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独龍江で学校を待つ子供たち42 [2008年04月01日(Tue)]


人は、なぜ、これほどまでに優しくなれるのか


我々都会に暮らす者には、想像すら出来ない厳しい環境の中で、なぜ、こんなに豊かな心が持てるのだろうか。実に不思議な人たちであった。怒江でも独龍江でも、老若男女を問わずすべての人が持つあの優しい目は、一生忘れないであろう。
 言葉こそ違えど、目がすべてを語ってくれる。

 大発展する北京、上海も中国なら、我々が見た怒江大峡谷沿いの村々や半年の間、外界と断絶される独龍江も、また同じ中国なのである。

 厳しい自然環境、貧しい食事、粗末な衣服、壊れかけた校舎、乏しい教材、何一つとっても満足な物のないなかで、子供たちのあの純真な目、天真爛漫な笑顔は、一体どこから生まれてくるのであろうか。
 たとえ、どんなに立派な道路や校舎が出来たとしても、あの目やあの笑顔は失わないでほしいと願うのは、都会人の横車だろうか。
 いや、すでに都会の子供たちには、失われてしまっているからこそ、今、声高に叫びたい。



 現在、この一帯では道路が作られ、電気が引かれ、電話設備が作られている。その結果、都会の文化が怒涛のように流れ込んでくるだろう。その時に、この豊かな自然、先祖から伝わった民族固有の風習や文化、独自の言葉等は大丈夫だろうか。

 とは言っても、子供たちは、たとえ、この素晴らしい地にいたとしても、中国人として生きていかねばならない。そのためには、正しい中国の標準語を学び、しっかりとした教育を身につけなければ、昔のように差別と偏見の中で生きていかねばならなくなる。あの笑顔を見た身には、それは受け入れがたい。

 我々の踏破した怒江州の人々の生活は、中央政府や雲南省政府の援助がなければ、一日たりともたない超貧困地域である。教育もしかりである。親たちは、子供の給食費の自己負担分、日本円にして三○○円か五○○円という金額すら出せない。そもそも現金収入がないのだ。

 そこは、現金など不要な自給自足の世界だったのである。彼らは、自ら望んでこの二一世紀の表舞台に出てきたわけではない。時代が彼らを引き出したのである。驚きや戸惑いの中で、今、彼らは歩き始めたのである。その歩みを助けるのは、同世代に生きる我々の責務ではなかろうか。

 我々には大きな力はない。しかし、教育環境を整える手伝いなら出来る。あの素晴らしい子供たちの笑顔を消さないためにも、手を差し伸べ尽力せねば、と痛感した旅であった。

 最後に、この小学校訪問の旅をするに当たって、雲南省政府、怒江州政府、六庫、福貢、貢山、丙中洛の政府関係者の皆様、帰国華僑連合会の皆様、本当にお世話になりました。この最後の誌面を借り、厚く御礼申し上げます。
 独龍江の皆様、あの笑顔、あの優しい眼差し、決して忘れません。

皆様、本当にありがとうございました。

(完)

ヒヨコ『独龍江で学校を待つ子供たち』の連載は今回で終了です。
長い間応援をしてくださった皆さん、ありがとうございました!
これからもブログ「雲南の郵便やさん」は様々な連載や雲南情報をお伝えしていきますので
宜しくお願いします!笑い
独龍江で学校を待つ子供たち41 [2008年04月01日(Tue)]

別れの後瞼に浮かんだ独龍江での開校式

貢山からは、再び怒江に沿って下流に向かって走る。なんだか、通り慣れた道を走るような懐かしさがある。今晩宿泊する福貢の町は、いましがた後にした貢山と州都である六庫鎮とのちょうど中間地点にあたる。少なくなった車の列は、大峡谷の中を、福貢に向かって走り続けた。まだ、空は明るいが、この大峡谷の底にある怒江は早い夕闇に包まれはじめていた。
 福貢では懐かしい人が、我々の到着を迎えてくれた。来る途中で、昼食の手配でお世話になった福貢県委統戦部の迪早葉部長である。
「辛苦了」日本語で「ご苦労様」という意味の言葉とともに、再会を喜んでくれた。
 ホテルの手配から夕食の手配まで、すべてが行き届いていた。ホテルに荷物をおくと、早速夕食の場所に向った。
 夕食はいつものように賑やかに始まった。福貢県の副県長、教育局長なども加わり、独龍江の話に花が咲いた。独龍江に行ったことがない人でも、独龍族の貧しさだけは皆よく知っていた。彼らは、私たちの勇気ある行動を褒め称えてくれた。彼らにしても、独龍江郷は、未知の秘境であった。車で僅か一日の距離しか離れていないが、福貢の人々から見ると、独龍江郷に住む独龍族は、まだ「未開の民族」なのであろうか。話の中に、なんとなくそのようなニュアンスが感じられる。
「百聞は一見に如かず」という。是非、現地を見て、独龍族の人々と交流を深めれば、そのような偏見は、すぐにも霧消するであろうに、なかなか難しいものである。
 この辺までは和やかに進んだのだが、なにやら数人の女性が手に酒瓶を持ち、歌を歌いながら現れた。これからが大変だ。酒と女で身を滅ぼす男は多数いるけど、この秘境福貢で酒と女性の恐ろしさを体験するハメになるとは思ってもみなかった。女性たちは、テーブルに座っている客一人一人を取り囲み、歌を歌いはじめる。その度に客は、立ち上がり酒の入った器を飲み干さなければならない。


