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早川理恵子博士
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相国寺の白象 [2012年03月16日(Fri)]
 今年の京都は、スティーブ•ジョブスに肖って「禅」をテーマに訪ねることとした。

 とりあえず、まだ行ったことのない大徳寺さんと相国寺さんは必ず行こう、と心に決めた。ジョブスが歩いたかもしれないと思うと、何か特別なお寺に見えてくる。ミーハーを恥じるばかりだ。

 大徳寺さんは朝から雪が降る寒い日、思い立って出かけた。迷路のようなお寺の様子が面白かったし、小さなお寺がひしめいて建っている景色も面白かった。2畳ほどの禅僧の修行の部屋は「元祖ワンルーム」という感じだった。
 小石で波を象った庭に雪がつもり、まるで白波が立っているような風景だった。こういう時日本はいいなあ、と思ってしまう。

PAP_0005.jpg



 相国寺さんの方はパラオでお世話になったMさんをお誘いして訪ねた。
 一昨年笹川会長がパラオを訪ねた際、ハンセン病患者を収容していた島を訪ねる事になり、機転を利かせて急遽船の手配から何から何までを手品のように対処してくださった恩人である。
 辰年にちなんで鳴き龍を見学させていただくつもりだったが、まだ新年の行事で公開していないという。しかたなく敷地内にある承天閣美術館を訪ねた。
 「よみがえる俵屋宗達のモダニズム」という展示を開催中で長沢芦雪の「白象唐子図屏風」に立ち止まった。立ち止まったのは思考である。
 「郡盲象を撫でる」のことわざは、広く物事を見なさいよ、という意味だとずーっと思っていた。でもこれは違う。全体がわかった、と思った瞬間それは全体の一部でしかなくなるのだ。これが禅だと思う。

 突然2畳の禅僧の修行部屋も、自分が関わる広い太平洋も同じ修行の場に見えてきた。
 
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「白象唐子図屏風」
琉球大学と笹川太平洋島嶼国基金 [2012年03月14日(Wed)]
琉球大学と笹川太平洋島嶼国基金

<やしの実大学から琉球大学へ>
 八重山諸島で開催して来た「やしの実大学」は1999年で終了する予定であったが笹川運営委員長(当時)の評価および運営委員会の判断を受けて2004年まで継続することとなった

 この事業が徐々に知られるようになり、琉球大学の大城肇教授も自主的に参加していただいた。大城教授は八重山諸島の鳩間島ご出身である。
 他方「やしの実大学」八重山実行委員会はボランティアの方々の組織だったので、継続が難局を迎えることも多々あり不安定であった。
 そこで、基金運営委員長の渡辺昭夫教授(当時)と琉球大学副学長をされていた嘉数啓教授(当時)が協議をされ、この「やしの実大学」の継続と、さらに2002年に琉球大学内に設置された「アジア太平洋島嶼研究センター」の発展を視野に入れた事業を立ち上げる事となった。


<OPEN – I >
 2006年から2008年3年間、笹川太平洋島嶼国基金は琉球大学が実施する「沖縄太平洋教育ネットワーク・イニシアチブ」(英文にするとOkinawa Pacific Education Network Initiative: OPEN-I)に助成する事となった。
 奄美・沖縄の高校生、大学生を対象に下記のテーマで作文コンテストを実施。受賞者をミクロネシアに派遣し、さらにミクロネシアの学生を沖縄に招聘し沖縄でセミナーを開催した。
 
2006年は「私の島の水問題」
2007年は「島の自然と文化」
2008年は「島の発展と課題」


<太平洋フロンティア外交とアジア太平洋島嶼研究センター>
 2002年琉球大学にアジア太平洋島嶼研究センター(CAPIS Canter for Asia Pacific Islands Study)が設立された。設立の背景は初代所長をつとめられた大城常夫教授の記事*に詳しくあるが、予てより沖縄に島嶼研究の役割が期待されていたことと、2000年に開催された島サミットで森元総理が打ち出した「太平洋フロンティア外交」がある。
 同外交政策の一環として「特に太平洋等諸国を含む周 辺諸国との協力の実績が蓄積されている沖縄におい て、琉球大学を中心とした研究者交流事業を実施す るなど、積極的に人材育成やネットワーク構築を推進していきたい」と表明し、これがCAPIS設置を後押しした。
 
