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早川理恵子博士
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矢内原忠雄を読む『軍事的と同化的・日仏植民地政策比較の一論』 [2015年03月23日(Mon)]
太平洋の島々は比較的平和に独立運動が進められたが、バヌアツは闘争の末、死者を出す結果となった。
その背景にいたのが、フランスである。
英国はサモア、フィジー、パプアニューギニア等々旧英領が独立する中で、バヌアツの独立も70年代から支援してきた。しかし世界で唯一の英仏共同統治だったバヌアツ(ニューへブリデス)の独立は容易でなく、特に同地に土地を所有しビジネス(コプラ、牧畜等)を行う、フランス人の反対は容易に想像できた。

またフランスは、バヌアツの独立が近隣の仏領、ニューカレドニア、タヒチ等に及ぼす影響も懸念。バヌアツの独立を留めようとする理由であった。

このフランス植民地政策について矢内原が論文を書いている。自分にとって優先度は低かったが、バヌアツのサイクロン情報をフォローする中で、急に気になり、一気に読んだ。
矢内原忠雄全集第四巻に『軍事的と同化的・日仏植民地政策比較の一論』がおさめられている。


フランスは英国の次ぐ広大な植民地を有していた。
「植民地分割競争の熾烈にしてキロメートル病の病熱に浮かされていた帝国主義初期時代の事であるとはいえ、経済的価値の有無を問題とせずしてただ広大なる領土を、而して地理的接続の領土を征服領有したところに、植民地獲得政策におけるフランスの特色が見られるのであろう。」
と矢内原は説明している。

加えてフランス植民地の特色として同化政策と軍事政策をあげている。

軍事政策は、フランスの植民地が人の植民にあるのでもなく、かと言って生産性の高い統治でもなかった事を指摘。では何をしていたか?国際連盟規約を無視した原住民の軍事化を進めていた。第一次世界大戦時には80万人の植民地原住者部隊がフランス本国に輸送されている。

同化政策は啓蒙哲学とフランス革命思想に根拠し、人間としての自然権を保有する植民地原住者はフランス人と等しく、フランス人に化し得べき人間としてみる。これによって同化政策が進められた。

このフランスの同化政策と軍事政策は日本に共通すると矢内原は議論を展開させる。
しかし、日本の軍事政策は原住民を軍事化する事ではなく本国の軍事強化であり、日本の同化政策にはフランスのような哲学がない事を指摘。

この論文は昭和12年2月、1937年矢内原が東大を追われた年に書かれている。
戦後の昭和23年(1948年)東大に復帰した矢内原が「帝国主義研究」といタイトルで編纂した論文集に納められている。


この論文集のはしがきには

「全て道を失うた者は、分岐点まで引き返し、そこにて正しき道を見いださねばならない。日本が正しき道によりて高きに至るためには、日華事変以前、満州事変以前、否、二・二六事件以前に目をかへして、そこに正道と邪路の分岐点を見出さねばならない。」
とある。


バヌアツの話に戻ろう。
サイクロン被害支援は、ある意味で日本の植民政策の延長である。繰り返すが「植民」とは西欧諸国による、現地住民の搾取、奴隷化、差別の歴史だけではなく広く社会現象を表すものである。
東大においては、戦前、新渡戸稲造、矢内原が教授した「植民政策」の講義が、戦後「国際経済論」として引き継がれている。

その観点から、バヌアツの歴史、文化、伝統文化、民族、独立の過程、英仏旧宗主国のバヌアツでの動き、そして現在の宗主国である豪州の動き、さらにはメラネシアグループの動きや、バヌアツ独特の金融経済(タックスヘブン)、西パプア独立支援運動などなど、日本は多くを研究せねばならない。
あまり書きたくなかったが現在書いている当方の博士論文はバヌアツをケーススタディに選び、まさにバヌアツの章を書いている最中のサイクロンであった。
矢内原事件 [2015年02月18日(Wed)]
 天皇皇后両陛下のパラオ訪問を控え日本の南洋統治の事を、さらに「侵略」という言葉と共に使われる「植民地政策」の事を勉強せねばと思い、矢内原忠雄をめくったところ、意外にも蝋山政道を通じて笹川良一氏につながった。
 ここ数ヶ月、頭の中も机の上も矢内原だらけになっている。

