外の僕 内の君[2012年08月09日(Thu)]

胸がずしんと、熱くなる感覚を覚えました。
私が「あなた」と思ってみているのは、実は「私」なんだ・・・という体験。ラハシャ・クラフト博士のカウンセリングの授業を受けた日の記憶です。
「今、あなたが向き合う必要があると感じている人をひとり心に浮かべて・・・」。その相手と、自分とをイメージするボトルを選び、椅子をふたつ用意してそれぞれの気持ちになって語りかけてみるというそのワークで私が選んだのが、この写真に写された2本です。「風の中のキャンドル」そして「ドルフィン」。
今日、オーラソーマ探求のクラスを受けながらふと、このボトルのワークから紡ぎ出された言葉たちのことを思い出しました。その言葉たちは「思考」というよりは心の奥底に身を潜めていた感情で、はじめはがちがちに縮こまってまるで惨めな様子をしていましたが、ひとたび解き放たれてみるとまぎれもない透明な愛情の結晶のようでした。
「どうして、そんな風に思ってしまうの・・・?」
対象に向け心に想い浮かぶ言葉を口にしているうちに、途中から私は、それらの言葉がすべて自分にそのまま返ってくるものであることを感じはじめました。答えを決つけてながら問いを投げるのは不思議です。けれども人は、そういうことをしてしまう。「どうしてあなたは私をわかってくれないの」。突き詰めるとそれは、私が自分に投げた言葉でもありました。
そんな風に、私が素直に向き合えないでいる大切な家族・・・。今日はどういう訳かお母さんとの記憶を思い起こさせる会話になんども出逢い、忘れていたいくつもの風景のことを思い出しました。その風景は胸の中に音をたてて蘇り、当時には気づくことのできなかった幾つもの光の破片を私の心へ届けにきているようでした。
「風景」というものについて、ある人と話したことがあります。その人は「風景」という言葉をとても大切に感じている人でした。それなのに私は「あなたの前にはただ通り過ぎていく風景があるだけ」とその人にとても意地の悪いことを言いました。今こうして振り返ってみると、風景から目をそらしていたのは私の方だったかもしれません。綺麗なものだけをみたくて、美しさなんてぞっとするもの、認めることが怖くて。「あなたはこんな人」と決めつけて「私の役割」を定義してしまえば、私が揺るぎなくなるような気がして落ち着くのだと考えていたのかもしれなかったです。
「外の僕 内の君」
じんわりと身体にしびれる気持ちが伝わる夜。瞳を閉じて、雨上がりのそわそわとした風が通りぬけるのを膝のあたりで感じています。