まなざしを変えること(2)[2012年12月01日(Sat)]

(国立オリンピック青少年記念センターのカフェ)
さて、ESD地球市民会議2012の「貧困撲滅と社会公正のための教育」のテーマ会議にて私がお話させていただいたことについての紹介です。
このような大きなテーマに、さらに「生物多様性と女性の視点から」というご依頼をいただき、正直なところ私の乏しい知見からどのようなお話ができるかと、大変恐縮していました。その分野の専門家でもありませんし・・・。けれども、たしかにこのキーワードにひかれるものを私は感じている。それは、何だろう。そんな気持ちから紐解いたところのお話です。
ESD地球市民会議2012初日の全体会合では、ゲストスピーカーの方からさまざまな話がありました。
その中でも、気にとめた言葉をリストしたのが以下です。
「Raising Awarenessとは感受性を磨くこと」
(経団連政治社会本部斎藤氏)
「持続可能な開発のためには制度や目標の設定だけでは不十分。意識の変革が必要」
(ユネスコESDセクションチーフのアレグザンダー・ライヒト氏)
環境や社会の課題を学ぶのではなくそれらの複雑さ、困難さにたちむかうことのできる人材を育てること。
(持続可能性のための教師教育刷新ユネスコチェアホルダー、チャールズ・ホプキンス氏)
「ESDはクオリティ・オブ・ライフに関わること」
インド環境教育センター所長カルティケア・サラバイ氏
「愛を持って、一人ひとりの生徒の言葉に耳を傾ける」
ウー・チーン氏
これらの言葉から、あるキーワードが見えてくるように思いました。それは「感性を磨く」という言葉に象徴される、まさに感受性を豊かにする、感じる力を大切にするということ。複雑さ・困難さに立ち向かうというような言葉もまた、人としての成長を意味する言葉です。それは、知識を超えてとても内面的なところにある「学び」のこと。それから、もう一つが「クオリティ・オブ・ライフ」つまり人生の質、あるいは価値に関することです。
内面の成長を促し、人生の質を高めるための教育。これは、なんなのか。
生物多様性と女性に共通する特徴として「一律化されたものさしでははかりにくい価値」というのがあげられるように思います。単に「緑」だったらいいのではない。生命のつながり、その広がりや多様性、関係性の奥深さに注目した「生物多様性」の視点をもたなくてはならない。けれども、そういう繊細なまなざしはどこかおきざりにされて不自然な「グリーン化」のもと「開発・発展」がすすめられた社会。人には個性がある。その一人ひとりに必要な時があり、タイミングがあり、あるいは成熟の時期がある。表面化されていなくても静かに眠る種のような価値があるかもしれない。あるいは、眩しいスポットライトを浴びなくても・・・。女性の持つ質もまた、生物多様性と同じように「わかりやすく市場化されがたい」繊細なまなざしを必要とする質を重んじるものであるように思います。チクタク・チクタク。同じ幅で横線にのびていく時間が支配する世界の「不自然さ」をおそらくはより敏感に感知しているであろう身体性としての女性性。
今、開発の在り方がおかしいとか、見失った何かを取り戻そうという時、こういった二つのことがらにまなざしをむけることにとても意味があるように思います。
女性性・・・色彩の世界では「オリーブ」や「マゼンタ」に象徴されるともいう性質。受容性、プロセスへの信頼、慈愛・小さきものへの愛、しなやかな強さ。
私たちが本当に感応性を高め、人生の質を追求する学びを手に入れたいのであれば、こういった性質のことを本当に考えていくことが大切なのではないかと思います。
というのも、現代の社会が、そういった感応性、繊細さをむしろないがしろにする方向に、あるいは痛みに背を向ける方向に発達してきたということを指摘する声があり、そのことにとても強く共感を覚えるからです。
「対象喪失ー悲しむということ」
1979年小此木 啓吾
「感じない子供 こころを扱えない大人」
2001年 袰岩奈々
「無痛文明論」
2003年 森岡正博
感受性を失う方向に「発展」してきた社会への警鐘はこういった書物からも読み取れるように思います。
持続可能な開発のための教育とはすなわち、眩しく光り輝くものに向かわされてきた社会が見失ってしまった微細なるもの・・・私たちの胸を痛ませるものも含めて・・・にふたたびまなざしをむけるという決意であるように思えて、私にはなりません。
今年の6月にブラジルのリオデジャネイロで開催された「リオ+20(国連持続可能な開発会議)」に参加し、女性グループの会合に参加することでとても強く実感したのは、彼女たちの「痛みへの感受性の強さ」でした。「正しいかどうか」ではなく「胸を痛める人がいる」ということに彼女たちは反応し、故に、福島の原発事故を体験した日本の人たちということで、私たちの声を大切に受けとめてくれたのではないかと思います。

(リオ+20本会議場での脱原発デモ。日本のNGOが企画したが、女性メジャーグループのメンバーが賛同。リーダーのサーシャ氏をはじめ多くの女性たちが参加した)
予防原則だとか、環境正義だとか(リオ宣言第10原則にいわれる「情報アクセス、司法アクセス、市民参加」だとか)。生物多様性や女性性を尊重する上での制度面からのアプローチは複数考えられます。けれども制度面、権利面だけではなく、感応性の問題として、あるいはこれまで何かしらの理由からまなざしをむけることを敢えてしてこなかったかもしれない問題に敢えて向かい合っていくことが、本当に大切な時代になっているのではないかと、私は考えています。
生きるということ。死にむかうプロセスとしての生。私たちの細胞に無意識に刻み込まれた生と死をめぐる記憶。
そんなことを想い(そこまでは表現しなかったけれど)、痛める心を持つことを選んで生まれてきた人間として、いま立ち止まり、あらたなまなざしを手にして歩みなおしてゆきたいと考えている今日この頃です。