角度からのプレゼント[2012年10月21日(Sun)]

見てみないふりだとか、痛みとどのように向き合っていいのか迷子なことだとか。
そういうことばかりが気になってしまって、それらの書物を手にして。
愛することと、それに伴う困難。
そんな事柄にまっすぐ向き合う人たちの言葉に触れていると、生きていることの勇気と「がんばろう」という気持ちが湧いてくる。
それは私には、社会の「進化」の在り方ととても関連のあることに思える。だから、パーソナルだけをみていると不十分で、まったく得意ではないけれど「社会性」の中に潜り込んでいかなくてはならない。私たちを包み込む海。その表層に広がる世界。それは、避けては生きれない場所だ。
人が迷子になるプロセスにおいて、「自然」とのつながりの欠如というのが、とても関係していると思う。だからこそ、「いのちはつながっている」ということを、そしてそのいのちにこめられた「果てしない時間」と「重み」のことを、ちゃんと社会の中で言葉にしていくことが必要だ。「昔から知っていた」。そうかもしれない。けれども、敢えて、今。
生物多様性は、いのちという哲学を伴う政治へのヒントでもあるから、今の社会にはとても大切なキーワードだなあと、感覚的に思う。
それからここに「人という自然」のことがもっと重なっていくと、心がもっと穏やかになれる気がする。「見て見ぬ振り(Wilful Blindness)」の呪縛から解き放つ道をひらけるような。
朝日が眩しくて、穏やかな長谷の日曜日。鎌倉でいちばん古い神社で、今日は朝市をやっている。夜になるとオリオンの流星群が見えるようになる。一時間に10個ぐらい。私たちは「一時間」という時間と「10」という数字を知っている存在だから、そんな風にしてお星さまを期待の眼差しで見上げる。なにも知らない心に、流れる星の時間はどんな風にうつるのだろうか。
今日は必要から、主礼拝に参加します。私は、メッキの剥がれ落ちた、素になった人の姿にどうしても惹かれてしまう。けれども案外「その人」のことを見ていないのは、不思議な臆病が肩にひょこんと乗っかっているからです。
タイトルは、遭遇の発見にお礼をいいたくて選んだひとこと。