 まずは、乾杯から始まり、次は女性と客が腕を絡ませて飲む“交杯酒”。
 一周りしてまた来る。
 次は、一つの器に注がれた酒を、顔を寄せ合って二人で飲む“同心酒”。
 また来る。
 次は、一つの器に注がれた酒を左右の女性と三人で飲む“三江併流酒”。
 この“三江併流酒”というのは、ここ三江(怒江、瀾滄江、金沙江)併流地帯が、世界遺産に登録されたのを記念して作られた飲み方だという。これでは、世界遺産も形無しである。この“交杯酒” “同心酒” “三江併流酒”がいつ果てるともなく延々と続くのである。この女性たちは本当に飲んでいるのであろうか。
 ついに、酒に弱い李副主席が逃げ出した。部屋中を逃げまわっている。恵蘭理事長や陳副処長、七田さんたち女性陣は、“もう許してほしい”と手を合わせ哀願している。残った私と谷川理事長も言われるままに我慢して飲んでいたが、これほど飲まされてはたまらない。フラフラになるまで飲まされ、やっと開放してもらうことができた。本当に“酒と女は恐ろしい”という言葉を五臓六腑が受け止めた晩であった
 目を覚ますと、頭の芯に昨夜の酒と歌が残っていた。重い体を引きずり、迪早葉部長、同じ福貢県委統戦部の奚美実女史に別れを告げ、次の目的地、六庫に向った。この奚美実女史には、大変お世話になった。この福貢から福貢までの往復道中、常に傍らで、まさに痒いところに手が届くという言葉通りに気を配ってくれた。明るく元気で、そして優しい女性であった。またの再会を約束して別れた。
 六庫に着いたのは、ちょうど昼時分であった。やっと帰ってきた、という安堵感のようなものを感じた。まるで自分の町に帰ってきたような懐かしささえ覚える。
 怒江に架かる橋の脇のレストランに入ると、懐かしの面々が待ってくれていた。怒江州統戦部の朱文勇部長以下、先日の祝賀式典で世話になった人々である。
 この席でも独龍江の話で盛り上がった。朱部長も我々と独龍江に行きたかったそうでだが、祝賀式典に参加した要人の接待に追われ、泣く泣く断念したいきさつもあり、我々の話を聞くにつれ、大変残念がっていた。。

 昼食後、いよいよ最後の別れの時がやってきた。
 私と恵蘭理事長は、小学校視察とは別件の用件のため、ここから車で大理に行き、大理のホテルで東京から来る人と落ち合うことになっていた。他の四人は、来た時と同じ、保山まで車で送ってもらい、保山から飛行機で昆明に戻ることになっていたが、飛行機の出発時間まで余裕があったため、我々が先に出発することになった。
 昆明まで行くという怒江州政府の車に同乗させてもらい、それぞれの再会を誓いあい、拍手と見送りの中、六庫を出発した。それは怒江との別れでもあった。
 大理へ向かう車の中で、独龍江に建てた学校の開校式の様子が瞼に浮かんだ。懐かしい面々が最高の笑顔で迎えてくれた。その日を想うと、帰りの道も心が弾み、人々との別れもけっして苦にならなかった。


続く
独龍江で学校を待つ子供たち40 [2008年03月21日(Fri)]

 隧道を抜けた我々の車列は、原生林の中をひたすら下っていく。独龍江が海抜一四○○メートル、隧道が三四○○メートル、貢山が一四○○メートル、計算上、丁度上った分だけ下らねばならないので、これから二○○○メートル下がっていくことになる。

 先程の雪が嘘のような風景である。行く時とは一味違った景色を楽しみながら下っていく。

 やっと人の気配が感じられるところまで来た。遠くに人家が見えはじめた。その人家を取り囲むように段々畑が広がっている。


 学校から帰る途中なのか三人連れ立って歩いている男の子に出会った。我々の車に向かって、緊張した面持ちで敬礼をしている。健気で礼儀正しい子供たちである。我々も思わず答礼をして通り過ぎた。



 しばらくすると、これも学校から帰る途中の姉妹であろうか三人組の少女に出会った。小学校高学年と思われる一番年長の少女は、まだ一年生になっているかどうか、一番小さな少女の手を引いていた。この年長の少女は、実に清々しい顔立ちをしており、はにかんだような笑顔は「清純派女優」の素質を隠し持つ卵のような美しさがあった。少女たちが背負っているカゴの中には学校で使う教科書が入っていた。この礼儀正しい少年たち、優しく美しい少女たち、この秘境に生きる少数民族の人々、とりわけ子供たちの心には、すでに都会では失われかけている「純真」という言葉が、日常生活の中で生きていた。素晴らしい出会いを、この帰り道で、また贈ってもらった。

