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最新記事
責任とResponsibility[2013年08月25日(Sun)]
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あるお医者さんが、このような話を聞かせてくださった。

「日本語で『責任』というと、なんだか責められているような、重たいような印象があるでしょ?『責任はとれるのか?』とか『責任者は誰だ』とか」

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「精神医療の本を読んでいると、よくResponsibilityという言葉がでてきてね。読んでいるうちに、どうもこれは、日本語でいうところの『責任』とは違う質のものだなと、思うようになったんですね」

「Responsibilityというのは、どちらかというと、価値観に近いものではないかと、僕は思うんです。現実を受け入れるということ、自分が行なったことについての結果を引き受ける潔さ、のようなね」

「責任というと、他者に対する判断・評価のようなイメージを持つものとして、捉えられがちでしょう。Responsibilityという言葉には、美学とか、誇りといった意味合いがあるんだと、思うんです」

「本当はその言葉を、もっと上手に、日本語の別の言葉で置き換える必要があるんじゃないかと思うんです。訳したつもりが、全然違う意味を持って共有されてしまう。そういうことって、ありますからね」

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先生と言葉を交わすのは、おもしろい。

そして私は、迷ったときにはこうして、いきものたちがどんな風に過ごしているのかを、ただじっと眺めているのが、とてもいいと思う。

そうすると、確かに、何かが、通い始めるんだ。

(写真は、沖縄・首里城近くのお掘りにて)
満たされ・浄めゆくこと[2013年08月18日(Sun)]
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こどものころ、「悪いことをすると、バチがあたるよ」とよく叱られた。

「バチがあたってもいいもん。そんなの、怖くないもん」。

憎まれ口というのは、相当幼いころに身につけるものらしい:4さいのめいっこが、もうずいぶん、なまいきを言うのだというのだから(まあ、なにを言っても、みているがわにはかわいく思えてしまうのだけれど)。

わりと最近の「昔」まで、神様がどこか遠くにいる存在で、バチを与える力を持ったひとがごく限られた「権力者」なんだって、思い込んでいたのはどうしてだろう。

そして、歳を重ねるごとに、自分のまわりにはどれだけ多くの鏡があるのだろうと、不思議さがますます世界を満たしていくようになったのは、いつからだろう。

不思議で満たされた世界は、闇夜の月みたいに、綺麗でこわい。こわくて、やさしい。

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今日は横須賀で合気道の合同稽古があった。近くの大学の合気道部の学生たちもいて、とても新鮮だった。「若い人たちと一緒だと、体力的に大変じゃないですか」と何人かの人からコメントをいただいた。「若い人と一緒だと」ということが、あんまり問題にならないんだなあ、合気道って、と問われたことで気づく。「年齢ならではの」ものはもちろんそれなりにあるけれど、力むとか強弱とかじゃなくて、「調和」なのだ。調和で生まれる力は、いろいろな壁を乗り越えてゆける。すごいんだ、合気道って。宇宙のテレスコープを覗き込んでいるみたいなんだ。テレスコープの向こうには、自分のこころと身体が広がっていて、それが宇宙って思えるの。

へたっぴで、稽古をしている様には全然そんなゆとりがないのだけれど(だから、とてももどがゆいのだけれど)、合気道は一生続けていきたいと、心から思う。生きることの一部にしたい、って。

(心身向き合うということ、農とおなじくらい、すごく重要だよ。どちらも、宇宙としての自分に向き合うことだからね)

稽古のあと、追浜という駅の近くにある「雷神社」というところにいってきた。「雷」は「いかづち」と読むらしい。樹齢400年以上とも言われる銀杏の御神木がご鎮座されていて、守られている空間だった。

神社の前に、気になるパン屋さんがあったので、立ち寄ってみた。創業70年以上。たくさんの名誉ある賞を受賞されているらしい。「昭和」の漂うその店先でお店の方にうかがったら、昔、この近くに遊郭があって、客引きをする女の人たちのいるところに、よく雷が落ち、それを沈めるために雷神社がつくられた、という逸話があるそうだ。いまでもこの地域は、何かの行事があるときに、天気が急に崩れるということが、よくあるらしい。神様のご機嫌伺いをいつもしている土地なんだ。