 矢内原忠雄と言えば「矢内原事件」。これを知らずに矢内原は語れないと思い資料を探していた。
今年もミラクル、天命は続いているようだ。
 なんと当方が在籍するオタゴ大学でこの「矢内原事件」を研究されている方がいた。将基面貴巳教授である。しかも昨年『言論抑圧ー矢内原事件の構図』(中公新書)を出版されている。学術書である。書評も多い。知らない方ではないので、連絡をしたところ一冊分けていただけた。

 今泉裕美子氏が指摘するように、矢内原が太平洋問題調査会から委託を受けた『南洋群島の研究』を当時の政府の顔色をうかがって書いたとは思えないし、思いたくない。矢内原の学者としての公正中立性を確認したかった。

『言論抑圧ー矢内原事件の構図』の学術的書評は他に譲り、次の2点が個人的に記憶に残った。

1.矢内原忠雄はバカにバカと言ってしまうタイプ
 新渡戸稲造に白羽の矢を立てられた矢内原は超優秀だったのだ。しかも回りのバカ学者を「バカ」と言ってしまうタイプだった。これは蝋山政道の南洋政策批判に限った事はなかった。
 有名な「太った豚になるよりは、痩せたソクラテスになれ」と学生に語った言葉が、矢内原を辞職に追い込んだと一般に理解されている土方成美に対するものであったようで、これを土方自身も認識している。

 このような歯に絹を着せない矢内原の言動は本人も反省しているようだ。

 「結果、残る大内と矢内原の二人だけが激しく意見を述べ、反対論を徹底的に論破した。その激しさに、恨みを抱いた者が少なくなかったようだ、とのちに矢内原は回想し、「今ではすまなく思っている」とさえ記している。」
『言論抑圧ー矢内原事件の構図』p111より


2.近衛文麿内閣総理大臣宛の辞表
 矢内原は辞表を近衛文麿内閣総理大臣宛に書いている。『言論抑圧ー矢内原事件の構図』は大学の自治の問題を取り上げているので、矢内原の辞表もその視点で議論されているが、私がここで想像(妄想)したのは、当時の政治的背景である。
 蝋山政道、近衛文麿と言えば大翼賛会、大東亜共栄圏につながる「昭和研究会」。そして近衛文麿の同級生でもあった後藤隆之助もキーパーソンだ。近衛、後藤は新渡戸の生徒でもあり、矢内原とは5つ年上。矢内原が「バカ」と酷評した蝋山もいるこの「昭和研究会」の動きを矢内原が知らないはずはない。
 矢内原が辞表の宛先を近衛文麿内閣総理大臣にしたのは形式的なものかもしれないが、当時、日本を戦争の泥沼に引きずり込もうとする近衛政権に、また矢内原を辞職に追い込んだ影の姿に一矢報いたのではなかろうか?
 もしかしたら、新渡戸稲造に高く評価されていた年下の矢内原を近衛も後藤も嫉妬していたかも。男の嫉妬は恐ろしい、という。


 さて、後先を考えず、バカにバカと言ってしまう矢内原先生が『南洋群島の研究』を当時の日本の政治状況に委ねて書いたとはやはり思えない。もし考慮したとすれば国際連盟脱退と南洋群島の保持の件、そして国際連盟事務局次長だった新渡戸稲造先生の立場ではなかろうか?


