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『明治の人物誌』星新一著 [2018年05月17日(Thu)]
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星新一氏が新渡戸稲造を取り上げた『明治の人物誌』も軽くメモしておきたい。

この本には星新一氏の父親である星一と縁のある下記の10名が取り上げられれいる。

中村正直
野口英世
岩下清周
伊藤博文
新渡戸稲造
エジソン
後藤猛太郎
花井卓蔵
後藤新平
杉山茂丸

この中の伊藤博文、新渡戸稲造、後藤新平、杉山茂丸を読んだ。
星一氏、すごい人間関係だ。そして初めて知ったのは後藤新渡戸の台湾植民を通して阿片をモルヒネにして製薬会社をやっていたのだ。これが大成功し、当時貧窮していたドイツの医学界を助けた。ナチスの前である。
しかし、後藤が政権を奪われた時、後藤を資金的に支援していた(と思われていた?)星製薬会社も追い込まれることになった。

後藤新平、というと「ああ、阿片で稼いだやつ」と植民学の専門家までに言われてえ?と思っていたが、ここら辺が噂の背景なのかもしれない。

星新一氏は、後藤新平が亡くなった後借金しかなく、家を処分してその返済に充てたことが書かれている。その気になれば財産を作ることも可能であったのに、と。
読売新聞も後藤が家をかたに借金して正力松太郎に資金を提供したのである。

最初、伊藤博文、新渡戸稲造、後藤新平の三人だけ読もうと思ったが、星と杉山茂丸の出会い、そして杉山茂丸と頭山満の件が気になって、杉山茂丸の章も読んでみた。ちょっとまとめきれなほどすごいのだ。一箇所映像になって印象に残った文がある。後藤新平を満鉄総裁にしたのも杉山茂丸が児玉を動かした結果、だったらしく後藤が杉山の背中を嫌という程殴りつけて「このやろう。あれこれ画策しやがって、おれを植民地まわりの親方にしてしまう気か。」

一体これがどこからの引用か書いていないので気になるが、「植民地まわりの親方」というのが今、植民学者が後藤を「阿片の親分」と決めつけているところと重なる。後藤は100年後にそういう評価があることを予想していたのかもしれない。

杉山茂丸も頭山満も北九州の出身である。あそこら辺は歴史的に海外との交流も盛んで優秀な人が多いのだそうだ。
『明治・父・アメリカ』星新一(読書メモ) [2018年05月17日(Thu)]
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一体この世の中に新渡戸稲造に関係しなかった人がいないのではないか、と思えるほどその人脈の広さに驚いている。


ウェブ検索中に見つけた「星一」の名前。SF作家星新一氏の父親だ。
彼も新渡戸稲造に出会い人生が変わった。
幸い、星新一氏が父親の交流を研究し、2つの本が出ている。その一つが『明治・父・アメリカ』で星一の人生を追った内容だ。
面白くて一気に読んだ。新渡戸に関する記述で目新しいのは、台湾に誘われる箇所だ。後藤新平から長文の電報を受け取ったことが、快諾する要因だったようである。手紙ではない電報だ。しかも長文。かなりの金額だったのではないか?そして、新渡戸が出した条件に台湾に行く前に世界の植民政策を学ぶべく1年時間が欲しいと要望を出したのである。173−175頁(新潮文庫、昭和57年)


新渡戸と関係ない箇所で私が知らず、驚いた件。
あの映画の市民ケーンのモデルとなったウィリアム・ハーストは元祖イエロージャーナリストだったのである。しかも米スペイン戦争を仕掛けたのだ。市民に敵対心を煽り戦争を開始させる。米国は日本だけでなく、スペインともやっていたのだ。そしてカリブ海とグアム、フィリピンをスペインから勝ち取った。この時、他のミクロネシアのスペイン領は、ドイツに安く売られている。スペインが米国に渡したくなかったからだ。(詳細は高岡熊雄博士著『ドイツ内南洋統治史論』)
ここが現在の海洋法に関連してくるのではないか、と想像している。
即ち、米国の搾取的な植民がカリブ諸国の反発心につながって200回海里の発想に。。ここは全くの想像なのできちんと調べなければ。。
密語菴・原三渓・新渡戸 [2018年05月10日(Thu)]
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久しぶりに哲学の道を歩いた。
熊野若王子神社の近くに来て「そうだ、ここら辺に新渡戸が住んでいて、新渡戸の崇拝者であり生徒だった和辻哲郎も住んだ有名な家があるんだった。今は梅ナントカさんが住んでいるだったか?」
と思い出して、後でウェブサーチしたら「密語菴」という日本家屋で原三渓の番頭古郷時侍の旧宅、とあった。現在の主人は梅棹忠夫さんだった。家ができたのが明治中期とか、大正7年とかウェブ情報は色々である。