 *「しまたてい」22号「琉球大学アジア太平洋島嶼研究センター」大城常夫センター長(琉球大学法文学部教授)  一般社団法人 沖縄しまたて協会 2002年7月発行

 2000年の島サミットは小渕総理が亡くなられる直前に笹川会長に協力依頼をし、笹川太平洋島嶼国基金が積極的に関わった。当時大洋州課課長であった宮島昭夫氏とはいろいろ意見交換をさせていただく機会があった。多分フロンティア外交を作文されたのは宮島課長だと想像する。そこにはハワイの東西センター設置にもつながったケネディ政権の「ニューフロンティア政策」があったとも想像している。当初、沖縄に南北センターを設置する案もあった。何はともあれCAPISは日本政府の外交政策である太平洋フロンティアを背負った組織であったのだ。


<太平洋島サミットが沖縄で開催される意味>
 本年5月に第6回島サミットが再び沖縄で開催される。しかし、沖縄を積極的に巻き込もうとする動きはない。外務省が立ち上げを支援したCAPISとは何も連携がないのは残念だ。(今CAPISは学内の各研究を統合し国際沖縄研究所として活動を継続。)
 文科省から5年間の支援を受け同研究所に「新しい島嶼学の創造」プロジェクトが昨年より立ち上がった。琉球大学の島嶼研究のネットワークを太平洋に拡大し、そのキャパシティを充実させる機会を模索している。
 私がこの1月、沖縄に呼んでいただき講演させていただたのはこの事業の一環である。
 そして、先週琉球大学副学長の大城肇教授、「新しい島嶼学の創造」コーディネーターの藤田陽子准教授が私の所属するオタゴ大学を訪ねられた。
 微力ながら森元総理が提唱した「太平洋フロンティア外交」がきっかけで生まれた沖縄のイニシアチブを引き続きお手伝いさせていただくこととなった。

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(オタゴ大学ヘンリー教授と大城副学長。ヘンリー教授はジャージー島出身で沖縄音楽も研究している。)


 沖縄と太平洋の島々。
この視点を早くから開拓した笹川太平洋島嶼国基金の役割はまだまだあるようだ。


キリバスのエクソダス [2012年03月12日(Mon)]
キリバスのエクソダス

 いよいよ、キリバスのエクソダスが始まりそうだ。
 先週、キリバスのアノテ・トン大統領がフィジーの島の購入交渉をフィジー政府と進めているニュースが流れた。

 キリバスは隣のツバルと同様にほぼ環礁だけで形成されている国で、大潮や海面上昇の影響、そして都市部への人口の増加も加わって、既に人が住める環境ではなくなっている。
 今回キリバスが購入を検討しているのは約23平方キロメートルのVanua Levuにある島。キリバスの首都タラワはこの3分の一の面積だが、現在人口約10万人の約半数がタラワに居住している。
 購入を検討しているフィジーの島は現在教会グループが所有しており、約$9.6 million(通貨は不明)。キリバスは燐鉱石の収益が海外で運用されておりお金はある。(キリバスが米国の鳥のウンチ島法から奪回した19の島の存在は大きい!)
 
 キリバスからの移民は、フィジーの島で農業や牧畜を行い、生産品をキリバスに送る事を検討している。また浸食の激しい環礁に島の埋め立て用の土を運ぶ事も検討している。

 トン大統領は、フィジーへの移民だけでなく、オーストラリア、ニュージーランド始め多くの国がキリバスの移民を受け入れてくれる事を望んでおり、国民には「難民」ではなく技術を持った「移民」としての教育が進んでいる事を述べている。

ーーー

 2008年、私はトン大統領とキリバスでお会いする機会があった。その時の大統領のコメントは今でも心に残っている。「海面上昇が本当か嘘か結果を待っていては手遅れである。既に高潮で被害を受けている。」

 しかし、我々は海面上昇がホントかウソかという、実はどうでもいい議論ばかりしていて、キリバスの人々の事を全く考えて来なかったのではないか?
 昨年、ニューヨークのコロンビア大学で、海面に沈んでしまった島や、人が住めなくなった島の領有権等、法的な対処についてマーシャル諸島の政治家を呼び議論していた。このような島の領有権に関する法的保護は日本にとっても他人事ではない。
 今キリバスやツバルに積極的に手を差し伸べる事は、将来そこにある漁業資源や海底資源へのアクセスに優位な立場を得られる可能性がある。
 それから、東北のガレキ処理も喜んで引き受けてくれるかもしれない。キリバスは核実験の被害者であり、今引き受けを拒否している多くの日本人よりも原発被害には理解を示してくれるように思う。