 将基面先生が終章でまとめた言葉は多くを考えさせられた。

 「しかし、消えていった人の声は聞く事ができない。沈黙させられている人は、沈黙させられているという事実についても発言する事ができない。まさしくそこに、言論抑圧という現象が、大半の人々には認知されにくい、ひとつの大きな理由があるように思われる。」
『言論抑圧ー矢内原事件の構図』p217より


 矢内原先生の南洋群島研究は昔恩師の渡辺昭夫先生から「誰かが研究しないと」と言われていた。当時は直接仕事に関係なかったし、ちらっとめくった本の内容は難しかったので放っておいた。
 将基面先生曰く、矢内原の業績のわりには、未だに光が当っていないそうだ。そういう意味では「矢内原事件」は今に続いているような気がする。
 このブログに書いてもほぼ世の中に影響はないと思いつつも、引き続き矢内原先生の南洋群島研究と植民地政策論を勉強し、少しでも光を当てたい。
矢内原忠雄著『南洋群島の研究』書評 [2015年02月14日(Sat)]
矢内原の研究自体を研究する文章も多い。
南洋に関しては今泉裕美子氏が突出しているようだ。
下記の文章を見つけた。

「矢内原忠雄の略歴、研究および南洋群島関係資料の概要」
津田塾大学 今泉裕美子
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/digia/tenji/yanai/h7320.html

矢内原の南洋群島研究が当時の政府の政策に影響されていないか、当方も気になっていた。
しかし、1937年には「矢内原事件」(次回書きます)で職を追われており、また敬虔なクリスチャンでもあった矢内原が、その思想や論理を国策に委ねて曲げるとは到底想像できない。

しかしながら今泉氏は下記の通り、矢内原の南洋群島研究が日本外務省の影響を得ていたと議論している。

「こうした時代背景と、日本IPRの性格−外務省とのつながりが深く、日本の
 国益擁護を支持する活動を行っていた−から考えると、『南洋群島の研究』は、
 氏が発表した一連の植民地研究書、『帝国主義下の台湾』(岩波書店、1929
 年)、『満州問題』(岩波書店、1934年)とは、同じ体裁をとりえなかった
 ことは想像に難くない。『南洋群島の研究』の序は、台湾、満州研究の序にうか
 がわれる、激しい日本帝国主義批判の論調と趣を異にしている。」

もし矢内原が南洋研究に関して、政府の政策を気にしつつ書いていれば、子息の矢内原勝氏が書いた「矢内原忠雄の植民政策の理論と実証」(三田学会雑誌,80卷4号、1987年10月)に書いたのではないであろうか?しかしその記述はない。


今泉氏の他のペーパーを見ていないが、もしかしたら同氏も「植民地」に対する基本的な議論、即ちアダムスミス、新渡戸稲造、そして矢内原が展開している議論を知らないのではなかろうか?「植民地支配」イコール過去数百年の西洋による搾取、虐殺、差別との認識であれば、同氏の議論展開は理解できる。
さらに、今泉氏は韓国の慰安婦問題を、いわゆる自虐史観の立場から捉えているようなので、同じ姿勢で南洋統治を捉えているとすると、これも疑問である。
今も同じように学生に指導しているのであろうか?


今泉裕美子ゼミのウェッブより。

「ゼミ活動での一番の思い出は何ですか?
最初のゼミ合宿が一番の思い出です。朝から晩まで、目一杯時間をかけて吉見義明『従軍慰安婦』を読み解き、暇さえあれば議論をしていました。1泊2日というタイトなスケジュールの中で行ったためとても大変でしたが、ゼミで勉強する楽しさと奥深さを一度に学ぶことができました。問題を理解し、どうすればよいのかを考え、互いに議論しあうというのはとてもエネルギーの要ることでした。 それでも、やり終えた後の達成感は格別なものがありました。「これから、もっとがんばっていこう!」と思えた、大きな合宿でした。」
http://www.hosei.ac.jp/kokusai/kyoin/zemi_6.html

そして下記が、今泉ゼミの学生たちの発表で「最優秀賞受賞研究」になっている。
今彼らは慰安婦問題をどのように捉えているのであろうか?
知っていますか?日本軍「慰安婦」
国際文化学部 今泉裕美子ゼミ
平林大樹、岸彩夏、文仙恵、坂本千里、原和葉
矢内原忠雄著『南洋群島の研究』を読む(2) [2015年01月12日(Mon)]
西洋諸国の植民地支配に島の人々は無抵抗だったわけではない。

