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早川理恵子博士
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安倍総理のハノーバースピーチ [2017年03月31日(Fri)]
海洋問題はこれから本格的に学術的に!勉強するが、当方の最初の博士はICT政策なので、実はこの件が非常に気になっていた。
Facebookに記録しても検索機能がないので埋もれてしまう。
ブログに記録しておきたい。

なぜ安倍総理はハノーバーへ行ったのか?
ICT, IoT関連のイベントへ参加であった。そして、私の誤解かもしれないが総理としては2000年の沖縄G8サミット以来、日本政府としてのICT政策を押し進める力強いスピーチだったのではないか?
今回は日独の協力がメインだがこれによって世界が刺激を受ける可能性がある。

IT中心ではない、人間、社会が中心のスピーチ。すごく、いいと思う。拡散しよう。


Address by H.E. Mr. Shinzo Abe, Prime Minister of Japan CeBIT Welcome Night
Sunday, March 19, 2017
http://japan.kantei.go.jp/97_abe/statement/201703/1221682_11573.html

国際情報通信技術見本市(CeBIT)ウェルカムナイト 安倍総理スピーチ
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2017/0319welcome_night.html

世耕経済産業大臣が「ハノーバー宣言」に署名しました〜第四次産業革命に関する日独協力の枠組みを構築〜
http://www.meti.go.jp/press/2016/03/20170320002/20170320001.html
博士論文が受理されました! [2017年03月05日(Sun)]
unnamed.jpg


2008年に開始した博士論文が先月正式に受理されました。
私事ですが、この26年お世話になった方が山のようにいて、このブログを読んで下さっている方もいるのでここに書かせていただきます。

昨年最終原稿を提出してから約1年。英国式博論は提出後が長いと聞いていましたが、もう茨の道、発狂寸前の細かな修正の連続。例えば "a history" ではなく"an history" との指摘。どっちでもいいじゃないか!

肝腎の中身ですが、財団入団時から即ち1991年から担当させていただいた情報通信がテーマです。貴重な経験をさせていただきました。この事業経験がなければ、2つ目の修論もこの1つ目の博論も書く事はありませんでした。
これも1989年1月10日、フィジーでカミセセ閣下が笹川会長に太平洋島嶼国のための衛星を打ち上げて欲しいと要望されたの全ての始まりです。
よってこの論文はお二人に捧げさせていただきました。

論文はオープンアクセスにしてあります。
http://hdl.handle.net/10523/7139 

改めてお世話になった皆様にお礼申し上げます。
電気通信大学名誉教授小菅敏夫先生 [2017年02月22日(Wed)]
小菅教授.png

右から小菅敏夫教授、田中正智教授、当方 90年代半ば。グアム大学のPEACESATにて


電気通信大学名誉教授小菅敏夫先生に20年ぶり位にお会いする機会を得た。
太平洋島嶼国の情報通信(ICT)政策で博士論文が通過したことをご報告させていただいた。

実は、小菅教授は、私より早く笹川太平洋島嶼国基金のICT事業に関わっている。
1988年の太平洋島嶼会議を受けて設置された島嶼国基金は、1989年1月の笹川カミセセマラ会談を受け、衛星通信事業を最初の案件として検討していた。

「1989.1.10笹川陽平会長カミセセ・マラ閣下会談と日本政府ODA案件USPNet」
https://blog.canpan.info/yashinomi/archive/1712


私が財団に入った1991年4月には前任者は既に退職しており、残された資料で過去の経緯を追っていたのだが、そこに小菅教授の名前がありお会いした。
小菅教授は同時にPEACESAT政策会議の申請案件を当方に示された。
これが笹川太平洋島嶼国基金が、そして私がUSPNetとPEACESATに深く関わり、2つ目の修論と博論まで書くきっかけであった。


当時、控えめに言っても島嶼国基金は瀕死状態だった。前任者は、努力の形跡は読めても、かなりひっちゃかめっちゃかにされたようだ。
まずは基金ガイドラインを作成した。そしてそのガイドラインに沿って遠隔教育研究会を立ち上げ、小菅先生に委員長になっていただいた。
この研究会の中でUSPNet申請書を作成して行ったのである。勿論USPが一人で作成できる訳がない。特に技術的面である。さらに、太平洋から追い払ったはずの日本がUSPの一番重要な遠隔教育の部分に出て来ることへの英米豪NZからの反発。そして独占体制の電気通信事業者からの反発を緩和して行く必要があったのだ。

そうして出来た申請書であったが、94年か95年頃、当時基金運営委員長だった笹川会長から「ODA案件にしよう」との鶴の一声。私が太平洋諸島フォーラム、南太平洋大学へのロビーイングを開始し、結果1997年の第一回太平洋島サミットの目玉ODA案件となったのである。

小菅教授には当時は言えなかった財団内での苦労などもお話した。
最後の方は、もう諦めろ、止めろ、と皆から批判されODAになる可能性も否定されていた。
それがODAになってしまったのだから批判していた人たちはおもしろくないわけだ。
ここら辺の経緯は日本政府の動きとして博士論文に書いた。

そう、英米豪NZそして独占体制の電気通信事業者からの反発だけでなく、財団内からの批判もあり、四面楚歌の当方は小菅教授を上手く利用させていただいたことも事実だ。だって私がなんか言っても「小娘が生意気な!」と反発を受けるだけだが、そこは小菅教授に前面に立っていただいた事で、少なくとも表面上は皆さん納得するのだ。
小菅教授との久しぶりの面談、色々思い出してケーキセットはおごらせていただいた。
アマルティア・センの学会に参加してー松浦氏からの回答 [2016年12月23日(Fri)]
今年9月に参加したアマルティア・センの学会で経験した事を下記に書いたところ、お名前をあげさせていただいた松蔭大学 松浦広明氏から下記のコメントいただいた。

アマルティア・センの学会に参加して
https://blog.canpan.info/yashinomi/archive/1666

「あっ、本人です。その節はすいません。「ケイパビリティ原理主義」は、どちらかと言うと、あの時、査読をしていたレビュアーのうち数人に対して言った言葉で、早川さんを指していた訳ではないのですが、確かにこういう事があったと神林さんに言ってしまったかもしれません。不快な思いをさせてすいません。

iPadが使える事それ自体がケイパビリティの拡大に結び付くかは、僕はやはりYesだと思います。ケイパビリティにもいろんな定義があるので、僕の知らないもっと狭い定義があるのかもしれませんが、一番、直感的な説明は、iPadの使用それ自体が直接、効用改善に結び付いている場合でしょうか。「ツールだからそれがケイパビリティの拡大に結びつかない」という状況を仮に作ってしまうと、効用は改善するけれどもケイパビリティは拡大しないという状況が出来てしまいます。そのような状況は、ケイパビリティにとってあまり望ましいPropertyではないのではないと言う説明なのですが、いかがでしょうか?」


この場をお借りしてコメントをいただきた事を、まずは感謝申し上げたい。その上で松浦氏の明らかな誤解を再度指摘させていただく。

当方が発表者に質問したのはiPadが使える事と、Capabilityがどのような関連があるのか?であった。これはICT4Dが陥る一番の落とし穴、即ち方法自体がが目的なってしまう例であるからだ。残念な事に発表者からは回答がなかった。しかし、発表者はモロッコの学生達は新しい学問を望んでいる、というような事をちらっと言っていた。iPadを使用する事で「新しい学問」にアクセスできるのであればそこにケイパビリティの議論の可能性があるだろう。どのような教育がされていて、それに生徒がどのような不満等を持っていて、何を勉強したいのか?等々。しかし発表者はその部分を議論しなかった。
当方は「ツールだからそれがケイパビリティの拡大に結びつかない」とは一言も言っていない。これは松浦氏の誤解でしかない。ICTというツールの使用をケイパビリティに結びつけることを当方が否定した事はない。当方の修論も博論もICTに関してである。松浦氏に参考のために書いておくと、当方はICT4D事業を学者としてではなく、実務者として20年以上担当してきた。そこで感じて来た事がICTそれ自体が開発の目的ではない、という事だ。しかし同時にICTの使用拡大自体が目的なってしまう例を山ほど見て来たのである。これは外山健太郎氏、沖縄憲章を草稿した外務省の冨田浩司氏、David Souterなどが強調している事でもある。

松浦氏からコメントをいただいた事を再度感謝すると共に、今一度センの議論に戻る事をご提案したい。




博士論文が承認されました! [2016年10月14日(Fri)]
300px-DOCTOR_OF_PHILOSOPHY.jpg

卒業式で着るローブはこんなのらしい。



2008年から始めた博士論文。
財団業務をしながらのパートタイムで継続し、昨年末にようやく完成し提出した。
笹川会長にも渡辺昭夫先生にもご報告させていただいた。

あれから9ヶ月。一昨日審査員3名から承認のレポートを受け取った。
もうこれで博士確実なのだそうだ。

昨年末に提出した後、超えなければならない山がいくつかあった。
指導教官が急にいなくなったのである。
新しい指導教官は英語のミスを多々見つけhisoryの前は a じゃなくて an よ、とか、引用文が長いから短くして自分の言葉に書き換えなさい、とか。内容ではなく主に英語標記の修正の指示が。。
日本語の修正であればすぐできるだろうが、英語の校正は地獄の日々。投げ出したくなる気持ちを抑えて、地道な作業を終え再提出した。

匿名の3名の審査員が、大学内、大学外、海外から選ばれ、数ヶ月かけて内容を審査。これは英国式で、米国式は審査員が全員大学内から選ばれる。
公正さから見れば英国式の方が上、との見解もある。
しかし時間がかかる。結果を待つ数ヶ月も精神的に大きなプレッシャーを感じた。

一昨日、博士論文として十分な内容であり承認する。加えて、ここが良い、悪いと書かれたレポートを受け取った。
大学内では、指導教官ではなく独立したcovenorが最終判断をするのだそうだ。

論文のタイトルは
"Possibility of Telecommunication Universal Service in the Pacific Islands; Case studies of Vanuatu, PEACESAT and USPNet"


来年の春には晴れて「早川博士」が誕生するはずです。
乞うご期待!


国際協力による太平洋島嶼地域の情報通信支援政策 - PEACESATのケーススタディを通してー完成版 [2016年10月11日(Tue)]
今から17年前、1999年に書いた2つ目の修士論文である。

1991年に笹川平和財団に入り、USPNet(南太平洋大学の遠隔教育ネットワーク)という事業を担当した。情報通信(ICT)の右も左もわからないところから始め、太平洋島嶼国の事も主に現場を中心に学んで来た。笹川太平洋島嶼国基金の笹川陽平運営委員長(当時)の下で7年かけてUSPNetを日本のODA案件にする事ができた。

自分が業務としてやって来た事、学んで来た事をまとめたいと思い、以前からその御著書で学ばせていただいた渡辺昭夫教授の門を叩いた。 その時私は試験を受ける前に担当希望教授に面談するという事をせず渡辺先生のお顔を知らず受験した。面接試験の時の事は忘れられない。面接官から”Why Aoyama?” と英語で聞かれた。私は「渡辺先生がいるからです」と答えた。その面接官は笑いながら「じゃあ落せないな」と言われた。その面接官が渡辺昭夫教授であった事は合格した後で知った。

渡辺先生の下で修論を書いて17年が過ぎようとしている。この修論をあるところに提出する必要があり、やっと見つけたウェッブデータの編集作業をした。懐かく、勉強した事が蘇って来る。稲村公望氏から紙媒体にしないと残らない、とアドバイスをいただき印刷物にする事とした。私が島のICTに関心を持ち続ける事ができたのは稲村公望氏のおかげである。奄美大島出身の郵政官僚だった稲村氏からは島にとってのICTの意味、哲学を授けていただいた恩人である。

実はこの修論を提出した直後自殺に追い込まれるような事が次々と自分の身の上に起った。あれから17年。まだ自分は生きている。この修論は自分が財団に入って為し遂げた成果の整理であると共に、自分の人生の中で重苦しい事件に覆われた存在だ。それを掘り返し世の中に出すのは自分がまだ生きている証拠である。

内容は古いし、自分の見解も相当間違っているかもしれない。それでも太平洋島嶼国のICTがどのような状況であったかを残す資料として、誰かの役に立つ事があれば幸いである。

PEACESAT修論表紙目次.pdf

PEACESAT修士論文全文.pdf
1989.1.10笹川陽平会長カミセセ・マラ閣下会談と日本政府ODA案件USPNet [2016年10月07日(Fri)]
20100802_01_01.jpg

南太平洋大学内で建てられたJapan-Pacific ICTセンター


2016年10月5日の笹川会長のブログに「南太平洋の少し西に位置するフィジー共和国を27年ぶりに訪れた。」とあった。その正確な日程は、星野さんが記録しているかもしれないと思い、コメント欄で質問した。
星野さんからメールをいただき1989年1月10日に笹川陽平会長がフィジーに行っている事が確認できた。私が財団に入ったのが1991年4月で前任者は既に退職しており、今まで確認できなかったのだ。

1989年1月10日、笹川陽平会長はフィジーで初代首相カミセセ・マラ閣下と会談され、マラ閣下から太平洋島嶼国のための通信システム改善支援の要請を受けたのである。

前年1988年8月26・27日には東京で「太平洋島嶼国会議」を笹川平和財団が開催し、その成果として設立された島嶼国基金がこの要請をフォローした。
結果的に8年後1997年4月の橋本ボルジャー共同記者会見で日本NZ協調ODA案件となる事が発表。後日、日本の支援に反発していた豪州もこれに加わり、3カ国による支援案件となった。

今でこそICTと開発は花盛りだが、当時のICTは独占状態で、品質も限られ、金額も高く、とても広大な太平洋に散らばる小さな島々に、福祉教育目的のICT支援は可能性としては考えられなかった。
最終的に笹川会長(当時は島嶼国基金運営委員長)の判断でODAにしよう、という事になり当方が画策する事となった。ICT音痴の外務省がこのマルチ案件且つICT案件を突然取り上げた背景にはPIF(当時はSPF)からの要請があったためだ。PIFこそ日本政府が主催する島サミットの相手であった。
その後、USPNetのODA案件をきっかけにさらなる22億円のODAでJapan-Pacific ICTセンターを南太平洋大学内に設置。現在は世銀、ITU, ADB等々の南太平洋大学を中心にICT支援が拡大、継続している。

1989年1月10日の笹川陽平会長カミセセ・マラ閣下会談がすべての始まりだったのである。


国際協力による太平洋島嶼地域の情報通信支援政策 - PEACESATのケーススタディを通して- 第四章 [2016年09月18日(Sun)]
(20年前に書いた2つ目の修論です。表がうまく入らないので後日修正します。)
国際協力による太平洋島嶼地域の情報通信支援政策
-PEACESATのケーススタディを通して-
早川理恵子 1999/1/10


第4章 英・米・日の太平洋島嶼国政策と通信政策
本章では太平洋島嶼国旧宗主国である英米、及び日本の通信政策と太平洋島嶼国への援助政策に関する動向を調 査分析する。
小国である太平洋の国々はこれらのメトロポリタン諸国の援助に大きく頼っており、国の通信環境もこれらメトロポリタン諸国の通信政策に大きく影響されるのが実情である。