 ほどなくして、我々の車列は、無事、貢山にたどり着いた。貢山の町では、出発した時と同じ場所で昼食をとった。にぎやかな昼食も終わり、やがて辛い別れの時が来た。戦友たちとの別れである。特に貢山独龍族怒族自治県副県長の和勝平さん、秘書長の張建明さんには、終始気を配ってもらい、お陰で無事役目を果たすことが出来た。素晴らしい貢山の人々と、必ず、再会することを誓って、我々は帰路についた。

(つづく…)
独龍江で学校を待つ子供たち39 [2008年03月18日(Tue)]


独龍江脱出劇”間一髪”

実に際どい脱出であった。

独龍江を出発する時に、
「昨夜、峠の付近でかなりの降雪があったようだ」
という情報を得て、全員の脳裏に「不安」の二文字が浮かんだ。

時期的には、当然考えられる事態である。むしろ、一一月の末というこの時期に峠越えが出来た、ということの方が珍しい。ベテラン運転手の姚さんは慌てるどころか、そのような事態こそ腕の見せ所とばかりに、より一層饒舌になり、峠に向かって車を走らせた。

対向車は一台も来ない。つまりは、独龍江に向かって峠を越えてくる車がない、ということである。「心配ないよ」と姚さんは言うが、やはり心配である。なにせ、この峠を越えなければ、帰れないのである。峠のかなり手前から、すでに山の頂は、白銀の世界に変わっていた。

やっと、峠が見渡せるところまで来た。この付近では、昨夜は、かなりの量の降雪があったようだが、今は青空も見え、道路に積もった雪がキラキラと輝いていた。

気温は、マイナス五度くらいであろうか、路面の凍結が心配である。峠の隧道が見える地点まで辿り着いた。ここから、かなり急な勾配をいっきに登らねばならない。かなり危険な状況である。

我々の車列は、ここで一旦停止した。まず、先頭の車が登るのを、全員が不安な眼差しで凝視している。タイヤに雪の備えをしていないため、車の後方部が左右に揺れる。その揺れを目のあたりにするたびに「オッオッ」という呻きにも似た声が洩れる。どうやら無事、上がったようである。
 「オー」という、安堵の声で、皆、車に戻った。前の車が上り終えたのを見届けて、次ぎ、次ぎと全車両が無事、峠の隋道の中に吸い込まれていった。

不思議なことに、僅か数百メートルの隋道を抜けると、そこには雪のない原生林の世界が広がっていた。この隧道こそが、独龍江という「龍宮城」への入口であったのかもしれない。今、正に、その龍宮城を出て、普通の世界に戻ってきたのだ。隧道の通過。独龍江渓谷との別れは、あまりにも劇的ではっきりとしたものであった。

余談になるが、我々の通過を最後に、この独龍江公路は通行止めになったそうである。つまり、二○○四年、この隧道を抜けた最後の車は、我々の車列ということになる。それは、命懸けで得た素晴らしい勲章である。独龍江の記念がまた一つ増えた。

(つづく…)
独龍江で学校を待つ子供たち38 [2008年03月07日(Fri)]

独龍江の人々の心の中に見た”真の桃源郷”

 僅か数日であったが、実に中身の濃い時間を過ごすことが出来た。独龍族の人々との交流で、我々が得たものは、計り知れないほど大きい。都会では失われつつある大切なものが、ここではしっかりと生きていた。

 短い間とはいえ、彼らと時をともにすることで、人の本来の性は、「善である」という説に説得力を感じた。私たちは、必ず再会することを固く約束して、独龍江を後にした。
 理想郷としての桃源郷。世界各地に桃源郷と称される場所がある。しかし、桃源郷というものが、そこに住む人々の心の中にあるものであるのなら、この独龍江の人々の心の中には、紛れもない桃源郷が存在する。そしてそのような人々が暮らすこの独龍江は、間違いなく「真の桃源郷」であると断言できる。

「桃源郷の子供たちに小学校を建てる!」

 この素晴らしい事業に参加できる喜びと誇りが体の中から湧き上がってくるのを感じた。


(つづく…)
独龍江で学校を待つ子供たち37 [2008年01月15日(Tue)]

囲炉裏の火によって結ばれた"暖かい友情"

 今夜は二次会の宴があるということで、夕食は早々に切り上げられた。二次会は、独龍江へ一緒に行った校長先生の自宅が会場となる。真っ暗な集落の中を、懐中電灯で足元を照らしながら、校長先生の自宅へ向かった。漆黒の闇の中を右へ左へと曲がっている内に、なにやら忍びの者になったような妙な気分である。明かりのない世界、これもすでに都会では失われてしまったものである。