トン大統領の日本への期待も大きかった。
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キリバスのアノテ・トン大統領は極真空手の有段者。大統領が空手や宮本武蔵等の日本文化に出会ったのは、高校、大学(1967-1974)を過ごしたニュージーランドのクライストチャーチ。
日本がなぜUSPNetを支援するか? <その2 プルトニウム輸送の代償としてのUSPNet> [2012年03月09日(Fri)]
<その2 プルトニウム輸送の代償としてのUSPNet>

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(左から故Kabua大統領、Tabai事務局長(当時)、Solofa学長(当時))


 なぜUSPNetが日本のODA案件になったのか。
 このブログを開設せよアドバイスいただいた日本財団笹川陽平会長の判断なのである。
 笹川会長は太平洋島嶼国基金の初代運営委員長。このUSPNet案件の進捗を逐次報告させていただく機会があった。
 やっと南太平洋大学から最終の申請案が届き、報告に伺った数日後だったと思う。「ODA案件にせよ。」の一言。
 まだ辛うじて20代だった。が既に外国政府を動かして日本政府に圧力をかけるという作業を別の組織で数々経験していたので、ヤッテヤロウジャナイカ、と受けて立つ事にした。


 現在USPNet支援を担当されている外務省やJICAの方は想像ができないかもしれないが、90年代前半、フィジーのスバにある日本大使館は南太平洋大学が支援対象とならないので、車で数分の場所にありながら一切コンタクトをしていなかったのである。当方はフィジー出張の際はなるべく日本大使館に赴いてこちらの事業説明と情報交換に努めていたが、南太平洋大学に関してはこちらから情報を提供するばかりであった。日本のODAは基本的に2国間支援で南太平洋大学のような地域機関への支援は当時ほとんどされていなかった。
 それで、南太平洋大学から直接フィジーの日本大使館にUSPNet案件を提出しても本省まで届く見込みはないと判断し、一計を案じた。太平洋の地域機関の中でも日本政府が公式対話相手としている組織、太平洋諸島フォーラムから申請をさせるのである。太平洋諸島フォーラムは南太平洋大学を始め各地域機関の調整役でもあるのでその役割を担う立場にある。
 正直に言って、南太平洋大学のVice-Chancellorが、またフォーラムの事務局長が私の一計を聞いてくれるとは思っていなかった。破れかぶれの構えだったのだ。
 当時、南太平洋大学Vice-Chancellorはサモア人のEsekia Solofa博士。初めての島嶼国出身の大学トップ。フォーラムの事務局長の方は28歳で初代大統領となったキリバスのIeremia Tabai氏だ。今思うとこんな方達と仕事ができたのは幸運としか言いようがない。

 日本政府は毎年フォーラム議長を日本に招聘している。その年1996年は偶々マーシャル諸島のAmata Kabua大統領がフォーラム議長の年であった。さらに偶々その年Kabua大統領は南太平洋大学のChancellorでもあったのだ。
 英国系大学と共通で、実質的学長としてのVice-Cahncellor の外に形式的トップのChancellorの存在があり、南太平洋大学の場合はメンバー国首脳の持ち回りになっている。
 Tabai事務局長と共に来日したKabua大統領はフォーラム議長の帽子と南太平洋大学Chancellorの帽子でUSPNet申請案を直接日本政府に提出した。米国管理下にあるマーシャル諸島が英国系のUSPに参加することになったのはKabua大統領の判断。その思い入れも格別であった。
 これを仕掛けたのが私であることは外務省もわかっていて、「よけいな事をしやがって」と怒鳴られました。

 当初日本政府の反応は後ろ向きであった。
 そこにプルトニウム輸送問題とそれに対応すべく日本政府主催の「太平洋島サミット」の話が1997年に持ち上がっていた。有望な支援案件としてUSPNetは突如ODA案件となった。1992年から日本が実施する太平洋上のプルトニウム輸送に批判声明を出してきた太平洋島嶼国が危険の代償として得た勝利である。

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第3回高レベル放射性廃棄物返還輸送に使用された輸送船「パシフィック・ スワン号」


 私にとっては笹川運営委員長(当時)からのimpossible missionがここに完遂。そしてカミセセ•マラ首相と笹川良一名誉会長の約束が果たせた瞬間でもあった。
This Week is Sea Week [2012年03月06日(Tue)]
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ここ2週間、巻き寿司を100本くらい作っている。