4.1 英国
英国の通信の開発大英帝国の繁栄と情報通信政策
中西輝正はその著書『大英帝国衰亡史』の中で、英領南アフリカの基礎を築いたヤン・スマッツの下記の言葉を引用し大英帝国とは「威信のシステム」であったと述べている。(注1)
大英帝国が、世界中の諸民族や部族におよぼしている支配と統治の真の基礎は、軍事力などの力にあるのではなく、その威信と精神力(モラル)にあるのである。(C. J. Bartlett, ed., Britain Pre-eminent: Studies of British World Influence in the Nineteenth Century, 1969, p.192) 情報通信技術は国内的には国の秩序を維持し、 情報産業を育成するためには欠くことのできない手段である。 そして国際的には植民地の確保、貿易の発展、軍事上の優位をはかるためのかけがえのない武器であった側面は見逃せない。情報通信技術は「平和の増進」と「利益の追及」という2つの面が複雑に絡み合う中で、発展してきたと言える。通信は発信者のメッセージを伝えたり送受信者が情報意見を交換する手段にすぎない。これが、国の通信政策や通信事業ということになると、国の権威・利害がからんでくる。イギリスは他国にさきがけて産業革命が終り、工業と貿易により富を蓄積していた。そこに電気通信があらわれ、とくに海底電信に巨額の投資をして世界海底通信網を独占するにいたった。
ヨーロッパ各国はイギリスの独占を打破しようと試みたが一歩先に通信網構築を果たしたイギリスの既得権を奪うのは難しかった。また、イギリスはこれらの動きを妨害した。イギリスの公衆電気通信は1846年から私企業によってはじめられたが、会社間の競争が激化し市民の生活に弊害を生むまでとなった。
これらの問題を解決するために、電信法が定められ、1869年国内電信は完全に国営化 されたのである。このようにイギリスの蓄積された富は国の政策として通信開発につ ぎ込まれ、イギリスの通信省が1889年にはフランス、ベルギー、オランダ、ドイツの各海底ケーブルを買収し、ヨーロッパ電気通信事業をも独占するにいたったのである。
同時に北大西洋横断ケーブルに始まった、ヨーロッパ外での電気通信は徐々に拡大され、1908年にはイギリスが運営する海底ケーブル網は世界の49.6%の253,898kmに及んだ。


  1904~1906年における年平均貿易額(単位10億マーク) 1908年におけるケーブルの長さ

  輸入 輸出 計 (Km)
イギリス 10.14 6.84 16.98 253,898
ドイツ 7.17 5.77 12.94 30,167
アメリカ 4.45 6.51 10.96 92,818
フランス 3.87 3.83 7.7 43,115
イタリア 1.7 1.38 3.08 1,090
日本 0.8 0.74 1.63 8,084

表2 20世紀初頭における主要国のケーブル長と貿易額の比較
(出所)上田弘之『ITU小史』(財)日本ITU協会 264頁
世界の重要点を着々とつなぎ、膨大な海外市場や植民地を掌握し、軍事・政治・貿易上ゆるぎない基盤を作ったことが大英帝国繁栄のひとつの要因である。電気通 信の軍 事利用イギリスが世界の海底ケーブルを独占したことは、当時ヨーロッパ各国は平和通商貿易と交通運輸のためと考え、軍事・外交上の武器として利用しているとは想像していなかったようである。 それを知ったのは第1次世界大戦が始まってからである。イギリスは戦争中、敵国の通信回線を切断することなどで妨害に成功。同盟国もイギリスの回線にたより、膨大な通信費がイギリスに流れた。
これらイギリスの電気通信における覇権の要因は下記の通り、豊富な資金とデファクトスタンダードを作っていったことにある。(表2)
バツ1 潤沢な資本
バツ1 英帝国の植民地の繁栄と大規模な通商上、航海上、そして軍事上の管理の必要性
バツ1 海底線絶縁体製造権の独占
バツ1 ケーブル製造会社の早くからの設立

Cable & Wirelessの発展と現状(注2)
大英帝国政府は1929年にイースタン電信会社とマルコーニ無線会社の合併を促し、インペリアル・アンド・インターナショナル・コミュニケーションズを成立させた。同社は1934年に社名をCable & Wirelessに変更。1945年の帝国通信会議での提案を受け、1947年大英帝国政府は同社を国営とした。 1979年保守党が政権についたことで1981年には民営化された。さらに1996年から国際公衆電気通信交換網が複占(BTとマーキュリー)であったが市場開放され競争状態になった。そして現在では英国のすべての公衆電気通信事業者が民営となっている。
しかしながら、英国の大手通信事業者2社British Telecom(BT)とCable & Wireless の15%を超える株式の取得を制限する権限を政府が保有している。現在Cable & Wirelessは本社を香港に置き55カ国以上で事業展開している。各国政府、企業、公的機関等とのジョイントベンチャーもしくは単独経営を展開している。その事業展開はまさにTrans National Companyとしての性格を有していると言えよう。
1990年には、イギリス・中国・香港の合併企業アジアサット社を設立。同衛星は中国所有の国内通信用であるが北ビームと南ビームで中東から極東までの広いビームエリアを持っていることが特徴である。
Cable & Wirelessは1998年には世界1700万の顧客にサービスを提供している。グループの収益は94年には4,699百万ポンドであったのが95年には5,133百万ポンド, 96年には5,517百万ポンド, 97年には6,050百万ポンド, そして98年には7,001百万ポンドとここ数年の伸び率は高い。
事業展開をしてる55カ国中には太平洋島嶼国を始めとする多くの途上国も含まれ、経 済合理性が低いこのような地域に対しCable & Wirelessがどのような経営理念を持って事業展開をしているのか、また国際通信事業者としてユニバーサル・サービスをどのように捉えているのか調査する余地は本研究ではなかった。
しかしながら、少なくとも大英帝国の植民地ネットワークを基盤にしてCable & Wirelessという通信事業者が現在に至るまで成長し続け、今後は世界的な通信市場の自由化により、より一層の発展拡大につながっていくことが予想できるだろう。
英連邦の役割と現状
イギリスの海外支援は国際開発省(Department for International Development: DfID)の責任の下に一元的に行われている。その特徴として英連邦諸国に対する援助が 51.8%と大きな比重を占めていることが上げられている。(注3)
ここでは太平洋島嶼国の多数がそのメンバーとなっている「英連邦」について見ていきたい。1996年1月1日英国は南太平洋委員会から脱退した。これは英国が当時の保守政権の下、財政緊縮のためと海外支援はEUなどの国際機関を通じて行うといった 政策を反映して行った決断である。英連邦メンバー国が多い太平洋島嶼国にとっては、ショックなことであったようだ。 しかし協調外交を展開するブレア政権になってから急遽にその態度を変え、1998年1 月1日再加盟することになった。87年の無血クーデター以来英連邦のメンバーシップ を剥奪されていたフィジーは人口の半分を占めるインド人の待遇を大きく改善した憲 法の修正を行い、1998年再び英連邦の仲間入りをした。
フィジーのランブカ首相はイギリス女王をフィジー共和国の国家元首として迎えたいとの発言もしている。 また、ツバルは1995年その国旗から旧宗主国である英国のユニオンジャックを一旦取り外したが、翌年1996年には元に戻した。イギリスの太平洋島嶼地域へのプレゼンスは多分に中西が指摘するように「威信」という精神要素が強いと思われる。(注 4) "Victoria Street", "George V High School"など植民地時代の名称は現在も使われ、1998年11月には英国王室のアンドリュー皇太子が太平洋島嶼国を訪問し、各国で歓迎を受けている。また同年南太平洋大学に英国情報センターが新たに設立されることが決まり、その開幕式に皇太子も出席したそうである。過去にはエリザベス女王も同地域に訪問し、各国の指導者の中にはSirの称号を英国王室から貰う人も少なくない。 中西は英国が1997年に香港を手放したことが大英帝国の幕引きとなった、と言うがその残影は少なくとも太平洋島嶼国に色濃く残っているように思える。(注5)
現在では太平洋島嶼国の主要な援助国ではない英国は、少なくとも旧植民地であった太平洋島嶼国の人々からはその文化的遺産をもって今だ強い支持を得ているといえよう。(表3参照)そしてその遺産は南太平洋大学の遠隔教育ネットワークを始め、太平洋島嶼国を結ぶ重要な共通文化となっている。
英連邦とは?
地球上陸地面積の4分の一、世界人口の6分の一を長期支配し、世界秩序の担い手と なった大英帝国の繁栄は、長期の衰退プロセスを辿り、英連邦という一つの残影として今に形を止めていると言えよう。中西は「英国は『英連邦』という曖昧なつながりによってなんとなく帝国の余韻とフィクションにすがり、帝国の解体にともなう痛みを和らげようとした」と述べているが、(注6)実際には具体的活動を展開する実体のあるつながりである。 そして、大英帝国の面影は現在でも旧植民地の行政や社会制度と人々の価値観の側面に強く止まり、米ソ2大国の冷戦構造終結の後の新たな世界秩序模索の中で、見過ごせない存在であると考える。
英連邦の組織(注7) 英連邦は独立国からなる任意団体で、国際的目的に向けて、相互支援、共同活動を行う。英連邦はかつて大英帝国の家族として、現在は共通の遺産である言語、文化、教育を基礎に、偉大なる信頼と相互理解をもって協力しあう関係を築いている。加盟国 には世界で1番大きな国土を持つカナダ、2番目に人口の多いインド、世界で1番小さな共和国ナウル、世界初の工業国イギリス、アジアの虎と言われるシンガポール、産業化が急速に進むマレーシア、GNPの最貧国モザンビーク、タンザニアそして隔離された小さなたくさんの島嶼国家とその多様性が特徴である。
バツ1 54ヵ国の加盟国
バツ1 加盟国は南半球、北半球を含む地球上のすべての大陸とすべての海洋をカバー
バツ1 世界の4分の一の国家と人口を抱える
バツ1 世界のほとんどの宗教と、人種と政治的思想をカバーする
バツ1 豊かな国と貧しい国、大きな国と小さな国が含まれる
バツ1 共通の教育システムを持っている
バツ1 英語が共通言語である
バツ1 小国の3分の2をカバーする

英連邦の特徴と活動
英連邦の力は、継続的な相互協力、コンサルティング、コーディネーションの努力から導かれる活動にある。2年ごとに開催される英連邦首脳会議の他に、経済、教育、農業など閣僚会議が定期的に開催されている。以下は具体的な相互協力事業の事例である。

バツ1 地域投資基金の設立
バツ1 株式市場の設立支援
バツ1 マクロ経済政策への専門的支援、税制度、情報・統計管理の支援
バツ1 会計処理のコンピューターシステムの開発と配布。

現在40の英連邦国と7つの非加盟国の政府および中央銀行がこのシステムを利用し
ている。高度な技術を持つ専門家、技術者の交流
Commonwealth of Learningなどの活動組織の設立Commonwealth of Learning(COL)(注8)
英連邦事務局はイギリス政府の外務英連邦事務所(Foreign & Commonwealth Office)に置かれ、イギリス政府の外交政策と英連邦のネットワークは強く結び付けられている。英連邦が「曖昧な」つながりでない証拠に次の様な活動組織をいくつも設立していることが上げられよう。その中でも太平洋島嶼国の遠隔教育、特にUSPNet 運営のアドバイザー的役割を持つCommonwealth of Learningについてその詳細をまとめる。(注9) COLは1988年にカナダに設立された遠隔教育のコンサルテーションを英連邦メンバー国を対象に行う機関である。
バツ1 The Commonwealth Foundation
バツ1 
Commonwealth Network of Information Technology for Development (COMNET-IT)
バツ1 
The Commonwealth Broadcasting Association (CBA)
バツ1 Commonwealth Telecommunications Organisation (CTO)
バツ1 Association of Commonwealth Universities
バツ1 
Institute of Commonwealth Studies (University of London)
バツ1 Commonwealth Youth Program

バツ1 Commonwealth Institute (Kensington High Street, London)
COL組織の設立と目的COLは1987年にバンクーバーで開催された英連邦首脳会議 における提言に基づき1988年9月設立された機関。 遠隔教育技術や情報通信を利用し、教育の機会を広げるとともにその質を高めることを目的としている。各国の政府、教育機関等との連携協力を図りながら、各国の経済的社会的ニーズに見合った人材育成を可能にする教育機能の強化を目指す。 本部はカナダのバンクーバーに置くが、カナダ政府からは独立した国際機関であり、全英連邦国から選出された17名からなる理事会によって運営されている。なお、 COLは唯一本部を英国外に置く英連邦の機関である。 1988年の設立時には英連邦基金から当面5年間の活動資金として1、500万ポ ンド拠出された。英連邦各国から任意に資金が提供されるほか、各事業ごとに外部機関からの資金援助、委託金を受ける。本部を置くカナダ政府とブリティッシュコロンビア州政府は、本部事務局の場所、機器等を提供している。
COL設立の背景COL設立には遠隔教育による人材育成の目的の他に、英連邦のネットワーク強化の意味があった。
環境破壊・資源の枯渇等、ますます混迷を深める地球的諸問題に直面 して、人材育成分野、特に途上国における教育機会の拡大がこれまでになく切望されていること。そして、今後遠隔教育が新たなツールとして注目を浴びてきている。
急激に変化する国際情勢の中で、従来の英連邦ならびにその機関の在り方に懐疑 的な世代が連邦国の中枢に台頭してきた。英連邦加盟国の連携を新たな角度から 維持・促進していけるようなフレームワークが模索されていたこと。
英連邦は、高度な通信技術を所有する先進地域と、教育機関の一般大衆への一層の拡大を必要としている発展途上国地域からなる。すなわち、英連邦は遠隔教 育事業を通して加盟国の連携強化を図るとともに、途上地域の経済・社会発展 を促進する役割を明確にすることによって、英連邦の国際社会における存在意義を明示できる。

