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生きる(死する)こと[2012年12月01日(Sat)]
20121123日本臨床死生学会.jpg

いのちのことについて、考えることを少しずつ記していこうと思います。以下は、忘れないための、メモ。

・記憶の伝承のこと(あるいはアダルトチルドレンということに関連して)
・留学中にアラスカで聞いた近代文明化と先住民族の若者たちの話
・(アラスカで)ホームステイ先の家族から教えてもらった、信仰に関連した(生命を奪う)人権侵害のこと
・いきるということと、こころの深い部分の関係
・「患者」にむけられた「医師」あるいは「カウンセラー」による無自覚(あるいは意図的な)言葉の暴力のこと
・「お薬をのんでいれば、時期に、いずれ」あるいは「生い立ちをたどるマニュアル的な」処方箋への疑問
・恐れ、あるいは愛情のこと
・平和のこと

「死」のことを以前よりも強く意識するようになったのは、ひとつには「祈る人びと」の集う場所に足を運ぶことが増えたからかもしれません。

時折通っている教会。そこには人として生きる故のはかなさ、切なさのようなものがあって、あるいは通っている方々がご高齢であるということも影響してか、人が生きるということの淵にあるようなものを、呼吸とともに吸い取ってしまう。死、あるいは「弱さ」を前にして自らの人生の前にたつ人びとの、その心のうちにともる、静かな祈り。

それからもうひとつには、近づく「死」に向かう時間を、人の身体に意識する機会が増えたということもあると思います。例えばそれは、お年を召した方々と近くに生活することがあって、ある時元気であった方が、突然に様子を変えて、その身体に通うエネルギーの勢いが激しく衰えるようなことに遭遇した時。あるいはそこまでとはいかなくとも、老いを通じて自らのものとなる「身体性」というものを、意識せざるを得ない体験から。

「生きる」ということは「死すること」とともに考えられるべきこと。そういうことを意識せずに暮らしてきたこれまでの自分を、とても危うく感じました。

以下。今朝書き留めたメモです。いつか(あまり遠くないいつか)、誰かが振り返ることがあるような気がして。

死する・そして生きることを私は、「怖れに導く言葉」ではなく「信頼と愛の心を持って」綴ってゆけたらと思います。

写真は、先日参加した日本臨床死生学会の大会の会場より。銀杏色づく、肌寒い一日でした。

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昨日、DさんやRと言葉を交わして
未来に見据える先のことを思い、いのちのことを考えるうちに
"時代がどのような死を内包しているのだろう"
という問いに思い至った。

死についての暗黙の了解が、
生きるための道をつくる
無言の合意事項になっているような気がして。

この時代に転げ落ちている死の了解とはなんなのだろう。
そんなことを考えた。
死のある風景を訪ね歩くことから、
いきる世界のつながりが見えてくるような気がする。
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