分かち合いのこと。[2013年12月22日(Sun)]
ひさしぶりに、日曜礼拝に足を運びました。
クリスマスが近づいていて、そのことが教会から遠のいていた人たちとの再会の機会を与えてくれるのだと、牧師さんは嬉しそうにいいました(そして、その言葉は、私を後ろめたさから救ってくれます)。
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「クリスマス、おめでとう」
この教会を訪れるようになってから知ったこの言葉が、私はとても好きです。
聖書のものがたりを通じ、人のこころに触れ、私たちの心の奥底深いところを分かち合い、日常つい忘れてしまいがちである愛の懐の深さを思い出す。キリストの降誕は、そのような静かで慎ましやかなこころの対話を象徴するメモリアルなのではないでしょうか。
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クリスマス礼拝と名付けられた本日の礼拝で紹介されたのは、ルカによる福音書第15章に紹介される『放蕩息子』の一節でした。
父親から財産を等分に分け与えた兄弟のうち、弟は、財産を手にするや、家をでて、放蕩の後にそれを全て使い果たす。やがて豚の世話人となって、その餌で飢えを凌ぎ暮らすことになるが、最後には父親のもとへと戻る決心をする。
「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」
そう伝える息子を、父は哀れみを持って迎え、最上の着物や子牛などを持ってもてなす。
「このむすこは、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」。
これを、畑から戻ってきた兄が目撃し、長年誠実に仕えてきた自分は子やぎ一匹も授かったことがないのに、何故放蕩した弟にはそのようなもてなしがあるのかと伝える。
それに対し、父はこう応える。
「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」
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「もしも、弟が戻ってきたときに、出迎えたのが兄であったならば、どうだったでしょう」。説教の中で、牧師さんがこのように問いかけました。私たちが心の奥で、密かに願っているのは「赦しを乞われること」ではないでしょうか。もしも兄が直接弟から謝罪され、赦しを乞われていたら、ましてやあなたの雇い人の一人としてくださいなどと言われていたら、悪い気もせず、受け入れたのではないでしょうか」
兄の存在があることで、このものがたりは、なんと深いところまで、愛について私たちに考えることを求めるものとなったことでしょう。
人の心の穏やかさ、赦すこと、受け入れること、あるいは絶対の愛への信頼は、他者の存在によってこんなにも揺るぎうるものなのだということを気づかされ、はっとさせられたひとときでした。
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「となりの、誰か」の存在を抜きにして、信仰というものは、愛というものは、語りうるものなのでしょうか。
放蕩息子に関して、オランダの画家、レンブラント・ファン・レインが作品に表現しているそうです。『放蕩息子の帰還』。それだけではなく、結婚して間もなくの時期に描いた自画像にも、『放蕩息子』の作品の中に位置づけられているとのこと。光と闇の作家は、眼差しの向こうに、何を見つめていたのでしょう。
描かれていないところにメッセージを追い求める。創造主はつねに、そういったことを好まれるように思います(かくれんぼ・のように)。
「となりの、誰か」。それは、なおも認められたいと病まないこころの奥底の欲求に、気づかせてくれる存在のことかもしれません。もしかしたら(出来ることならなかったことにしておきたい)自分のことなのかもしれない。
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いま、世の中で起こっているいろいろのことがらは、「分かち合い」という言葉で(その質的分類により)整理されうるのではないかと、なんとなくながら核心的に感じています。何故なら「分かち合い」は、無意識のうちに、普遍的に起こっている現象だから。
自分の真ん中にあるものを見失わず(つまり、決して奪われずに)分かち合うことを通じて、浄め合ってゆくこと。私たちが心の奥底で望む(調和)とは、つまり、そういうものではないでしょうか。
(写真は、どこかへとつながる、段と手すりを持った道。空気の冷たい夜に写しました)