娘の学校の放課後クラスで異文化体験のようなものがあって、ある日コーディネーターの方から巻き寿司を作ってくれといわれ、練習を重ねた。
今までいい加減に作っていたが、ウェッブで調べて酢飯ーシャリを初めてまともに作った。
参考にさせていただいたのは「寿司屋のおかみさん小話」にあったー寿司屋の酢飯(シャリ)の作り方〜保存版よ。ー
本当に驚く程お砂糖を入れる。確かに溶けないので、説明には一晩とあるが、数時間かけて溶いている。

いざ本番。巻き寿司を巻いて切るとお箸がのびて来てあっという間になくなる。
中身はキュウリと人参。人参はナムル風にした。
お米10合分のお寿司。海苔が30枚ほどなくなった。
ヘトヘトになったが、子供達がこんなに喜んで食べてくれると、達成感というか、充実感がある。

その後、友人の誕生日パーティでもお米10合分作った。
今度は娘のクラスの先生からファンドレイジング用に作ってほしい、とのリクエスト。
今週は海の週で海に関係する活動でなぜかSushi. 集まったお金はイルカ保護のためWWFに募金。

最近は中国からニュージーランドへの移民、投資に押され、日本の存在が薄くなってきている。
お寿司は正真正銘日本文化だよな、と思ったらWikipediaには東南アジア、とある。
お寿司の文化も奥が深い。

見た目より味。
特に欧米人が目の色を変えて手を出す姿は、妙に優越感をくすぐる。
酢飯はクリアしたので、今度は具が真ん中に位置し、バロックな外観の巻き寿司から卒業する事が課題。
世界分捕り合戦ー鳥のウンチ法で米国が獲得した領域 [2012年03月05日(Mon)]
やっぱりWikipediaは便利である。
Wikipediaを単純に批判する人は、権威あるエンサイクロペディアの間違った情報や、大学で出されているWikipediaの利用方法などを参照されたい。

さて、米国の50%の EEZが太平洋の「島」によって形成されている事を以前書いた。
なぜ米国が太平洋の無人島を領有することになったか?
拡張主義時代、ペリーが浦賀沖に現れた3年後の1856年に制定された"Guano Islands Act" - (燐鉱石島法、私は「鳥のウンチ法」と訳している。)のためである。

太平洋における米国帝国主義に関する文献を読んでいたら、この「鳥のウンチ法」で米国が獲得した島は100近くあると書いてあった。
Wikipediaにそのリストがあった。"List of Guano Island claims"
55の島がリストアップされている。

55の中で現在も米国領にとどまっているのが9。太平洋のキリバスに属しているのが19。クック諸島4。ツバル4。トケラウ3。日本1(南鳥島)。

キリバスの19というのは注目したい。現在キリバスが約350万平方キロメートルという広大なEEZを所有しているのは米国と戦った結果ではないだろうか。いったいどんな交渉が展開されたのか、興味深い。
キリバスが英国から独立した年の1979年に調印されたTreaty of Tarawaでその領有が決まったようだ。当時28歳の初代タバイ大統領の活躍が目に浮かぶ。

なんだか欧米諸国は世界地図に線を引いてここから右はポルトガル、ここから左はスペインと決めてみたり、海は自由だと主張してみたり、鳥のウンチ法で島の領有を宣言したりとまあやりたい放題だ。

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日本がなぜUSPNetを支援するか?ー <その1 ポストコロニアル通信体制を変革したUSPNet申請案> [2012年03月04日(Sun)]
日本がなぜUSPNetを支援するか?ー 

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右から電気通信大学の小菅教授(当時)、田中教授、筆者


<その1 ポストコロニアル通信体制を変革したUSPNet申請案>

南太平洋大学の遠隔教育ネットワーク ー 通称USPNet.
日本のODAでそのキャパシティがどんどん拡張されていく様子を見るのは感慨深い。
南太平洋大学は旧英国植民地の島々が集まってできた大学だ。オーストラリアとニュージーランドの領分である。なぜそこに日本が支援する事になったのか?その過程、意味をを知る数少ない歴史の証言者としてここに書いておきたい。

