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自然と遊び、自然と生きる・・・私が思うこと

子育てと地域活動、そして松山での冒険遊び場活動を通して思うこと、感じることをそこはかとなく綴ります。


「日本の難点」著者 宮台真司 「苦情」について・・・ [2012年09月30日(Sun)]
再び、苦情について考えてみた。

私が今回このようの状況になったことも関係すると思うのですが、さまざまな人から地域における苦情問題の情報が入ってくるようになった。
地域の人間関係が空洞化している日本では、さまざまなところで「苦情」の問題が出てくるのは仕方がないのかもしれない。それでも、そのことを解決しないと、なにも前に進まないような気がする。

日本に今、何が欠けているのか?

この本は、そんな日本の今をずばり書ききっています。
辛口社会学者の宮台氏の著書「日本の難点」パンチ
日本の難点.jpg

私が気になっている「子どものネット環境について」「クレーマーやモンスター・ペアレンツについて」を本より抜粋してみました。

【子どものネット環境について】
子どもをネットにアクセスさせないとかケータイに触れさせないなども緊急避難的には「あり」ですが、こうした対症療法では問題の本質はむしろ手付かずのままになります。問題の本質とは、対面コミュニケーションがネットコミュニケーションよりも脆弱なままでいいのかということです。

社会学者のニクラス・ルーマンは「おかしなことは何もおこりません」という期待を「慣れ親しみ(安心)」と呼び、「いろいろあっても大丈夫です」という期待を「信頼」と呼びます。「安心」は脆弱ですが「信頼」は強靭です。対面コミュニケーションを「信頼」ベースにするべきです。

ネットやケイタイを禁じるにしても、脆弱な「安心コミュニケーション」を脅かすとの理由でなく----それでは脆弱でフラットなコミュニケーションが生き延びてしまいます。----あくまで強靭な「信頼コミュニケーション」を現実化するための手段として、施策を位置づける必要があるのでしょう。

【モンスターペアレンツやクレイマー対策とは】
〜 モンスターペアレンツも、クレイマーも、共通して「全体を顧みない理不尽さ」や「社会的期待に対する鈍感さ」や、そうした意味での「常識外れぶり」などが問題にされているわけです。

我々の日本社会が、そうした「常識」を支える共通前提と、それを支えてきた<生活世界>を、<システム>(役割&マニュアル的なもの)によって空洞化させてしまった以上、そうした成育環境で育ったがゆえに共通前提によって行動を少しも制約されない人たちが増えるのは、そもそも仕方がないのです。

問題は、クレーマー如きに振り回される社会の側にあります。僕は1995年から同じラジオ番組に関わっていますが、プロデューサーが僕の出演依頼に来た際に、僕が出した条件は「クレイマーが何を言ってきても僕は一切聞かないので、僕の耳に入れずにそちら側でさばいてください」でした。

なぜなら、クレーマーが何を言ってくるかを百も承知での上で、ワザと過激だったり刺激的だったりする発言をするのだから、過激さや刺激ぶりに反応するクレーマーの発言など僕にとっては犬の吠え声と同じだからです。そんなものに耳を傾けるくらいなら、はじめから発言などしていません。

そうした理由も説明したら、プロデューサーが----僕が今も一番尊敬している方です----「それでいいです。わたしが全部さばきます」と言ってくれたので、もう15年近くも番組を続けてきているわけです。その間にクレームは一度も伝えてもらったことがありません。感謝しています。

これに関係しますが二つの面白い話があります。一つは、番組開始から2年ほどはクレームの嵐だったのが、3年目に入るとパタッとやんだという話です。僕が思うに、「ミヤダイ=過激発言」というキャラクターが入口に鱠炙し、「ミヤダイか、仕方がないな」というふうになったのでしょう(苦笑)。

<一部削除>

クレーマーやモンスターペアレンツの言うことを真にうけて聞くメカニズムがあるから、彼らが生き残ってしまうのです。むろん、正当ではないクレームにもチャンスを与えることは「ガス抜き」として有効だから、チャンスはどんどん与えておきましょう。

でも、クレーマーの言い分を聞いてあげることと、言い分を真に受けることは、別の問題です。門前払いはマズイですが、クレーマーが主張する「部分的最適化」を上回る全体に関わる合理性があるならばそれを一通説明し、「なので、クレームはお受けできません」と言うしかありません。

ここから応用編の話になりますが、テレビやラジオのディレクターには、電話でのクレームや匿名掲示板での「実況」や「批判」を過剰に気にする人が、実にたくさんいます。彼らに対して僕は「クレームや実況や批判は、いわゆる世論とは何の関係もないことを肝に銘じよ」と言ってきています。

クレーマーにせよ匿名掲示板のディープユーザーにせよ、いわゆる世論=サイレント・マジョリティではなく、キーキー声が目立つだけの少数者=ラウド・マイノリティが大半だからです。ラウド・マイノリティの言うことを直ちに真に受けることは、マスメディアの自殺行為になります。

なぜなら、政治家からの圧力に屈することとクレーマーからの批判的発言にびくびくすることとは、反民主的、反平等的であるという構造において、同じだからです。何があったとしても、サイレント・マジョリティを、声なきがゆえに見殺しにするような振る舞いは、よほどのことがない限りは、回避しなければなりません。

「よほどのこと」とは何か。一般的にいえば、サイレント・マジョリティが、数にもの言わせてマイノリティを圧殺する可能性があることに注意するべきだということです。そうした場合には、マイノリティのラウドぶり(声の大きさ)や「悲鳴の大きさ」として聞く必要があるでしょう。

 あえて分かりやすく言えば、ラウド・マイノリティのクレームを、真に受ける(=我々の社会の問題を指摘するものだと解釈する)か聞き流す(=クレーマーの特殊な性格や実在によるものだと解釈する)かは、選択的にさばいていかなければいけない、という難しい話にならざるを得ないのです。

空手の極意(宇城賢治監修「古伝空手の発想」)とよく似ていますが、「何をするにも相手の反応を予測し、相手が反応する前に既に対処を終えている」ような構え(行為態度)こそが必要です。相手の反応に驚いているような時点で、(相手にというより自分に)既に「負け」ているわけです。

僕の個人的感覚ですが、どうも昨今の日本人にはこの意味で「負け」ている人が多いと思います。二つの要素があると思います。一つは、共通前提に鈍感であるだけでなく、共通前提を徹底的に観察する習慣がないこともあって、相手を「読む」ことができないところから来る戦略的な稚拙さです。


もう一つは、第1章の「若者のコミュニケーションはフラット化したか」で述べたように、自分が持つ関係性についての価値評価が低すぎるので----正確にはそうした中で育ってきている「尊厳」が脆弱なので----、自分の周囲にいる少数の人間たちから承認されているだけでは十分だと思えないということです。

自分にとって大切な者たちが分かってくれていれば、それで十分じゃありませんか。それがあれば、「誰其(だれがし)がピーチクパーチク言っているけど、それがどうした」とやり過ごせるはずです。その意味で、僕は、クレーマー問題の背後に日本人の多くが抱えている「尊厳」値の低さを見出します。

                                          

〜共通前提に鈍感であるだけでなく、共通前提を徹底的に観察する習慣〜  やってるつもりでも、まだまだ足りなかったと反省する。「出る釘は打たれる」わけなので、「出すぎる釘に」になって誰にも打たれない存在になることでしか、今のこの状況では、夢は実現できないとわかっているのにできない。

うううううん(-_-メ)・・・くやしい。



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