ただ、純粋な気持ち。[2013年05月02日(Thu)]
「純粋な気持ちってなんだろう?」とうたた寝中にふと思い浮かんだので、せっかくだから考えてみました。
純粋な気持ちのイメージ・・。あ、そうだ。小さい頃、河原で子犬を拾ってきたときの、あの感覚!
あれは、家のすぐ近くの河原で、段ボールにいれて捨てられていた三匹の子犬を見つけたときのことです。いつもは寄り道をして1時間も2時間もかけて帰る「帰り道」を、その時は、子犬のことが気になって仕方がなくて、授業が終わると一目散に走って家まで帰りました。最初のうちは家で飼うことを親に認めてもらえなくて、こっそり牛乳を冷蔵庫から持ち出し、まだ目もあいていないその子犬たちに、指をつかって飲ませて・・。こうして書いていると、今でも指先にその時の感覚を思い出すことができます。
あの、大好きで大好きで仕方のない気持ちは、確かに純粋だったなあ・・・。
そうして懐かしい風景を思い浮かべていると「時間」という言葉がふと頭に浮かんできました。時間。子犬たちと共有した、時の足跡のこと。
コロ、ベル、ペロと名付けたその子犬たちはやがて大きくなったけれど、身体が弱かったペロは、まだ小さいうちに死んでしまいました。コロはよそのうちにもらわれていくことになって、ベルが私の家に残ることに。ベルはお利口な犬で、散歩をする時に、坂道を上るときには私たちを引っ張っていってくれっるし、降りる時には私たちが手綱の力にまけて転んだりしないようにと、先に下にいって待っていてくれました。「ありがとう」というと、手をだして「お手」で答えてくれて。そこで、私たちは握手を交わして、喜んで。
そうやって一緒に過ごしているうちに、ベルはどんどん年をとり、あんなに小さかったのに、私たちを追い越しておばあちゃんになり、先に冷たくなっちゃった。土に、戻してあげなくちゃならないようになっちゃった。うちの人(大人の誰か・・・)が、確か、穴を掘って、枇杷の木の下に埋めました。「犬は人間より寿命が短いから」と言われていたけれど、それでもやっぱり、それはとても悲しいことでした。小さいころ犬が苦手だった私が、子犬の頃から育てていたベルのことは、大きくなっても大好きだった(飛びつかれると、すこし怖かったけれど)。ベルがいなかったら、いつ、大きな犬のことも好きになれたことかわからない。それくらい、とても、大切な存在でした。
同じように時を分かち合っていても、人によって、時の感じ方は違うのだろうなと思います。その違いは、犬と人間のようにそもそもの成長スピードや寿命の違いがはっきりしていると納得しやすいけれど、人間同士の場合は、時間のずれが、すこし寂しくなったりもする。すれ違いっていうのは、そういうところから生じたり。
あわせようと思ってそうできる「時」は、生きているうえでは、ほんの一部なのかもしれないなと、私は思います。時は自然そのもので、いのちはその中で展開されてゆく。時間は記憶に刻まれている。
純粋さの中で生き続けたいと思ったら、時と闘わないで、思いきり喜んで、思いきり悲しんで、かけっこをしたりつまづいたりすることを、自分に許してあげることが、きっと大切。
自分を愛する、ケアするというのは「私の哀しみがどこにあるのか、私は知ってるよ」ということなのかもしれないです。
すると「わかってよ!」という外に向く気持ちは、自然と穏やかになっていき、純粋な静けさがふたたび、こころと身体を満たしていくのです。

