「目から鱗」とはよくいうけれど、まさにそのように感じた本の表紙写真を今日のブログ用に選びました。
「シェア」という邦題で知られた一冊。現代は"
What's mine is yours”(私のものはあなたのもの)で「あなたの」を表すyoursの中に「ours(私たちのもの)」という言葉が浮かび上がるデザインになっています。
「共有する」ことを意味する「シェア」。この本の出版された2010年頃から、特に都市生活者の間でこういった言葉が新鮮さを持って迎え入れられるようになってきました。私の周りにも「ルームシェア」といって気心の知れた人たち(インターネットで呼び掛けて集まった初対面の人と、というケースも含めて)と住まいを共有している人たちが少なくありません。それも、学生だけではなくて社会人も含めて。経済的なこともあるかもしれませんが、それ以上に興味深いのは「共有することによって生み出される新たな価値」に着目している点です。誰かと「共有すること」を通じて、自分という個人の別の側面が引き出される。それはある種の冒険のようなものかもしれません。「暮らしを通じて出会う」。そのことのもたらす「接面(他と接する面)」の多様性。そこにはたくさんの
アングルを得る可能性が含まれているような気がします。
参考:
「共有」という概念に関連して。リオ+20に参加するNGOの中に「Commons」という考え方を広めることを目指した活動をされている方々がいて「Commons Cluster」というグループを立ち上げて議論を深めていました。彼らの活動主旨や今後の展開についてはこちらのサイトからご覧いただけます。(2011年3月に由比ケ浜海岸で写した、コントラストが素敵だったふたりの写真)
昨日はとあるワークショップでファシリテーター役を務めさせていただきました。メインファシリテーターのNさんの次回のプランを聞いて、以下のように理解しました。
第一回目のワークショプで共有し可視化した気づきと学びを、二回目では「人に伝えるために整理しなおす」ということで昇華させる。
それは「体験」と「共有」両方が含まれた構成でありました。
私の学ぶ
オーラソーマには「行く道(Outward Journey)」「帰る道(Return Journey)」というものの捉え方があります。行く道は未知なる体験から学ぶ道。知らなかったことに気づき習得する旅の道です。そしてもう一つが帰る道。これは、体験を通じて学んだことを今度は他の人に教える(共有する)旅路を意味します。
「学び」にはさまざまな側面があり、自分が生徒になることも学びですが、教えること・共有することもまた学びの要素のひとつです。その両方を体験することで、学びが自分のものとなる。その学びが意味するものをより深く理解することができる・・・。現在とある書籍の構想を練っているところですが、そのような双方向の体験が自然と生まれる構成を取り入れてみようと考えました。
(タロットの「愚者」の行く道と帰る道、ならびにそれに相応するボトル)
私はここのところ「人には無限の可能性が確かにあるはずなのに、それを妨げるものはいったい何なのだろう」ということが気になっています。ものごとを理解するにあたり、私には自然に目を向ける以外によい術が思いつかないのですが、そこから辿り着いた仮説としては「自らの可能性を導き出すヒントは『研ぎ澄まされた耳でよく聴き、自然の流れに沿った行いに従ずること』にあるのではないか」ということです。
人からどう思われるか、自分は他人と比べ見劣りしていないか。そんな気持ちが表れるととたんに静寂は身を潜めてしまいます。そして、生命が縮こまったり凝り固まったりせずに心地良い音色で流れ出すためには、再び静寂を取り戻すための「コツ」を知っていると心強いです。
私は言葉を用いる仕事に従事しておりますが、心の、あるいは思考の凝り固まった部分をほぐし自由にさせる上で聖職者の方の言葉を非常に参考にしています。本日は久しぶりに鎌倉にある教会に足を運び、牧師さんが聖書の言葉をどのように紐解いてゆくのか、その清らかな言葉に耳を傾けて過ごしました(ちなみに今日は、新約聖書ルカによる福音書第8章についてのお話がありました。聖書にもたくさんの数字がでてきて、そのことにも意味があるようで興味深いです)。
聖書についてはほとんど素人の私の今日の小さな発見。「悪魔」という言葉は「中傷するもの」を意味するのだそうです。神を誹謗中傷し、人間を誘惑する存在・・・。そのように描かれる悪魔も、もとは天使として神に使える身であったとも言われています。誹謗中傷。愛せず憎しみに向かう気持ち。それは私の心の中に絶えず浮かび上がり、しばしば静寂を聴こえなくさせます。何故人は、誰かを悪くいったり責め立てたりするのでしょうか。「平和でない」状況をわざわざつくりだすようなことをするのでしょうか。そこにはきっと「耳を傾けて欲しい存在」が影を潜めているのでしょう。そこに、意識をもたらしてみる・・・。私にとって、カウンセリングは学びの旅に寄り添うことでもあり、私自身の学びの場でもあり、本当に愛おしいお仕事です。
「自分の最も愛し難い側面をも受け入れること」。その一見複雑で難解に思える人生の宿題を前にして、自然のことを想いました。自然。それは極めてシンプルで当たり前に生命を描く存在です。
それにしても暑い日々が続きます。蓮の花の咲く季節。明日は朝早くに起きて、どこかのお寺に出掛けてこようと思っています。
写真は、数日前に手帖に書いた落書き。この教会に通うことにつながるご縁をくださったAさんという女性が、ご自身で作成された名刺にかわいらしいうさぎの絵を描いていらしたので「私も絵を描くんです」といって調子にのってシェアしたものです。