1988年8月26・27日、笹川平和財団が太平洋諸島の首脳を集め『太平洋島嶼国会議』を開催。そこに招聘されていたフィジーの故カミセセ•マラ首相から故笹川良一名誉会長に当時運行が停止していたPEACESATに替わる衛星を太平洋島嶼国のために打ち上げてほしい、という要請があった。
その時私はまだ財団にはいない。残された資料によれば、衛星を打ち上げる可能性も検討したようだがさすがに金額が大きすぎ、マラ首相に打診したところ、それではUSPNetだけでもなんとかならないか、という回答であった。

この段階で1991年財団に入った私が担当する事になった。当初日本財団が支援する方向で調整してきた。具体的にはUSPNetの申請案作成を関係者と調整してきたのである。日本側は主に電気通信大学の小菅敏夫教授(当時)に前面に立っていただき調査•交渉を進めた。結果、南太平洋大学のイニシアチブでUSPNetアップグレード申請案が作成されたのである。

この申請案の意味、というのは当時自分も気づいていなかった事だが、ポストコロニアル体制の太平洋島嶼国の電話通信インフラという、まさにステータスクオを動かす重要な意味があった。申請案は各国の通信会社を利用せずに、南太平洋大学が独自のネットワークを構築し各センターに地球局を設置する、という内容であった。
これに反対したのが、当然のことながら各国の通信会社と今までサービスを提供していたPEACESATである。

太平洋島嶼国の通信インフラはポストコロニアル政策として旧宗主国通信会社によるモノポリー体制が敷かれていた。どの国も通信関連の法律に独占体制を明記していた。しかも通信会社の株の半分を島嶼国政府が有する形である。経営の実態は旧宗主国が牛耳っていたので、島嶼国政府を人質にして国家インフラ産業を独占したわけである。
この体制に挑戦したのがUSPNet申請案だ。小規模経済の島嶼国の通信会社にとって大学は大きな市場である。通信会社のサービスとは別のネットワークを南太平洋大学が単独で構築するのは独占を明記した法に反する、自分たちとは言わず国家の利益に反する、と攻撃してきた。こうして各国の通信会社が通信関連省庁とも連携しながら圧力をかけてきた。
ポストコロニアル政策が人質に取ったのは政府だけではない。フィジーでは電話通信会社が年金運用対象となっており、人々の年金まで人質に取っていたので反対の圧力はさらに強かった。
太平洋電話通信協会(PITA)という地域組織がある。小菅教授達といっしょに彼らとの交渉を重ねた。お互いの立場を理解しようとする努力を見せたことは多少効果があったと思う。

それからPEACESATは米国の覇権の未練があった。しかし、そんな事は表立って言えないので、教育サービスを市場経済(インテルサット=商業衛星)に委ねるのはよくない、とか言って反対してきた。太平洋島嶼国は米国の覇権を嫌っている、とはっきりハワイ大学の担当者に伝え説得した。PEACESATは全ての交信を傍受記録していたのだ。冷戦下の事で周知の事実であった。

最終的にステータスクオを動かしたのは島嶼国のcollective powerだ。笹川太平洋島嶼国基金はそのトリガーの役目をしたに過ぎない。
南太平洋大学には理事会があり、太平洋島嶼国の文部大臣で構成されている。各島嶼国国内で夫々交渉があったようだが、結果、各国の文部省が通信省に勝った。即ち「教育」という国家の優先課題がポストコロニアル政策に勝利した、と言ってよいだろう。

ここまでがUSPNet申請案ができるまでの話。それではなぜ日本のODA案件になったのか。
続きは <その2 プルトニウム輸送の代償としてのUSPNet>。
ミクロネシアの海洋汚染 − 日米に届くか小国の声 [2012年03月02日(Fri)]
ミクロネシアの海洋汚染 − 日米に届くか小国の声

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ミクロネシア連邦モリ大統領


 独立国となっても太平洋の小さな島々の声は大国の都合で簡単に無視されてしまう冷酷な国際政治の現実をいくつも見てきた。

 昨年9月、国連総会と太平洋諸島フォーラム総会で続けて出したミクロネシア連邦モリ大統領の声明もそんな声の一つとなって海のどこかで沈んでしまうのではないか、と思っていた。(下記モリ大統領の2つの声明参照)

 日本では太平洋への放射能汚染の事が騒がれているが、ミクロネシアのこの小さな島ではもっと身近な危機として60年前に米国が沈めた日本船からの油流出が問題となっている。沈めた米国と、船の所有者だった日本に早急に処理をしてほしい、という要請だ。
 
