客様の満足に向けての開発を進めたわけです。この「お客様に聞く」というのは、当時のビールの開発から見ると非常に画期的なことでした。

といいますのも、当時は醸造に携わる人が美味しいと思って造ったのが良いビールで、それを美味しいと思って売るのが営業の仕事と言われていたのです。それを、日本の消費者の皆様が求めている味を調査して、それに応えることができるようなビールを醸造の人たちか苦労して作るというのは、当時としては初めての画期的な試みでした。今で言う、マーケティングの原点です。

新ビール開発の最中、私は飲料の仕事をしておりましたが、仕事の合間に開発途中の商品を色々と試飲もしました。直接携わることはなかったものの、開発の苦労を同じ本社の中で間近に見、非常に貴重な経験をすることができました。スーパードライが出る半年前に、私は営業部門の関東支店次長というNo.2として、ビール部門に戻りました。

赴任後は新商品スーパードライの紹介と予約取り付けの仕事をしたのですが、このスーパードライは立ち上がりから大変な前評判で、一年間に予定していた箱数を最初の受注の段階で獲得、発売後もすべてのお客様に十分届けることができないような、大変な勢いの売れ行きでした。

それまでのアサヒビールの売り上げは年間で大体三千七百万箱程度でしたが、アサヒスーパードライによって、一挙に七千万箱を超えるようになりました。





≪続く…≫




池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。


「夢は叶う」池田弘一さん講演記9&10 [2011年12月22日(Thu)]
皆さんこんにちは笑い
年内最後の協会行事・チャリティー忘年会も無事終わり、いよいよ2011年も残りあとわずかとなりましたキラキラ
池田さんの「夢は叶う」講演も、今回が今年最後の更新。
明日23日は祝日のため、1日繰り上げての更新です走る
次回更新予定の1月13日まで日が開きますので、2回分をお届けいたしますラブ

いよいよ、皆さんもよくご存知の「スーパードライ」の登場ですよダッシュ






第9回 東京支店 営業時代、飲料出向時代


この卸会社に都合3年間勤めた後、1981年に私はアサヒビールに戻りました。それから4年間、東京支店で課長として営業を担当しました。

先程お話したとおり、当時のアサヒビールは業績が悪い流れに入っていました。特に、私が担当した東京のエリアはシェアの低いところで、日々苦労の連続でした。

全国的にも不振に陥っていたアサヒビールは、なんとか挽回を図るべく、色々な商品の開発や色々な社内教育などを行いましたが、なかなか思うように行きません。当時の社長は、後に「ナイアガラの滝のようにシェアが落ちていった」と著書で振り返っています。

そのような中で、私は1984年に初めてビールの仕事を外れ、飲料営業部というところに配属になりました。長年ビールの営業に携わっていたので、当時は未経験部門への配属に不満を持ったものですが、この飲料での3年間の仕事も、私にとって大事なキャリアとなったのです。

当時のアサヒビールはビールが非常に不振でしたが、飲料では「三ツ矢サイダー」という強いブランドを持っていました。この三ツ矢サイダーを拡販して飲料全体の業績を上げ、その利益でビールの挽回を図ろうということで、飲料部門には積極的な営業政策が求められていました。ちなみに、三ツ矢サイダーは現在も日本でNo.1の炭酸飲料ブランドです。

こういった事情により、色々な新しい取り組みを飲料部門で行うことができました。また、当時の飲料部門の責任者が素晴らしい上司で、私のその後の会社生活での目標・模範となりました。私はその人との交流を通し、様々な考え方、幅広い物の見方を学んだのです。






第10回 苦境はチャンスのスタートライン
−アサヒスーパードライ発売


私が飲料にいた3年の間、アサヒビールは創業100年を迎える1989年を節目に新たに生まれ変わろうと、ビールの再生計画を練っていました。

1986年に私たちは「アサヒ生ビール」という新商品を発売、それがそこそこお客様の信頼を得て、シェアが12%に回復しました。翌1987年には、「アサヒスーパードライ」という、今日まで日本No.1の売り上げを誇る素晴らしい商品を開発、それからアサヒビール奇跡の復活劇が始まりました。

私たちが非常に低迷しているとき、色々なマスコミは、「崖っぷちに立たされたアサヒビール」という表現を使ったものですが、当時社内にいた私たちは、崖っぷちどころか、既に踵は崖のそとに出ていて、前に進む他に道はない、という状況におかれていたのではないかと思います。

そんな大変苦しい時代にあって、社員ひとりひとりが何とかしなければ大変なことになると、強い危機感を持っていました。1989年の100周年を少しでも素晴らしい会社として迎えるために、新たな計画で新たなビールを創り出そうということがこのような商品開発につながったのですが、今にして考えれば、「自分たちのビールはやはりお客様に受け入れられていないのではないか」という当たり前のことを謙虚に反省し、もう一度お客様の求めている理想のビールについて考えなおそうと、東京と大阪で消費者調査を始めたことが契機でした。


≪続く…≫




池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。


「夢は叶う」池田弘一さん講演記8 [2011年12月16日(Fri)]


第8回 卸への出向 〜経験が人を成長させる〜


そのような環境の中で、私は物事が順調に進んでいるときの人間の劇的な成長というものを目の当たりにすることができました。アサヒビールに残っていたならば、決してできなかっただろう素晴らしい経験を、出向することで得たのです。

例えば、毎月本社から予算100を達成しろといわれるとしたなら、私は支店長としてそれを6人の営業マンに割り振るわけですが、実際営業マンが引き受けられるのは、100のうち80〜90というのが普通です。これはおそらくアサヒビールに限らず、他の会社でも同じだったと思います。

ところが、新たな国際空港の開港により成田エリアは非常に活気づき、予算100のところを110〜115という実績が出るようになりました。その結果、皆が前向きな発想をするようになって、本社が要求した予算が100のところを皆で110という目標を立てるようになり、更にその目標も突破するというような勢いがついて、結果2年間足らずで売り上げ倍増という実績につながったのです。

6人の営業マンは、色々と考え方も前向きになり、新しい商品、新しい得意先、新しいアイデアが次から次に湧いて出てくるようになりました。思わず「それが半年前の君か!」と言ってしまうほどの、人間の大きな成長を共に経験することができたのです。

その後、6人の仲間はそれぞれ大変優秀な人材となり、後に社長も出ました。全員役員になり、重要なポジションで仕事をすることになりました。その人たちとは、いまだに大変親しく付き合っています。

もしあのとき、「左遷」に気を悪くして出向を拒んでいたら、このような経験はできませんでした。たとえ自分の思い通りではなくても、与えられた仕事を前向きに、積極的にすることで、大きなチャンスが得られるということ、また、人間がそういう環境におかれると、大いに成長するということを、身をもって学びました。


≪続く…≫






池田弘一さん略歴
アサヒグループホールディングス(株)相談役。1940年、福岡県生まれ。九州大学を卒業後アサヒビールに入社、九州・中国・関東などの営業に従事。1978年より千葉県酒販(株)出向、飲料営業部営業課長を経て1987年本社営業部部長。その後、各支店長・支社長を歴任し、1997年常務取締役、2002年に代表取締役社長となる。その後4年間会長を勤め、2010年3月より現職。


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