触れあう。[2013年06月24日(Mon)]
身体に疲れがたまっていたので、ひさしぶりに身体をほぐしにいきました。タイ古式マッサージ。鎌倉にあるそのお店をしったのは、今から6年くらい前のことです。サロンで働くことに憧れて、アロマセラピーを勉強したり、いろいろな施術を受けにいったりしていたあの頃。偶然mixiで、鎌倉にお店をオープンするという、同じくらいの年齢の人を見つけたので「いちど、お邪魔してよいでしょうか」と訪れたことがきっかけでした。そのお店はとても評判がよく、現在では3つの店舗を構えているとのこと。当時お会いした方店長さんはいらっしゃらなかったけれど、くつろいだ雰囲気はそのままに、とても懐かしくなりました。
「触れ合うって、とても大切なことなんですよ」と、とあるマッサージ師の方から伺ったことがあります。身体を触れ合うということは、生きていく上での支えとなりうる。身体を解すことは、心を解すこと、つながりを取り戻すこととも、関係があるのだと。
動物園で飼われているウォンバットが、動物園がサイクロンで閉鎖されている間、お客さんと触れ合うことができなかったためにうつになってしまったという記事を読んだことを思い出しました。そうだよね。犬だって猫だって、触れるととろりとなるものね。
触れることの力にはっとさせられるのは、赤ちゃんに指を握られたときです。あの、か細い力強さの中に、生きる意志が通っている。小さく触れたその場所でエネルギーが通い合うことを、とても不思議に思うのです。最近は、お年寄りの方をお手伝いするときに、そういう強さを感じます。折れてしまいそうなほど細くて皺だらけの手に、ぐっと力を込めて、私の腕を握る強さ。互いの存在を確認する、原始的で、間違いようのない、その圧力。
理由を説明するまでもなく、触れ合う人生がいいです。
だから、そういう人生を、確かに積み重ねてゆくのだと、私はこころに決めている。
平和というかけがえのないギフトを享受するって、そういうことではないかしら。「決して同じ過ちは繰り返しませんから」と刻まれた慰霊碑の言葉は、そういった尊さをみつめるまなざしじゃないかしら。
近頃は、以前よりもひとと触れ合うことが増えた。だから、それをうしなったら、私もウォンバットと同じように、ケアが必要と伝えるでしょう。maybeではなくwill。多分ではなく、選択として。
写真は、下北沢の喫茶店でいただいたカフェオレ。女の子のイラストは、反対側に座った友人にはライオンかなにかにみえたようでした。