まちとコロッケ[2015年07月20日(Mon)]

由比ヶ浜通り、
住所で言うと長谷のあたりの片隅に
昔からの、コロッケ屋さんがあった。
種類も豊富で、
テレビ番組や雑誌でとりあげられ
有名人も何人も訪れているらしい、その店。
いつか買ってみよう、と
「いつかショップ」のひとつにしていたら
ある日、突然
「今日で閉店」という情報を耳にして、びっくり。
一度もお客さんになったことがないというのに
不思議だけれど
「あのコロッケ屋さんがある」という事実が
重要だったことに、気づく。
***
あれからもう、随分経つというのに
お気に入りの小径のことを話す時
私はいまも
「あの、コロッケ屋さんだったところの隣」と
その場所のことを言葉にする。
あの、コロッケ屋さんだったところには、
いま、マンションが建築中。
間も無くして、それが完成すると
もしかしたらそこにコロッケ屋さんがあったことは
忘れられていくのかもしれない・・・
けれど
「あの、コロッケ屋さんがあったところ」という
土地のアイデンティティの大切さは、
前にも増して、大きくなるような気がする。
コロッケ屋さんがあって
閉店の日、たくさんの地元ファンが訪れて
本当に閉まっちゃったんだ、、、とか
え、閉まっちゃったの、とか話したあの記憶のことを
共有しているということは
ここに住む人たちにとって、
すでにまばゆい
宝ものであるように感じるから。
***
そうそう。
いまから3年くらい前まで
由比ヶ浜通りに
おじいちゃんがひとりで頑張っていた
八百屋さんがあった。
狭い空間に
ダンボールをたくさん重ねて
大根やキャベツも
半分に切って、売ってくれたり
ちょぴっとおまけを
してくれたりする。
「おいしいよう」といって。
あそこも、ある日
閉店しました、という張り紙を見つけたときには
本当に寂しかった。
腰がいたくてねえ、っていいながら
笑顔をたやすことなく
「まご」みたいな小さな近所のこどもたちが
たくさん訪れる場所
おじいちゃん、どうしているのだろう。
「思いだす」ときに生まれるという
やさしい光が、届きますように。
***
まちには、コロッケ屋さんが
必要なんじゃないかと思う。
油じみた、すこしべたついた
匂いをほのかに振りまいて
通りがかる人が、思わず「おっ」と
予定外の買い物をしてしまうような
「食べてく?」と聞かれ
ついつい
その場でほふほふ、してしまうような。
小銭を手のひらで数えて
その内何枚かを「はい」といって
手のひらの上にバトンタッチするような
温度とか汗が、どうしてもちょっと
混ざってしまうような
そういう、やりとりの
起きる場所が
必要なの、まちには。
***
東北への出張からもどり、
東京駅に降りたら
空気は、海の匂いがした。
ああ、ここは
海と、とても、近かったんだ。
高層のビルがいくら並んでも
そこからすこしもみえなくっても
押し寄せる海を
ひとは遮断することはできない。