とてもお力の強い神様で、願掛けをされて、その願いが通じたという話がいくつもあるそうだ。うん、わかる気がするなあ・・・。お話を伺えて、とてもよかった。雷神社の神様に、さっそくお礼を言うことになった。

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パンを買って、線路添いの道を、金沢八景の駅まで歩いた。銭湯があったり、ことりや金魚を売っているお店があったり。アジアの片隅にあるような、扉をあけると店の店主がテレビをみながら昼ご飯を食べているといった謎の店舗があったり。

みんな、これからはあそこに稽古にいったら、こういうこともセットにすることが絶対におすすめ。と思いつつ、こういうお散歩は、「ふらり」と「その場の思いつきで」決めてするのが絶対にいいよなと思うから、きっとそうすることにしよう。

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風の爽やかな一日だった。
触れる。[2013年08月06日(Tue)]
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「手の治癒力」という本を読んでいた。触れるということ。こころと身体と、つながりの感覚をとりもどすこと。

医聖ヒポクラテスは、医者の役割は、患者自らが自然治癒力を高めることを助けることにあるとし、「触れる」という行為を重視していたという。

(聴診器やレントゲンの発明は、人と医療者との距離をさらに遠ざけることになった、と著者は指摘する。近代文明は、人からいのちとの距離を遠ざけた:私は、そんな気がしてならない)

人々が幸福や安心を感じること、緊張から解きほぐされ自分らしくあれることにも、この、触れるという行為は意味をなす。うつや認知症のひとにも、自信がもてず心細いひとにも、社会という得体のしれない器にぽつり取り残され、人の愛をもとめる、子どもやおとなにも。

生きていく上で本当に大切なことは、難解であるはずはない。

触れること。触れ合うこと。

そういう豊かさで満たされた人生を生きようよ。きっと、きっと気持ちいいよ。

本を読んでいるうちに、子どもの頃、風邪をひいて、「熱はない?」とおでこをごつんこしたことを思い出した。おでことおでこ。あわせただけで、本当にわかるの?

分かって欲しいものって、理屈じゃないどこかにあって、みんな、その場所のことを、知っている。

そう思う。

(かわいい愛犬「とら」。会いたいです)
最善を尽くすということ。[2013年07月27日(Sat)]
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合気道をはじめて、エネルギーについての関心が、これまでとはまた別の意味で高められている。「見えないものを読むこと」。子どもの時にきっと誰もが得意だった、大人になると使うことを忘れがちな、不思議で確かないのちの実感。

今日の夜は、私がとても尊敬する方が「自分にも、他人にもよい」と教えてくださったエネルギーワークの体験会に参加し、また新たな発見をつかんできた。

自分の中にある、滞ったエネルギーに意識を向けること。
それをしっかり感じ、受け止め、慈愛に満ちたエネルギーへと変容を施してゆく。
その体験を、交換しあう。

ドロドロとした油よごれのように淀んだエネルギーが、さらさら、キラキラ、楽しそうに流れる光の粒に変わっていく感覚。私たちを満たすエネルギーの質は、とりたてて言語化されることもない些細なものも含めて、私たちの言動に、密かに(しかし確実に)影響を与え続けている。「エネルギーの質?そんなの分かるの?」。わかるよ。だって、どのように今を受けとめているかということが、自分と世界の関係を決める。それはとても、とても、ロジカルなことだと思った。

新鮮で、心地よい体験だった。

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ワークをご一緒した方から、こんなことを、教えてもらった。

「最善を尽くすっていうでしょう?あれは、今自分ができる最大限の無条件の愛を、生きようとすることなんだって」。

だから、まわりと比較してどうか、とか、まだまだ未熟だし、とか、そういうことは関係ない。常に、内から、満たしていくことができる。自分が満ちる(最善を尽くすという心の状態を意識して生きる)ということは、そのさきの人たちの、気持ちにもつながってゆく。この言葉を聞いて、私は「エネルギーはそうやって、互いを浄化しあっていくんだ・・・」と、妙に納得してしまった。

