せいたかのっぽ[2012年08月26日(Sun)]
美しい風景をみました。とある老人福祉施設でのことです。
それは、70代くらいのおじいちゃんが90を超えるおばあちゃんにやさしく語りかける姿でした。ご自身も体調がすぐれないといっていたその方が、自分よりもずっと年が上で、必死に生きているそのおばあちゃんの姿を、放っておけずに近くに寄って眺めている。傍にいくと「偉いよねえ、こんな風に一生懸命に生きているのだものね」と微笑みながら、おばあちゃんが何か口にするのを「言ってること、(自分には)通じるんだ」と少し得意気に私に教えてくださいました。
そのおじいちゃんは、そこではスタッフの方からの「ケアを受ける人」でしたが、同時に「ケアする人」でもありました。そして「おじいちゃん」でありながら、同時に「ひとりの息子」のような・・・あるいはもっと素朴に「ひとりの人間」という顔をしていらっしゃいました。
私たちは対象に何らかの定義を与えてしまうと、ついうっかり、その方の持つ生命の個性のことを見失いがちです。「おじいちゃん」「おばあちゃん」。そのお一人おひとりにどんな個人的なものがたりがあるのかしらと、不思議な気持ちになって同じ空間に生きることはとても新鮮な体験でした。
私はカウンセリングのお仕事をしながら、つまり「生きる」ということに向き合うことを中心において暮らそうと決めてから、カウンセリングなどという仰々しい「サービス名」を全面に出さなくてもいい、むしろさりげなく「分かち合える人」になるためにはどうすればよいのだろうと自分に問いながら過ごしています。あまり立派な看板も実績もないかもしれない。けれどもこんな私にも分かち合えるものは確かにあるからです(そして、それは誰にとっても言えることと断言します)。
今日は久しぶりに近くの教会の礼拝に参加し、牧師さまのお話―希望をもって生きるということがテーマでした―に耳を傾けて参りました。絶望の淵にあり信じるものを見失った時に、それでもなお希望を見失わないで生きるとはどのようなことを言うのか。聖書に記されたことや哲学者の言葉、ご自身の体験から感じたことを共有くださった牧師さん。ご夫婦で牧師さんをされていて今日は奥さまのご担当でしたが、この方の引用される身近なエピソードには正直で人間らしい等身大の姿があって、私はいつもそこに一生懸命さを感じ、勇気をいただいています。
お話の余韻の中で、私は自分の口癖に変化があることにふと気づきました。「素敵」という言葉。気づいたらそれが心の中に自然と暮らしているのです。以前はもっと、どちらかというと人の粗を探して「こうすればいいのに」ということを好んでいたように思います(そのように批判的であることが「いかにも賢そうに」思えて)。けれども今は、あんまりそういうことには関心がなくて「ここにある素敵なことに、今日の私はどれくらい気づけるだろう」とわくわくしながら現場に向かうのです。誰が教えてくれたのかは知らないけれど―もしかしたらことりの声とか、あるいは美しい夕陽のせいかもしれないけれど―「素敵」を習慣として思い起こさせてくださった存在に今日は感謝をしようと思います。
写真は、2年ほど前に写した母校の小学校の校庭です。改めて見ると「『築山』ってこんなに小さかったんだ!」と驚いてしまうのは「あの頃」の私がちびっこだったせいでしょうか。背の低い私はいつも身長が高くなることが憧れでした。築山の記憶を辿りながら今になって言えることは、小さい分だけ大地は近い。土の香りや小さな生きものがはって歩くのがよく見えたなということです。当時より少しだけ「せいたかのっぽ」になった今の私がもしあの頃の自分に会いにいけるなら、そんな風に笑って、頭を撫でてあげたいと思いました。
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。