 校長先生の家に入った。すでに顔なじみになった人たちが囲炉裏の回りで談笑していた。大きな囲炉裏である。薪がどんどん燃やされ、囲炉裏の火は、集まった人たちの顔を赤く照らし出していた。
 妙な味と匂いのする、黄色というより土色をした酒が、竹の器に並々と注がれた。酒の中に絞めた鶏を入れ、アルコールの中に鶏のエキスが滲み込んだ酒だそうである。マムシ酒ならぬ、鶏酒である。初めて味わう酒で、かなりクセがあり、飲むのに勇気がいる。その酒で互いの健闘を讃え合って乾杯をする。それを二十数名と、何度も繰り返すのである。そのうちに酔いがまわり、鶏酒なのか、マムシ酒なのか、どうでもよくなった。全員が囲炉裏のまわりに立ち上がり、相手かまわず、乾杯を繰り返す。


校長先生宅での二次会/鶏のエキスが滲み込んだ酒がふるまわれた

 独龍江往復の二日間、近頃、滅多に歩いたことのない距離を歩いたのだが、多少の緊張感もあったのだろう、ほとんど疲労を感じていなかった。それが、ここで囲炉裏の火に暖められ、「ご苦労さん」などとねぎらいの言葉をいただきながら、乾杯を繰り返しているうちに、緊張感もとれ、責任を無事果たした安堵感もあってか、次第に酔いとともに疲れがまわってきた。実に心地よい酔いと疲労感である。やっと独龍族から友人として認められたような、実にうれしい気持ちであった。囲炉裏端に座り、パチパチと燃え上がる火を見つめていると、心が和み、人は優しくなれるのであろうか。

 昨夜、小学校の囲炉裏端で聞いた校長先生の話を思い出した。
「我々独龍族は、ずっと昔から、問題が起きると、いつも囲炉裏のまわりに集まり座る。そして、燃える薪の火を見つめながら、話し合いをし、問題を解決してきた。だから、この囲炉裏の火は一年中、もちろん、皆が寝静まった夜中も、燃やし続けておかねばならない。いつ何が起こるかわからないからね」
 やはり、囲炉裏で燃える薪の火には、人の心を和ませる不思議な力があるのだろう。今宵、この独龍族の人々とともに囲炉裏を囲んでいる人は、皆一体となり、あたかも独龍族の人々のように優しい気持ちになっていた。
 独龍江での最後の晩に、遂に我々は、独龍族の人々によって、最高の素晴らしい舞台に上がることが許されたようである。この舞台の上で、見事な舞を披露し、独龍族の人々から受けた暖かい友情に報いることは、新米ではあるが、友人としては当然の義務であろう。よりよい小学校を建設することで、友情に報い、義務を果たしたいと心から思った。

 囲炉裏の火によって照らされた独龍江での最後の夜は、こうして見事なフィナーレをむかえ、そして幕を降ろした。

(つづく)
独龍江で学校を待つ子供たち36 [2007年12月14日(Fri)]

楽しい語らいの中で生まれた“輪と和”

昼過ぎ、先生方の見送りを受け、巴坡小学校を後にし、昨日来た道を歩き始めた。帰り道は、独龍江の上流に向かって歩くため、ゆるやかではあるが登りとなっている。ゆるやかとはいえ、登り坂をこれから四、五時間歩かねばならない。そのためには、疲れが出ないような歩き方、つまり同じペースを保ちながら歩くよう心がけなければならない。
 心を静かに、軽いテンポで歩いていたのだが、残念無念。こともあろうに、途中、恵蘭理事長の挑発にのってしまい、すっかりペースが乱れてしまった。
 このような山道で心静かに歩いている人を追い抜いていく時には、「お先に」とやさしい言葉の一つでもかけてほしいものである。いや、そうするべきであり、それがマナーというものである。それを、「どうだ!」とばかりに、黙ってスイスイ追い越されると、ついつい年甲斐もなく、「負けてなるものか」と追いかけてしまう。
 このまま放置しておいては示しがつかぬ、とばかりに急ぎ足で追いかけてしまった。必死で追いかけたものの、呼吸はひどく乱れ、最近とみに出てきた下腹は波を打ち、膝をガクガクする。帰国後の評価が心配であった。
 しばらく行くと、先に行っていたはずの恵蘭理事長が、道路の中央で、車に轢かれたヒキガエルのように手足を広げた状態で這いつくばっていた。どうやら、石に足をとられ、前からつんのめるように倒れたようである。後ろから来た私に、そのぶざまな姿を見せまいとして急いで立ち上がったが、擦り切れたズボンの膝のところからは、鮮血が滲み出ていた。やはり無理は禁物である。
 行程も半ばを過ぎた所に、道路工事作業員の野営場があった。ちょうど、昼食の最中で、汁から立ち昇る匂いが、我々の胃袋を刺激した。お腹が空いてもおかしくない時間であった。
 昼食中の作業員の中に割り込み、食事をさせてもらうことにした。おかずは一切なく、ボロボロの米飯の上に煮込んだジャガイモを汁ごとかけ、箸で口の中にかき込むようにして食べる。これが実に旨い。
 特別な調味料を使わず、塩だけでジャガイモを煮る。山の中で歩き疲れた体には、最高のご馳走であった。食事代を置こうとすると、押し戻された。優しい出稼ぎ労働者たちである。これから、夜間は零下に下がる山中で、数週間寝泊りしながら工事に携わるそうだ。ご苦労な話で頭が下がった。


