ほんとうの大きさ。[2013年06月05日(Wed)]
ここのところ、朝と夜にお薬を飲むことが習慣になっている。
最初のころは飲むことを忘れて、何日分も残してしまい、「2週間分マイナス忘れた分」の処方箋を毎回先生に書いていただいていた。「お薬の効き目はどうですか」。お医者さんにそう聞かれてもあんまりピンとくるものがなく「強い副作用のようなものはないようです」とだけ答えて、「もう少し続けて様子をみる」ことにする。直ぐに効果が確認されるものではないから、忍耐強く待つことが大切みたいだ。お薬のひとつはコバルトブルーの色をしていて、自然界で見るそれとは随分異なる様相で、存在感をアピールしている。
お薬を飲むのは、本当はあまりしたくない(だって、とても大切な人生のできごとにある種の危険性を伴うかもしれませんと、但し書きされているのだから)。だから、それなしでも大丈夫な自分を、同時進行で整えていきたいと思う。けれど、そこにはある種の矛盾がある。つまり、「お薬が効くか注意深く観察する」ことを続けながら、一方で「それなしで暮らすための準備として、他のいろいろなことを試してみる」とした時、「よくなった」状態というものが、何が功を奏してもたらされたのか、よくわからなくなるわけなので。
今週、三週間ぶりの診察がある。勇気をだして先生に聞いてみよう。「これ、やめるために、どうすればいいですか」ということ。医療の分野では、実はこの「トランジション・マネジメント」みたいなものが、とても大切なのだろう。そしてそれは、ありとあらゆる「助け」の必要な現場に、共通していることだろうと思う。「自分の力でやっていきます」。そう言えたとき、人は嬉しい。そう踏み切れることができたとき、コバルトブルーは自然に還る。
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「お薬」というのは、面白いなと私は思う。「お薬」という言い方や、それにまつわる概念とか、一連のこと。
例えば、とても難しい病気にかかったりしたとき、それをなおすことができるのがある特定のお薬しかなかったとした時、そのお薬を手に入れることは、いのちを救うこととほとんど同義となることだろう。ようやく手に入れたそれを身体にとりいれはじめたとき、人はそれが「効いてくれた兆し」に、なにより関心を向けるようにもなるだろう。「強い副作用の心配もあるけれど、それ以上に効果が高いのです」と言われたとき、その「効果」の方を信じたくなるのが、人間といういきものだ。
この、ちいさな塊の中に、ひとのこころに(或は身体に対して以上に)影響を与えうる力がこめられているなんて。それって「病」という現象と、実はとても似ているのではないかしら。
自分をわかりたい。
鏡をみる。
鏡の中の私は、本当に私なのかしら。
鏡によって
私は掴みやすくなったのかしら。
それともどこかに消えたのかしら。
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本当は全然違うことを書こうと思っていたのに、何故だかこんな言葉の羅列となってしまった。
積み木って、三角とか四角とか、わかりやすい形の組み合わせの中に、人の数だけ宇宙を隠していて不思議。言葉は生きる積み木みたいに、わかっても全然わかったことにならなくておもしろい。
「ほんとうの大きさ」
この文章にそんなタイトルをつけたのは、「たいせつにする」ということと、それが、関係しているように思えたからだ。
本来の生態系で生きている動物をみている人間の姿。その写真をここに選んだのは、動物園を訪れたときの、あの、なんとも言えない罪悪感のような気持ちのことを思い出した。檻の中のコンドルの、その大きさやどれくらい飛べるかということを説明したプレートの向こう側にその生きものをみるときの、侵略者の側に立ったような切なさ。動物園の近くで暮らしていたときの、あの、わくわく感の向こう側にある、ひっかかった気持ち。
「ほんとうの大きさ」。あるいは「本来のおおきさ」みたいなこと。
コンドルの檻の前。この子から奪われた「いのちの有り様」を示したこの説明は、まるでいいわけみたいじゃない?本来のおおきさを返してあげたいって、思ってもいいよね?怖くて、思い通りにならないコンドルと、想像の中でしか会うことができなくてもいいよね?想像の中でしか会えなかった時代を、すごいなって、思ってもいいよね?
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お薬を飲みながら、自分のうちに確かに秘められた力のこと、表現されなくて拗れたそれのことを考える気持ちが、私を「ほんとうの大きさ」という言葉に結びつけた。
「たいせつにする」という気持ちは、その、たったひとつの存在にしか感じ得ない大きさのことを、取り戻すことへの承認なのかもしれない。「お薬のために」よくなる自分ではなく、「なにかと触れ合いながらいまこうしてある自分」。ぞうさんのとなりでは小さくて、いっぴきのありんこの隣では大きな風な気持ちになる自分。いくらでも自在に、その大きさを変えられる「わたし」や「あなた」。
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等身大の身体感覚を取り戻したくて、本当は今朝、合気道の稽古に参加したかった。貧血のような症状があり、その計画はうまくいかなかった。こうして文章に向かう作業は、頭の中で気のめぐりを確認する作業だ。そしてそれは、合気道に似ている。闘う自分と、闘いを手放した自分との遭遇。
「正直でない言葉を紡ぎながら何かを守ろうとしている」。偽りの主張をしている気持ちの悪さが、雪のような音をたてて、私の中に蓄積されている。温かそうでつめたく、軽やかそうで押しつぶすほどに重たく。擦り切れないために、その状態を確認する作業が、必要だと思った。
書き綴ることで、少しだけれど、見えてきたものがあるような気がする。
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写真は3年ほど前、ケニアの自然公園で写した一枚。「おおきないきもの」が当たり前の顔をして過ごしている姿を、風や波を通じて受けとめたひとときだった。