4.2 米国
太平洋島嶼国との関係
太平洋島嶼にはハワイ(米国に編入されたのは1898年)アメリカンサモア、グアム、 北マリアナ連邦の米領が存在する。また、戦後アメリカの信託統治下にあったミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国、パラオ共和国は独立したとはいえ、米国と自由 連合協定を締結し、アメリカの傘下にあると言えよう。冷戦期には、ハワイからクワジェリン、グアム、沖縄、スービックを結ぶシーレーンは軍事的に重要な意味を持っていた。(注10)
冷戦崩壊以来、米国の太平洋島嶼政策は視点を失い揺れているようにも見える。しかしながらそのような中においてもハワイは太平洋情報の発信基地であり、またグアム、ハワイには大きな米軍基地が存在し、人々の生活は基地経済に支えられている。 独立した3つのミクロネシア諸国は自由連合協定で決められた自立のための15年間の 財政支援の延期を必要としている。 そして、多くのミクロネシアの人々がアメリカ本土へ教育と雇用の機会を求め移動している。米国の太平洋島嶼地域における役割は大きい。なお、主に米国の国務省がこれらの地域を担当している。(注11)
Pacific Islands Development Program(PIDP)の役割
PIDPは1980年にハワイの東西センター内に設立され、研究、人材育成、情報発信な どの活動を推進している。東西センターは米国のアジア太平洋戦略の拠点ある。PIDP は太平洋島嶼域内の8つの政府間地域機関の一つで、太平洋島嶼国の首脳会議と、毎年開催されるStanding Committeeにより運営指針が策定される。 1990年にはブッシュ大統領の提案により米国と太平洋島嶼国の経済的関係を促進するためのJoint Commercial Commission(JCC)がPIDP内に設置された。 JCCの設立の背景には当時Johnston島を軍事兵器の破棄に使用することを決めた米国への反発を押さえる目的があったと言われる。 1998年2月に開催されたPIDPの第25回Standing Committee Meetingでは、フランス政府およびフランス領ポリネシア政府から事務所をタヒチに移動することが提案されたが、東西センターとの今までの関係、特に域内の地域機関の中で米国がイニシャ ティブを持っているのはPIDPだけであるという点を各国のリーダーが重視し、この提案は却下された。(注12)
ハワイ大学の役割
ハワイ大学は米国の50番目の州の大学として、州内に10のキャンパスを設置し、州 のニーズに答えつつ、高等教育を市民に提供している。
Manoa, Hilo, O'ahuの西とleewardに1校づつ、 さらに市民の広い層が容易に教育サービスを受けられるようCommunity CollegeをO'ahuに4校、Maui, Kauai Hawaii 島に1校づつ設置している。 大学の特徴の一つにハワイ、アジア、太平洋の要素を持ちつつ国際的指導力を発揮する役割を持つことが述べられている。大学の共通の価値観には「アロハ精神」が含まれていることが興味深い。(注13)
校章にはハワイ州のモットー、"The life of the land is perpetuated in righteousness. Ua mau ke ea o ka'aina i ka pono"が記されている。 大学のモットーは"Above all nations is humanity"でこの言葉を反映し生徒の割合は、西洋人20%、日本人20%、フィリピン人15%、ハワイ人13%、その他32%と なっている。1907年College of Agriculture and Mechanic Arts がManoa校に設置されたのが始めで、1920年には大学に昇格した。大学がハワイの精神や文化を重要視していることは興味深い。 ハワイ文化とはポリネシア文化であり、ニュージーランド、ハワイ、イースター島を頂点としたポリネシアン大三角形は太平洋を広く占有している。また、同じポリネシ ア文化圏のトンガ、サモアからの移民や出稼ぎ労働者がハワイには多い。ハワイが米国のアジア太平洋戦略の拠点としての地理的・文化的条件を十分満たしているといえよう。自ずとハワイ大学が太平洋島嶼研究に力を注ぐことになる。
1950年Pacific Islands Studiesが同学内に設置されて以来、ハワイ大学は太平洋島嶼 国の政治、福祉、環境等に特別なコミットメントを持つようになる。1950年という 年月が冷戦が始まる時期と一致していることも興味深い。現在はManoaキャンパスだ けでも約200の学科が太平洋島嶼地域に関連した研究を行っている。その中でも自然科学、物理科学と熱帯農業学科が太平洋島嶼地域に関する多くの研究を進めている。 Pacific Islands Studies自体は文化人類学、歴史、地理、Indo-Pacific言語などの学問を中心に太平洋島嶼研究学位と修士を提供しており、その点では米国では唯一の学 科である。米国本土で太平洋島嶼研究をしているのは他にオレゴン大学があるが、ハワイ大学の比ではない。
グアム大学の役割
グアム大学はミクロネシア地域で唯一の総合大学としてミクロネシア地域全体に高等 教育の機会を提供することがそのミッションの一つとなっている しかし、現在グアム大学は米国の財政支援のカットと主に日本のバブル崩壊の影響を受けた経済の落ち込みのため、他のミクロネシア諸国の面倒を見ることを重荷と思っ ているようである。 他方グアムは米国の準州としてまた基地経済の恩恵を受け、さらに日本を始めアジア諸国の経済的関係も深くミクロネシア地域の中では最も経済的に発展した場所である。よって、雇用の機会の少ないミクロネシア諸国からの手稼ぎや留学を多く受け入れている。同大学内にはMicronesia Area Research Centerがあり、ミクロネシアおよび太平洋島嶼地域研究の拠点となっている。

情報通信政策
1800年代後半、アメリカにベル電話会社が設立されたが、資金不足のため国内の公衆回線網開発のみに専念。太平洋への進出は2つの大戦を機に軍部によってなされた。 航空無線は陸海軍によって重視され、特に切断される可能性の高い海底ケーブルに変わる無線通信の開発に力がそそがれた。
このようにして、アーリングトン、サンディエゴ、真珠湾、グアム、フィリピンを結ぶ広範囲な無線網が大戦前にすでにアメリカ海軍によって建設されていたのである。 1957年、旧ソ連がスプートニク打ち上げに成功し、宇宙開発の先を超されたアメリカは、翌年1958年にはNASAを設立した。 その後ケネディ大統領のイニシャティブで世界情報通信網構築のためのINTELSAT (国際電気通信用衛星運営のための国際組織)を設立。1969年に国防総省は各地に分散されている軍事研究をコンピューターで結ぶARPANETを稼働した。世界秩序管理のための軍事利用を動機として大英帝国やアメリカが世情報通信技術を開発してきたことは明らかである。 ナイ論文の「情報の傘」の構想は、100年以上前大英帝国が大規模な国家による海外侵出と電気通信の発展の歴史とともに、有効な戦略として認識されていたのである。 同論文でナイがこのことを強調したのは、1つにアメリカ国内に向けて情報技術開発の必要性を改めて説かなければならなかったこと、2つ目には世界規模の課題(経済、環境、民族問題等)が以前より複雑多岐に渡り、より強固な統治を必要とし、そこには当然アメリカのリーダーシップが発揮されなければならないことを再確認する必要があったのだと思われる。(注14)
米国の有力シンクタンク、ハーバード大学の科学・国際問題センター、ニクソン平 和・自由センター、ランド研究所、と共和党マイケン、民主党ナン上院議員らで構成する米国益委員会(Commission on America's National Interests)は1996年7月、 米国の国益に関する報告書を公表した。(注15)米国の国益に関する中心的問題を正確に提示し、それに対する最善の回答を示したものである。
その中で今後10年間の米国の国益への挑戦として11の項目が上がっている。その うちの一つが「サイバースペースと情報テクノロジー」である。同報告書では1991年の湾岸戦争を振り返り、「情報テクノロジー分野での支配ほど、米国の安全保障上の利益が当然視される分野はほかにない」としている。米国の国防省が開発の源流となったインターネットは、核兵器による攻撃またはテロ攻撃に耐えられるだけの十分強固な分散的な指令(Command)、管制(Control)、通信(Communications)、情報 (Intelligence) C3Iの能力を作りあげる手段として立案されたものである。さらに非軍事的理由として2つの米国の国益にとって極めて重要であるこが指摘されている。 第1に情報テクノロジーが今後数十年間の経済的繁栄の推進力になるということ。 第2に米国の情報テクノロジー支配は、広い意味では、米国自身を含む世界全体での文化的発展に、すなわち米国の価値観を世界に見せることによって、短期的な軍事上の利益ではなく、世界で唯一の超大国として米国が長期にわたって成功する重要な手 段である、と述べている。 他方、情報システムへの依存度を高めることは、結果的に脆弱性も伴う事実を指摘している。この点に関して、特にインターネットは米国政府が開発を手がけたとはいっても、世界規模で自己増殖をし続けた、管理体制なきネットワークとも言える。その技術的制度的脆弱性は国際社会が協力して取り組むべき共通の課題であり、「インターネット・ガバナンス」という言葉も生まれた。 他方、ゴア副大統領が提唱する「情報ハイウェイ構想」は何をめざしているのか。政府主導で策定された「情報ハイウェイ構想」は、米国の企業からの圧力を受け民間部門の投資を促進することを第一原則とした「全米情報インフラ(National Information Infrastructure, NII)」として1993年9月15日に発表された。(注16)
林、田川はこのNII構想の中で最も注目すべきは「ユニバーサル・サービス」を9つの目標の一つとして明確化したことである、と指摘する。そしてゴアの言葉を借りれば「ユニバーサル・サービス」とは情報化社会で「持てるものと、持たざるものを作らない」ということである。 米国のゴア副大統領が提唱する世界情報通信基盤構想は、情報通信インフラの開発とその市場の自由化が世界的に加速することで次世代の経済発展の重要な手段となることが強調されている。しかし市場の自由化と競争によって派生するであろう、より一層深刻な問題である情報格差の問題を解決する具体策が充分協議されていないのではないか。競争至上がもたらす弊害を、(注17)途上国や小国の立場から見直し、国際的なユニバーサル・サービスの実現に向けての国際協力の努力が必要になってくるで あろう。
ユニバーサル・サービスとは、一般にはどんな物理的環境にいようともあまねく平等に電気通信のサービスが受けられることであるが、 情報通信の自由競争はそれを可能にしない。今までは独占経営によって、山奥の一軒家でも人口の少ない離島へも、内部相互補助の仕組み、即ち東京-大阪間のような儲かっている回線の収益を儲からない東京-沖縄間の回線に補助するような仕組みが可能であったわけである。
自由化になればクリーム・スキミングと呼ばれる、儲かる地域での価格競争が始ま り、あまねく平等なサービスが不可能となるのである。このような弊害はすでに航空業の自由化で顕在化しているという。 林紘一郎、田川義博はその共著『ユニバーサルサービス-マルチメディア時代の「公正」の理念』の中でこの「ユニバーサル・サービス」の概念が21世紀に向けて情報化社会が形成されていく過程で、最も重要な基本理念となりつつある、と述べてい る。(注18)
また、これらはひとり電気通信事業のみならず、他の公益事業にも普遍的に適用される課題であることを指摘する。同書では「ユニバーサル・サービス」の語源を解明している。最初に「ユニバーサル・サービス」が使われたのは、アメリカで独占経営を行ってきた電話会社AT&Tの1900年初頭の経営戦略"One System, One Policy, Universal Service"であると述べる。即ち、独占体制によって初めて離島や社会的弱者である経済的・地理的にギャップを持つ人々に通信のアクセスが可能であるとした、「きわめて生臭い」イデオロギーであった、というのである。(注19)
他方、世界銀行の調査では途上国の情報通信市場が自由化することにより格段と情報の環境が改善された事実があげられ、情報通信分野の市場競争の有効性を説く。しかし、果たしてそうであろうか。規模の経済が成り立つ地域と、途上国の中でも太平洋島嶼国のような経済的合理性の低い地域にも市場競争原理は有効に働くのであろうか。ここで独占体制が通信の発展を妨げた、とする意見に対し、ユニバーサル・サー ビスの理念を持たない通信事業者のあり方に問題があるのではないか、ということを主張したい。林・田川は「グローバル化の波と共に、主権国家のボーダーが次第に低くなり、やがては意味を持たなくなれば、今度は世界規模で、かつてのアメリカが 「ユニバーサル・サービス」の達成のために直面した状況(中略)の問題に直面することになる。そのためには利益の高い区間から得た超過利潤を、利益が生じない区間 に割り振る仕組み、則ち内部相互補助の世界システムを工夫しなければならない。」 と述べる。(注20)
そして"One Policy One System, Universal Service"という独占体制を経営理念として上げたAT&Tの中興の祖セオドル・ヴェイルのような強力なリーダーを世界は必要 としていると述べる。

4.3 日本
太平洋島嶼国との関係
日本と太平洋島嶼国との関係は第一次世界大戦時より第二次世界大戦終了までのおよそ30年にわたるミクロネシアの委任統治に始まる。戦後太平洋島嶼国が再び日本外交の視野に入って来るのは1970年代後期になってからである。1980年に発表された大平首相の政策研究グループが検討した「環太平洋協力構想」で太平洋島嶼国問題も取り上げている。(注21)
1987年には倉成外務大臣(当時)が大洋州を訪問し倉成五原則と呼ばれる援助施策を発表し(注22)翌年1988年には国内で初めての太平洋島嶼国に対する政策提言書 「太平洋島嶼国に対する日本の援助への提言」が社団法人研究情報基金の南太平洋委 員会(委員長渡辺昭夫)によってまとめられた。 続いて1991年JICAが「大洋州地域援助研究会」を設け報告書をまとめている。前者では主に日本の積極的役割と同時に域外も含めた国際的コミュニティのつながりを重視し、太平洋島嶼国の歴史・文化背景の尊重した土着的発展を重視することが上げられている。(注23) 後者は経済的自立、隔絶性の克服、保存型開発を強調している。(注24)
日本は、島嶼国の独立に伴い次々と外交関係を樹立し、現在はフィジー共和国、パプ アニューギニア、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島に大使館を開設、サモア、トンガ、フィジー、ミクロネシア連邦、パラオ共和国、マーシャル諸島にJICA事務所を開設している。これらの国への援助額はODA全体の2~3%だが、額にして200億円前後になる。これはこの地域の主要な援助国であるオーストラリア、ニュージーランドの援助総額が日本に比べ小さいので、両国の太平洋島嶼地域への比重は高いものの、日本が上位援助国の地位を占めている。(表3参照)
援助の特徴として広大な漁業水域を有し、日本の伝統的な漁場であることから水産業 の支援が多い。地域機関SPFのダイアローグパートナーとして89年より原則として外務政務次官が対話に出席している。また、SPFと日本政府の共同出資機関、太平洋諸島センターを1996年9月東京に開設し、同地域に対する経済投資の促進を進めている。また、毎年フォーラム議長国首相の招聘を行うと共に、97年10月には日本政府主催としては初めての太平洋島嶼国首脳会議を開催した。

太平洋島嶼国における情報通信研究と援助
日本国内でもUSPNetおよび太平洋島嶼国の通信ネットワークに関する技術的、社会 学的アプローチの研究が1970年代から進められてきている。
通信技術を中心とした研究は主に東北大学、電気通信大学、郵政省通信総合研究所によって行われている。政策的側面 から郵政省、太平洋学会、放送教育開発センター等が研究報告書を策定している。(注25)
PECCやAPEC等の地域的枠組みにつながった「環太平洋協力」や「太平洋共同体」 構想は主に先進国とASEAN諸国の経済協力を重視したものであった。(注26)
他方情報通信分野では当初より熱心に太平洋島嶼地域へ目を向けている。これは日本が数百の有人離島を抱え、政府主導で通信インフラの整備を行ってきた国である、ということと無関係ではないように思える。しかし、これらの調査研究は実際の支援事業には結びつかない。筆者が観察する範囲では、研究成果が現地に公表されない、もしくは現地との接点がなかなかないのである。それだけ太平洋島嶼国は日本から遠い存在であることが要因のように思える。(注27)

国 名 91年 92年 93年 94年 95年
フランス 631.1(10.6) 91.9(12.7) 37.5(12.7) 80.7(11.8) 97.1(14.0)
豪 州 338.8(46.3) 29.9(47.2) 95.8(41.3) 22.6(39.3) 31.0(35.7)
米 国 39.0 (0.5) 23.0 (0.4) 181.0 (2.6) 337.0 (4.6) 221.0 (3.9)
日 本 110.5 (1.2) 165.6 (2.2) 138.5 (1.7) 127.7 (1.3) 159.9 (1.5)
ニュージーランド 43.0 (52.8) 49.1 (85.2) 53.0 (72.2) 55.8 (65.5) 70.0 (71.8)
英 国 26.3 (1.4) 25.7 (2.0) 18.4 (1.2) 19.5 (1.2) 12.5 (0.7)
全DAC諸国計 1.212.9 (31.3) 15.1 (31.4) 44.6 (31.6) 66.0 (41.7) 10.8 (4.2)

