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最新記事
生け花のように、隣に。[2013年01月29日(Tue)]
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高校時代の友達と、ベトナム料理のランチをいただきながら、おしゃべりをした。アフガニスタンに駐在して働いていた彼女。防弾の車に乗って、いつも軍に警備されて移動していたという緊迫の日々。その身体に、無意識のうちに染み込まれていった緊張のことを思うと、身体が身体を養うためのことをしたいといっているのも、とても頷ける。お野菜だとか、お料理のこと。健康にいいことを手がけてみたいと、彼女は言っていた。そうだよね。本当に大切なことをしてあげないとね。最近はサバイバルのことをお話することが多い。ルートチャクラの赤。気づくとそんな色彩を、彼女たちは自然と身につけている。

友達から「まきちゃん、オーラソーマの話しをしている時、すごく楽しそう」と別れ際に言われた。自覚はなかったけれど、そんな風に指摘していただけると、とても嬉しい。オーラソーマというのは、可能性の世界のこと。希望の住処を訪れる旅。だからすごく楽しいし、わくわくするんだよっていうのは、その時は出てこなかったけれどとても強く心から思うこと。

***

オーラソーマを、私は生け花のようにして使っています。メッセージを受け取るのに少し時間がかかることもあるから、そういう時にはこうして、何日か同じものを並べてみたりして。

ギフト&チャレンジ(2本目)は、正しい時に正しいことを行なう、ジュワルクールとヒラリオンのボトル。なるほどねと、今朝になってとても腑に落ちたのでした。
透明に、透明に。[2012年12月05日(Wed)]
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長谷寺の紅葉ライトアップをみにお参りにいってきました。5時前には暗くなる季節。このライトアップを目当てに訪れた団体客もいて、境内の賑わいは大晦日のそれを彷彿させるものがありました(鎌倉に越してきてから、年越しはいつもここで過ごしています。灯籠が美しいから。そして、元旦の朝には初日の出もここで)。

美しい彩りに包まれながら、まわりの人たちと同じに、つい私も携帯を取り出して写真を撮ることに夢中になってしまいました。誰かに伝えたくなるものだから、仕方がない。ブログにアップしてもよいのだけれど(そして今実際そうしているわけですが)、なんとなくこの紅葉の写真は、個人的なメールで、個別に何人かの人に送りたい気持ちになって、そんな風に感情を交換するのを楽しみました。「わあ、綺麗〜!」という、休憩時間のお母さん。「京都にいるの?」と長谷寺だと書いているのに条件反射のお返事をくださった先生(笑)。受け取る「誰か」のことを、具体的に考えるのって、なんだかいいなと思いました。

家に帰ると、クリスマス礼拝の案内がポストに届いていて、その手書きで書かれた宛名もまた、気持ちを温かくさせてくれるひとつです。

さて。今日はタイトルに「透明に」なんて言葉を選んでみました。

年の瀬もせまり、新たな一年に向けて、自分の心の深い部分に触れたいという気持ちの高まる季節。色彩をつかったオーラソーマのカウンセリングを、温かな部屋で静かに流れる時間の中でご提供することが、とても贅沢なよろこびです。

オーラソーマについては、いつもどんな風にそばにいたいだろうとつい考えてしまう。それは、好きな人とのつきあいかた(距離の取り方?)を考えるみたいな感覚です。好きなだけ近くにいてもきっといいのだけれど、こういう風に在りたいなと思うのは、できるだけ私は透明な存在で一緒にいようということ。そのままの綺麗さを受け入れたいのだから、私のこころにあんまり、色を持ち込まない方がいい。できるだけ透明でいたれたらなあ・・・と、いつも思います。

そうしたらいくら存在をみたしても、窮屈になんてならない。言葉によって景色を曇らせることは、きっとできないことでしょう。
夢の通り過ぎた後 それから深い呼吸[2012年11月09日(Fri)]
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ゼラニウムの香りの残る化粧水を軀にまとい、ボトルの使用を終えた朝。109番大天使ザカリエル。そのエネルギーは3月11日を経た日本のエネルギーに関連しているといわれています。

ボトルのメッセージを読み解くことは、かつてよく知っていた国からの伝言を受け取るようで面白い。面白い、というより「くつろぐ」というのがより正確な表現かもしれません。

