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【最終回】丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチI [2009年09月11日(Fri)]

連載シリーズ【最終回】
丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチI


「外国人」であること、「女性」であること、様々なハードルをものともせず信念で乗り越えてきた丘先生の人生。
いよいよ連載も最終回です。
過去の記事はこちらから


1979年1月、まずこの業績を医学雑誌に発表し術中食道エコーを使って心機能が測定出来ることを実証したのです。
その後私はこのProbe(測定器)を使って更に研究を続けたのですが何しろ手作りですから限界がありました。
その後技術者との提携が是非必要でしたがなかなか見つからず、研究は長いこと暗礁に乗り上げました。

しかしまた私に運が廻ってきたのです。

偶然に知り合った友人から東芝アメリカのCEOを紹介され、彼の協力を得ることが出来たのです。これが私の第二のすばらしい出会いでした。
その後研究は急ピッチに進みました。

この頃になると他の研究者やエコーメーカーがProbe(測定器)の作成に乗り出してきました。10年の年月を経て食道エコーの有効性が多くの研究者によって実証されたのを機に、1992年に私は術中エコーの教科書を出版しました。

もし私が学会で早くから食道エコーの有効性を宣伝していたらこの成功はなかったと思います。

なぜなら外国人でしかも女性であるため、ずっと前にたたかれてしまったと思います。

他の研究者が有効性を認めるまでじっと我慢していたのが良かったと思います。その後この技術は改良に改良を重ね、今では3Dのテクノロジーを駆使したすばらしいモニターになっていますし、世界中で使われています。なんと私が手作りの測定機器で有効性を発表して以来4半世紀が経っていました。

私は人生の到着点は自分が決めるものだと思っています。それは先天的な要因である能力、才能とか知能、それに後天的要因であるやる気、努力、情熱、そして物の考え方が組み合わされて決まると思います。

21世紀は女性が大手を振って活躍出来る時代です。
自分次第でどうにでもなるのです。
皆さん、頑張ってください!

(終わり)


ブログ連載についての感想がありましたらぜひ当協会までお寄せください!
また、皆さんからの寄稿も大歓迎です!
詳細については、いつでも当協会までお問い合わせくださいラブ
丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチH [2009年09月07日(Mon)]
連載シリーズ
丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチH

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次に私のライフワークとなった研究についてお話しします。

1979年頃になると心臓麻酔の患者ケアに必要な良いモニター(心臓拍動警告器)も出来、管理がずっと楽になりました。
しかしすばやい術中診断と正確な治療をするために不可欠な心機能を計れるモニターがなかったのです。
私たちは様々な方法を詮索し試し続けていました。

そんなある日のこと、我々の大学の心臓内科に日本から研究に来ていた内科医が手術現場に見学に来ました。彼は胸部エコーの専門家でしたが、未だ研究課題がみつからず迷っていました。
私は彼を元気付けるため我が家のディナーに招待しました。
食後の団欒のとき、彼が何気なく1976年にDr.Frazin等がエコーのTransducer(信号変換器)(人間の親指大ですが)を覚醒時の患者に飲み込ませて食道から心機能の測定を試みたが、患者が飲み込めずに吐き出してしまうので全くの不成功に終わり、見捨てられたというお話をしてくれました。

このとき私の脳裏に”ひらめき”が走ったのです。

それは我々麻酔医が毎日使っている食道聴診器とこのTransducer(信号変換器)を統合すれば術中に心機能が計れるのではないか?ということです。
我々の患者は麻酔で眠っているので挿入は問題ないと思い、早速見捨てられたDr.FrazinのTransducerを求め手作りで食道エコーのProbe(測定器)を組み立てました。このProbe(測定器)を使って初めて65歳の女性の術中心機能が測定出来たときの二人の喜びは計り知れませんでした。

毎日の忙しい患者管理の中でどうにかして患者を助けたいという気持ちと偶然の内科のエコー専門医との出会いが私にこのアイデアを生ませたのです。

(いよいよ最終回Iへつづく…)

丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチG [2009年07月31日(Fri)]
連載シリーズ笑顔拍手
丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチG
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ここでちょっとした逸話をしたいと思います。

私が50歳になった時の事でした。

主任教授が私ともう一人のアメリカ人の男性医局員を教授に推薦してくれました。教授になるには昇進委員会による結構厳しい査定があります。この時私たちの科に他の大学からやってきた一人の教授がいました。この人は麻酔専門雑誌の主任編集者をしていましたが、人間的にはちょっと問題があり、人から敬遠されていました。

ある日彼が私に言うには

「Yasu、もし全ての資格が同じなら英語にアクセントのある方が落ちる」

と言うのです。
それは止むを得ないと思いました。
また彼が言うには、私は遅咲きの花だと言うのです。
私は内心

「遅咲きでもよいから大輪の花を咲かしてやろう」

と思いました。結果は私がパスしてアメリカ人の医局員は通りませんでした。その後彼は私に何も言わなくなりました。嫌味を言われても気にしないで自分の信じた道を歩むべきであると思います。

(つづく…)
丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチF [2009年07月29日(Wed)]
連載シリーズ
丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチF

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ここで実際にアルバートアインシュタイン医科大学で起きた女性の給料の差別問題に対する訴訟の例をお話します。

1964年頃になると女性差別の問題が段々と表面化してきたように思います。
アルバートアインシュタイン医科大学の有名な小児科の教授が女医の給与が男性に比べはるかに低いことを統計的に裏付けて、これは明らかに女性に対する差別だと、大学を相手どって訴訟を起こしました。
この裁判は2〜3年続き大学と戦っていましたが大学側も毎年何万ドルという費用がかかるので途中で折れて話し合いで決着をつけました。
麻酔科では私の上司の女医と私が補足分をもらいました。
この上司はドイツ系ユダヤ人で私と同じように外国人で医科大学を卒業しアメリカに渡ってきた人でした。彼女の英語は強い訛りがあり、何かというとアメリカ人の若い(Attending)医者からいじめられていました。
彼女はとても気が強く、決してめげず、その頃有名なアメリカの外務大臣であったキッシンジャーを例にして、キッシンジャーでさえ強い訛りがあるのに何が悪いと言い放ち、キッシンジャーのように世界中を飛び回って産科麻酔を広めました。後に英国女王からメダルをもらったほどの功績をあげました。その頃彼女をいじめていた人達は大した仕事もしませんでした。

彼女の生き方は私に良い教訓を与えてくれました。

私の上司が産科麻酔の分野を開いたように私は心臓麻酔の分野を開発することになりました。1964年後半はアメリカでも人工心肺を使って心臓開胸手術が始まって日も浅く、苦労して功少なしの仕事で誰もやりたがらない分野でした。経験のある先輩も指導者もおらず、知識を得るにも教科書さえありませんでした。

すべて毎日の経験から自分で道を開いていくより他なかったのでした。

手術時間も非常に長く、朝始まって次の朝まで続くような手術も度々ありました。また患者が不帰の人にとなることも珍しくありませんでした。しかし私はダイナミックな心臓外科医と仕事をするのが好きでしたし、苦労した後に患者さんが元気になって笑顔を見せてくれるだけで次のエネルギーが出る方でした。毎日の臨床に従事しながら患者管理法の基準を決め、育成教育システムを作り、さらに心臓麻酔の専門医のためのプログラムを確立するまで数年かかりました。

どうも女性は困難に強いようで産科麻酔を始め私の分野の心臓麻酔にしろ、この後に出来た神経系麻酔も女性が作り上げました。

(Gへつづく…)

丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチE [2009年07月17日(Fri)]

連載シリーズ
丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチE

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麻酔科医に応募、女性故に採用を断られる:

麻酔の臨床医に応募し、主任教授(第一代目の教授)と面接してみると
「女性は子供を産んだり育てたりといろいろ問題があり男性の医者にシワ寄せが来るから採用は見送りたい」
といわれました。
現在だったらこの教授は女性差別といったところですが・・・。