表3 大洋州地域に対するDAC主要援助国の二国間ODAの推移
(支出純額、 単位:百万ドル)

その中で笹川平和財団内の特別基金である、笹川島嶼国基金がUSPNetおよび太平洋島嶼国の通信ネットワークに関わってきた役割は現地のニーズと日本の関心を結び付けることにあった。事の発端は1989年フィジー共和国カミセセ・マラ首相(当時)が日本船舶振興会理事長笹川陽平氏にPEACESATに変わる衛星通信の支援を求めたことにある。その後、日本船舶振興会の関係団体で当該地域を担当する笹川島嶼国基金が中心となってフィージビリティスタディ、関係機関との協議・調整を行い、ODA案件に結び付けることに成功させた。(注28)
USPNet支援の意義
1997年4月の橋本総理NZ訪問時、ボルジャー首相との会談の中で、日本とニュー ジーランドが行うアジア太平洋協力の協調案件としてUSPNetの再構築が日本側から提案され、話し合われた。(注29) その後、1997年10月に日本政府が開催した「南太平洋首脳会議」宣言文第9項(注30) でも、南太平洋地域の遠隔教育を関係国が支援することを歓迎する旨述べらている。その後、当初日本政府が同事業に共同参画を呼びかけていたが、その意思を示さなかったオーストラリア政府も態度を変え、これに加わることとなり (注31) 、太平洋島嶼国を巡って3国の協調案件として支援体制が組まれた。
太平洋島嶼国は冷戦終焉後の新たな世界秩序やアジア太平洋の枠組みの中で、特にソ連の脅威の後退とともに大国の関心が薄れてきている地域である。南太平洋大学 (USP)およびUSPNetはもともとオーストラリア、ニュージーランド政府が中心的役割を担って設立、構築してきた事業である。日本が行った今回の提案は両国の実績を評価しつつ、同地域で日本が新たなリーダーシップを積極的に表現したものとしてもっと評価されてもよいと考える。なぜなら、同案件が、現在活発に議論されているアジア太平洋情報通信基盤(APII)や世界情報通信基盤(GII)に対する以下の2点から重要な意味を持っていると考えるからである。
第一に、情報通信技術の開発に伴う、情報格差是正の側面。昨今、情報通信が軍事・ 経済の観点から語られる傾向が強いが、そもそもGIIが提唱された当初は、途上国支援を含む人類全体の福祉の向上という目的が強く出されていた。同案件はまさに途上国の教育改善を目指す情報通信開発でGII議論の見直しのきっかけを与えられるかもしれない。 第二にはUSPNetの政治的側面。国を超えた情報通信基盤構築の具体例はまだ他にない。少なくとも1960年代からUSPNet構築に向けられた努力は技術、教育ネットワーク構築以外に、各国の教育・郵政大臣から合意を得る作業や、国内・国際通信事業者との協議、さらに地域政府機関である南太平洋フォーラムなどとの協議・調整など政治的努力に向けられてきた。

注 釈
注1 中西輝政『大英帝国衰亡史』7-8頁
注2 Cable & WirelessのWebから主に情報を収集した。 http://www.cwplc.com
注3 外務省『1997ODA白書』を参照
注4 中西輝政『大英帝国衰亡史』7-8頁
注5 同前書305-327頁
注6 同前書321-322頁
注7 英連邦に関しては主に次のWebを参照。The Commonwealth http://www.thecommonwealth.org/
注8 COLの初代アジア太平洋ディレクター、Peter McMechan氏は以前USPで働き、初代のエクステンション所長を務めUSPNetの構築に貢献した人物である。
注10 マーシャル諸島は現在もクワジェリン環礁を米国の軍事利用のためにリースしている。米国から発射するミサイルの標的として、またスター・ウォーズの試験場としても使用されている。同国の閣僚の一人はクワジェリンがマーシャル諸島共和国と米国関係の基礎であると述べている。クワジェリンは、中央太平洋 に位 置し、ここには世界でも最も先進的技術を駆使したコンピュータ、ミサイル追跡機器、ミサイルの発射施設も置 かれている。 米国政府は、この基地に4 0億ドル以上を投資したと推定している。
注11 1998年11月クリントンはアジア諸国訪問の後にグアム寄った。米国大統領がグアムを訪れたのは、1986年のロナルド・レーガン大統領以来のことであった。 グアムに集まったパラオ、マーシャル諸島共和国、ミクロネシア連邦、キリバス共和国、およびナウル共和国の各首脳を前に次の様なことをクリントンは述べている。「自由連合諸国の首相の皆様方が、今後も成長を促進させ、優れた統治を続けていかれることを希望しています」「米国 は今後も、これらの諸国の経済を増強させるためにパートナーとしての役割を果たしていきます」「我が国は長年にわたり、自由連合国との間に独自で、有益な関係を構築し、維持してきました」「自由連合協定(The Compact of Free Association )があるおかげで、私どもは、100万平方マイルを超える太平洋地域の平和を一致団結して維持するとともに、経済発展を促進させることができるのです。米国はこの関係を非常に重要なものと捉えています。」
注12 1998年9月PIDP訪問の際、ディレクターHalapua氏へのインタビューから。
注13 ハワイ大学のシステムを貫く共通価値観として次の項目が上げられている。 aloha; academic freedom and intellectual vigor; institutional integrity and service; quality and opportunity; diversity, fairness, and equity; collaboration and respect; and accountability and fiscal integrity.
注14 ナイ(ジョセフ)、オーエンズ(ウィリアム)「情報革命と新安全保障秩序」 『中央公論』を参照。
注15 米国益委員会「米国の国益に関する報告書」『世界週報』1996年10/11 月号。
注16 NII構想 民間投資を促進する。また、その促進策として競争の活発化と税制の活用を図 る。 「ユニバーサル・サービス」概念を拡張し、再定義する。 技術革新とアプリケーション開発を促進する。 シームレスで双方向かつユーザー主導のネットワーク運用を行う。情報のセキュリティとネットワークの信頼性を確保する。無線周波数の管理を改善する。知的所有権を保護する。国内的には 州政府等と規制政策等の整合性を図ると共に、国際的には電気通信関連の製 品・サービスおよびコンピューターに関する海外市場の開放を図る。政府情報を入手しやすくするとともに政府調達を改善する。
注17 寺島実郎は「グローバリズムの受容と超克」『中央公論』の中で「競争至上のもたらす弊害とその皮肉な帰結として「寡占」の招来である。「非効率」とされるすべてのものを否定していく社会観はあまりに偏狭であり、浅薄な商業主義を蔓 延させるだけで、人類史の文化的価値を否定するものである。」と述べている。 実際に世界の通信市場では大手企業の再編統合は目まぐるしく、世界的なメガ キャリアを誕生させている。
注18 林紘一郎、田川義博『ユニバーサル・サービス』中公新書、11-13頁参 照。
注19 同前書、59-77頁参照。
注20 20. 同前書、198頁参照。
注21 渡辺昭夫『アジア・太平洋の国際関係と日本』160-163頁、178-179頁参照。
注22 倉成五原則 1.島嶼国の独立や自治を尊重し、これに敬意を払い、2.地域協力を支援し、 3. 域内の政治的安定を確保し、 4. 経済協力を拡大し、 5. 人々の交流 を推進することである。なお、渡辺はこの政策が「グローバルな安全保障上の考慮」からこの地域の重要性を強調している、と指摘する。同前書163頁。
注23 「太平洋島嶼国に対する日本の援助への提言」(社団法人研究情報基金)を参照。
注24 「オセアニア地域援助研究会報告書」(国際協力事業団)を参照。
注25 以下の資料を参照。郵政省、郵政省通信政策局『太平洋島しょ国の衛星通信 ネットワーク構築へ向けて』1990年。太平洋島嶼国通信の現状とその改善策研究部会、太平洋学会『南太平洋大学とUSPNET』1987年。川嶋辰彦「南太平洋大学衛星通信網USPNETの本格的救済と整備拡充の方向-わが国の政府開発援助(ODA)政策に対する提案-」『学習院大学、経済論文集』第24巻、第4号、学習院大学経済学会1988年。田中正智「南太平洋地域開発への提案-底密度と多様性への挑戦-」(援助への「提案」入選論文集)『国際開発ジャーナル』4月号、1988年。
注26 渡辺昭夫『アジア・太平洋の国際関係と日本』178-179頁参照。Back
注27 筆者は南太平洋大学の遠隔教育関係者から「日本人はUSPNetの調査のためたくさん来る。その都度私達は時間を取られるが調査の大部分の結果は私達に知らされない。それに比べオーストラリアやニュージーランドの研究者は成果を共有するし援助に結び付ける。」というコメントを聞き大きなショックを受けた。 このことがUSPNet再構築支援を日本が実現させなければ、という筆者の強い動機となった。
注28 USPNetが日本政府のODA案件として支援されるようになった背景は、本論文には直接関係ないのだが、特にUSPNetがカバーしないミクロネシア地域の関係者からよく質問を受ける。筆者はそのことを知る数少ない当事者の一人としてここで述べておきたいと思う。
USPNet再構築を最初に非公式に申請したのは、カミセセ・マラ首相(当時) で、これを受けた日本船舶振興会笹川陽平理事長は同案件について調査するよう、振興会国際部に指示を出し、国際部から笹川島嶼国基金に調査協力の依頼があった。筆者の前任者である当時の担当者は、国内専門家に情報収集すると共に在日フィジー大使やUSPの担当者と同件に関しコンタクトを取っていた。しかし、調査半ばで退職することになり、同案件は宙ぶらりんの状態になったのである。 1991年4月に笹川島嶼国基金研究員として入社した筆者は、フィジー出張(同年6月)際に、面会予定のUSP副学長Geoffrey Caston博士が日本からの直行便の隣席になるという偶然に恵まれた。Caston博士は冷戦崩壊後のロシアが主催する会議に出席した帰り道であった。フィジーまでの約6時間、USPNetを中心にUSP及び太平洋島嶼国全般 に関し詳しい説明を博士から受けることができたのである。 さて、筆者はUSPにUSPNet再構築と申請の強い意志があることと、実際にニーズが現場にあり関係諸国もそのことを認識していることを確認し、申請書の提出をUSPに持ちかけた。なぜならばUSPNet再構築のオプションはいくらでもあり、どのような仕様にするか、USPの意向なしには検討できないと考えたからである。ここで若干複雑な話なのだが、USPNetはもともと衛星や地球局を新たに設置するというハード支援のため、島嶼国基金のガイドライン範疇にはなく、ハード支援を可とする日本船舶振興会が申請を受ける団体となる。島嶼国基金はあくまでもその仲介者として申請書の提出を促したのである。 USPNetの再構築計画を策定するということはUSPにとって一大事であったようだ。COLは1991年8月に出したUSPNetに関する評価報告書にUSPが援助国に頼ることなく自ら道を切り開かなければならない、と書いている。USPもその重 要性を認識していたようで最終的に提出された申請書にはそのフレーズが引用されている。 申請書は各国の通信事業者の事情、ニーズ、通信環境の詳細、そして理想的な衛星ネットワークの仕様が書かれ、1994年日本船舶振興会に提出された。 笹川島嶼国基金はこのUSPNet再構築案件とは別に「太平洋島嶼地域の遠隔教育 調査研究」事業を1994/1995年に実施し、その中でUSPNetを巡る環境や関係者との意見交換も行い、さらに調査委員会委員長である電気通信大学小菅敏夫教授を中心に日本船舶振興会に対しUSPNet再構築案の説明を数回実施した。 しかし、振興会の担当者の異動もあり、同案件に対しあまり積極的な反応がな かったため、筆者は振興会の結論を待たずに1995年のフィジー出張の際、USP 副学長Esekia Solofa博士に日本のODA案件として提出することを提案した。2国間援助が基本の日本政府はUSPを支援対象としないため、同政府の公式な対話 パートナーである南太平洋フォーラム(SPF)から提出した方がよいであろうことを筆者はアドバイスした。 SPFはUSPを含む域内の地域機関の調整組織であるSPOCC(South Pacific Organizations Coordinating Committee)の議長を務めUSPの申し出を調整する役割がある。
筆者はここまでUSPNet再構築案をけしかけてきた責任と、USPの担当者が同案件に対し一番反対している各国の通信事業者との厳しい交渉をどれ程行ってきたかを知っていたため、余計なことと思いつつSolofa副学長に具申させていただいた。Solofa博士は同案件に関してSPFと協議を開始した。 ここでまた一つの偶然が重なる。日本政府は毎年、SPFの議長国首相の招聘を行っているが、1996年の議長はマーシャル諸島共和国大統領アマタ・カブア氏 (同年12月に死去)であり、カブア氏は当時USPの学長でもあったのである。 USPNet再構築申請書はカブア氏来日の際、SPF事務局長タバイ氏同席の下カブ ア氏から、外務省欧亜局局長に直接渡されたと聞く。しかし、本来ならばSPFは フィジーの日本大使館を通 すべきであったし、少なくとも大洋州課の事務方へ の根回し位 はしておくべきだったのである。 突然の申請は両者の面子を潰したこととなった。 その後、笹川島嶼国基金が同案件に関わっていたことを知る大洋州課から非公式 なクレームがあったことは言うまでもない。しかし、今となって考えれば通常のルートを通していれば同案件が日の目を見ることがあったかどうか疑問である。その後、申請書を受領してしまった外務省は、USPNetに関して調査を始め、1997年4月、橋本首相のニュージーランド訪問時にアジア太平洋協力の一環として日・NZの協調案件としてUSPNet支援を取り上げた。この頃は同案件 がどこでどのように議論されていたか筆者は情報を持っていないが、この事実を知った時の喜びは何物にも変えられないもであった。また、結果としてだが、 日本船舶振興会がUSPNet再構築案を却下したことはよかったのである。 なぜなら振興会が12ヶ国の多様な利害関係者との調整や、NZ・豪との協調案件に持っていくことはほぼ不可能に近いからだ。
注29 平成9年4月30日外務省資料 日NZ共同記者会見記録 橋本総理のコメント:
(3) 今日午前、自分(総理)はボルジャー首相と率直な大きな2つのテーマに ついて意見交換を行った。第1は、二国間関係で、日本とNZは経済交流、人的交流などの面で非常に密接な協力関係にあり、この様な友好関係を一層発展させるよう努力することを確認した。(中略)
(4) 第2は、地域問題と国際問題で、両国はアジア太平洋地域のパートナーとして密接に協力しており、今後ともAPEC、ARF、WTO、太平洋島嶼国支援などで協力を深めたい。特に太平洋島嶼国支援に関しては、南太平洋大学の遠隔教育に使用されている施設(USPネット)の改善のための両国間の協力について話し合った。また、ASEMに関し、現況を説明するとともに特にNZがアジア側として参加できるよう改めてNZのASEM加盟の支持を表明し、そのためには協力を惜しまない旨伝えた。また、中国、朝鮮半島、南太平洋の情勢などについても 意見交換した。
注30 Joint Declaration on the Occasion of the Japan-South Pacific Forum Summit Meeting
Heads of States and Governments and representatives of Japan and South Pacific Forum members (Australia, the Cook Islands, Federated States of Micronesia, Fiji, Kiribati, Nauru, New Zealand, Niue, Palau, Papua New Guinea, Republic of the Marshall Islands, Samoa, Solomon Islands, Tonga, Tuvalu, and Vanuatu) , in recognition of the strong bonds of friendship and shared interest between Japan and the Pacific region, met in Tokyo on 13 October 1997 to participate in the Japan-South Pacific Forum Summit Meeting (the Summit).
The Leaders renewed their commitment to work in partnership towards the sustainable development and economic and social well-being of Forum Island Countries (FICs), and unanimously declared as follows:
The Summit acknowledged the important role played by regional organisations in the Pacific, in particular, members of the South Pacific Organisations Coordinating Committee(SPOCC), in assisting FIC's efforts towards achieving broad based economic reforms and sustainable development and the need for appropriate support for these organisations. The Summit warmly welcomed and called on the continuing support of development partners to regional organisations in the region and highly appreciated the continued commitment by Australia, Japan and New Zealand in this respect, in particular, their commitment to the improvement of distance education facilities in the Pacific region, and their willingness to provide resources to this end. The South Sea Digest No.16 vol. 17 Oct.24 1997
国際協力による太平洋島嶼地域の情報通信支援政策 - PEACESATのケーススタディを通して- 第三章 [2016年09月18日(Sun)]
(20年前に書いた2つ目の修論です)
国際協力による太平洋島嶼地域の情報通信支援政策
-PEACESATのケーススタディを通して-
早川理恵子 1999/1/10


