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"よきクライアント"という演技[2017年02月22日(Wed)]
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何かしらの講義、コース、あるいはセッションを受けるにあたり、ときどき、「よき生徒・クライアント」たろうとしている自分がいることに気づく。

この場合の「よき生徒・クライアント」とは「こまっていて、わかっていなくて、あなたがいたのでクリアになりました、ありがとうございます」という一連のテンプレートを礼儀作法として卒なくこなす人という意味。

(これは:講師たる人のうちに、本人が隠そうとしている承認欲求を感じとった時に、そこに自然にチューニングされてしてしまうことだったりする)

少し立ち止まって考えると、これって、表面的な明け渡ししかしていないし、さらにいうと、講師なる人を本気には信じていないということなのかもしれないのだけれど。

この、よきクライアントであることを求められる感覚を見つけたとき「もう、リピートはいいな...」と思う。

(そして、そういう感覚に陥る自分を、打算的だなと責めたりする)

....と。こういったことも、NVC的に、あるいは他のアプローチをしても、クリアにできることなのだってわかる。そのパワーは、確かにある。

けれど、同時に。

ひとはそんなに「わかっている人」と話していて、楽しいだろうか。言い換えると、深くで結びついた感覚を感じ得るだろうか。

私はそれに対しては、少し疑問を思っている。

なぜって。人が理解しあうということは「context:文脈」の理解ということがとても大きな意味合いを持っていて。あんまりすんなり「わかっている人」とは、文脈の共有が難しいような気がしてしまう(そういうのをすっ飛ばして、綺麗に処理されちゃう感じ。ある種の"都会的"処理感)。

理解しあえない、もどかしく、なんとも噛みきれない時間を共有することも、大事ではなかろうか。
...人として、人間らしさを持ってして、本当につながろうとするなれば。

ひとは、プロセスにおける発見楽しむ生きものでもある。そして、人が本能的に持つ生命的な純粋さを、私は尊重したい。

(学ぶ、学んでいない、といった概念が到底及ばないところにある"純粋"な生命の力を)

だから。自分はできるだけ、できるだけ、メソドロジーなるものは、さりげなく空気のような存在にしておきたいと思っている。

そして、学びについては"共有の美学"という意識を大切に持っていたい。

そのようなことを考えて、4月から人生のために"人に出会う"時間をとろうと思っているのだけれど、考えてみたら、それ、先延ばしする必要はないよね。
Posted by makiko21 at 05:21 | NVC | この記事のURL
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