巴坡への視察一行/苦労をともにした人たちと記念撮影
 
 時間帯のせいか、この帰り道では、たくさんの荷物を背負って巴坡方面に帰る人や騾馬によく出会った。早朝、村を出た人々が、孔当で荷を受け取り、帰ってくると、ちょうどこの辺で逢うのかもしれない。
 あいさつ程度に声をかけると、皆一様に、はにかんだような顔をし、小さな声で言葉を返してくれた。実に心優しい人たちである。
 彼らは、一人で歩いていることは滅多になく、男も女も数人が束になり、あるグループは、数頭の騾馬に荷を積み、その後ろを歩き、また別のグループは、全員が荷物を背負っておしゃべりしながら歩いている。騾馬は人間などに構わず、黙々と目的地に向かって進んで行く。きっと、誰もついていなくても、帰るところは知っているに違いない。まるで寡黙な職人のようである。
 この騾馬たちは、道路状態の悪いところでは、通る場所が決まっているらしく、そのような場所で、うっかり騾馬の通り道と同じ谷側にでも避けようものなら、谷底に振り落とされてしまう。騾馬たちが、人間のために立ち止まったり、道を譲ったりは決してしない。ここでは、人間が騾馬の通る場所をいち早く察知して、出来るだけ谷と反対方向に身を寄せ、騾馬に道を空けるのが、交通法則のようであった。
 やっとのことで、孔当の簡易食堂にたどり着いた。私たち一行の最後の人が帰り着いたのは、それから約一時間後であった。全員の無事帰還を祝い、記念写真を撮ったり、撮られたり、互いに握手で健闘を称えたり、世話になった人にお礼を言ったり、食堂前の広場は、さながら戦場から無事帰還を果たした兵士たちの集いの場のようになっていた。
 僅か二日の行程であったが、皆で力を合わせ、大事な仕事を無事やり遂げた後の連帯感と満足感がそこにはあった。皆、十年来の友人のような雰囲気になっていた。夕食も和気藹々、実に楽しい語らいの中で始まった。
「独龍江に学校を建てよう」
 着実に第一歩の輪と和が出来上がっていた。

(つづく)
独龍江で学校を待つ子供たち35 [2007年12月11日(Tue)]

子供たちのための急務 “教育環境の整備”
 
渓谷の朝は遅い。寒くて目を覚ました。一瞬、自分がどこに寝ているのか、ゆっくりと薄暗い部屋を見回しながら考えた。昨夜は酔った勢いで寝てしまったので、今、自分の置かれている状況を把握するまで、しばらく時間がかかった。私の寝ている部屋は、学校の先生方の宿直室のようであった。それにしてもボロボロのひどい部屋である。部屋の内と外との温度差はほとんどない。隙間だらけで壁も窓もガタガタの穴だらけであった。冷えるはずである。この冷気に喉をやられたらしい。喉がチリチリと痛んだ。真冬はどのようにして過ごすのであろうか。先生方も命がけである。
 手探りで部屋を出て、ミシミシ音のする階段を降り、猫の額ほどしかない校庭に出てみた。冷気が立ち込める薄暗い校庭では、騾馬、犬、鶏が勝手気ままに動き回っていた。都会で飼われている動物たちにはない「自由」がここにはある。校庭の隅にある木の枝には、まだ、鶏が数羽並んで休んでいた。鶏にとって、夜、安心して眠れる場所は、高い木の枝なのであろう。鶏も飛べるのだ、という当たり前のことに驚いた。同時に自分の身は自分で守る、という自然界の法則がここでは生きていた。