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原三渓とは何者か?ウィキによると富岡製糸場の経営者。1868年生まれ。逆玉で教育者。1862年生まれの新渡戸と接点がないはずはない、と思う。ちなみに新渡戸も逆玉で教育者だ。

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そして新渡戸は天才的「人たらし」である。きっと。
柳田國男を民俗学者にしたのも新渡戸。伊藤博文に日韓併合を講義して気持ちを変えさせたの新渡戸(多分)。

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もし6歳年下の原三渓が新渡戸に会っていれば絶対たらされている。竹内栖鳳が1929年のIPR京都会議に合わせて日本家屋を作ったように(これも私の想像なのだが多分あってると思う)、京大教授であった新渡戸に家の一軒くらい建てたと思う。原三渓であれば。

新渡戸を慕っていた一高の生徒和辻哲郎がその後住んでいた、と知るとなおさら密語菴は原三渓が番頭古郷時侍に言って、新渡戸のために作らせたのではないか、と思いたくなるのだ。だから和辻もそこに住んだ。新渡戸を偲んで。。(想像・妄想は止まらない)

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本当は、哲学の道で本を読もうと思ったのだが、思ったより寒く、しかもユスリカがたくさん飛んでいて、新渡戸のことに思い馳せたお散歩になってしまった。
「ベルツの日記」ハウスホーファーとベルツ [2018年03月31日(Sat)]
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ハウスホーファーが太平洋地政学で、日本人マレイ説を応用している背景には、ベルツの存在がある。
「ベルツの日記」という本がある。ベルツの日本滞在を綴ったもので、ナチス時代に出版された。日本で翻訳出版されたのは1939年。

明治9年から明治38年まで日本に滞在したエルヴィン・フォン・ベルツ博士は日本に医学を紹介しただけでなく人類学研究をし、1万人以上に日本人を調べて、日本人にマレイ系と大陸系があると主張した。このマレイ系が今でいうオーストロネシア語族で、インド太平洋に拡散した言語集団である。
ハウスホーファーはこの説を応用し、太平洋地政学を議論している。新渡戸も日本人マレイ説を持ち出している。ベルツの弟子だった鳥居龍蔵も一時までマレイ説を主張していたようだ。

さて、日本は長年の鎖国の中で和蘭との貿易は継続した。この和蘭の中に後のドイツ人が入っているのだ。本書の「題言」にケンフェルというドイツ生まれの医者が元禄3ー5年日本に滞在し日本に関する本を著して始めて欧州に日本を紹介した、とある。

ベルツが日本に来た理由の一つにドイツに留学していた日本人学生の様子に随分と良い印象を持った事があるようだ。

20歳違いのハウスホーファー(1869 - 1946)とベルツ(1849 - 1913)はどこかで会っているであろう。2年弱しか日本に滞在していないハウスホーファーの日本に関する情報は元禄時代のものからベルツまでかなり量も質も濃いものだったのだろう。

日本がナチスドイツと接近した背景には300年の和蘭との国交、ハウスホーファーだけでなく、ベルツの日本紹介や、ベルツの日本の弟子達の存在もあったのかもしれない。
「ハウスホーファーとラティモアに就いて」 [2018年03月30日(Fri)]
同志社大学の図書館は私にとって宝島のような場所である。
しかも院生しか入れないドアの向こうは宝がザークザク。

ここで見つけたのが日本地政学協会が発行していた雑誌だ。ハウスホーファーの文献がいくつか掲載されている。
その中に5頁の短い論文だが興味深いタイトルだったのでコピーして何度か読んでいる。

辻村太郎、木内信蔵、「ハウスホーファーとラティモアに就いて」地政学、第1巻5、昭和17年5月、日本地政学協会発行

ハウスホーファーの「太平洋地政学」とラティアもの「内陸アジア地政学」を読んだ感想である。
著者は、この二人が米国の反日とドイツの親日を促進している重要な人物である事を指摘。即ち反日の米国がラティモアを出したのではなくラティモアが米国を反日し、親日のドイツがハウスホーファーを出したのではなく、ハウスホーファーがドイツを親日にしたのだ。
一人の人物が国家関係を変えてしまう。

それから、ドイツが太平洋に高い関心を持つもこれを譲ろうとしている(日本に、だと思うが)箇所も気になった。これが日本が太平洋島嶼国に軍事進出をした背景であろうか?
反日を促進したラティモアもその中国への観察眼を高く評価している。