 年末ミクロネシア連邦の高官からメールをいただいた。次回の太平洋島サミットに海洋外交が盛り込まれたらしいが、同国チュック州の油流出事故について日本政府から未だ回答がなく、情報があれば調べて欲しいという“非公式”な協力依頼だ。ミクロネシアの海上保安事業の関連で、同高官とは信頼関係が構築されつつある。
 いろいろ調べると過去にインドネシア海域に沈んだ日本船の引き上げを日本政府が実施したことがあるが、調査だけで2−3億円、引き上げに100億円かかったという。チュック州海域に沈んでいる船は60隻近いということだ。簡単に60倍という訳ではないと思うがそれでも相当な費用がかかることは想像に難くない。

 前向きな情報が得られない中で年明け週刊誌のインタビュー依頼があった。この件にも触れようかどうか迷い、思い切って外務省に直接問い合わせてみた。意外な事に
「昨年のオークランドで開催された太平洋諸島フォーラム総会に出席した山口壯外務副大臣は本件に関し前向きに検討すると述べています。」という回答だった。
 これは実施する、という意味である。次回島サミットの目玉「海洋外交」と「米国との協力」はこれだ、と思った。早速ミクロネシア連邦の高官に連絡をしたら、同国でも同様な感触を得ているとのことであった。

 本件を笹川太平洋島嶼国基金寺島運営委員長にご報告したところ
「日米協力でミクロネシアの海洋汚染に貢献する事になればそれはすばらしODAの使われ方である。」とのコメントであった。 
 寺島運営委員長は日本の海洋基本法の親分的存在で、さらに具体策の一つ「海洋外交の推進」を盛り込んだのも寺島さんらしい。そういう方からのお墨付きをいただいた海洋関連支援事業であればなおさら実現される事を祈っている。

 そして何よりも海洋外交を日本が掲げるのであれば、広大な海洋を有する小国−ミクロネシア連邦のモリ大統領の声は無視してはならない。


(ミクロネシア連邦モリ大統領の2つの声明)

WWII ORDNANCE AND SHIPWRECKS
37. Leaders expressed concern at the continuing existence of unexploded WWII ordnance (UXO) which remains a human security problem for many Members, as well as a threat to public health, safety and the environment. They also recognised that UXO poses a serious obstacle to development. Leaders welcomed the development of the Regional UXO Strategy Framework as a practical approach to addressing the challenges of UXO in the region and called on the assistance of relevant international bodies and development partners in addressing this long neglected issue.

38. Leaders noted the risk to the environment posed by oil leakage from WWII shipwrecks in the region and called for the safe removal of oil from those shipwrecks such as in the Chuuk Lagoon in the Federated States of Micronesia, Solomon Islands and the Republic of the Marshall Islands.
(FORUM COMMUNIQUÉ, FORTY-SECOND PACIFIC ISLANDS FORUM
AUCKLAND, NEW ZEALAND
7 - 8 SEPTEMBER 2011)


Oil Leak in the State of Chuuk
Mr. President,
More than sixty years ago, my island country, the Federated States of Micronesia, drew worldwide attention as a battleground in the Pacific conflict. Today, the remnants of an estimated sixty (60) shipwrecks from that conflict are posing threats to the lives of our people, and our environment and the marine eco-system. Approximately thirty-two (32) million liters of oil contained in the bellies of the wrecks are a "ticking environmental time bomb". Leading experts on underwater corrosion have warned that the shipwrecks will collapse and when they do, we believe oil from these wrecks could create a spill on a massive scale with an impact comparable to the disaster last year in the Gulf of Mexico.
Oil from some of the shipwrecks in my state of Chuuk has already started leaking. Any disaster could have a devastating effect on the environment, our food chain, and the surrounding reefs that serve as breeding grounds for many fish species. It will also adversely impact our tourism industry which depends largely on coral and shipwreck diving. In this respect, and to avoid a major environmental disaster, I am now appealing to the international community for immediate assistance.
(Address by H.E. Emanuel Mori
, President of the
Federated States of Micronesia, Before the 66th United Nations General Assembly, New York, 23 September 2011)


Space Development and Decolonization (Post colonization) [2012年03月01日(Thu)]
(The first draft 27 February 2012)

Space Development and Decolonization (Post colonization)