合気道は、相手のエネルギーとの調和。

闘いは相手を強くする行為。調和は、互いが力むことなくより強くなる有り様。そのことを意識し、身体で確認することができるから、新鮮で、神聖で、素晴らしいんだ、合気道って。

(合気道、大好き)

いいんだ。うまくなくたって。大好きなんだし、大好きなことが嬉しいのだから(そしていつか、きっとすごく上手になる!)。

追伸:
ご縁のある方は、この写真の場所に、きっと導かれると思いますよ。
跳べない跳び箱。[2013年06月30日(Sun)]
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今日も不思議な夢を見た。

お芝居の、最初のシーンの脚本だけを手渡され、ラストシーンのイメージについて説明を受ける。「え、途中はどうなっているの?」。困ったなあと思っていたら、いつのまにか、みんなは途中をつくってた。「やってみたのよ。そうしなきゃ何もできないじゃない」。メンバーにはフィリピンやスリランカの人たちもいて、言葉がすべて通じるわけではないから、身振り手振りで、シーンを完成させていく。「見せあう」機会を増やして、「なにを完成させればいいか」イメージの共有を進めていく。「ああ、そうか」。掴んだ人から、創造の輪に加わっていく。気づくと衣服のはだけた姿になっていたが、それは舞台では問題にならない。あわてておどおどしている方が、舞台上のルールに反する。見る方も、演じる方も、参加するのは「決めてきた」人ばかりだ。決めたのだから、迷いも、恥じらいもそこにはない。

なんていう世界だろう・・・というところで、目を覚ました。けれどもそれは夢の続きで、自分は見知らぬ部屋に越してきたばかり。住所がどこかもわからないが、白、赤、黒のモダンなしつらいの場所だった。床はタイル貼り、部屋は「くの字」をしている。その目的は、入って通り抜けること。部屋という体裁は、その、カモフラージュに思えた。部屋の鍵は自転車のそれと同じ。象の背中の上のような、フワフワ漂う土地にある。

知らないけれど、知っている場所。こころは一体、何をみようとしているのだろう。

「跳べない跳び箱」と、この文章のタイトルにつけた。

跳び箱というのは、跳べると思わないと、跳べない。失敗するという気持ちは、身体を上手に失敗へと導く。「意志の力」を思い出す時、私はいつも跳び箱を思う。

「あなたは、何を確認しようとしているの?」

跳び箱は、私にそんな問いを投げかけているような気がする。

西陽射す体育館が、脳裏に浮かんだ。

6月30日。大祓の日。
懐かしさを知ること。[2013年06月23日(Sun)]
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逗子の海を見渡す場所を訪れた。ヨットがたくさん。遊歩道があり、海辺まで降りてゆくことができるのだそうだ。中腹までバスが通っているというので、いつかまた、訪れてみようか。蒼と緑の風色の広場。

とある理由から「四季の歌」の歌詞を調べた。

春を愛する人は 心清き人
すみれの花のような ぼくの友だち

夏を愛する人は 心強き人
岩をくだく波のような ぼくの父親

秋を愛する人は 心深き人
愛を語るハイネのような ぼくの恋人

冬を愛する人は 心広き人
根雪をとかす大地のような ぼくの母親

(作詞/作曲:荒木とよひさ)


小学校で習った歌だ。帰りの学級会(というのだっけ?歌を歌って、連絡事項を確認して「さようなら」をする時間)でよく歌ったのだが、何故だかいつも泣きたくなった。まだ幼いこころの奥に、不思議と、じんと、熱く響くものがあった。涙は喉の奥で、海みたいにしょっぱかった(海のこともよく知らなかったはずだが、幼いこころにも、涙は何故か海を連想させた)。

とても簡単なこの歌を、お年を召した方々と共に口ずさみ、記憶の中に、幼い自分を蘇らせる。そして、考える。「時代を結びつけるのは、このような記憶なのだろう」ということ。

