translation[2019年12月03日(Tue)]
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translation[2019年12月03日(Tue)]
Confession[2019年12月03日(Tue)]
Dear システムさま 昨日私は、哀しみのありかに 少しだけ降りてみました かいつまんでいうとそれは 「私は単なる一時補完的な存在」 というものです。 本当に欲しいものがない時に 穴埋めのようにいてくれるだけでいい 「使い捨て」の存在というような。 何故私がそのような考えを 持つに至ったかを思うと 小学校ではじめて「国語」(あるいは道徳) の授業に触れたときの記憶がやってきました。 言葉を手にした大人の私に 復讐の強さを持って言わせるとあれは (想像力のないおばかさんが作った問題に あわせてあげるために私を犠牲にしてやった) という、"社会"を舐めてかかる原体験でもあります。 (怒りが物事を歪んでみせることを踏まえた上で この歪みを浮上させることを、私はいまここに選択します。 個人的体験を深めたとき、そこに普遍が姿を現すと思うから) "誰か"を喜ばせるために 言葉と偽りの関係を繰り返してきた私は 人生を裏切り、その怒りを 実態のない"社会"に抱くようになりました。 それは次第に "社会"で上手く生きているひとを 軽蔑する気持ちに すり替えられてさえしまうほど 巧みな独自の説得力と 浸透力を持つものになります。 偽物の薄ペラな人間である私は 落第者なのでしょう?と 謝罪を求めて叫び出しそうな自分の その醜さに 自分自身が耐えられなくなるのです。 神さま 私はいま基督の施設にいて 隣にはお寺もあり どことなく祈りが近くにある環境を ありがたく思っています。 何より いくつも連なる山や 朝に舞い降りる霧たち 水の音や樹木の香りが 素直さを導いてくれることへの感謝があります。 Social Justiceとは私にとって "社会"と見つめあう糸口を得るために置かれた 塔のような言葉。 遠くを見渡すために人がつくった 故にどこか恣意的でもある 希望を灯すともしびのひとつ。 私は自分自身への誠実さのために 哀しみに、痛みに、強さに 尊厳ある居場所を与えることを誓います。
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