第3章 PEACESATの誕生から現在まで

広大な太平洋に散在する島嶼国にとって、情報通信開発は宗主国との協力関係を維 持し孤立をまぬがれるためにも、また域内の離島開発のためにも重要なファクター であった。
しかし、島嶼国の経済規模が小さいため、経済的合理性を情報通信分野にはなかなか望めず、旧宗主国の通信事業者による独占経営の下、離島の開発を含む福祉・教育のためのネットワーク作りが大きな課題となっている。 このようなニーズに応える実験プロジェクトPan-Pacific Education and Communication Experiments by Satellite(PEACESAT)がハワイ大学及び米国連邦政府のイニシャティブにより1970年代初頭に開始されたのである。

3.1 PEACESATの誕生
冷戦期
ケネディ政権下の宇宙開発1957年、旧ソ連がスプートニク打ち上げに成功し、宇宙開発の先を超されたアメリカは、翌年1958年にNASAを設立した。そして国防総省との共同実験として膨大な予算を宇宙開発にそそぎ込むこととなった。その後ケネディ大統領のイニシャティブで衛星の世界的平和利用を目的としたINTELSAT (国際電気通信用衛星運営のための国際組織)設立への努力が進められた。 1969年に国防総省は各地に分散している軍事研究をコンピューターで結ぶARPANETを稼働した。これは現在広く利用されているINTERNETの源流である。宇宙開発とATSシリーズ次々と打ち上げた通信衛星の実験に成功した次のステップとして、NASAは60 年代初頭、主に気象観測、宇宙調査の技術実験を目的に Applications Technology Satelliteの事業を計画した。 しかし、連邦議会の一部の議員から、NASAの今までの衛星の実験がCOMSATという一企業の利益に貢献するものではないか、との批判の声が上がっていた。これを憂慮したNASAは国防総省の意向 を含める形でATS-1の実験をスタートさせた。ATS-1は重量351.5 kg (775 lb), 幅1.5 mの本体の軌道運行に成功した。 これは、今までのどの実験衛星よりも大きく、より性能が高い衛星である。さらに ATS-1はC-band transponderを使用し航空機、 船舶、気象観測地と VHF 通信に成功した。8つのアンテナを搭載し各アンテナは5ワットの発信機能を備えている。また本体は太陽電池で175ワットの電力を補給することで安定した操縦を確保している。
同衛星はfrequency division multiple access(FDMA)を最初に成功させた衛星でもある。FDMAは各地点から発信された電波を一つ にまとめ、一箇所に届けるシステムである。ATS-1はまた白黒の気象カメラを搭載した衛星であり、初めて地球の気象観測の画面を継続的に写すことに成功し、雲の模様を分析することを可能にした。 1966年12月7日に打ち上げられたATS-1は通 信と気象観測データ収集に関する実験で大きな軌跡を残した。その後軌道を外れる1985年まで約20年間機能したのである。(注1)
1973年ニクソン政権下、オープンスカイ政策(注2)と予算削減の圧力を受けNASAは商業通信衛星の研究開発を一時中止し、すでに 研究がスタートしたATS-6を最後にATSシリーズは終了した。

ケネディの「平和の戦略」とINTELSATの設立
1961年ケネディ大統領が「1960年代中に人を月に送り、安全に帰還させる」と演説 で述べたことは有名であるが、同時に同じ演説の中で通信衛星を開発し、世界の情報通信の主導権を取るということも主張した。(注3)(付録資料3参照)
そして1961年12月の第16回国連総会におけるケネディの演説パラ グラフは以下のように世界平和、人類の相互理解のために世界の 人々が平等に衛星通 信を利用するという高い理想をうたい、同国連総会の決議1721号として採択されたのである。(注4)
"To this end, we shall urge proposals extending the United Nations Charter to the limits of man's exploration of the universe, reserving outer space for peaceful use, prohibiting weapons of mass destruction in space or on celestial bodies, and opening the mysteries and benefits of space to every nation. We shall propose further cooperative efforts between all nations in weather prediction and eventually in weather control. We shall propose, finally, a global system of communications satellites linking the whole world in telegraph and telephone and radio and television. The day need not be far away when such a system will televise the proceedings of this body to every corner of the world for the benefit of peace." Address Before the 16th General Assembly of the United Nations, John F. Kennedy, New York City, September 25, 1961(付録資料3参照)
このような世界的動きを背景としてINTELSATは、世界商業通信衛 星システムの設立を目指した米国の提唱により、1973年2月に法人 格を有する国際機関として再編成された。(表1)
1996年8月現在で139カ国の加盟国があり、本部はワシントンD.C.にある。 INTELSAT協定の前文には宇宙開発の世界的平和利用を目指したケネディ大統領の理想が反映されたものとなっている。
この協定の締約国は、衛星による通信が、世界的かつ無差別に、できる限り速やかに、世界の諸国民の利用に供されるべきであるという国際連合総会決議第1721号に規定する原則を考慮し(中 略)世界のすべての地域に対し拡充された電気通 信業務を提 供して世界の平和と理解に貢献する改善された世界電気通信網の一部として(中略)利用しうる最も進歩した技術により、全人類の利益のために協定を結ぶ。(付録資料5参照)

国 名 出 資 率
1. 米国 19.13847
2. 英国 9.191212
3. イタリア 4.868668
4. 日本 4.477335
5. フランス 3.662203
6. ドイツ 3.456507
7. アルゼンチン 2.988601
8. オーストラリア 2.821275
9. ノルウェー 2.446957
10. 中国 2.158526
11. インド 2.122446
12. 韓国 1.859056
13. カナダ 1.812032
14. シンガポール 1.627978
15. スペイン 1.578522
16. チリ 1.513018
17. イスラエル 1.450116
18. ブラジル 1.411102
19. オランダ 1.409548
20. コロンビア 1.308213

表1 インテルサット出資率表(上位 20カ国) (1996年3月現在)

設立以来INTELSATは競合する別の衛星システムに対し技術的経済的調整手続きを規定し、長らく国際衛星通 信のモノポリー経営を行ってきた。 しかし、1990年以来、電気通信市場の世界的な自由化の時代を迎え衛星システムの多様化を求められてきたことに応え、INTELSATも手続きの自由化、簡素化を促進している。 1995年8月、デンマークにて開催されたINTELSAT第20回締約国総会では「機構に よるサービスの提供は国内、国際の競争法に合致し、公正な市場環境を害さず、市場の透明化に寄与すること」という条件が認められた。(注5)
1995年のゴア副大統領が発表したGII: Agenda for Cooperation にはインテルサットの会社化、完全民営化も提案されている。(注6)

PEACESATの誕生
ケネディの宇宙開発は冷戦期における軍事目的 が背景にあるものの、同時にINTELSAT設立にむけた通信サービスの世界的平和利用を進めたリーダーシップの現れでもあった。 このような時代背景の下、NASAの実験衛星を利用した福祉・教育ネットワークの実験プログラムが太平洋島嶼国で始められたのである。1969年NASAは、実験衛星であるATS-1を使用した実験プログラムの申請を公募した。1966年に打ち上げられたATS-1はNASAの所定の実験を一通り終了し、他の実験にも利用したいとの考えからである。
米国連邦政府の教育省に勤務していたJohn Bystrom教授は過去に アメリカ東海岸の過疎地域教育に関わった経験から衛星を利用した 遠隔教育の効果 を期待し、太平洋島嶼国をカバーする実験計画を申請すべくハワイ大学へ移った。前PEACESAT本部の責任者Lori Mukaida氏に筆者がemailでインタビューしたところでは、Bystrom教授がこの地域に関心を持ったのは過去に平和部隊として 太平洋島嶼国で働いたことが理由であろうとのこと。また、連邦政府の教育省に在籍していたことがNASAとのコンタクトを容易にした理由であろうと述べている。PEACESATは形式的にはハワイ大学の事業ではあったがBystrom教授の強いリーダーシップなしには立ち上がらなかった、といえよう。(注7)
この計画はPan-Pacific Education and Communication Experiments by Satellite (PEACESAT)と称し、ハワイ大学のJohn Bystrom教授をリーダーにプロジェクトチームが組織され、1971年4月にスタートした。チームの2人の技術者はシンプルな機能を持つ八木アンテナと卓上ラジオで作動可能な低価格の地球局の設計に挑戦した。その結果、一つ600米ドルから2000米ドルのわずかな金額で部品を揃えることが可能となった。当初、 PEACESATはハワイ大学マノア校舎、ヒロ校舎、およびマウイ島のコミュニティカレッジの3箇所のみを対象としたコンピューターネットワーク実験を行うだけのプロジェクトであった。その後この実験の情報を得たニュージーランドのWellington Polytechnicが実験に参加することを申請した。Wellington Polytechnicは米国のコミュニティカレッジに準ずるものである。
外部から実験参加者を加え、徐々にPEACESATプロジェクトは太平洋に広がっていったのである。


USPNETの設立

1970年に設立 された南太平洋大学は衛星を利用することで大学がカバーする広大 な地域と、時間差を克服することを当初より考えていた。米国宇宙 開発の先駆者William Pickering教授の助言を受け、当時のハワイ大 学学長Harlan Cleveland博士と同大学評議会は、ハワイ大学内のみ の実験だったPEACESATに南太平洋大学が参加することを承認した。
南太平洋大学のSchool of Natural Resourcesで働く平和部隊の Alan CuttinとDavid Berkowits博士がハワイ大学のJohn Bystrom教授の助言を得ながらATS-1を利用したネットワーク開発を行った。 さらにカーネギー財団の助成を受け、NASAとUSAIDからも協力を得てUSPNetの計画を準備した。1972年に第一段階の通 信ネットワークはスタートした。 1973年にNASAの承認を得て音声のみの受信発信が可能な8局を設置した。1978年にはUSAIDから700,000米ドルの助成を受け本校のラウカラ校と西サモアのアラフア校を結ぶ10のエクステンションセンターに衛星通信用のシステムを設置した。1974年から76年 にかけてPEACESATは地上局をクック諸島、ニウエ、ソロモン諸島、ギルバート諸島、ニューヘブリデス諸島、西サモアに設置し音声通信の実験を行った。USPは衛星通信を利用し1週間に14時間、生徒へのチューターリング、スタッフへのセミナー開催、遠隔 教育管理運営に関する情報の交換などを試験的に実施した。 この成功を踏まえ、本格的にUSPNet構想に取り組むこととなったのである。太平洋島嶼地域の国際機関である南太平洋大学がUSPNetの計画を推進に移すには、南太平洋大学メンバー国の教育・郵政大臣の承認を必要とした。PEACESATがどれほど安い価格で教育や社会開発に効果的なネットワークかということは、当時まだ社会インフラとしての基本的通信環境が整っていない太平洋島嶼国の政策決定者にとっては理解が難しかったそうである。ともあ れ南太平洋大学の担当者は時間をかけ、将来的な成果を少しづつ示しながら各国への理解を深める努力を重ね、1978年にUSAIDに提出した最終申請案を作成したのである。(注8)

その他のサブネットワークの開発(注9)
1971年から1985年の間 にPEACESATの地上局は140箇所にのぼり、PEACESATを利用し たUSPNetのような独自のネットワーク、サブネットーワークがいくつか構築された。
■ALOHA NetAdditive Links on-line Hawaii Area System
ハワイ大学のAbramson教授が中心となり、ハワイの7つの島の分 校からオアフの本校にコンピューターアクセスを試みた。 Abramson教授は次の段階としてこのARPANET(注10)への接続を試みると同時にATS-1を利用した「汎太平洋コンピューター ネットワーク」計画を提唱した。

■Kangaroo Net
オーストラリア主導で進められたこのプロジェクトはオーストラリアに40の地上局を設置した。
バツ1 この種の衛星の有効な利用方法、
バツ1 将来打ち上げられる通信衛星AusSatの小規模利用者のための 
設備、
バツ1 潜在的衛星通信利用者の発掘、
バツ1 太平洋地域を対象とした広範な通信実験が目的であった。

■MicroNet
グアム大学が中心となって設置。遠隔教育をミクロネシア地域に提 供。元々は米国内務省が国連信託統治領であるミクロネシア各国の平和部隊の活動支援のために1978年設置したものである。

■ASIANET または PACNetPacific Area Academic Computer
NetworkはALOHANetを拡張する形で日本の東北大学、電気通信 大学、タイのKing Mongkut Institute of Technology、アラスカ 大学、シドニー大学などが参加し、コンピューターネットワーク形成に関する基礎的通信実験を行った。