落ち着くのだね。「ああ、そうだったよね」というように。

「バラバラになったものをもういちどひとつにまとめる」というのがオーラソーマの根底にあるメッセージであると言われています。Re-member。

飯田橋のあたりをあるいていたら、今日はそこにRe-sourceという言葉のことをつけくわえたくなりました。再び、源に。リソース・資源という言葉には、そんな風に「秘められたものを探ってごらんなさいな」という謎掛けがなされているように思います。

リソース不足がさ、なんて、本当に不足しているのは、何?
感受性をあげても、大丈夫。[2012年10月25日(Thu)]
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今週末はオーラソーマ(R)のカウンセリングが控えています。公的な場で開催するのはひさしぶりなので少し緊張しつつ、ボトルを送付するため箱に詰めながら、心を休めるようにして、整理。

本当に子どもだったころ、人は敏感で何ごとに対しても感受性をひらいている。けれども、歳を重ねる過程で、心を傷つけることに出会い、自分を痛みから守るために、その感受性を閉じ込めてしまうこともある。恐れから形成された「思考パターン」の上に「私という人」の家を建てるので、それは丈夫なようでいて、どこか、居心地が悪い。

・・・などという体験に触れながら、だからこそ「手放すための場所」そして再び「感じても大丈夫ということを学び直す場所」が必要なのだなと、改めて感じてます。

現在、私がカウンセリングスキルを学んだラハシャ博士が来日中ということもあり、あらためてそのときのことを振り、体験を思いおこしました。

感受性にひらくこと 
恐れの手放しと感情の解放

そういう意味では、オーラソーマのボトルの綺麗さは、ただ綺麗だと純粋に味わうだけでもじゅうぶんに意味があるのだなあ(もちろん、いろいろの情報はあるわけですが)と、ふと考えた次第です。心配症はつい、あたまに頼りたくなりますから・・・。

本当に肌寒い季節になりました。今日もよい一日を。

日時:10月27日(土)14時から(予約優先)
場所:Rooms 下北沢 
http://ameblo.jp/rooms-shimokitazawa/
東京都世田谷区北沢2-39-13田丸ビル2F (下北沢駅西口より徒歩5分)
30分リーディング 3,000円 (コンサルティングシート付)
45分リーディング 4,000円 (コンサルティングシート付)
詳細はこちらをご覧ください。
タントリック・イルミネーション[2012年09月04日(Tue)]
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昨日は友人のカフェでオーラソーマのミニリーディングを開催させていただきました。

タントリック・イルミネーションと呼ばれる、赤・ピンク・マゼンタ・コーラルの色を持つボトルたち。そのうちから惹かれるものを選んでいただき、その理由や感じることをお伺いすることで、どのような質と共鳴しあっているのか、色彩やボトルの持つ意味合いをヒントに紐解いていきます。選んだボトルの背景に別のボトルが見え隠れすることもあり、目に見えるもの以外からも暗示される可能性に、私自身も深みを感じとても楽しいひとときとなりました。ご来場くださいました皆さま、ご縁をいただきましたRooms下北沢の宮川さん、ありがとうございました。

今回ご希望をいただきながらいらっしゃれなかった方や4本のボトルを選ぶベーシックリーディングを気軽に受けてみたいという方のためにも、また近いうちにこのカフェでオーラソーマをご提供させていただく機会を設ける予定です。

個室でじっくりと受けたいという方にはそういったコースもご用意しておりますので、是非お気軽にお問い合わせください。

読書の秋。ボトルもまた書物を潜めていると言われています。直感と言葉をヒントに探る旅。オーラソーマを通じて読み解きの楽しさを共有できればとても嬉しく思います。
いつか出会うことになる「誰か」[2012年09月01日(Sat)]
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Blue Moonの美しい夜でした。ひとつきに満月と二度出会うことのできる珍しい日。そして、願いごとをするととても叶いやすい日なのだといいます。 