巴坡小学校の時間割

 午前七時が近くなると、子供たちの登校が始まった。服装は、年齢や身長に関係なくバラバラである。多分、援助品かおさがりであろう。大人の背広の上着のような服を引きずるようにして着ている子もいる。
 子供たちは、一様に体が小さい。多分、育ち盛りの子供にとっては栄養が十分ではないのだろう。子供たちは皆、学校が好きだと言う。その大きな理由の一つに、学校に来ると給食があり、そこではお米の飯をお腹一杯食べられるからだ。けっして満足なおかずがあるわけではない。野菜と魚の煮付けとその煮汁を上にかけただけのご飯といった粗末な食事ではあるが、ボールに山盛りにしたそのご飯を、子供たちは実に旨そうに平らげてしまう。飽食の時代に生きる日本の子供たちと比べ、どちらが幸せなのだろうか。その答えは、ここの子供たちの顔に書いてある。
 午前七時一〇分、先生の号令で生徒たちが校庭に整列した。
 いつもなら、まず整列して朝の体操を行い、朝礼が行われる時間である。しかし、今朝は外国からのお客さんが来ている。しかも、お土産を持ってきている。子供たちのキラキラした目が一斉に持参したお土産にそそがれる。先生の話もうわの空で、お土産が手渡される瞬間を緊張した面持ちで待っている。
 子供たちの期待に応え、我々は、手分けして持参したお菓子や文具を一人一人の手に渡していった。順番が来た子供は、実に嬉しそうな顔をして、しっかりと抱え込むようにして受け取る。こんなに喜んでくれるなら、もっと持ってきてあげればよかった、という後悔にも似た気持が残った。
 子供たちへのお土産を配り終えると、最後に、この辺境の地で頑張っている先生方にタバコを進呈し、固い握手を交わした。
「みんな元気でしっかり勉強してくださいね」
恵蘭理事長のこの言葉で贈呈式は、無事終了した。生徒たちは貰った品物を大事そうに抱えて、それぞれ教室に戻っていった。


お土産を抱え込む子供たち
文房具や玩具と主に孔当で買い求めたお菓子も手渡す

 私自身の強い希望もあり、訪問団一行は、生徒たちが実際に暮す家庭環境を見ることになった。時間があれば、もっと山奥のより劣悪な環境を見たいという思いもあったが、時間の制約もあり、今回は学校の近くにある生徒の家庭を訪問した。学校の近くとは言っても、独龍江の朽ちかけたつり橋を渡り、独龍江沿いの斜めになった岩肌の小道を歩いていかなければならない。こんな危険な道や橋を、子供たちは毎日走って通学しているのには驚いた。
 今回訪問した生徒の家は、渓谷の中でも独龍江に近い斜面に建っていた。正確には、斜面に置かれていた、というのが正しい表現かもしれない。
 この独龍江郷地域にも、当然ながら平らな土地はほとんどなく、ほとんどの家は独龍江渓谷の斜面に建てられている。家の作りは簡単なもので、幾重にも石を積み上げられた石が土台となり、その上に柱が置かれているのみである。家に入るには、丸太に僅かな刻みを入れた階段のようなものを登る。多分、鼠等の小動物が入り込まないようにした生活の知恵であろう。
 家の中には、学校へ来る途中で見た家と同じで、丸木と板で作った簡単なベッド以外、調度品はほとんど見あたらない。いたるところ隙間だらけで、夏にはよいだろうが、冬には全く不向きな構造である。天井からはとうもろこしや乾燥させた肉が吊り下げられ、貴重な食料を鼠に奪われないようにしてある。
 家の脇にある、鼠返しのついた納屋を見せてもらったが、僅かなとうもろこしがあるだけで、この程度の備蓄食料で越冬できるのだろうか、と心配になった。それでも、同行した学校関係者に言わせると、この家庭のレベルは上の部に入る、ということである。これが上の部なら、下の部はどのような環境なのか、私には想像すら出来なかった。


訪問した家
天井からは僅かばかりのとうもろこしや乾燥肉がつりさげられていた

 帰りがけに、家の前にある棺桶のような形をした石作りの立派な墓を見た。墓の入口上部には、見事な十字が彫られていた。彼らは立派なキリスト教徒なのである。なぜ、こんな山奥で、と誰もが不思議に思うが、地理的に見れば、ここは東南アジアの一角である。一六〜一七世紀にかけて、インドに東インド会社を設立していたイギリスは、さらに植民地を広げるために、ビルマ(ミャンマー)、ネパール、チベット、果ては、この独龍江地域にまで矛先を向け、占領を進めた。その時、占領軍は兵士だけではなく、神父も引き連れて乗り込んできた。土着の精霊を信ずる住民に、彼らが積極的に布教活動を進めた結果が、この墓石に刻まれた十字というわけである。

 家庭訪問を終え、壊れかけたつり橋をヘッピリ腰で渡り、学校に戻った。校舎の立替を想定して、校舎や宿舎の実地検証を行った。昔、この校舎を建てた頃は、自動車道路もなく、セメント、ガラス、鉄筋等の建設資材は、人の背で運ばねばならず、大変高価なものであったという。そのため、校舎の壁や土台に十分なセメントを混ぜることができず、出来あがった校舎は、劣化が激しく、壁は次々と剥がれ落ち、ボロボロとなっていた。その上、大きく強いガラスも高価で入手が出来なかったため、教室の窓は小さく、日中でも教室内は薄暗く、子供たちは教科書を舐めるように近づけて見ている。そのため、多くの子供が近視となってしまう、と先生は嘆く。
 この小学校は、本来なら「完小」として、一年生から六年生までが学ぶことになっているが、教室、教師、寄宿舎、どれをとっても足りず、現在では、一年生から四年生までしか収容が出来ず、五年生、六年生は、昨日我々を出迎えてくれた孔当の「独龍江郷孔当中心完小」の寄宿舎に入って学んでいるということである。