スペインとポルトガルが、神の名において、地球をまっ二つに割り、(トリデシリャス条約、その後地球が丸い事を知り追加されたのがサラゴザ条約)ミクロネシア諸島はスペイン領となった。幸い、グアム、サイパン以外の島々はそれほど用がなかったという事もあるが、二度の宣教を試みたスペインの神父様達が、島の人々の殺されて、スペインも諦めたようである。

よって、実質的植民地支配はドイツが最初、ということになるが、これも黙って、無抵抗に受け入れた訳ではない。
有名なのがポナペ島のジョカージの反乱。1910年には全村民400名をパラオに強制移住させた。

ドイツ時代にはそれだけではなく、開拓のために島から島への強制移住が下記の通りあった。

サモアから約60名の犯罪人をサイパンへ。
1905年 ピンゲラップ島民67名をサイパンへ(台風被害救済措置として)
1907年 モルトロク島民2400名をポナペへ。
1909年 上記モルトロク島民2400名の内629名をサイパンへ。
モクモク、オレアイ島民1528名をトラック、ポナペ、サイパンへ。
ソンソン、プール、メイル、トコペ等の南西離島よりパラオへ。

しからば日本時代はどうであったか?
今回この矢内原の『南洋群島の研究』を読んで本当によかったと思ったのは下記の記述である。

「然るに日本統治に入りて後はかかる政策的移動を行はざるのみではなく、独逸が刑罰的若しくは政治的理由により強制移住せしめたる者をばその郷里に送還した。」

軍事色の強まる日本を批判し、この本を出版した2年後の1937年、東大を失職した矢内原がバイアスを掛けているとは思えない。この日本の人道的対応は本当ではないだろうか。当時は国際連盟への報告義務があったので、この事を裏付ける詳細な資料が残っているのではなかろうか。
矢内原忠雄著『南洋群島の研究』を読む(1) [2015年01月07日(Wed)]
1935年に出版された矢内原忠雄の『南洋群島の研究』を読んでいる。

先般訪日したパラオ大統領が「日本とパラオは、国交20周年を迎えるが、戦争以前から関係があった。」と安倍総理との会談、記者会見等で繰り返し述べていた。
大統領の言う「戦争」とはWWIIのことで、日本との関係は、ドイツ領だったミクロネシア諸島をWWIで占領してから思い込んでいたのだが、違った。

ナント、「士族授産金」が、即ち武士救済費用がそのきっかけを作った。
1890年、田口卯吉(幕臣の子)が貿易船天祐丸による南洋渡航を、南洋開発を試みたのだ。
矢内原によればのこの試みは1年で頓挫し、非難を受ける事になったらしいが、これをきっかけに日本の貿易会社が次々にミクロネシア諸島に展開する。ドイツがこれらの諸島を手に入れる頃、若しくはそれ以前の話だ。ドイツ領となった後も、特にパラオでは日本の貿易会社がほぼすべてを仕切っていたという。
日本ーパラオ、日本ーミクロネシアの関係は武士が作った。そしてそれは第一次世界大戦より30年も前の1890年から始まる。即ち2015年の今年は日本ーパラオの125周年記念となる。

この天佑丸に森小弁が乗船していた。彼も士族出身だ。
明治維新による武士の失業者は100万人を超えた。WWI後の軍縮で失業した軍人10万人どころではない。前者は経済開発、海外への進出を。後者は2.26に。
この違いはどこから来るのであろうか?