私は同じ苦労するなら教育システムの良い大学病院でトレーニングを受けたいと頑張り、レジデントを授かるまで子供はつくらないと懇願しました。また主人の上司の強い推薦もあってやっと受け入れてもらえたのです。

外科よりは楽だと思って入った麻酔科でしたが、生やさしい仕事ではありませんでした。朝から晩まで昼食も取らず働くことも多々ありましたし、週に3〜4日は一晩中病院に泊り込みで緊急手術や術後患者のケアのため対応しなければなりませんでした。2年間の研修期間を経てフェローになりましたが、仕事はジュニアアテンディングの仕事と責任を与えられました。しかし給与は研修医の時と同じでした。
アメリカの卒業生とは差をつけられたのです。
私のように外国の医学校を出た者は臨床研修許可証とニューヨーク州の医師免許が必要だったのです。

当たり前のことですが、持つものを持っていないとただの働きバチなのです。

私は毎日の病院での仕事・子育て・さらに試験勉強と本当に過酷な毎日を送りました。しかしやる気と若さ、そして良い伴侶の助けがあってどうにか二つの試験をパスし、その後麻酔の研究員(Fellowship)と専門医の試験をとりました。

驚くなかれ、私の給与はみるみる内に上がっていきました。  

外国人差別があっても気にしない。自分のプライドを持って目的に向かって進むこと。アメリカの良いところは、この人間は使えると思うと女でも外国人でもさっぱりと良いポジションを与えてくれることです。

(Fへつづく…)
丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチD [2009年07月10日(Fri)]

連載シリーズ
丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチD

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外科実習のトレーニングは今考えてもよぐぞ成し遂げたと思うほど過酷なものでした。
特に救命救急センターでの勤務の時は36時間位ほとんど休むことなく働きました。

この病院では外国人はほとんどいませんでした。同僚のアメリカ人のインターンに愚痴をこぼすと
「Yasu、働けば働くほど自分のためになるのだから不平不満は言うべきではない」
といわれ、物の考え方が根本的に違うのを自覚しました。アメリカ人が困難を克服して己の仕事を達成していく、いわゆる「フロンティア精神」は彼等の血の中に宿っているのだと思いました。

女性の仕事と子育てについて:

インターンとして働いているうち図らずも子供が出来、1958年3月に子供を出産し、休職せざるを得ませんでした。アメリカには頼る親も親戚もおらず、金銭的にもベビーシッターを雇う余裕がなかったからです。また子供は母乳で育てていました。
私は余りくよくよする性格ではなく、今は子育てが先決と思い子育てを楽しんでいました。10ヶ月の休職中考えたことは、臨床医訓練と子育てを両立させるためには外科は無理と判断し、麻酔科ならよいだろうと決めました。
この大学の創設者の一人であった主人の上司が麻酔は未だ新しい分野だし、やりがいがあるだろうと提案してくれたのです。また私自身も外科のインターンの時に手術の現場で見た麻酔の臨床医の仕事は自分に向いていると思ったからです。
根本的に私はプロフェッショナルウーマンですが、結婚も子育ても女性の歩む道と考えていました。要はその時その時に優先順位を決め、他の事は二次的なものと割り切っていました。全て完璧にしようと思うと無理が出て何も成し遂げられないし、また成功を急ぐと挫折することが多々あります。
私には良き伴侶の協力があったことはラッキーでした。

(Eへつづく…)

丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチC [2009年07月07日(Tue)]

連載シリーズ
丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチC

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アメリカの卒後教育は、アテンディングからシニアレジデントへ、シニアレジデントからジュニアレジデントへ、ジュニアレジデントからインターンへ、インターンは医学部学生へと段階を経て教えていく方法をとります。
各段階における経験や知識に応じて後輩を教育するこの仕組みで教え合うためには、常に勉強しなければなりません。
己の立場に自信を持つように訓練されていくのです。