つり橋に空いた穴
この壊れかけたつり橋も子供たちには大事な通学路

 寄宿舎での食事は、政府の補助があるとはいえ、一定額は、生徒の親が負担せねばならない。現金収入のない親たちは、子供の食事代を現物で納めるしか方法はない。そのため、孔当の小学校に通う、この巴坡地区の五年生、六年生の生徒は、毎月一度、自分の食事代に相当する食料を学校に納めるため親元に帰る。親から貰った食料を背負い、また学校に戻っていくのだ。
 我々が六時間近くかけて歩いた道を、子供たちは約三時間で歩いてしまうそうだが、それでも往復六時間はかかる。新しい校舎が出来れば、完小として、一年生から六年生までをすべてを収容することが出来るようになる。せめて子供たちに、食事の心配をしないで済む学校であれば、と思う。そんな意味も込めて、「一日も早く新しい校舎がほしい」という先生たちの真剣な訴えには、心打たれるものがあった。

 今回、この奥地まで来た目的は、まず、現状をこの目で確認するためである。結論から言えば、誰が見ても、このような現状を変えるには、学校を立て替える以外に方法はない、ということで一致した。
 それを実現させるために、雲南省政府や怒江州政府と協力し、この小学校の将来の展望と役割をはっきりさせて、収容生徒数を確定し、教室、寄宿舎、給食室等の規模と数を決め、全体設計の概要を、まずはっきりさせねばならない。建設費用も今まで建てた小学校の倍額は用意しなければ、この秘境の中の秘境にある小学校を建て替えることは出来ないであろう。それは建築の素人である私にも、おおよそ見当はついた。

(つづく)
独龍江で学校を待つ子供たち34 [2007年12月06日(Thu)]

漆黒の闇夜に灯された“歓迎の蠟燭”

 のんびりと景観を眺めながら歩いてきたせいか、六時間近くかかって、やっと小学校の入り口に到着した。不思議なことに全く疲れを感じていない。すでに夕刻に近く、生徒たちの姿は見えなかったが、案の定、校門前では、酒が用意され、それを竹の器で数杯飲まなければ、校庭へ入れてもらえない雰囲気である。飲み干すたびに、何回も注がれ、何杯飲まされたか定かではないが、さほど強い酒ではないのがせめてもの救いであった。

 夕食会は、漆黒の闇に包まれた校庭にテーブルを並べ、蝋燭の明かりの下で始まった。蝋燭の明かりに多くの虫が集まってくる夏の夜では、とても出来ない宴会である。秋でよかった。漆黒の闇の上には、満天の星空が広がっていた。
 独龍江で獲れた魚の煮付け、ぶつ切りにした鶏の煮込み、瓜や山菜の煮付けなどがテーブルの上に並べられた。一緒に歩いてきた関係者や地元で待っていてくれた先生方も、我々遠来の客に気を遣い、乾杯を繰り返す。
 温かいうちに美味しいところを、ということで、鶏冠や鶏の頭、もみじのような鶏の足、魚の頭や尻尾をさかんに勧めてくれるが、これがなかなか日本人には食べられない。日本人が最も苦手とする部位である。
 中国の風習では、頭や尻尾などの部位には、栄養が凝縮されているとして、年長者や来客に勧める。目で食べる人種と胃袋で食べる人種のパワーの違いを見せつけられた夜であった。
 小学校に着いた時には疲れは一切感じていなかったが、体は正直で、乾杯を繰り返すうちに、酒が心地よく五臓六腑を駆け巡り、次第に酔いが回ってきた。いつ、どのような形で宴会が終了したのか全く記憶になかったが、朦朧とした頭と体を引きずって、校舎の二階に上がり、部屋に入ったのは覚えていた。

 若い女性がお湯の入った洗面器を運んできて、薄暗い部屋にいる私の足元においた。足揉みマッサージを期待して足を差し出したら、皆に笑われた。寝る前に自分の足を洗ってから寝るように、ということだそうだ。洗った足を拭くのももどかしく、服を着たまま、湿気を含んだ煎餅布団の中に潜り込むと同時に、意識を失っていた。

(つづく)
独龍江で学校を待つ子供たち33 [2007年11月29日(Thu)]

素朴な心遣いにささえられ歩く山道
 
この孔当までは、いくら揺れるといっても、車にしっかりと掴まっていれば、目的地まで運んでくれた。しかし、ここから先は、自分の足で歩かねばならない。
 目的地の巴坡小学校までは五時間超。幸い天気には恵まれ、ハイキングには絶好の日和である。訪問団も数えたら、いつのまにか二〇名を超える大所帯となっていた。
 我々も気合を入れ、必要最小限の荷物を持って、歩き始めた。ここから、山道を五〜六時間は歩かねばならない。河の流れを見ると、川下に向かっているようなので、ひとまず安心した。明日の帰りには登りになる、という辛いことを今は考えず、まず目的地、巴坡小学校まで歩き通すことだけを考えることにした。
 歩き始めると同時に、すぐに我々の背負っていた荷物はすべて取り上げられ、同行した地元の人たちの背に乗せられた。兎に角、親切な人たちで、我々がまるで子供であるかのように気遣ってくれる。今から半世紀も昔の話になるが、私は毎年夏休みに、母親の実家のある田舎に行っていた。この親切な心遣いは、丁度、あの田舎の人たちの純朴で素朴な心遣いと全く同じであった。