願いごとは「叶ったことを想像して感謝の気持ちを心に抱く」ようにするとよいといいます。

叶わないと思っていたら、きっと無理だっていうエネルギ−が伝染しちゃうから・・・なんて風に以前は捉えていたのですが、そういうよりもむしろ「願いごとが叶う=ゴールじゃないよ」ってことなのだろうなと最近は思うのです。「叶った=ピーク」って思ってしまったら、その「栄光」っぽく思える瞬間に、しがみつきたくなってしまう。変化が受け入れられなくなったり、自分から心を縛り付けるようになってしまうかもしれない。でも、本当はそうではなくて。

人生は続いていくわけだし、ものごとは絶えず変化するし。次にどうなるかなってこと、わくわくしながら信じて想像する(準備する)ことの積み重ねとして人生を歩んでいけますように。そんな自分を過去と今と未来と。仲良くやさしく織りなす風景を愛せますように。そのことが今すでに私の中にあることを知り感謝の気持ちで瞳を閉じます。

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写真はキリストという名のボトル。苦難に思えることも含め、人生は自分で選んできたもの。深くにおいて信じ、肯定的に受け入れよということへの暗示だったのかもしれません。
降り注ぐ光。[2012年08月28日(Tue)]
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水面に映る月の美しさをカメラでどうしても捉えることができなくて。悔しまみれにフラッシュをたいてみたら、こんな不思議な写真になりました。まるで海中に沈む船のよう。月は恋しき彼方です。

江の島の蒼い灯台の光を見に、稲村ケ崎まで走ってきました。波が勢いよく駆け足をしていて、道路脇にまで打ち付けて私を濡らすものまでありました(普段は気づかないけれど随分遠くから砂浜を目指して鋭さを増すのです。暗闇に映える白いスピードは、少し恐ろしいような)。

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(B77「カップ」のボトル)

月を眺めながらふと「カップ」という名のボトルのことについて考えました。B77(クリア/マゼンタ)。受け取ることと、受け入れることというテーマ。天からの愛は常に降り注いでいる。誰にでも、分け隔てなく。そしてその大きなサポートを受け取るためには、受け入れるということに自分をオープンにすることが必要。「今ここ」に照準をあわせること..。シャワーのようにやさしい月の光の中、イメージが一層ふくらみます。

さて、そのようなことを考えていたのも、心の中に少しもやっとする「何やら受け入れ難いもの」があることに気づいたからで。とはいえそんなに深刻なことではなく「ちぇっ!」って気持ちの招待は何か、というようなことなのですが。まだ素直さが足りていないのかなあ・・・と、今日は松下幸之助を読みました。すっかり読書日和。最近はセレクションに絵本を入れるようにしています。

備考:
オーラソーマのボトルにはそれぞれ意味がありますが、直感と論理的な理解をあわせたところに「今の自分に必要な言葉」を見つける作業が楽しいです。体験としての読書のような。

追記:
人を愛せなくなる方向に働く「賢さ」ならば、いつでも手放してあげたいです。
魔法をかけること・呪文を解くこと[2012年08月11日(Sat)]
幼い頃、魔法使いになることが本当に夢でした。杖をふって「えいっ」とやると素敵な服装に着替えられたり、空を飛べたり、なんでも好きなことが手に入る不思議な力。

そんなものは子どもの考えることだとどこかで思っていたけれど、最近は「やっぱり魔法ってあるんだ」という気持ちの方が確かになってきています。

思考はエネルギ−をまとう。だから、意図した方向にエネルギ−は流れ始める・・・。

この考えはまさに「魔法」のことを言っているのではないでしょうか。素敵な方向に働くとそれは夢に抱いた魔法になるし、ネガティブな方向に働くとそれは呪縛のように働く。

生命の樹を学び、タロットカード「マジシャン」にあたるボトルについて探求しながらそんなことを考えました。

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(タロットのマジシャンのカードとオーラソーマ(R)のB01、B79のボトル)

マジシャンのカードのメッセージは「大いなる意志とつながることによって想いは成就される」というもの。それをエゴが勘違いして「私が優れているからできたのだ」などと思いあがってしまうと、魔法は一瞬にして崩れさってしまうーーーそれはあなた独自の専有物ではないのだから。