It is reasonable to start with “Maitland Report” to describe the historical background of Information Communication and Technology for Development - ICT4D. The “Maitland Report” was released on 1985 from ITU as the first comprehensive study on ICT4D. However, I would like to summarize events from a few decades before which led to the “Maitland Report”
The events begin in the mid to late 1950s with the Bandung Conference (1955) and the Sputnik Shock (1957) - in other words: decolonization and space development under cold war. These two events and movement showed us that space development and decolonization (post colonization) were synchronized for ICT4D. One of these movements was a demand from newly independent countries for their equal right for new space territory which at that time was a new territory for nation states. The other movements was a demand from two hegemonies – the US and Soviet Union, who both wanted to develop space technologies for their power struggle as well as obtaining newly independent countries for their political allies.


1. Synchronized events - Bandung Conference and Sputnik Shock
After the second world war decolonization was accelerated. A major symbolic event was held in Bandung, Indonesia, in 1955. Twenty-nine decolonized countries from both Asia and Africa gathered and agreed to a ten-point "declaration on promotion of world peace and cooperation"
Following this first conference of non-allied countries, the Soviet Union in 1957 was successful in launching the space rocket Sputnik. This action raised tensions of the cold war. Non-allied newly independent countries who gathered at the Bandung Conference were dragged into the respective camps of the two hegemony powers. As result, these Asian and African countries who had participated at this conference did not meet again until 2005.

After competition between the US and Soviet Union began in 1957, one year later in 1958 the United Nations Committee on the Peaceful Uses of Outer Space was launched provisionally, and then was formally established as a UN resolution in 1959. The ITU – International Telecommunication Union, which was established in 1865 and is the oldest international organization in existence, agreed to provide technical support for developing countries in 1959. This could be the first activity of ICT4D.

In 1961, John F. Kennedy, US President, made a historical speech before the UN General assembly which included the proposal for the peaceful space development and global system of communications satellites linking the whole world by telegraph and telephone and radio and television. This speech led to the establishment in 1964 of INTELSAT – international satellite service organization. In the same year, the Soviet Union also established INTERSUPTNIK. Opportunities existed for the newly developed third world countries to access these satellite information systems, yet again they were divided into the US and Soviet Union hegemonies.

In 1965, the UNDP was established and development for these newly independent nations were strengthened and as well as space development was reinforced. As the result, in 1969, humanity made its first steps on the moon – just as President Kennedy had promised in his 1961 speech.


2. Neglected voices – “Many Voices One World” and “Bogota Declaration”
Was Space development successful for “peaceful space development and global system of communications satellites linking the whole world”? The answer was NO.
The divide of wealth between developed and developing countries was further widened in the 60s and 70s. ICT was no exception. Studies in both Media and Communication showed that the flow of mass media information between developed and developing countries was obvious and that this situation worsened the divide and put up obstacles for development.

In 1969, UNESCO spoke about the “New World Information and Communication Order” and in 1977 launched the International Commission for the Study of Communication Problems asking the Nobel Peace Prize activist Seán MacBride to take the lead. In 1980 this committee released a report titled “Many Voices One World” or as it was well known as the “MacBride Report”. The report was condemned by both the United States and United Kingdom as it was thought to have been against freedom of expression.

In 1976 there was another voice from developing countries on ICT4D which was ignored by hegemony again. Eight countries from the worlds equatorial zone :Brazil, Colombia, Ecuador, Indonesia, Congo, Kenya, Uganda, and Zaire joined together at a conference and signed the Bogota Declaration. This Declaration made clear that the geostationary orbit arc above each country is the sovereign territory of that country. The declaration also stated that such sovereign rights are in the best interest of all countries and all mankind, not just the most developed countries. Following on from this it was also thought that the geostationary arc above the oceans were part of the common heritage of all mankind and should be exploited to the benefit of all mankind. Those countries that were developed in space exploration such as the United States, did not reply to these demands from developing countries, and continued to enjoy their monopolized space technology and powers not for the betterment of developed countries, but strengthening their own military-industrial complex.
It should be noted that more equatorial countries from around the world have made claims of ownership to their own overhead geostationary arcs.


3. Conclusion
In 1971 PEACESAT was started using second hand satellites from NASA. This was a free satellite service dedicated for Pacific Island peoples. Although this satellite was not initially developed for developing countries, the people who started PEACEAST (such as ex Peace Corp) had the philosophy to support ICT4D of developing countries.