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年末年始に2つの映画を観た。「柘榴坂の仇討」と「動乱」
「柘榴坂の仇討」では明治維新を武士は必死で生き残った姿も描かれている。すごいエネルギーだ。2.26を扱った高倉健、吉永小百合出演の「動乱」は、東北の貧しい人々と軍部の腐敗が描かれている。
前者は観賞後元気が出たが、後者はいたたまれない気持ちになった。



Japan as a Colonizer - Inazo Nitobe [2014年11月13日(Thu)]
今日は朝からフィジーのイノケ外相(在日大使をされていた)に「日本は中国とインドに対して悪魔の行いをしてきた。二度と両国と友人関係にはなれない。」とTWされてショックを受けている。

日本が旧植民地で何をしてきたか。
新渡戸稲造が「植民者としての日本」という英文のペーパーを出している。1912年だ。
当時、既に日本への批判、猜疑心が米国の中に生まれていたようだ。

新渡戸によれば、当時台湾は李鴻章から、首狩り族と麻薬と、強盗だらけで、決して統治できる代物ではない。日本は気の毒である、とまで言われているような状況であった。
日本はこの状況を数年で改善し、台湾の北から南まで、女性一人で旅をしても大丈夫な程安全な場所にした。
新渡戸は、首狩り族対策、強盗対策、麻薬対策、衛生改善等々、李鴻章が統治不可能と言った問題を日本がどのように解決して行ったのか詳細に述べている。

日本統治前の台湾では、強盗は体格がよく、店の前に立って商売の邪魔をしていた。これに困った商人はお金で解決していた、という。新渡戸は同様な光景を満州でも見た、と書いている。

新渡戸稲造の植民地論でアダム•スミスを参考にしている事があまり、というかほとんど議論されていないようである。この"Japan as a Colonizer "もあまり引用されていなように思うが、当方の勘違いであって欲しい。

日本が悪魔的行いをしたかどうか、という問題よりも、そのような情報が外相レベルに浸透している事を日本は憂慮すべきである。



Japan as a Colonizer - Inazo Nitobe 
ここに全文があります。
http://archive.org/stream/jstor-29737924/29737924_djvu.txt
新渡戸稲造、矢内原忠雄の植民地論 [2014年11月05日(Wed)]
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植民地、Colony
この言葉からは過去500年の西洋人による、搾取、奴隷、暴力、独占、人種差別、等の言葉しか思い浮かばない。
最初にこの偏見を改めさせてくれたのが、考古学者の愚夫が3千年、5万年前の人類の移動にcolonizationという言葉を使っていた時だ。
人類の移動イコール植民なのである。

アダム•スミスの『国富論』では、植民地論をギリシャ、ローマ当たりから初めている。新渡戸、矢内原もギリシャ、ローマの植民地論を論じている。


この数週間で読んだのは下記の文献

新渡戸稲造全集 第四巻 植民地政策講義及論文集
Nitobe, Inazo, "Japan as a Colonizer" The Journal of Race Development. Vol 2, No. 4 (April., 1912), pp. 347-361
矢内原忠雄、『アダム•スミスの植民地論』、矢内原忠雄全集


矢内原の文章は難しいが新渡戸はわかりやすくて面白い。
なんでもっと早くこの論文に出会わなかったのであろう。新渡戸稲造といえば『武士道』しかない、と思っていた。
もしこれからこの論文を読もうとする方は、スミスの『国富論』にある植民地の章を読んでから、新渡戸稲造と矢内原忠雄の植民地論を読むとわかりやすいです。きっと先に新渡戸、矢内原を読んでも意味がわからない、と思います。
スミスはああだ、こうだとゴネゴネ言い回していますが、でも丁寧な解説でわかりやすいです。


新渡戸稲造全集第四巻は思い切って購入した。矢内原忠雄全集は図書館でかりた。1−5巻が植民政策研究である。
この二人の植民地論がアダム•スミスを基盤にしている事は疑いようがない。矢内原はスミスが経済学の父であるだけでなく、植民地論の父でもあると明言している。
この植民地論、矢内原が戦後国際経済という科目で教えたように、国際経済、即ち国際政治にもつながる。ということはスミスは国際経済、国際政治、そして開発学の父、とも言えるのではないだろうか?