幾千のいのちを包み込む地球が、まるで孤独のように思えた。それは私たちの共有するもののなかで、もっとも深淵で、言葉をやさしくすりぬけてゆく。
路地裏[2013年06月06日(Thu)]
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路地裏を歩くのっていいよね。
そう話すと、
「私も」と答えてくれる人は、案外たくさんいる。

「いいよね」
「うん、いい」
「落ち着いたところがね」
「そうそう、垣根に小さな花が咲いているのだとか」
「お洒落な喫茶店が、あったりなんてして」

路地裏を一緒に歩くってこと、
けれども、
あんまりすることはない。

日常風景の中にある、
ちょっとだけ、非日常なんだ。路地裏は。
いや、「路地裏」として鑑賞されるそれは。

路地裏を、ふたりぽっちで歩く

そういう時の、はやさだとか、歩幅、リズム、距離感の
あの、心地のよさは何なのだろう。

見えない手をつないでいるような
なにか、とても、「共有している」ような感覚。

そんな風に、ひとが、狭いところをちょこちょこ歩くのを
小鳥たちはおもしろがって見ているかもしれない。
「かわいい」って。
小鳥がかわいがるような人間に
なることができるのかもしれない
路地裏を歩いていると。

鎌倉も・昨日歩いた表参道も
あちこちにある知らない片隅も

人のたてる音が
跳ね返ってくる狭さが、広がりが
私はとても、好きだなと思う。

写真は、シナリオの学校の前で写した紫陽花。

何故だか気がつくと、古い商店街とか、食堂だとか、
時計の修理屋さんだとか、
そういう風景を
シナリオの題材に選び続けていた。
廃墟と近代文明の同居・混在・折り合いを付けること。

そして今朝は、こんなことを考えた。

ひとはみな、還る場所を知りたくて
言葉と一緒に、
そのための手がかりを風景の中に探しもとめることが
私の愛する、創造の旅。

その考えは、私をとても安堵させた。

ちいさくて信じられるかけらを
私たちはきっと
静かで透明などこかで
分かち合っているのかもしれないね。
ほんとうの大きさ。[2013年06月05日(Wed)]
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ここのところ、朝と夜にお薬を飲むことが習慣になっている。

最初のころは飲むことを忘れて、何日分も残してしまい、「2週間分マイナス忘れた分」の処方箋を毎回先生に書いていただいていた。「お薬の効き目はどうですか」。お医者さんにそう聞かれてもあんまりピンとくるものがなく「強い副作用のようなものはないようです」とだけ答えて、「もう少し続けて様子をみる」ことにする。直ぐに効果が確認されるものではないから、忍耐強く待つことが大切みたいだ。お薬のひとつはコバルトブルーの色をしていて、自然界で見るそれとは随分異なる様相で、存在感をアピールしている。

お薬を飲むのは、本当はあまりしたくない(だって、とても大切な人生のできごとにある種の危険性を伴うかもしれませんと、但し書きされているのだから)。だから、それなしでも大丈夫な自分を、同時進行で整えていきたいと思う。けれど、そこにはある種の矛盾がある。つまり、「お薬が効くか注意深く観察する」ことを続けながら、一方で「それなしで暮らすための準備として、他のいろいろなことを試してみる」とした時、「よくなった」状態というものが、何が功を奏してもたらされたのか、よくわからなくなるわけなので。

今週、三週間ぶりの診察がある。勇気をだして先生に聞いてみよう。「これ、やめるために、どうすればいいですか」ということ。医療の分野では、実はこの「トランジション・マネジメント」みたいなものが、とても大切なのだろう。そしてそれは、ありとあらゆる「助け」の必要な現場に、共通していることだろうと思う。「自分の力でやっていきます」。そう言えたとき、人は嬉しい。そう踏み切れることができたとき、コバルトブルーは自然に還る。