■DISPNET
米国内務省が運営。太平洋島嶼国の米国が管理する信託統治領の運営管理のためのネットワーク。

■その他
海洋法の会議により提出されたラジオ通信を利用した実験がいくつか行われた。

3.2 PEACESATの再スタート(1985年から1992年まで)
ATS-1の消滅1981年、PEACESATはハワイ大学の研究協力部(Research Corporation of the UH)から社会科学研究所(Social Science Research Institute)に移動し、所長のDonald M. Topping教授がプログラムの責任者となり、Lori Mukaida氏(注 11)が共同研究者となった。 PEACESATはベースを得て、以前よりも各サイトの調整役を効果 的にこなせるようになった。しかしながら1985年8月1日には使用 していたATS-1の燃料がいよいよ切れて軌道をはずれPEACESATは利用不可能となってしまったのである。 いくつかのプログラムはHF/SSBラジオ通信やATS-1の姉妹衛星であるATS-3を利用して続けられた。 しかしATS-3のフットプリントは太平洋全域をカバーしておらず、 さらに燃料切れのため移動することもできなかった。Mukaida氏によれば、衛星を失った3年間PEACESATのユーザー達はそのコミュ ニケーションを決して絶やすことはなかったという。 短波無線や、通常の電話回線、また軌道を一端外れたATS-1が軌道に戻った時を利用しながら代替衛星を探す努力を続けたという。 Mukaida氏がPEACESATに向けた熱意の動機は以下の本人の言葉に見いだされるだろう。
I knew that the people in the Pacific would not let go of the concept just because we lost the satellite. I knew because I was an active member of the network, a user, and very committed to the concept and the constituency,
またMukaida氏は隔絶された地域に対するPublic Service Telecommunicationのコンセプトとその意義とは、「必要な時に情報にアクセスできることではない。」という。即ち、Public Service Telecommunicationは常に人々がつながっている環境のことである。
その意味では、通信の自由化による対策として隔絶された地域の 人々や経済的に貧しい人々に対し緊急時に通信を無料で使用できる案等が出ているが、それではPublic Service Telecommunication の役割は果たされていないのである。隔絶された地域の人々や経済的に貧しい人々にとって緊急時だけでなく、たわいもない日常の会話や孤立していないという感覚を持つことが重要で、そのために常につながっていることが必要なのだと思う。
さらにMukaida氏はネットワークとは技術が作るものではなく人が作るものであることを強調する。(注12)
他方、USPはUSPNetが大学運営にもたらす効果が大きかったこと から、早くからATS-1が途中でなくなってしまうことに警戒感を もっていた。1981年にはすでにATS-1の軌道運行は不正確になり、通信状態は悪化していた。
1984年、USPNetは太平洋島嶼地域の政府間機関であるSouth Pacific Bureau of Economic Co-operation (SPEC)が運営する South Pacific Islands Telecommunications Development Project (SPTDP)(注13) の一部となることが、大学の要請を受ける形でSouth Pacific Forum (SPF)(注14) によって承認された。 よって大学は各国および地域機関の電気通信の専門家や政府の通信関係諸機関の支援を得ることができ、1985年にATS-1が消えてから13か月後の1986年9月1日には商業衛星INTELSATを利用した新たなUSPNetを再スタートすることが可能となったのである。 Cable and Wirelessと各国の電気通信事業者の協力で1988年まで INTELSATの宇宙局を無料で使用することができた。 その後USPが衛星宇宙局使用料を年間17,000フィジードルという通常の半分の使用料を払う条件で1990年まで契約は延長され、今日もこの状況が続いている。GOSE IIIによる再スタート-Daniel K. Inouye上院議員及び連邦政府の支援-PEACESAT利用者達は代替のシステムが継続されるよう米国議会と関係連邦機関に嘆願した。この嘆願は「PEACESAT再スタートプロジェクト」としてハワイ州のDaniel K. Inouye上院議員によって議会に提出されたのである。1987年12月、米国議会はPEACESATの重要性を認め$3.4Millionの予算をその再構築のために付けた。またPEACESAT の管理組織として、Department of Commerceの下部組織National Telecommunication Information Agency(NTIA)を配置した。また代替衛星にはNational Oceanic and Atmospheric Administration(NOAA)の中古気象衛星GOSEIIIが使用できることになった。Mukaida氏によればATS-1を失ってから太平洋島嶼国に広がるPEACESATのユーザーは代替衛星の研究に協力し、各国のリー ダーを動かし何千通 もの嘆願書を米国議会へ送ったという。またNASAもPEACESATのドキュメンタリービデオを作成し連邦議会に紹介するなどの貢献をしたそうである。このような積極的な キャンペーン活動の努力が予算獲得に結び付いたという。ハワイ州のDaniel K. Inouye上院議員(民主党)がこの PEACESAT再スタートに大きな貢献をしたことは広く知られている。
ではInouye上院議員のPEACESATの支援動機は何であろうか? 第4章で述べるように、ハワイは米国の太平洋戦略の拠点である。さらにハワイ自体がポリネシア文化圏に属しており、Inouye上院議員はハワイ先住民への支援やアジア太平洋の研究拠点である East West Centerに対し連邦政府から積極的な予算獲得を行っている。(注15) Inouye上院議員が太平洋島嶼に特別な意義を見いだしていることは明確であろう。Mukaida氏によればInouye上院議員は共和党政権になるまでの長い間Department of Commerce の監視委員会の委員長を務めており、現在でも同委員会のSenior Memberとして強い影響力を持っているという。そして PEACESATと関係の深い、NASA, NTIA, NOAAは全てInouye上 院議員の発言が直接影響するDepartment of Commerceの下部組織であるため自ずとPEACESATに協力的になるのだととい う。(注16)
仙台会議とPARTNERSの誕生新しい中古衛星GOSEIIIを得たPEACESATがその再編成を太平洋島嶼地域全域に展開するにあた り、新たに各国政策者との合意を形成するためにも関係者とのFace to Faceの協議が必要であった。しかし、このような会議を 開催する費用はハワイ大学からも連邦政府からも拠出される可能性は低かった。
当時のディレクターであるLori Mukaida氏は電気通信大学の小菅 敏夫教授の紹介で、1991年笹川島嶼国基金に申請書を提出してき た。そして、過去にPEACESATと共同研究を進めていた東北大学 のある仙台において1992年2月、PEACESAT Policy Conferenceが開催された。この会議実現の裏には2つの偶然な条件があった。 一つは当時の島嶼国基金がその事業を進めるためのしっかりしたガ イドラインを持たないままプロジェクトファインディングを行っていたという事実がある。(注17)
もう一つの偶然は1992年の国際宇宙年(注18)を迎え、郵政省が国産衛星を利用した国際協力事業、PARTNERS計画を作成中だったことである。(注19) 郵政省は仙台で開催されたPEACESAT Policy Conferenceの日本のカウンターパートとして会議開催の協力を行うと同時に、当時の政務次官を会議に出席させ、正式に 「パートナーズ計画」を推進することを発表させたのである。(付録資料6参照)(注20, 21)
このような経緯で開かれた仙台会議には21の太平洋の国領土から約90名の参加者があった。郵政省は同会議開催にあたり、同時進行の形で「汎太平洋テレコムネットワーク国際シンポジウム」を開催しパートナーズ計画について協議をおこなった。4日間の会議を終えて仙台宣言が採択された。(付録資料7参照)
同宣言ではPEACESATの将来的なサービスの範囲にASEAN諸国も 含めている。そして宣言文にはGOSEIIIとPARTNERSが使用する 中古衛星ETS-Vの次に来る機能的なネットワークに向けて一致協力して行動してく、と述べられている。しかし現在まで具体的な協力事業は行われていない。 PEACESATのユーザーではない日本がその運営方針に関与したということは少なくとも太平洋島嶼国の人々から見れば日本のなにがしかの意志を示すものと取られても当然であろう。この会議が、PEACESATのユーザーを一堂に会した初めての歴史的な会議であったにも拘わらず、日本で開催された意味が今一つ明確になっていない。
しかしながら、本会議は次の2点に関し評価できると思う、1点目 は仙台会議が開催されなくても郵政省は遅かれ早かれPARTNERS 計画を実施に移していたかもしれないが、結果として同会議が一つの起爆剤となったこと。2点目はPEACESATと日本政府との正式なコンタクトがこれによって確立したことである。(注22)

3.3 PEACESATサービス改善計画(1992年から現在まで)
PEACESATの課題
再スタートしたPEACESATは離島も含めた太平 洋島嶼国に地球局を次々と設置していった。公的な利用を目的とするPEACESATは各国の政府の申請に基づいて、主に太平洋島嶼国の教育省や漁業省に設置された。特に域内の地域機関Forum Fisheries Agency (FFA) にとって、太平洋地域の重要な漁業資源の管理のためにPEACESATは重要なコミュニケーション手段であった。 また、トケラウのような電気通信インフラの整備されていない地域ではPEACESATのおかげで離島を結ぶ遠隔議会の開催などが可能となった。(注23)
一方、問題点も多数顕在した。 第一にPEACESATが開始された1970年初頭の太平洋島嶼国の電話 サービスは現在のものより数段遅れていたため、質の低いPEACESATのサービスも大いに歓迎されたろうが、現在では逆に不満の種となったこと。 第二には、中古衛星を使用するということはATS-1のようにいつかまた衛星が軌道から外れ、新しい衛星を探さなければならず、安定したサービスを受けられないことを意味すること。 第三にPEACESATはあくまでもハワイ大学の衛星実験プログラムであり、これをたとえ公益とはいえ通常の組織運営に使用することに対し各国の通信事業から激しいクレームが出たこと。 そして第四にネットワークの唯一のハブがハワイにあるPEACESAT本部なため、日付線が存在する東西に広い太平洋の時差にハワイ大学のスタッフが完璧には対応できないことも上げられる。即ち通常の通信業者とは違い24時間のサービスをPEACESAT は太平洋島嶼国全域に提供できない運営体系になっているのである。
PEACESAT本部はこれらのクレームに対応するためインターネッ ト利用やNTIAからのさらなる資金援助や、代替衛星の研究などさ まざまな努力を重ね、1994年にPEACESATサービス改善計画 (PEACESAT Service Improvement Plan:SIP)を発表した。より強いニーズを現場に作ることでPEACESATのさらなる発展を目指したものと考える。

PEACESATサービス改善計画(PEACESAT Service Improvement Plan:SIP)
PEACESATとNTIAはユーザーのニーズを調査し、短期 もしくは2007年までのユーザーのニーズとして下記の7点を上げている。(注24)
■Internetなどの情報サービスのためのデータ回線増設
■マルチアクセス(音声/データ)のサポート
■高品質の音声/データ用のチャンネルの確保
■64Kbpsのより速いデータ通信
■圧縮ビデオによるテレビ会議
■高速データコミュニケーション
■フルモーションによる画像転送
これらのニーズに応えたPEACESAT Service Improvement Plan:SIPをPEACESAT本部が策定し各国に紹介した。
同案にはハワイ以外に10のハブサイトを設置することが述べられている。しかしこのハブの設置にはUS$156,200が必要で、この費用は各サイトで用意しなければならない。PEACESAT本部は主要な関係機関に呼びかけ各地域ごとにTask Forceを組織し助成申請をしかるべき援助機関にすることをアドバイスしている。
近藤はこのSIPに関し4つの問題点を指摘している。 第一にSIPが実現されれば、全体のユーザーはハブサイトから構成されるデジタルユーザーと既存のシステムのままのアナログユーザーに分れてしまい提供されるサービスに大きな差が出てしまうこと。 第二にはSIPの高機能サービスに必要なハードウェアの費用負担の問題を上げている。 第三にアナログ回線とデジタル回線の同時使用に起因する技術的な問題である。 そして第四に運営管理上の問題として各ハブサイトが自力で人材と資金を賄っていけるか、さらに一般の公衆回線につながることは今まで限られたユーザーに提供していたサービスが万人につながるようになるため、セキュリティ管理と各国の国際通信事業者の利益を奪うことになることを指摘する。(注25)
このPEACESAT本部が発表したSIP提案を受け、ミクロネシア連邦 に1994年半ば頃Pohnpei PEACESAT Task Forceが結成された。このTask Forceは新校舎の建設を予定していたCollege of MicronesiaにSIPのハブサイトを設置しようという計画を作成して いる。(注26)
Task ForceのメンバーにはCollege of Micronesia, ポナペ州教育省、州議員代表、Micronesian Seminar(教会系教育NGO), FSM連邦教育省、FSM連邦通信省、FSM連邦資源開発省、それと保険医療関係者が名を連ねており、College of Micronesiaの学長Susan MosesがTask Forceの代表になっている。
同計画書にはFSM大統領から米国内務省宛ての推薦書を始め、国内の公的機関から同案を支援する手紙が添付されている。筆者が 1997年ポナペを訪ねた際、Task Forceのメンバーであった Micronesian Seminarの所長Hezel牧師にこの件に関しインタビューすることができた。結局同計画は実現されなかったが、その原因の一つには資金の当てがつかなかったという問題もあったが、近藤が指摘するように通信業者の強い反対があったという。
Pohnpei PEACESAT Task Force当てにFSM Telecomから出された手紙には同計画がFSMのPublic Lawに述べらている「FSMに おいてはラジオテレビ以外の通信は独占通信事業体によって運営される」(注27)という内容に反するものである、ということを述べている。
現在までSIPが実現したという話は米領グアム以外では聞かれず、 逆にSIPの提案はPEACESATユーザー達の失望を増すことになったようだ。さらに、通信事業者はSIPを発表したPEACESAT本部に 対する不信を益々高める結果となった、と言えよう。

米国のPEACESAT支援
それでは、このように問題を山積みする PEACESATを米国政府はどのように見ているのであろうか。
Daniel K. Inouye上院議員の支援は先に述べたが、PEACESATは米国がイニシャティブを取る情報通信政策にも関わっているのであ る。ゴア副大統領が掲げる「情報ハイウェイ構想」を政策の重点に置いたクリントン政権はNational Information Infrastructure (NII)構想の発表に続き、Global Information Infrastructure (GII)構想を1994年3月ブエノスアイレスで開催された第1回国際 電気通信会議で世界に呼びかけた。そして1995年には「GII協力ア ジェンダ」が発表された。「GII協力アジェンダ」は次の様なメッセージで始まる。
Let us build a global community in which the people of neighboring countries view each other not as potential enemies, but as potential partners, as members of the same family in the vast, increasingly interconnected human family. “Preface, THE GLOBAL INFORMATION INFRASTRUCTURE: AGENDA FOR COOPERATION”. (注28)
このメッセージにはケネディが行った宇宙開発と国際衛星利用に関するスピーチにある通信の世界的平和利用という共通する理想が述べられていると言えよう。この「GII協力アジェンダ」に中に、国際的にGIIを進める共同作業をしていくことの有効性を明らかにする実 例としてゴアはPEACESATを取り上げている。(注29)また、GII構想の5つの基本原則の5番目には「ユニバーサル・サービス」の保障を上げている。(注30)
さらにNTIAは1995年に発表した通信政策、Connecting The Nation: Classrooms, Libraries, and Health Care Organizations in the Information AgeでPEACESATのことを取り上げ、 PEACESATが米国の領土を含む太平洋島嶼国という隔絶された地域に対し、連邦政府のサービスが容易に提供することを可能とし、 太平洋島嶼国を世界に結ぶ役割果たしている、と述べている。(注31)