After the Sputnik Shock, space development was the results of fierce competition between the two power hegemonies under the increasing tension of the cold war. The ICT environment was divided among the perspectives of information, communication and technologies. Two significant voices from the developing countries were ignored. This lead in turn to the ITU initiated “Maitland Report”.
This story tells us that satellite communication was developed as a result of the rancor between the demand for rights of space territory and technology from decolonized countries, and the demand of military-industrial complex of the worlds hegemonies led by the US and the Soviet Union, who used lip service towards the peaceful use of space and world benefit.




Chronicle of Space Development and Decolonization
1865 Est. ITU
1939-1945 WWII
1941 Atlantic Charter
1941 Four Freedoms (US)
1942 “Conditions of Peace” by E.H.Carr
1943 Draft Constitution of International Organization
1943 Cairo Declaration、Tehran Conference
1945 United Nations Conference on International Organization
1947 est. UNESCO
1948 Universal Declaration of Human Rights
1952 ITU commences its programme of technical cooperation
1955 Bandung Conference
1957 Sputnik Shock
1958 United Nations Committee on the Peaceful Uses of Outer Space
1959 Role of ITU’s technical cooperation was mentioned in the International
Telecommunication Convention
1961 Address Before the General Assembly of the United Nations, by JFK
1961 Declaration of Legal Principles Governing the Activities of States in the Exploration and Use of Outer Space
1964 est. INTELSAT / INTERSPUTNIK
1965 est. UNDP
1967 Outer Space Treaty
1969 UNESCO “New World Information and Communication Order”
1971 PEACESAT start
1972 UNESCO Mass Media Declaration
1973 The first oil crisis
1976 Bogota Declaration
1976 UNESCO Mass Media Declaration
1977 UNESCO International Commission for the Study of Communication Problems
1979 The second oil crisis
1980 UNESCO MacBride Report
1982 ITU Plenipotentiary Conference at Nairobi
1983 ITU World Communication Year
1985 ITU Maitland Report


(John F Kennedy, Address Before the General Assembly of the United Nations, September 25, 1961)

As we extend the rule of law on earth, so must we also extend it to man's new domain--outer space.
All of us salute the brave cosmonauts of the Soviet Union. The new horizons of outer space must not be driven by the old bitter concepts of imperialism and sovereign claims. The cold reaches of the universe must not become the new arena of an even colder war.
To this end, we shall urge proposals extending the United Nations Charter to the limits of man's exploration of the universe, reserving outer space for peaceful use, prohibiting weapons of mass destruction in space or on celestial bodies, and opening the mysteries and benefits of space to every nation. We shall propose further cooperative efforts between all nations in weather prediction and eventually in weather control. We shall propose, finally, a global system of communications satellites linking the whole world in telegraph and telephone and radio and television. The day need not be far away when such a system will televise the proceedings of this body to every corner of the world for the benefit of peace.


<Reference>
Space Power Theory by Jim Oberg
http://www.au.af.mil/au/awc/space/books/oberg/

Bogoda Declaration
http://www.jaxa.jp/library/space_law/chapter_2/2-2-1-2_j.html


Historical background of International cooperation of ITU
http://www.ituaj.jp/07_mc/itud/01_01_itu_d.html

World Communication Year
http://www.nict.go.jp/publication/CRL_News/back_number/086/086.htm

North-South Problem of ICT - Telecommunication White paper 1983,
http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/s58/html/s58a01020101.html

ITU Geneva Convention 1959
Final Protocol to the Convention Additional Protocols to the Convention Resolutions, Recommendations and Opinion
"art. 4.2.(d) foster the creation, development and improvement of telecommu- nication equipment and networks in new or developing countries by every means at its disposal, especially its participation in the appropriate programmes of the United Nations;"
http://www.itu.int/dms_pub/itu-s/oth/02/01/S020100001C4002PDFE.pdf

Lyall, Francis, "International Telecommunication Union and Development". 1994 J Space Law, 23-32
祖先のお歴々 [2012年03月01日(Thu)]
サーバー再開、おめでとうございます。
大変な作業であったろうと想像しております。

さて、やらなきゃいけない事が目の前に山積みの時って、なぜかどうでも良い作業をしたくなりませんか? 
娘のご先祖様たちです。これでヨーロッパの歴史が身近になりました。
まさかチャールズ二世も自分の子孫が日本人と結婚して、インターネットで自分の事を調べられるなんて考えも及ばないだろうな。一度娘と墓参りに行こう。



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