***

「お薬」というのは、面白いなと私は思う。「お薬」という言い方や、それにまつわる概念とか、一連のこと。

例えば、とても難しい病気にかかったりしたとき、それをなおすことができるのがある特定のお薬しかなかったとした時、そのお薬を手に入れることは、いのちを救うこととほとんど同義となることだろう。ようやく手に入れたそれを身体にとりいれはじめたとき、人はそれが「効いてくれた兆し」に、なにより関心を向けるようにもなるだろう。「強い副作用の心配もあるけれど、それ以上に効果が高いのです」と言われたとき、その「効果」の方を信じたくなるのが、人間といういきものだ。

この、ちいさな塊の中に、ひとのこころに(或は身体に対して以上に)影響を与えうる力がこめられているなんて。それって「病」という現象と、実はとても似ているのではないかしら。

自分をわかりたい。
鏡をみる。
鏡の中の私は、本当に私なのかしら。
鏡によって
私は掴みやすくなったのかしら。
それともどこかに消えたのかしら。

***

本当は全然違うことを書こうと思っていたのに、何故だかこんな言葉の羅列となってしまった。

積み木って、三角とか四角とか、わかりやすい形の組み合わせの中に、人の数だけ宇宙を隠していて不思議。言葉は生きる積み木みたいに、わかっても全然わかったことにならなくておもしろい。

「ほんとうの大きさ」

この文章にそんなタイトルをつけたのは、「たいせつにする」ということと、それが、関係しているように思えたからだ。

本来の生態系で生きている動物をみている人間の姿。その写真をここに選んだのは、動物園を訪れたときの、あの、なんとも言えない罪悪感のような気持ちのことを思い出した。檻の中のコンドルの、その大きさやどれくらい飛べるかということを説明したプレートの向こう側にその生きものをみるときの、侵略者の側に立ったような切なさ。動物園の近くで暮らしていたときの、あの、わくわく感の向こう側にある、ひっかかった気持ち。

「ほんとうの大きさ」。あるいは「本来のおおきさ」みたいなこと。

コンドルの檻の前。この子から奪われた「いのちの有り様」を示したこの説明は、まるでいいわけみたいじゃない?本来のおおきさを返してあげたいって、思ってもいいよね?怖くて、思い通りにならないコンドルと、想像の中でしか会うことができなくてもいいよね?想像の中でしか会えなかった時代を、すごいなって、思ってもいいよね?

***

お薬を飲みながら、自分のうちに確かに秘められた力のこと、表現されなくて拗れたそれのことを考える気持ちが、私を「ほんとうの大きさ」という言葉に結びつけた。

「たいせつにする」という気持ちは、その、たったひとつの存在にしか感じ得ない大きさのことを、取り戻すことへの承認なのかもしれない。「お薬のために」よくなる自分ではなく、「なにかと触れ合いながらいまこうしてある自分」。ぞうさんのとなりでは小さくて、いっぴきのありんこの隣では大きな風な気持ちになる自分。いくらでも自在に、その大きさを変えられる「わたし」や「あなた」。

***

等身大の身体感覚を取り戻したくて、本当は今朝、合気道の稽古に参加したかった。貧血のような症状があり、その計画はうまくいかなかった。こうして文章に向かう作業は、頭の中で気のめぐりを確認する作業だ。そしてそれは、合気道に似ている。闘う自分と、闘いを手放した自分との遭遇。

「正直でない言葉を紡ぎながら何かを守ろうとしている」。偽りの主張をしている気持ちの悪さが、雪のような音をたてて、私の中に蓄積されている。温かそうでつめたく、軽やかそうで押しつぶすほどに重たく。擦り切れないために、その状態を確認する作業が、必要だと思った。

書き綴ることで、少しだけれど、見えてきたものがあるような気がする。

***

写真は3年ほど前、ケニアの自然公園で写した一枚。「おおきないきもの」が当たり前の顔をして過ごしている姿を、風や波を通じて受けとめたひとときだった。
生きていること[2013年05月10日(Fri)]
新月の夜です。新しいことをはじめるのにちょうどいい日ということで、こっそり初めてみました。あたらしいこと。人見知りなので、なれるまでは内緒にしておこうと思います。隠れて、こつこつ。

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昨日は少し不思議なことがあって。別のところでも書いたのですが、この場にも記しておこうと思います。「誕生」に関することです。