巴坡への道/独龍江に沿って山道を歩いて向かう

 今、歩いている道は、独龍江を貫く、たった一本の幹線道路である。そのため、荷物を背負った人や騾馬と行き交うことも多い。従って、道は騾馬の糞だらけで、我々は、この糞を避けながら歩かねばならない。
 この糞も慣れてくると、大量に落ちている場所がわかるようになる。悪路に入る手前と登り坂の手前が多い。やはり、騾馬もここ一番、ということで踏ん張ると糞もでるのであろう。物流の主役も大変である。

 余談になるが、この騾馬は、オスのロバとメスの馬を交配させて作られた荷役専門の雑種である。体はロバに似て小さく、力は馬に似て強い。しかも粗食に耐えてよく働くため、このような山間部では好んで使われている。ただし、悲しいことに繁殖は不能で一代限りで終わってしまうということだ。このような過酷な条件の下でも、心臓が破裂するまで働き続ける、という悲しい性を持って生まれてきている。その思いで眺めると、騾馬の糞も、きっとこれが生まれて働き続けたという証なのであろう。同情の念を禁じえなかった。
 この道は、自動車が通れるようにする拡幅工事の真っ最中である。いずれは、自動車で貢山から孔当を通り巴坡まで直接入れるようになるのであろうか。寂しいような気もするが、これも時代の流れである。騾馬も不要になる。もっと山奥にでも売られていくのだろうか。せめて、のんびりとした老後をおくってほしいものである。


騾馬/巴坡へ向かう山道では物流の主役となっている

 歩き始めてすぐに訪問団はバラバラになった。一人または数人で、写真を撮ったり、景観を楽しみながら、思い思いに歩いていった。道は一本しかなく、道に迷う恐れは全くない。幸い天気もよく、災害にあう危険もなさそうである。
 中国に来て、いつも感じることは、このような団体行動において「起承転結」があまりはっきりしない、ということである。なんとなく始まり、なんとなく終わる。この雲南省で参加した結婚式なども、参加する人は適当に来て、食事をし、適当に帰る。それが一日中、延々というか、だらだらと続いている。これが中国流なのだろうが、規律好きの日本人には、なかなか馴染めない。
 開会宣言で始まり、シャンシャンシャンで終わる。これでないと、日本人はうろたえるばかりである。個人主義的要素の強い中国人と団体でないと落ち着かない日本人の違いが、このようなところにも出てくる。
 この独龍江の川沿いは、まっすぐに切り立った絶壁が遥か上まで伸びており、そこには、太古の自然がそのまま残っていた。薄い板状の岩が幾重にも果てしなく折り重なって、絶壁を構成している。神のみが創り出すことを許された造形である。何億年もの昔、ヒマラヤ山脈と共に海の底から、長い年月をかけ、隆起して出来たのであろうか。このような自然美に対して、美しいという言葉ではなく、むしろ「畏敬の念を覚える」というたぐいの言葉の方が相応しい気がする。


目的地近くの人家/高床式の簡易な作りとなっている

 あと一時間少々で目的地に到着するという地点で、同行する地元の人から河原の方へ招き入れられた。その独龍江の河原では、地元の少女二人が、湯を沸かし、茶を入れ、芋を焼いて、我々の到着を待っていてくれた。
 本当に、心も体も温まるさりげない歓迎である。全員がお茶を飲み、焼き芋を食べ終わるのを見届けた少女たちは、来た時と同じように、やかんを担ぎ、余った芋を持って、小走りに村へ戻っていった。我々の到着を知らせるためである。

 やっとのことで、民家がポツポツ見えてきた。道路脇の家を覗くと、中で子供を背負った若い女性が笑っていた。「ニーハオ」と挨拶して家の周りを見せてもらう。言葉が通じているのか、いないのか、兎に角、敵意のないことを示すために笑顔を作るしかない。高床式の簡易な作りの家で、家の中は暗くてよく見えない。女性は恥ずかしがって家の中に消えてしまった。
 更に一軒、製材所らしき家の中を見せてもらう。真ん中に製材機が一台、部屋の片隅にベットだろうか、台の上に布団が無造作に置かれている。その上には、およそ不似合なギターが立てかけてあった。老夫婦と息子の三人暮らしらしい。人懐っこい笑顔で我々を見ている。製材機やギターがあるところをみると、村では裕福な家庭なのかも知れない。

(つづく)

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