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eyes to me.[2013年04月29日(Mon)]
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高く遠へと広がる青空。
久しぶりに、日曜礼拝にでかけました。

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私たちはつい、外側を立派にし、形式の上で清らかであろうとするけれど、内側から湧きいずるものが外側ににじみでてくるのを、隠しておくことはできない。そして、外側も内側も、その両方が神様がお与えになってくださったもので、「私」の所有物ではない。

そんなことなのかしらと、自分なりに解釈しながら受けとめた言葉たち。

聖書においてイエス・キリストと表現されるものは、別の言葉でいえば「宇宙」のようなものではないかと思います。宇宙はたくさんの名前を必要とし、そのことをゆるすほどに寛大で愛にみちた存在だから。「神秘の秩序」といってもいいかもしれない、例えみえなくても確かにそこにある、形ばかりでは読み解くことのできないつながり。

「私」という存在について、牧師さまがこんなことを話してくださいました。結婚をする時に、お母さんが、お嫁さんにそっと打ち明けたというエピソード。

その牧師さまは、生まれてまもなく洗礼を受けたのだそうです。その時、お母さまはまだキリスト教徒ではなく、洗礼を受けていませんでした。そんなこともあり、お母さまは「ああ、私はこの子を神様にとられてしまった」というような気持ちになったのだと言います。「もう、私のものではなくなってしまった」と。けれども後になって、「そうではない、もともと私のものではなかったのだ」という気持ちが自然に湧いてきたのだそうです。私も、あなたも、神様からいのちを授かった存在である。誰が所有するでもない。救い主、イエス・キリストのものなのだ。

それが、生きているときも死ぬときも、私たちのただひとつの慰めとなっていることなのだというのは、『ハイデルベルク信仰問答』の問1に記された言葉です。

誰かを本当に大切に想うとき、その存在に対しなにか働きかけをしたい時、あまりに人を「あなた」にしてはいけない。私が「私」を主張しすぎては見失う。

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「見えていることはほんの一部なのだ」と思った時、そして、そのほんの一部を頼りにいきている自分に、謙虚さを持って受け入れ、潔く執着を手放す時、私たちは自ずと、私たちを導き・守る、より大きな力の存在を感じ取ることができるようになるのでしょう。振り回されず、争わず、真に強い存在としての自分に、向き合うことができるのでしょう。

教会と、合気道の道場と。どちらも私に、フォーカスを合わせること、防御の力を抜くことを教えてくれているようです。

合気道をはじめて、「思考の及ばない領域」というのをよりはっきりと自覚できるようになったことが、私にとってとても大きな学びだと感じています。だってそれがわかったら、力んでも仕方ない、論理武装しても仕方ないといって、手放し、委ねる以外になくなる。けれども決して忘れてはいけないのは、自分の中心のこと。

私に向ける目を変えるということ。それには先ず、私を見えるようになるということ。それを、「闘わないで」行なうこと。

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写真は由比ケ浜海岸での凧揚げのようすです。近くにいってびっくり。あげていたのは、おじいちゃんたちでした。元気を、底からもらった気分です。
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