「女性手帳」というものの導入について、あちこちのニュースやブログで目にするようになりました。妊娠とか、出産のこと。「適齢期」という言葉。

それに対する批評じみたことをあまり口にするつもりはないけれど、私が等身大の人生の体験から言えることは、そういうこと、適齢期を過ぎても、まだ当事者になっていなくても、本当にとっても大切に真剣にかんがえて生きている人たちがいるってこと、想像する気持ちをもってほしいなということです。とても大切に思っても、いろいろな理由から手にすることができないこともあるでしょ?頑張ってといわれても、どうにもならないことだって、あるでしょ?そういうことを、黙って乗り越えていきている人たちがいること、ほんのかたすみにでも想像する気持ちをもつことができたら、もっと人は、やわらかな気持ちになれるのになって、思うのです。

制度や何かがある程度の基準を必要とすることはよくわかる。けれども同時に、ある一定の定規をつきつけられることがもっとも悲しいのも、いのちという存在です。いのちって、誰のいのちも同じようだけど、どれひとつ同じものはないでしょう?いのちには一つひとつかけがえのない魂が、こころが宿っている。生きようとする意志が宿っている。社会という秩序めいた入れ物のなかではわかりにくいかもしれないけれど、いのちというものは、いつだってサバイバルを続けているんだ。頭と、こころと、身体と、噛み合ないことだってあるけれど。

私は、いのちがそうやって一生懸命悩み、生きる道を切り開こうとする姿を、とても普遍的で個人的なそれを、あんまり簡単にひとくくりで伝えて欲しくないなと思う。

そして改めて、価値観というもの、尊い人生を尊く生きるための砦となるのもは、私たちが自ら築いていくものなのだよな、とも思いました。生きているこのいのちは、私のものであり、私を大切に想う人たちとわかちあうものであり、誰かわからない「誰か」に、簡単に傷つけられるものではないのだと思います。だからこそ、強さを持って生きることは必要。教育・啓蒙という「明るい」ものを前に。

さて。そんなこんなで、この関連の記事を読んで少し熱くなっていたこの日、横浜駅のホームに降り立ったわたしの目の前に、具合を悪くしてしゃがみこむ女性の姿がありました。ビニール袋に嘔吐していたその女性に「大丈夫ですか」と声をかけると、彼女は「大丈夫です、つわりなんです」と涙目で微笑んでこたえてくれました。それでもやはり辛そうだったので、私と、もう一人通りかかった女性とで少しだけ介抱して、「お大事に」といって分かれたほんの数分の間、私たちは不思議と、安心したような、あたたかく穏やかな気持ちをともにしていました。女性の時間だな・・・と、感じたひとときでした。

そんな出来事のあと、この日は久しぶりにオーラソーマのスクールで勉強会がありました。

私がオーラソーマを学び始めたばかりのころ、先生が授業で見せてくださったのが、このブログのエントリーに掲載した写真です。受精の瞬間。科学系の雑誌からの切り抜きだそうです。

私たちはたったひとつの細胞からはじまって、お母さんのお腹のなかで、長い時間をかけて人間のかたちになり、この世におぎゃあと生まれてきた。いまだって、忘れることなく呼吸し、血液を循環させ、体温を調節して、身体は生命の秩序を抱えてずっとずっと生き続けている。そのなんと神秘的なことか・・・。

この受精の瞬間の写真をみると、私は自然と、涙があふれてしまいます。そうか、私も、お父さんやお母さんも、みんな、みんな、たったひとつの細胞からはじまって、こうして大きくなったんだ。生きていくために必要な情報をちゃんと抱えて、こうして今も生きているんだ・・・。そう思うと、悩んだり苦しく感じることがあっても、大丈夫、いのちを信じようという気持ちを思い出せるのです。

だから時々、落ち込むことがあると、私はこの写真を眺めることにしています。

何歳までにどうするべき、とか、どのようにあるべきとか、そういうことを知ることにも、もちろんそれなりの意味があると思う。でもそれ以上に、いのちの尊さを知り、なによりも私たちが私たち自身を尊厳のある存在として認めあうことをもう一度思い出すことが、大切なのだと思います。