「夫々の国が各々の地政学を持つべきは言う迄もない。...大国たらんものは、単に自国のみに都合のよい地政学を持つ事は許されぬ。」

この頃の言論統制の状況は全く知らないが、著者はハウスホーファーとラティアモアを一見評価しているように見せつつ、日本は独自の道を進むよう真剣に考えているようにも見える。ラティモアは中国で生まれたわけではない。同様にハウスホーファーは太平洋を文献でしか知らない。
後藤、新渡戸、矢内原が開拓した植民政策論、日本膨脹論が、もしかしたらこの地政学に取って代わられてしまったのではないか、と一瞬想像した。植民政策論は戦後開発経済学として矢内原によって再開されたのだ。
矢内原の帝国主義研究 [2018年03月20日(Tue)]
自決権の向こうにあるのが植民主義であり、帝国主義であり。。

矢内原は帝国主義についても色々書いている。リストアップだけして後で読みたい。
目次に「帝国主義」と書かれたものを拾った。


第1巻
植民及び植民政策(索引には10頁に渡って)
植民政策の新基調
(目次には帝国主義の文字はないが、文章では帝国主義を多く扱っている)

第2巻
帝国主義下の台湾 177〜

第3巻
帝国主義化の印度459〜

第4巻
帝国主義研究 1〜
 超帝国主義について 71〜
 軍国主義・帝国主義・資本主義の相互的関聯 109〜
 世界経済発展過程としての植民史
  5.帝国主義 155〜
論文(上)
 帝国主義の現勢 377〜

第5巻
国際経済論
 第2章 世界の成立
  第4節 帝国主義時代 18〜
 第3章 帝国主義論
  第1節 帝国主義の概念規定 21〜
  第2節 資本主義と植民地 25〜
  第3節 価値論と植民地 28〜


5巻にある「帝国主義の概念規定」が面白いの少しだけ。
帝国主義、という言葉はフランスのナポレオン3世から始まった。ニューカレドニア、交趾支那、カンボジア、ソマリランド、メキシコ等に遠征軍を派遣し領土拡張に従事したことから、帝国主義が政策的意味を持つ、特に海外侵略野心の代名詞となった。
読書メモ『南洋群島の研究』矢内原忠雄ー情報戦争に参加しない学問 [2018年03月20日(Tue)]
矢内原忠雄全集第3巻に『南洋群島の研究』が入っている。
この中の第7章第4節が委任統治、である。(全集1963年、398-406頁)

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1940年に出版された矢内原忠雄の『南洋群島の研究』英文


連盟規約第22条、委任統治の説明と、満州事変勃発に続く日本国内の「海の生命線」という南洋の国防意識が高潮。世界から日本に疑惑の目が向けられる事になった。イヤハート事件にもつながる。

この節で矢内原は1933年に実施した現地調査を基盤に、世界から軍事基地化疑惑が向けられている日本の南洋統治における南洋航路や港工事、飛行場建設の現状を報告し、日本に何の落ち度もなく、軍事化疑惑は単なる濡れ衣である事を説明している。

この矢内原の現地調査は、太平洋問題調査会の日本部会が1932年5月に矢内原に依嘱したものである。(同書、序文、3頁)1932年だと新渡戸が同調査会にいたのではないか?矢内原がこの調査会の反日的な動きを知らなかったとは思えない。よってこの報告書の記述が日本擁護ではないと否定しきれない面はある。しかし、1934年に現地調査を実施した米国人クライド教授も日本の軍事基地化の動きはないと報告しているし、馬鹿に馬鹿というタイプの矢内原がウソの報告を書くとは思えない。(401頁)
日本委任統治地域の軍事基地化の動きは誰がその噂を広めたのであろう?蝋山、ゾルゲ、尾崎では??


この本が出版されたのが1935年。英訳が出版されたのが1940年。
1940年 ー 1937年のイヤハート事件で日米関係悪化が決定的になり、もう後に戻れない時期だ。遅いよ矢内原先生!学者は情報戦争やる気なし!
(一言矢内原を擁護すれば1937年矢内原は東大を終わた年であった。)
米国人クライド教授の本は1935年に出版されている。

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読書メモ『植民政策より見たる委任統治制度』矢内原忠雄 その2 [2018年03月19日(Mon)]
以前メモした矢内原忠雄先生の『植民政策より見たる委任統治制度』。
矢内原全集第4巻(170ー195頁、岩波書店、1963年)出版されたのは昭和12年7月「国家学会50周年記念国家学会論集」
以前書いた読書メモ
https://blog.canpan.info/yashinomi/archive/2430

国際法の観点から気になる箇所があったので、忘れないように書いておきたい。

上記全集の176頁に委任統治の主権の問題が書かれている。
国際条約と言っても、妥協や、矛盾をたくさん抱えているのだが、委任統治について書かれた連盟規約22条は、「法律家ならざる実際政治家」のスマッツ将軍とラウンド・テーブル(チャタムハウスの起源)の主筆フィリップ・カーが起草したものである、という。さらに法律専門家の校閲すら経ていない、と。

それは委任統治制度が併合主義と非併合主義との相対立する要求を包容した「妥協的産物」で、もし法律的明確を維持しようとしたら規約そのものが成立しなかった、と言われている。