企画の考えに行き詰まるとき、私はこの問いかけを自分の心に投げかけるようにしています。「誰のためなの?」「本当に求めているものは何なの?」。それが本当に大いなる意志につながるものであるならば、クリアな答えが導き出せないなんてことは決してないはずです。魔法はいつでも降り注いでいる。もしその力を感じ取れないことがあるならば、それはきっと、受け取る側の心のアンテナの問題なのでしょう。
外の僕 内の君[2012年08月09日(Thu)]
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胸がずしんと、熱くなる感覚を覚えました。

私が「あなた」と思ってみているのは、実は「私」なんだ・・・という体験。ラハシャ・クラフト博士のカウンセリングの授業を受けた日の記憶です。

「今、あなたが向き合う必要があると感じている人をひとり心に浮かべて・・・」。その相手と、自分とをイメージするボトルを選び、椅子をふたつ用意してそれぞれの気持ちになって語りかけてみるというそのワークで私が選んだのが、この写真に写された2本です。「風の中のキャンドル」そして「ドルフィン」。

今日、オーラソーマ探求のクラスを受けながらふと、このボトルのワークから紡ぎ出された言葉たちのことを思い出しました。その言葉たちは「思考」というよりは心の奥底に身を潜めていた感情で、はじめはがちがちに縮こまってまるで惨めな様子をしていましたが、ひとたび解き放たれてみるとまぎれもない透明な愛情の結晶のようでした。

「どうして、そんな風に思ってしまうの・・・?」

対象に向け心に想い浮かぶ言葉を口にしているうちに、途中から私は、それらの言葉がすべて自分にそのまま返ってくるものであることを感じはじめました。答えを決つけてながら問いを投げるのは不思議です。けれども人は、そういうことをしてしまう。「どうしてあなたは私をわかってくれないの」。突き詰めるとそれは、私が自分に投げた言葉でもありました。

そんな風に、私が素直に向き合えないでいる大切な家族・・・。今日はどういう訳かお母さんとの記憶を思い起こさせる会話になんども出逢い、忘れていたいくつもの風景のことを思い出しました。その風景は胸の中に音をたてて蘇り、当時には気づくことのできなかった幾つもの光の破片を私の心へ届けにきているようでした。

「風景」というものについて、ある人と話したことがあります。その人は「風景」という言葉をとても大切に感じている人でした。それなのに私は「あなたの前にはただ通り過ぎていく風景があるだけ」とその人にとても意地の悪いことを言いました。今こうして振り返ってみると、風景から目をそらしていたのは私の方だったかもしれません。綺麗なものだけをみたくて、美しさなんてぞっとするもの、認めることが怖くて。「あなたはこんな人」と決めつけて「私の役割」を定義してしまえば、私が揺るぎなくなるような気がして落ち着くのだと考えていたのかもしれなかったです。

「外の僕 内の君」

じんわりと身体にしびれる気持ちが伝わる夜。瞳を閉じて、雨上がりのそわそわとした風が通りぬけるのを膝のあたりで感じています。
学び合い[2012年07月29日(Sun)]
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「目から鱗」とはよくいうけれど、まさにそのように感じた本の表紙写真を今日のブログ用に選びました。「シェア」という邦題で知られた一冊。現代は"What's mine is yours”(私のものはあなたのもの)で「あなたの」を表すyoursの中に「ours(私たちのもの)」という言葉が浮かび上がるデザインになっています。

「共有する」ことを意味する「シェア」。この本の出版された2010年頃から、特に都市生活者の間でこういった言葉が新鮮さを持って迎え入れられるようになってきました。私の周りにも「ルームシェア」といって気心の知れた人たち(インターネットで呼び掛けて集まった初対面の人と、というケースも含めて)と住まいを共有している人たちが少なくありません。それも、学生だけではなくて社会人も含めて。経済的なこともあるかもしれませんが、それ以上に興味深いのは「共有することによって生み出される新たな価値」に着目している点です。誰かと「共有すること」を通じて、自分という個人の別の側面が引き出される。それはある種の冒険のようなものかもしれません。「暮らしを通じて出会う」。そのことのもたらす「接面(他と接する面)」の多様性。そこにはたくさんのアングルを得る可能性が含まれているような気がします。