注 釈
注11958年に設立されたNASAが行った実験衛星の数々の成功は、現在の情報通 信に衛星が大きく貢献している。下記にATSまでの実験衛星をまとめる。
ECHO ラジオ電波受信機能を持つ衛星。Echo 1 - 1960年打ち上げ。Echo 2 - 1964年打ち上げ
TELSTAR AT&Tが自己資金で企画した実験衛星。NASAは打ち上げに協力した。ケネディ政権が衛星通信をCOMSATのモノポリー事業と決定したため中止となる。Telstar 1 -1962年打ち上げ。 Telstar 2 - 1963年打ち上げ。
RELAY 地上からの電波受信と地上の異なったポイントへの電波返送が可能な衛星。Relay 1 - 1962年打ち上げ。Relay 2 - 1964年打ち上げ。
SYNCOM INTELSATとNASAの実験衛星ATSシリーズの開発に貢献した衛星。Syncom 1 - 1963年2月打ち上げ失敗。Syncom 2 - 1963年7月打ち上げ。Syncom 3 - 1964年打ち上げ。
ATS ATS-1 - 1966年打ち上げ。ATS-2 - 1967年打ち上げ。ATS-3 - 1967年打ち上げ。ATS-4 - 1968年打ち上げ(軌道に乗らなかった)。ATS-5 - 1969年打ち上げ。ATS-6 - 1974年打ち上げ。
注2 米国では1972年にオープンスカイポリシー(Open Sky Policy)が採用され、国内衛星通信市場に通信事業者の自由参入が認められるようになった。1974年にWestern Union社のWESTAR衛星が運用を開始。現在ではGE Americom社、Hughes Communications Galaxy社、AT&T社の3社の衛星通信事業者所有する多くの衛星通信システムが利用されている。飯田尚志編著『衛星通信』を参照。
注3 John F. Kennedy, "Special Message to Congress on Urgent National Needs," May 25, 1961, Public Papers of the Presidents, John F. Kennedy, Vol. I, P. 404. "First, I believe that this nation should commit itself to achieving the goal, before this decade is out, of landing a man on the moon and returning him safely to the earth."
注4 U.N. General Assembly, 16th Session, Resolution 1721, Section P. "communications by means of satellite should be available to the nations of the world as soon as practical, on a global and non-discriminatory basis."
注5 郵政省通信政策局『衛星通信年報』参照。
注6これに対し石黒一憲は「インテルサット設立時の理想を忘れたアメリカの貿易オンリーの発想と市場原理・市場競争による膨大な富の自国への再配分という赤裸々な欲求以外なにもない」と述べている。石黒一憲『世界情報通信基盤の構築』94-226頁参照。
注7 筆者はハワイ在住のLori Mukaida氏にemailでインタビューを試みた。 1998/12/23付けのemailでMukaida氏は、Bystrom教授以外にもハワイ大学のPaul Yuen教授(Dean of the College of Engineering), ハワイ大学のKatashi Nose教授の技術的サポートがなければPEACESATは成立しえなかった、と述べている。
注8 当時のUSP Extension Centre所長(初代)Peter McMechan氏に筆者がインタビューした内容を参考。
注9 PEACESAT, PEACESAT NEWS FILE 1970-1975, を参照。
注10 1969年に米国防総省は各地に分散されている軍事研究をコンピューターで結ぶARPANETを稼働し始めた。これは現在広く使用されているInternetの源流である。
注11 Mukaida氏は1997年初頭までPEACESATのDirectorを勤めた。その後は病気が理由で現場を離れているが席は保留されている。彼女は1970年代から学生アルバイトとしてPEACESATに関わってきた。1988年米国議会の支援を受けてPEACESATが再スタートした頃から、PEACESATの中心的存在となった。米国議会との折衝、太平洋島嶼国の関係者との交渉、各PEACESAT地上局オペレーターの技術指導、代替衛星の確保や新アプリケーション開発まで、現在のPEACESATはまさに彼女一人で構築してきたとも言える。なお、Mukaidaの名前は日系2世のご主人もので、本人はカナダ出身。
注12 1998/12/23付けMukaida氏のemailより。
注13 SPTDPとは1980年にSouth Pacific Forumによって国内及び域内の電気通信を早急に改善する必要があるとの認識のもとに、太平洋島嶼のルーラル地域、離島の電気通信調査をSPECに委託。その調査結果を受けて設置した事業。
注14 SPECの上層機関でオーストラリアとニュージーランドを含む太平洋島嶼国14カ国のリーダー達によって構成された地域機関。
注15 Inouye上院議員Web Siteを参照。http://www.senate.gov/~inouye/ 
注16 1998/12/23付けMukaida氏のemailより。またMukaida氏は太平洋が米国にとって戦略的地域であることの理由として、漁業、核実験、核廃棄、戦争を上げている。
注17 1991年に筆者は同基金のプログラム・オフィサーとして就職し、事実上唯一人の事業担者として同案件を担当していたので確信を持って証言する。基金がなんらかの明確な戦略を持って同案件の助成を決定したわけではなく、他の案件に比べ比較的質の高い案件であったことが支援理由である。但し、事業担当者である筆者は、PEACESATが、すでに南太平洋大学から基金に対し打診されていたUSPNet再構築申請案件の代替システムになることを予想して積極的に同案件の助成を推薦した。また、翌年の1992年に基金ガイドラインを策定する際、3つの柱の一つに情報通信を入れたのはPEACESATやUSPNetというニーズを確認した結果 であった。
注18 国際宇宙年とは、コロンブスのアメリカ大陸発見から500年、宇宙時代の幕開けでもあった国際地球観測年から35年にあたる1992年を記念して米国から提唱されたもの。1989年の国連総会において、1992年を国際宇 宙年とし(ISY International Space Year)各国の宇宙機関が中心となり、 特に開発途上国のニーズを考慮しつつ宇宙分野の国際協力を促進するため の事業を支持することとなり、ISYの実施にあたっては国連が中心的な役割を担うことが決議された。
注19 日本の郵政省がISYに参加する意義として次の3点をあげている。1)通信・放送分野は、宇宙開発において、実利用の最も進んだ分野であり、今後とも発展が見込まれることから、宇宙開発を進めるとともに、国際協力の観点から途上国への普及を図っていく必要がある。2)郵政省としては、通信・放送分野の宇宙開発の成果を十分アピールするとともに、途上国への宇宙開発の成果の還元、技術移転等を含む教育・普及活動を行うため、ISY活動に積極的に参加していく必要がある。3)きく5号(技 術試験衛星V型(ETS-V))を利用しての「国際宇宙年/汎太平洋衛星通信トライアル(PARTNERS)」については郵政省として、関係機関の協力を得て平成4年度に実施する予定。
注20 このパートナーズ計画を実際に策定した郵政省の担当官からは、当時国際 宇宙年を迎えるにあたり、日本の国連大使から外務省に対し日本主導の事業を早急に策定するよう要請があり、それに応えてこの案を郵政省が作成したという。PEACESATや他のアジア太平洋地域の衛星による国際協力のアイデアは直接パートナーズ計画に影響していないとのこと。
注21 1991年8月郵政政務次官笹川議員はハワイのPEACESATを訪ね太平洋島嶼国の人々と交信している。ちなみにこの時期笹川議員がこのポジションにいたのは単なる偶然である。
注22 1991年頃の日米関係は良い状態ではなく、米国政府は以前に比べ関心がなくなったとは言え、自分達が支援してきたPEACESAT再スタートのおひろめを日本で行うことに連邦政府レベルで反発があったと聞く。他方日本の外務省の一部からは米国の事業であるPEACESATを日本が支援することに異議を唱える発言もあったと聞く。
注23 筆者が1998年7月にハワイのPEACESATを訪ねたとき、Assistant DirectorのChristina Higa氏からFFA,トケラウともPEACESAT以外の公共通信の利用が可能になり、PEACESATの役割は終わったことを聞いた。
注24 Okamura, H. Norman and Lori Mukaida: PEACESAT: A Regional Telecommunications Alliance in Transition.
及び
近藤幸一『PEACESAT Service Improvement Planについて』太平洋学会PIT研究部会資料、 1995年1月19日を参照。
注25 近藤幸一同前書を参照。
注26 Pohnpei PEACESAT Task Force, Pohnpei PEACESAT SIP Proposal, FSM, n.d.. 
注27 FSM Public Law 2-10, Section 203(1)to operate as the sole provider of all telecommunications service, expect radio and television broadcasting, within the Federated States of Micronesia and between points in the Federated States of Micronesia and points outside thereof; 
注28 GIIに関しては次のWebを参照。 http://www.its.bldrdoc.gov/home/gii_1.html
注29 GII AGENDA FOR COOPERATIONではPEACESATに関して次のように述べている。 "Computer and satellite networks can provide monitoring and, in some cases, early warning of natural disasters, ..” 
注30 GII AGENDA FOR COOPERATIONではユニバーサル.サービスに関し て次のように述べている。"Although the provision of universal service varies from country to country, the goal of providing all people with greater access to both basic and advanced services is a crucial element of the GII. The United States will join with other governments to: Consider, at the local and national levels, the benefits afforded by the introduction of competition and private investment in meeting and expanding universal service; Exchange information at the bilateral and multilateral level to address the range of available options to meet universal service goals; and Consider, at the national and international levels, ways to promote universal access as a means of providing service to currently underserved and geographically remote areas." 
注31 NTIAの情報は http://www.ntia.doc.gov/を参照。
国際協力による太平洋島嶼地域の情報通信支援政策 - PEACESATのケーススタディを通して- 第ニ章 [2016年09月14日(Wed)]
国際協力による太平洋島嶼地域の情報通信支援政策
-PEACESATのケーススタディを通して-


早川理恵子 1999/1/10

第2章 太平洋島嶼国の情報通信

1. 通信の現状
太平洋島嶼国の通信の特徴は、旧宗主国の通 信事業者による独占経営という点にある。1970年代半ば、独立を果たした太平洋島嶼国は、独立による孤立を招かないためにも、即ち旧宗主国とのパイプを保っておくためにも、国際通信の開発を必要としていた。また、 多数の離島や隔絶された地域の開発や国としての統一を保つために国内の通信開発も重要な課題であった。(注1)
しかしながら、小国ゆえに通信事業立ち上げための財政規模が十分でない島嶼国は旧宗主国の通信事業者と独占契約を結ばざるを得なかった。(注2)
たとえばソロモン諸島のSolomon Telekomは1989年に52%の政府保有株と48%とのCable & Wireless(C&W)保有株で再編された合併会社の形をとる電気通信事業者である。これが意味するところは電気通信網を公共インフラと考え、収益が低い遠隔地や人口の少ないところに十分なサービスを提供することを課題とする政府と、会社の収益に負担をかけるこのようなインフラ整備に対して積極的になる動機を持たない民営会社の共同運営ということである。
但し実情は、旧宗主国の英国企業であるC&Wにソロモン諸島政府は大きく依存している状態であり、圧力をかけることは困難である。さらに島嶼国政府が政府保有の会社に赤字が出ても補填する予算的余裕がないどころか、通信事業の収入をあてにしている部分があることを認識しておく必要がある。もう一つの特徴は競争のないモノポリー状態であることがこの地域の通信状態がなかなか改善されないこと、また通話料金が世界的に比較して非常に高いことがあげられる。
1994年に発行された南太平洋フォーラムに向けて書かれたレポー ト(注3)ではこの地域の電気通信開発は旧宗主国の事業者と深くつながっているのが特徴で、外資通信事業者は自社の製品及びシステムの市場として、また各国の援助をその主な資金源として期待している、と指摘している。
なぜならば、離島が多く、人口が少なく、資源も少なく、外貨の獲得が困難なこれらの島嶼国で通信事業が経済的合理性を持って自立的経営をすることは通常では不可能であるからだ。以下に1995年に南太平洋大学が収集した情報と、筆者が1997年に同地域に出張した際に入手した太平洋島嶼地域の通信事業者に関する情報をまとめる。世界的な情報通信市場の自由化は太平洋島嶼国にとっても無縁ではなく、その環境は日々変わっていると予想されるため、以下は必ずしも現状を示すものでないことを断っておく。

フィジー
Fiji Posts and Telecommunications Ltd.(FPTL)が国内回線を、Fiji International Telecommunications (FINTEL)が国際回線のサービスを提供している。FINTELはSuvaに近いVatuwaqaに衛星地球局と海底ケー ブルの受信基地を設置。FINTELはSuvaでInternational gateway exchangeも行っている。 政府はFPTLの唯一の株主であったが、1993年に民営化 した。FINTELは政府とCable & Wireless Public Limitedのジョイントヴェンチャーだが、利益は政府が管 理する。(C&Wが49%、政府が51%の株を保有)国内の無線通信の管理運営はMinistry of Information, Broadcasting, Television and Telecommunicationが行う。

クック 諸島
Telecom Cook Islands (TCI)が国内回線及び国際回線のサービスを提供している。クック諸島政府とNew Zealand Telecomの共同所有である。首都のラロトンガにINTELSAT標準B局が設置されている。同局はニューランドにIDR Linkと太平洋地域 のPACNETサービスに連結している。TCIは1992年に民 営化された。それ以前はCook Islands Post Officeが国内回線を、Cable & Wireless Public Limitedが国際回線の サービスを提供していた。 TCIは国内の7つの離島に地球局を設置している。これらの地球局は国内、国際、地域内をPacific Area Co- operative Telecommunications Network(PACNET)経由でつなげている。TCIが国内の無線通信の管理運営を行う。

キリバス
キリバスには2つの電気通信組織がある。 Telecom Services Kiribati Ltd. (TSKL)は国際回線、国内回線サービスを行う。他方政府が100%所有するTelecom Kiribati Ltd.は国内の電気通信に関するポリシー、運営全ての権限と責任を持つ。 TSKLはINTELSAT標準B局とInternational gateway exchangeを首都タラワに設置している。同社はキリバス政府が61%、オーストラリアのTELSTRA(前OTC International)が39%の株を所有する共同経営の形を取っている。TSKLは1995年現在、無線通 信に関するライセンス、管理等の責任を負っているが徐々にTKLに移行する予定である。

マーシャル諸島
Marshall Islands Telecommunicationsはマーシャル諸島政府とアメリカの COMSATの共同経営で、国際、国内回線両方のサービスを提供している。無線通信に関する管理はMinistry of Information, Broadcasting, Television and Telecommunicationsが担当している。なお、Majuro Ebeye, Telephone Directory, (Marshall Islands National Telecommunications Authority 1997)によれば、Marshall Islands Telecommunicationsは名称をMarshall Islands National Telecommunications Authorityに変更した。Majuro 環礁、Ebeye島、 Kwajalein環礁に以下のサービスを提供している。首都Majuroには筆者が訪ねた1995年には光ファイバーケーブルが敷かれていた。Cellular Telephone Service/Internet Service/Key System for Business/Directory Assistance/Dedicated Data Circuits/International Direct Dialing Worldwide/Telex Service/PBX System for Larger Business and Hotels/Radio Communication to the Outer Islands

ナウル
ナウル政府がNauru Telecomの唯一の所有者である。 Nauru TelecomはINTELSAT標準B局とInternational gateway exchangeをナウルに設置している。オーストラリアのTELSTRAと契約し地球局の管理を委託している。 無線通信のライセンス及び管理もNauru Telecomの責任範囲である。ニウエTelecom Niueは1992年に民営化された。ニウエ政府が唯一の株主である。Telecom Niueは INTELSAT非標準地球局をニウエに設置し、Telecom Niue無線通信のライセンス及び管理を行っている。

ソロモン諸島
Solomon Islands Telekom Ltd.はソロモン諸島政府とCable & Wireless Public Limitedの経営権と所有権を共有し、国際、国内回線のサービスを提供している。政府が主要株主である。(C&Wが41.9%、政府が58.1%の株を保有) Solomon Islands Telekomは国内回線用衛星、DOMSATを運営する。首都のあるガダルカナル島以外の島々を結ぶサービスを提供し、Ministry of Communicationが通信のライセンス、管理を担当している。

