わたしと居場所[2013年09月13日(Fri)]
出かけることの多い日々です。
今週は初めて、山陰地方に足を踏み入れました。鳥取、そして島根へ。あっというまの二日間でしたが、ご縁がご縁をたぐり寄せ、次々と道が拓けていったのは、さすが、この土地の神様の縁結びのお力なのだと感じ入ります。うまくゆく、というのは「ひるまずに、あかるく、かろやかに」ということなのかもしれないと、この旅を終えて思いました(出張、だけれど、旅と呼びたくなるような時の重なりでした)。
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「ほんの少しでも、変えてみるといいのにね。いつもの自分の日常を」。
それは、例えば、目を覚ます時間、着る服の色、口にする言葉、なんでもいいのだと、とある方から伺いました。そういう、ちょっと「いつもの自分と違うこと」をするだけで、自分の知らない自分、日常にであうことができる。そうしたら「どうしたらいいかわからない」なんて言葉、すがるように、他人に投げつけなくても、大丈夫になる。
そういうことを、考えてか、考えていなくてか。
羽田から鳥取に向かう飛行機の中で、どういうわけか「紙おむつ」のことを考えていました。紙おむつ。していたら、たしかに、おもらししてしまっても、平気かもしれません。けれども「あの、トイレにいきたくて」と尋ねたときに「でしたらお客さま、紙おむつを履いておけば、安心です」なんていわれたら、果たしてそれは安心なのでしょうか。
福祉士をしているともだちから、おむつを履いてお漏らしをする、という研修のようなものの話をきいたことがあります。「大丈夫よ、漏れたりしないから」。例えば足を痛めたりして歩けなくなったひとに、おむつを履かせて、そう言ったとしても、実際におむつのなかに用を足すのは、なかなか、できることではないのだそうです。心が、頑にそれを拒む。心と身体が、一致団結して「私」というアイデンティティを形成していることを、思い知るのだと、そのともだちはいいます。「私の行動規範」は、こころを身体が決めている。機能のことでも論理性のことでもなく、「私」という意志が「私」の行動を導いてゆく。
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私は最近、合気道をやりながら「私ってどこにいるの?」ということをとても不思議に考えています。この手を力ませるのも、足をこんな風におりたたむのも、激しい息切れも気づかぬほどに夢中になるのも、考えごとごとをしてしまうのも、全部、ぜんぶ、自分。でもいつ、誰が、そんな風にせよと私に決めたのかわからない。「私」は「私」の身体のどこにでもいて、どこでもつかみきれなくて、私という言葉や概念を、つくりだしたりもしている。
誰にも気づかれぬように、密かに、紙おむつをして一日を過ごしてみたとします。それをはいていることの目立たぬ服装をして、何気なく電車にのり、当たり前のようにまちの中を歩いてみる。
「大丈夫だよ。それ、つけているから、困ったときがあっても」
そういわれたところで、私は本当に「大丈夫」なのだろうか。はたしてその「大丈夫」は、私を安心させる「大丈夫」なのだろうか。
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やけにいのちめいた空間になんども遭遇したためか、どうにも、身体のことが気になってならない山陰での日々でした。
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「大丈夫、夜中、トイレに起きようとして転んでしまったりしないように、おむつ、履かせておいたから。お漏らししても、大丈夫だからね」
こころの中に、その言葉が、ひとりぼっちの暗闇のなかできいたみたいに、繰り返し大きく響いてきます。
じっくり、ゆっくり。細胞のひとつひとつに意志を向けているうちに、いつか私も、「私」の居場所を突き止めることができるのかもしれません。