矢内原の委任統治問題に関する記述はこの論文と「南洋委任統治論」(1933年6月、中央公論、546号。矢内原全集第5巻、論文(下)128ー146)。
https://blog.canpan.info/yashinomi/archive/2431

そして矢内原全集第三巻に収められている「南洋群島の研究」の第4節委任統治(399ー406頁)にも書かれている。これはこれから読みたい。
読書メモ「国際連盟委任統治問題一件」 [2018年03月18日(Sun)]
等松春夫博士の『日本帝国と委任統治』に引用されていた「国際連盟委任統治問題一件・独逸ノ植民地回復要求関係 第二巻」がウェッブで読めるのである。


「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04122007000、国際連盟委任統治問題一件/独逸ノ植民地回復要求関係 第二巻(B-9-6-0-1_4_002)(外務省外交史料館)」


アクセスしてざーっと見たら、マインカンフとハウスホーファーと南洋委任統治問題と、立作太郎と。興味深かったのでプリントして読んでみた。

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1940年9月9日の外交記録、
三国同盟の直前だ。
ハウスホーファーが「生命圏の始祖」と書いてある。


日本は、ドイツと同盟することによって南洋委任統治を守ろうとした、のではないか。
立作太郎先生の委任統治の法解釈がここで重要だ。
ベルサイユ条約119条をめぐる、主権と領土権の違いの解釈。委任は連盟ではなく主たる同盟及び連合国が決定した事が再度書かれている。即ちウィルソンの非併合主義と、帝国主義の植民地政策の妥協の産物である委任統治の法的解釈。
日本は、ドイツが万が一植民を要求した場合はこの解釈で対応しようとした。
等松先生の本によれば、戦争が始まってそれどころではなくなったようだが。

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日本の委任統治地域の主権を支持していた、国際連盟を脱退し、連盟が機能しなくなり、ベルサイユ条約も破棄(ここは未確認)され、日本の南洋委任統治は主権の存在も危うくなり、「無主地」として先占すべし、それは豪州、ニュージーランドの委任統治、即ち北部ニューギニアとサモアも同じである事が当時の日本政府が認識している。
これがニューギニアに出てく理由の一つ、即ち立作太郎博士の国際法解釈が武断的南進の理由だったのではないか?と思ったりした。

等松春夫博士の『日本帝国と委任統治』、ざっとしか読んでいない。熟読すべき研究だ。(って今頃。深く反省。)
読書メモ「新渡戸稲造の植民思想」平瀬徹也 [2018年03月16日(Fri)]
続いて新渡戸の植民論を扱った下記のペーパーのメモ。
これも以前読んで再読したいと思っていた論文だ。

平瀬徹也 「新渡戸稲造の植民思想」『東京女子大学附属比較文化研究所紀要』 (通号 47) 1986 年

筆者の平瀬徹也氏は東京女子大学を2002年頃退官されたようである。歴史研究者。

最初に新渡戸の人種観が書かれている。新渡戸が白人を尊敬し、アジア人を軽蔑していたか?
人種間に優劣がある事を認めていた。それは「植民」をギリシャ時代から概観していた新渡戸の視点であろう。また人間に優劣があるのではなく、その社会に優劣がある。植民する側とされる側、と言ってよいであろう。
但し新渡戸は植民が相互作用である事も十分認識していた。例えばアレキサンダー大王のインド植民で、インド文化が逆にギリシャにもたらされて事等が書かれている。

そして新渡戸の植民地観は、政治的侵略、領土拡張(ハウスホーファーの地政学のような)ではなく、経済上の発展である事が書かれている。

植民策の原住民の対応については、本国人の威厳を保つ必要とともに原住民の為の有益を主眼におくことが本国の神聖なる義務である、とこれは国際連盟規約にある通りだ。

 新渡戸の植民地終局目的について書かれている。これは海洋ガバナンスの人類共同の財産に近い議論だ。
新渡戸が世界土地共有論を唱えていた事は重要だ。しかし、新渡戸の共有というのは「土地の有効利用論、高度利用者優先論」である事を平瀬は指摘する。それは原住民の利益を守ったものであることも平瀬は指摘している。

最後に満州事変に対する新渡戸の認識は、よくある転向者論は誤りである、と新渡戸の植民政策から、平瀬は指摘している。新渡戸は満州国成立以降、門戸開放を主張していた。石橋湛山が同様な満州門戸開放論を唱えていたことを平瀬は指摘する。

もし、後藤・新渡戸・矢内原の植民論と、地政学に影響を受けた植民論というのがあれば、その違いは原住民対応とこの門戸開放政策であろう。この点は太平洋島嶼国の海洋ガバナンスに応用できるような気がするのだけれど。。
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