すっかり長くなってしまいました。果たして的を得たことを書けたかどうか定かではないですが、人生の通過点、今どんなことを感じているのかということを記録しておきたくて、書き留めたエントリーでした。

すべてのひとの人生に愛と祝福がありますように。
知らない人。[2013年05月09日(Thu)]
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東京に暮らす前のこと。「東京」っていうのは、東京駅のことだと思ってた。

大学に通うため上京することが決まり、東京の地図を買う。暮らすことが決まっている「武蔵境駅」のある中央線。それを真ん中に向かってまっすぐいくと新宿があり、それを下に降りたところに渋谷がある(今では懐かしい思い出だが、西日暮里をどうしてもよめずに、にしひぐれざと、と読んでいた)。

入試のためなんどか訪れたのでぼんやりとは分かっていたけれど、やっぱり奇妙な感覚がする。車社会で生きてきたので、新宿から電車で20分、なんて距離も、近いのか遠いのか、判断することができなかった。

武蔵野市の0422という局番を伝えると、地元の友達は「東京03じゃないじゃん」と言った。東京っていってもいろいろあるの、武蔵野市ってところなの、新宿とかにも直ぐ出られるの。そういっても、東京の中身があいまいな人たちには、それがどういうものか分からない。宇都宮からの電車は上野に向かう。上野と遠いの、新宿って?

・・・あれ、なんでこんなことを書いていたのだっけ。

そうだ、このエントリーに新宿の写真を選んだからだ。そうでなければ、こんなことを書くつもりはなかったのに。

シナリオという雑誌を読んでいた。そこには、かつてクラスメイトだった脚本家のインタビュー記事が掲載されている。静かに奥底を流れる情熱を秘めた人。・・・そうだったなと、今になって振り返る。

そこには、彼女がかつて先生から受けたアドバイスのことが紹介されていた。それは「事件じゃなくて、事情を入れなさい」という言葉だった。

シナリオを書いていると、つい、事件をたくさんちりばめたくなる。感情が動くし、映像としてもイメージしやすいし。そして、そういった表層的なトリックにはまり込むうちに、人物の方がどんどん疎かになっていく。「どこにでもいそうな誰か」が予定調和に事件に翻弄される話になる。

事情を入れる、というのは「人を注意深く観察しなさい」ということだ。どこにいても、何をしていても、その人らしさがにじみでる。つい、感情移入してしまう人になる。それくらい人間に真剣に向き合ってはじめて、アイデアをドラマへと紡ぎ上げてゆくことができる。

作話とは、登場人物と出会い、その人の持つ世界を、その世界で起こる変化を、発見していく作業だ。出会うためには、相手を「知りたい」と思う気持ちがあることが大切だ。「知ってる」と思ってしまうと、たくさんの角度から、その人をみることがむつかしくなる。「知ってる」ことに安心したくなると、そういう傾向が強くなる。

このエントリーのタイトルに「知らない人」と書いたのは、人との出会いを深めたい時、おまじないのように思い出す言葉に、それをしようとしているからだ。

「知っている人」。ともだち。かぞく。パートナー。

つながる人が増えた分だけ、知らない人が増えるといい。そうすると世界に、たくさんの知らない地図が広がっていく。確かめるまでわからない、確かめてもなお定かではない世界とまた、「おはよう」と言って出会っていくことができる。

たくさんの色彩や線たちは、きっとどこかでつながり、すれちがい、思いがけぬところで交わり、思い思いに変化するだろう。生きているとは、とてもダイナミックなものなのだ。みえなくても、わからなくても。

思えば自分の身体のことでさえ、その全体のことを、私たちは知らない。眠っている間にも動きをやめない心臓や呼吸、いろいろな細胞たちのこと。リアルな夢を見て目を覚まし、またすぐその記憶が遠のいていくことの不思議。

東京も、その人も、私も。知らないけれど、よく知っている。

そして、「知っている」という言葉を使うときの自分については、せめて、自覚的であれたらいいなと考えている。
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