参考:
「共有」という概念に関連して。リオ+20に参加するNGOの中に「Commons」という考え方を広めることを目指した活動をされている方々がいて「Commons Cluster」というグループを立ち上げて議論を深めていました。彼らの活動主旨や今後の展開についてはこちらのサイトからご覧いただけます。


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(2011年3月に由比ケ浜海岸で写した、コントラストが素敵だったふたりの写真)

昨日はとあるワークショップでファシリテーター役を務めさせていただきました。メインファシリテーターのNさんの次回のプランを聞いて、以下のように理解しました。

第一回目のワークショプで共有し可視化した気づきと学びを、二回目では「人に伝えるために整理しなおす」ということで昇華させる。

それは「体験」と「共有」両方が含まれた構成でありました。

私の学ぶオーラソーマには「行く道(Outward Journey)」「帰る道(Return Journey)」というものの捉え方があります。行く道は未知なる体験から学ぶ道。知らなかったことに気づき習得する旅の道です。そしてもう一つが帰る道。これは、体験を通じて学んだことを今度は他の人に教える(共有する)旅路を意味します。

「学び」にはさまざまな側面があり、自分が生徒になることも学びですが、教えること・共有することもまた学びの要素のひとつです。その両方を体験することで、学びが自分のものとなる。その学びが意味するものをより深く理解することができる・・・。現在とある書籍の構想を練っているところですが、そのような双方向の体験が自然と生まれる構成を取り入れてみようと考えました。

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(タロットの「愚者」の行く道と帰る道、ならびにそれに相応するボトル)

私はここのところ「人には無限の可能性が確かにあるはずなのに、それを妨げるものはいったい何なのだろう」ということが気になっています。ものごとを理解するにあたり、私には自然に目を向ける以外によい術が思いつかないのですが、そこから辿り着いた仮説としては「自らの可能性を導き出すヒントは『研ぎ澄まされた耳でよく聴き、自然の流れに沿った行いに従ずること』にあるのではないか」ということです。

人からどう思われるか、自分は他人と比べ見劣りしていないか。そんな気持ちが表れるととたんに静寂は身を潜めてしまいます。そして、生命が縮こまったり凝り固まったりせずに心地良い音色で流れ出すためには、再び静寂を取り戻すための「コツ」を知っていると心強いです。

私は言葉を用いる仕事に従事しておりますが、心の、あるいは思考の凝り固まった部分をほぐし自由にさせる上で聖職者の方の言葉を非常に参考にしています。本日は久しぶりに鎌倉にある教会に足を運び、牧師さんが聖書の言葉をどのように紐解いてゆくのか、その清らかな言葉に耳を傾けて過ごしました(ちなみに今日は、新約聖書ルカによる福音書第8章についてのお話がありました。聖書にもたくさんの数字がでてきて、そのことにも意味があるようで興味深いです)。

聖書についてはほとんど素人の私の今日の小さな発見。「悪魔」という言葉は「中傷するもの」を意味するのだそうです。神を誹謗中傷し、人間を誘惑する存在・・・。そのように描かれる悪魔も、もとは天使として神に使える身であったとも言われています。誹謗中傷。愛せず憎しみに向かう気持ち。それは私の心の中に絶えず浮かび上がり、しばしば静寂を聴こえなくさせます。何故人は、誰かを悪くいったり責め立てたりするのでしょうか。「平和でない」状況をわざわざつくりだすようなことをするのでしょうか。そこにはきっと「耳を傾けて欲しい存在」が影を潜めているのでしょう。そこに、意識をもたらしてみる・・・。私にとって、カウンセリングは学びの旅に寄り添うことでもあり、私自身の学びの場でもあり、本当に愛おしいお仕事です。

「自分の最も愛し難い側面をも受け入れること」。その一見複雑で難解に思える人生の宿題を前にして、自然のことを想いました。自然。それは極めてシンプルで当たり前に生命を描く存在です。

それにしても暑い日々が続きます。蓮の花の咲く季節。明日は朝早くに起きて、どこかのお寺に出掛けてこようと思っています。

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写真は、数日前に手帖に書いた落書き。この教会に通うことにつながるご縁をくださったAさんという女性が、ご自身で作成された名刺にかわいらしいうさぎの絵を描いていらしたので「私も絵を描くんです」といって調子にのってシェアしたものです。
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