この病院には、ドイツ、オーストリア、ブラジル、メキシコ、フィリピン、日本等から留学生が多く「同病相憐れむ」という気持ちでお互いに助け合って仕事が出来たのは幸いでした。
皆さんも既にお気づきになったと思いますがアメリカという国は世界中の若者たちにチャンスを与え彼らをサポートし、能力を伸ばしてその人達を幅広くあらゆる分野に役立てていくのです。これが正にUnited State Of America 即ち合衆国の真の意味なのです。

英語は今や世界共通語。皆さんの年頃で頭の柔らかいうちにじっくり勉強してください。会話はブロークンでも体当たりして習うこと。おしゃべりな人ほど上手になります。今日はぜひ私たちとおしゃべりしてくださいね!

次はいよいよニューヨークへ向かいます。1957年6月無事インターンを終了しシカゴで主人と落ち合い、今度は汽車でデトロイトの自動車会社のフォード社を見学し、ナイアガラの滝に立ち寄りニューヨークのグランドセントラルステーションに着きました。人々の動きはスピーディでさすが大都会に来たのだと感じました。7月からいよいよアルバートアインシュタイン医科大学の教育病院であるJacobi病院で外科の実習を始めました。この大学はユダヤ人の偉大な物理学者アルバートアインシュタインの名をもらって1954年に設立された、米国初のユダヤ系医科大学です。私がインターンを始めた頃はユダヤ系アメリカ人の超一流の教授が終結しており、非常に活気に満ちていました。

(Dへつづく…)


丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチB [2009年07月03日(Fri)]

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いよいよ渡米する事になりました。

実は卒業1ヶ月前の3月に同じ大学の病理学の講師をしていた人と結婚し、アメリカには2人で渡りました。
私達は横浜港から貨客船で14日も太平洋を横断しサンディエゴ港に着きました。幸い航海中の海は全く静かで、毎夜船長を囲んで団欒しながらの美味しいディナーを食べるのが楽しみでした。サンディエゴ港に着くと私達と一緒に留学した友人のご両親が出迎えてくださり、そのまま彼らの住むサンタアナの家までドライブしてくれました。サンタアナは花が咲き小鳥がさえずるとても美しい町で彼等の家に1週間もお世話になりました。彼らは2人共中学校の教師でこの時ちょうど夏休みだったので彼等の教師仲間と一緒に私達2人を近郊の山にキャンプに連れて行ってくれるなど、大変な歓迎をしてくれました。当時の日本の生活に比べ、全く夢のようなアメリカ中産階級の豊かな生活に触れながらアメリカ人の、人の良い気さくな人柄を知り大いに感激したことを覚えています。

次はいよいよ私の目的地デンバーに向かうことになりました。

サンタアナからは長距離バスでサンフランシスコに行き、ゴールデンゲートブリッジ、チャイナタウンを見てから、私達に英会話の特訓をしてくださった牧師さんと再会するため、ギャンブルで有名な町リノへ立ち寄り、それからユタ州のソルトレイクシティに入りユタ大学やモルモン教会を見たりして私の最終目的地デンバーに辿り着いたのです。

現在ではとても考えられないでしょうがアメリカ大陸の半分をバスで横断したのです。この旅は見るのも食べる物も全てが珍しく新しい驚きの連続でした。アメリカの文化に触れるには本当に良い機会だったと思います。出来れば皆さんも若いうちにいろいろな所、特に外国に出かけ自分の見識を広めることは皆さんの将来に有益になると思います。