トケラウ
1996年にニュー ジーランド政府の支援を受け、電話回線が初めて設置された。世界で数少ない電話通信サービスがない国の一つであった。(他にはTristan Da Dunha, Pitcairn) Tokelau Telecommunicationsは100%トケラウ政府が所有し、管 理運営することを目指している。以前は約480km離れたサモアの首都アピアに短波ラジオで通 信するしか手段は なかった。これはオープンな音声通信のため会話内容はみんなに聞こえてしまう。また、1994年からPEACESAT を利用し各島に散在する政治家を結び国会の開催をしていた。

トンガ
Cable & WirelessがINTELSAT標準Bの地球 局を首都Nuku'alofaに設置・所有し、国際通信サービス を提供し、Tonga Telecommunications Commission (TTC)が国内回線のサービスを提供している。なお、 電話通信は主な離島を結んでおり、Haapai, Vava'u島にはTroposcatter Radioシステムを利用している。TTCが通信のライセンス、管理を担当する。

ツバル
1995年に Tuvalu Telecomは民営化を果たした。100%政府所有で、国内・国際回線のサービスを提供している。離島には HF無線通 信を使用している。Tuvalu Telecomが通信のライセンス、管理を担当する。

バヌアツ
バヌアツには2つの電気通信事業者が存在する。 VANITELとTelecom Vanuatu Ltd.(TVL)である。 VANITELは地球局を首都Port Vilaに置き、国際通信サービスのみ提供する。バヌアツ政府、Cable & Wireless PL とFrench Cable and Radio Companyが経営権と所有権を共有する。(3者各33.3%の株を保有)Telecom Vanuatu Ltd.(TVL)は1992年に政府とVANITELの共同出資で経営を開始。国内回線サービスを提供。離島に対してはterrestrial linkを使用。以前はTVLが通信のライセンス、管理をしていたが、Ministry of Communicationsに移管。

サモア
サモア政府が所有するSamoa Post Officeが国内、国際回線サービスを提供し、Post Officeが通信のライセンス、管理を担当している。

仏領ポリネシア、ニューカレドニア
1984年9月6日以来、フランス領ポリネシアは内政自治権制定法を手にした。フランスはポリネシアにおける警察、法の施行、防衛、通貨、基金、教育制度においてある程度の権力を保持するとある。またフランスは法の一部、外交問題や通信機関を支配する権利を持っている。基本的にラジオやテレビは政府の支配下におかれているが、民間のラジオ放送局の運営は認められいる。この地域の通信環境は他の独立国より数段よい。100人以上住む島には全て衛星地球局が設置されている。但し、その衛星で受信するのは本国で制作されたテレビ番組が圧倒的でローカル番組は極限られたものでしかない。正確な数字を入手することはできなかった。

2. 地域機関の役割
太平洋島嶼国には多数の地域機関が存在する。現在政府間地域機関 は下記の8つがある。この地域に地域機関が多いのは、一国の規模が小さく、資源の有効活用のためにも地域で協力して開発に取り組んだ方がよいこと、そして国際社会に対し、一国の島嶼国の声は小 さいが、十数カ国の大きな固まりとなれば、それなりの力を持つ地 域と成りうることが要因と考えられる。8つの政府間地域機関の中で情報通 信分野に関与しているSouth Pacific Forum (SPF) , Secretariat of Pacific Community (SPC)及びThe University of the South Pacific (USP) の遠隔教育事業に関して次に述べる。なお、South Pacific Organizations Coordinating Committee (SPOCC)という各組織の調整機関を設置し、フォーラム事務局長が 議長に任命されている。

South Pacific Forum (SPF) 本部フィジー
Forum Fisheries Agency (FFA) 本部ソロモン諸島

Pacific Islands Development Programme (PIDP) 本部ハワイ
South Pacific Regional Environment Programme (SPREP) 本部サモア
*
South Pacific Applied Geoscience Commission (SOPAC) 本部フィジー

Secretariat of Pacific Community (SPC) (注4) 本部ニューカレドニア

Tourism Council of the South Pacific (TCSP) 本部フィジー

The University of the South Pacific (USP)本部フィジー

SPFの電気通信事業
1972年フォーラムの形成とともに、地域の電気通信開発はフォーラム事務局の重要な役割の一つとして組み入れられた。主に衛星、地域ネットワークに関する調査研 究と関係諸機関との協議、隔離された地域の開発、そして人材トレーニングが主たる活動内容であった。1983年には特別10ヶ年計画South Pacific Telecommunications Development Programme(SPTDP)が策定された。フォーラムの活動と平行して 1970年代からITU/UNDPの調査及び技術・人材育成プログラムも提供されている。1992-1993年のフォーラム年次報告書にはSPFの電気通信局が取り組む基本的な短期目標として次の3つを上げている。

技術、インフラ開発の支援
地域の人材育成

組織、部門運営の改正

組織、部門運営の改正部門では、電話料金や規制に関した協議を行っている。(注5) しかし1996年フォーラムの組織再編に伴いフォーラムから電気通信部門はなくなり、他の地域機関に移管されることもなかった。よってこの地域の電気通信に関する政策協議は Pacific Islands Telecommunications Association(PITA)というボランティア地域組織が行う可能性を持った。
しかしPITAの決定は政治的拘束力はなく、メンバーには各国政府関係者と通信事業者がいるが、実質的には後者が力を持つ可能性が高い。そんな中1998年ミクロネシア連邦で開催された第29回南太平洋フォーラム首脳会議では情報通信インフラの経済への影響や地域開発への重要性を認識する形でフォーラム通信政策閣僚会議の開催を決議した。(注6)
この背景には、通信市場の世界的自由化に伴い今後同地域がどのような政策を進めていくか、また通信に関わる料金設定など世界のルールが先進国主導で決められていくことに対する懸念も一方であるようだ。この閣僚会議がどこまで世界の情報通信の動きを認識し、影響力のある発言をするか興味深く、引き続きこの研究の延長として追っていきたい。

SPCの電気通信関連事業-地域メディアセンター
1947年に設立されたSPCは、当初より政治的ことがらは扱わないことを前提に人材育成・福祉分野で太平洋島嶼地域の発展を支援してきた。SPC本部はニューカレドニアにあるが、SPCの重要な事業の一つである「地域メディアセンター」はフィジーのスバにある支部内に置かれている。この地域メディアセンターは、メディアが域内の教育、持続的開発、健全な統治(good governance)に有効に利用されること を目的としている。(注7)
SPFが電気通信に関する法制度や人材育成を含むインフラ開発支援に重点を置いていたことに対し、SPCの地域メディアセンターでは ラジオ、テレビ、ビデオ、グラフィックデザイン、パブリケーションに関する短期技術訓練コースの提供等、情報通 信のコンテンツ制 作に関わる人材育成を中心に行っている。
また、この地域のメディアが最初、政府によって運営されていたため、民営化した際の自立的経営方法の指導も同センターの重要な役割であるという。メディアの中でも島嶼地域はラジオの需要が高いと言われている。これは広い海洋に島が散在するという地理的な要因もあるが、この地域がもともと文字を持たない文化であったことにも関係していると思われる。

3. 南太平洋大学組織の概要

南太平洋大学(The University of the South Pacific: USP)はその12のメンバー国に遠隔教育のサービスを提供している。 12の国とは、クック諸島、フィジー、キリバス、マーシャル諸 島、ナウル、ニウエ、ソロモン諸島、トケラウ、トンガ、ツバル、 バヌアツ、サモア(旧西サモア)で、太平洋の西経155 度から東経 150度、北緯17度から南緯25度の広い範囲に位置している。USPは 完全な地域機関であるが、今日の国際社会の中でもこのような形態の教育機関はめずらしく他にはカリブ海にあるUniversity of the West Indiesがあるのみである。 USPはそのプログラムやスタッフが地域をカバーしているという外見的なものに留まらず、運営形態、財政、政治、アカデミック、物理的構図すべてにおいて、所有者である12の国が地域ガバーナンスを試みているという点においてもユニークである。このことは他の国際的教育機関のどこもチャレンジしたことのない、多国間から 成る法的に構築された組織であるという観点においてUSPの存在が再評価されるべきであろう。
2年間の試験的運営を経て、USPは1970年3月に、11の太平洋島嶼国[クック諸島、フィジー、キリバス、ツバル(旧ギルバート、 エリス諸島)ナウル、ニウエ、ソロモン諸島(旧イギリス保護 領)、トケラウ、トンガ、バヌアツ(旧ニューヘブリデス)、サモア(旧西サモア)]の要請を受け英国憲章(Royal Charter)によって正式に設立された。1991年にはマーシャル諸島が新たに加わり現在12のメンバーを抱える。
主な運営費は12の国から拠出されている。フィジーの首都スバに本校を置くほかに、フィジーとサモアに2つのキャンパスがあり、バヌアツとトンガに2つの校舎、そして各国に10のエクステンショ ンセンターを配置している。土地や建築物、資材は各メンバー国政 府からUSPに提供されている。生徒は広く太平洋地域をカバーし、 ポリネシア人、メラネシア人、ミクロネシア人そしてインド人(英領時代砂糖黍プランテーションの労働者としてフィジーに来たインド人の子孫)の生徒が大多数を占める。彼らのほとんどが各国政府が支給するUSPへの奨学金を得て入学する。
当初旧宗主国の専門家が多数を占めた大学スタッフも1985年には地元市民が60%を占めるようになった。USPは当初より、このような多様性を抱える組織として2元的(dual-mode)に対応できる教師を抱え、遠隔教育の開発を進めていた。USPの遠隔教育(注8)遠隔 教育を実施するにあたり、一番重要なのは情報通信手段である。 USPがカバーする広大な地域の教師と生徒をつなぐためには、各国の通信環境の障害を乗り越える努力が必要となってくる。一般的にこの地域の運輸及び情報通信のインフラ整備は開発が遅れているからだ。他の地域ではいつでも信頼して利用することが当然の通信や運輸サービスが太平洋島嶼国ではしばしば故障で利用できなくなっ たり、突然の変更も発生しやすく安定したサービスとは言えない。 故に広大な島々に散在する生徒達をネットワークを結ぶことは限りない時間と費用を費やすこととなる。
現在USPでは、本部と各国のキャンパス、校舎、センターを結ぶ手段としてINTELSATを利用したUSPNet, ファックス、電話そして郵 便が使用されている。USPNetは、1972年にNASAの中古衛星 ATS-1を利用して構築した教育支援ネットワークである。衛星技術 を教育目的に利用した例としては、USPは世界のパイオニア的存在といえよう。USPは、NASA, カーネギー財団、USAIDの支援を受けてPEACESAT事業に参加する形でこのネットワークを構築した。
中古衛星ATS-1が燃料切れで使用不可能となるに至る前にUSPは関 係諸機関と交渉を重ねていたが、結局国際衛星通 信組織INTELSAT が途上国にそのサービスを一定期間無料提供するProject Shareを利用することとした。国内通信に関しては香港に本社を置くCable & Wireless Public Ltd.の協力を得ながらUSPNetを継続させることができた。現在USPNetは12のメンバー国の内、10カ国のみを結んでいる。そのうちトンガ、バヌアツ、ソロモン諸島、フィジー、クック諸島の5つのセンターに衛星経由で直接つながっている。キリバ スは1989年までつながっていたが国内の通信事業者が高額の利 用料を要求してきたため、支払が不可能で現在は繋がっていない。 ナウル、ニウエ、ツバル、サモア、トケラウの5つのセンターはHF ラジオを使用している。
USPNetが支援を受けている国際通信事業者で支援を受けているの は、Cable and Wireless Public Ltd., Fiji International Telecommunications Ltd. (FINTEL) , Telecom New Zealandの3社である。また、国内の通 信部分のサポート受けている国内通信事業者はTelecom Cook Islands, Fiji Post and Telegraph, Solomon Islands Telekom, Tonga Telecommunication Commission, Telecom Vanuatuの5社である。これらの通信会社はUSPと契約を交わしており、そのネットワーク利用を認めている。契約に変更が ある場合はすべての通 信会社と再度協議しなければならない。 USPNetは1991年頃から通信の質や安定性の改善を目的に、 「USPNetアップグレード」計画を自ら策定し、日本政府へ資金援助申請を行った。1997年に日本・NZ・豪3カ国政府の協調案件として 支援が決定した。この件に関しては4章の日本の項目で詳しく扱う。

注 釈
注1 太平洋島嶼国の電気通信開発の歴史はDavey, J. Graham, Telecommunications Development in the South Pacific Region: Transport and Communications for Pacific Microstates: Issues in Organization and Managementを参照。
注2 同前書20頁参照。
注3  Cutler, Terry: Telecommunications The Pacific Link – A report for the Pacific Forum on the development of the telecommunications sector in the region を参照。
注4 Pacific Community, 前South Pacific Commission. 同組織は北太平洋に位置する、パラオ、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、グ アム、サイパン、キリバスの6メンバーから、名称から「南」を取る提案を受け、協議した結果 1997年2月7日に正式にPacific Communityに変更した。但し略称はSPC (Secretariat for Pacific Community)で以前と変わらない。
注5 筆者はフォーラムの電気通信局のDirector, Edmond Duran氏と何度か話す機会を持った。(結局Duran氏はフォーラム電気通 信局最後のDirectorになった)Duran氏はこの地域の電話料金が法外に高いこと、また各国の通信事業者が値段を下げる努力や、教育などの公共施設に対する協力、離島など地方の通信の改善を怠って いることなど問題点を指摘していた。通信部門で政府が強いイニシャティブをもてないことは前に説明したが、フォーラムの会議に集まる各国通信事業者の代表は皆旧宗主国の専門家で、政府代表の存在感は薄く、これでは変革は困難であろうという印象を筆者は 強く持った。
注6 TWENTY-NINTH SOUTH PACIFIC FORUM Pohnpei, Federated States of Micronesia, 24 - 25 August 1998, FORUM COMMUNIQUEより。"Forum Economic Ministers Meeting,(中略)Recognizing the importance of efficient and effective communications services for both national and regional development, the Forum agreed to convene a Forum Communications Policy Ministerial meeting. The aim of the meeting will be to promote competitive telecommunications markets and, taking into account social and rural/urban equity concerns, discourage unwarranted cross-subsidisation between service sectors; work towards the development of a cooperative approach to information infrastructure and regulatory services; and examine developments in relation to international settlement rates for telecommunications services. The Forum considered international settlement rates for telecommunications services and the very serious implications for some Forum Island Countries of the decision by the United States to adjust those rates with respect to its own telecommunications services. Leaders strongly urged the United States to recognise the adverse consequences for all Forum Island Countries of that decision and to respond favourably to their concerns in that regard.
注7 SPCに関しては次の資料を参照。South Pacific Commission, South Pacific Commission - History, aims and activities 13th Edition, 1996. South Pacific Commission, South Pacific Commission - Annual Report 1993, 1994. South Pacific Commission: South Pacific Commission - Annual Report 1995, 1996. South Pacific Forum, South Pacific Forum Secretariat Annual Report 1992-1993, 1994. Secretariat of Pacific Community, Web http://www.spc.org.nc

注8  USP及びUSPNetに関しては主に次の資料を参照。
Renwick, William: Clair St. Kinf, and Douglas Shale. “Distance Education at the University of the South Pacific”, The Commonwealth of Learning, Canada, August 1991.
Matthewson, Clair. “Distance Education in Asia and the Pacific: South Pacific” (The University of The south Pacific), UNESCO, NIME, 1993.


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