デンバーで主人はニューヨークへ、私はカトリック系のSt.Joseph病院で7月から実習生活に入りました。この病院ではインターン(実習生)もレジデント(研修臨床医)もほとんど寮に入っており、私もアメリカ人の女性と二人で、日本で言えば2LDKの広さの心地よい部屋に入りました。いざ病院に勤務してみると渡米前の英会話の特訓位では全然役に立ちませんでした。また私の医学生時代には英語教育はなく、外国語は「ドイツ語」でした。それこそ毎日失敗の連続でした。しかし患者とコミュニケーションが出来なくては仕事になりません。インターンの役目は患者の病歴をとり色々検査をして、一応診断をつけ、上司(普通は研修臨床医)と話し合わなくてはなりません。そこで私はブロークンイングリッシュでもいいから、自分から話さなければ何事も始まらないと思い看護師と仲良くして会話を習いました。患者とはゆっくりと誠意をもって対応することで患者も私の英語を分かってくれるよう努力してくれました。また患者の方から正しい英語で聞きかえしてくれたのは大変勉強になりました。

(Cへつづく…)

丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチG [2009年07月01日(Wed)]

連載シリーズ笑い拍手
丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチG

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ここでちょっとした逸話をしたいと思います。

私が50歳になった時の事でした。

主任教授が私ともう一人のアメリカ人の男性医局員を教授に推薦してくれました。教授になるには昇進委員会による結構厳しい査定があります。
この時私たちの科に他の大学からやってきた一人の教授がいました。この人は麻酔専門雑誌の主任編集者をしていましたが、人間的にはちょっと問題があり、人から敬遠されていました。

ある日彼が私に言うには

「Yasu、もし全ての資格が同じなら英語にアクセントのある方が落ちる」

と言うのです。
それは止むを得ないと思いました。また彼が言うには、私は遅咲きの花だと言うのです。私は内心

「遅咲きでもよいから大輪の花を咲かしてやろう!」

と思いました。
結果は私がパスしてアメリカ人の医局員は通りませんでした。その後彼は私に何も言わなくなりました。嫌味を言われても気にしないで自分の信じた道を歩むべきであると思います。

(Hへつづく…)
丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチA [2009年06月29日(Mon)]


連載シリーズ
丘ヤス先生 昆明女子中学スピーチA

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 まずは私の生い立ちについてお話いたします。私が皆さんの年頃だった15歳の時、日本は第二次世界大戦に負け、世の中は混沌たる状態でした。日本の女学校は5年制でしたが、アメリカの指導による6年制の新制高校に変わり、男女共学となりました。

 日本では、女性は女学校を出たら花嫁修業のため、お茶、お花、料理、礼儀作法を習うのがしきたりでした。しかし私は小学校6年生の頃から女医になることを夢みていました。両親の反対はありましたが自分の意志を通して大学を受験し、幸い横浜市立大学教養学部医学専門課程に入ることが出来ました。学生は20人でその内2人が女性でした。 
 
 学校当局は始めての女子学生の取り扱いに戸惑っていたようでした。大学に入ってからは急に受験勉強から開放されたため、気が緩んで2年間の医学系教養課程で怠けたため、3ヶ所受けた医学部の試験は全部失敗しました。一年留年し、気を入れ替えて勉強したので翌年横浜市立大学医学部に入ることが出来ました。学生は全部で40人、そのうち6人が女性でした。

 この体験から私がいえることは、「川に竿させば流される」の諺のように、世の中の変化には逆らわず順応し、自分の好きなこと、やりたいことを一生の仕事にすると苦労も苦労に感じなく、目的に向かって邁進出来るものです。

 アメリカ留学が決まった時のお話をします。1956年4月、4年間の医学生生活を無事終了し、東京の国立第一病院で実習することになっていましたが、全く予期せずして友人がアメリカ軍の軍医を紹介してくれたのです。インタビューしたところ、デンバーにあるSt.Joseph病院に実習の職を紹介してくれました。
 私の生まれた横浜は日本が(1859年)初めて外国に開港した貿易港で、戦前から外国人が多く住んでいました。特に戦後はアメリカ軍が駐留していましたので、軍医で来ていた牧師さん達が私達学生に聖書や英会話を教えてくれていました。私は特に留学が決まってからは牧師さんから英会話の特訓を受けました。「人間万事塞翁が馬」の諺のように人生には何が起こるか全く予期できないものです。私の経験では人生には2、3回よいチャンスが訪れます。その時は恐れずつかむべきです。

Bへ続く…

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