CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« ポリネシアン航海 | Main | 歌占う木瓜の花»
プロフィール

早川理恵子博士さんの画像
早川理恵子博士
プロフィール
ブログ
<< 2018年07月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
Google

Web全体
このブログの中
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
駄場裕司著『後藤新平をめぐる権力構造の研究』 [2017年08月28日(Mon)]
(駄場様、お名前間違えて申し訳ありませんでした)

後藤新平の植民政策を論じた資料はないでしょうか?と京大のN教授に思いきって尋ねたところ、駄場裕司著『後藤新平をめぐる権力構造の研究』(南窓社、2007年)を教えていただいた。
著者の駄場裕司氏は、あとがきを読むと新聞記者をされていたようで、この本は広島大学で書かれた博論である。

目次を見ると未知の世界である。
しっかり読んでいない。ざーっと、関心が持てそうな、背景が少しでもわかりそうな箇所だけ読んだ。

後藤新平と玄洋社は繋がっていて、玄洋社がソ連との関係を強化しようとし、さらに日韓併合も推進していた。後藤新平の日韓併合、ソ連との関係強化の背景に玄洋社あり。
後藤新平全集(全四集、1937-38)の「鶴見本」はここを隠しているので、玄洋社と後藤の動きが見えない、という事である。

なぜ隠したのか?
著者の推測は後藤周辺の言論人による意図的なものであるとのこと。
E・H・ノーマンが「福岡こそは日本の国家主義と帝国主義のうちでも最も気違いじみた一派の精神的発祥地として重要である」と1945年1月にIPRで糾弾。そして「鶴見本」を編集した後藤と姻戚関係の平野義太郎は戦後ノーマンの権威を最も積極的に利用していた、というのだ。


読んでいて色々疑問に思うところ、例えば新渡戸と後藤の関係など濃いはずだ。新渡戸を国際連盟次長に押したのは牧野伸顕だが、パリ講和会議に「茶番劇を観に行こう」と新渡戸を誘ったのは後藤なのである。「鶴見本」を神話と一様に片付けていいのだろうか?
後藤新平、新渡戸稲造、そして矢内原忠雄を日本の植民政策の視点から、今のところ「趣味」の範囲でしか勉強していないので、あまり批判的な事は書かないでおく。

とにかく玄洋社を理解しないと近現代史は、日韓併合や日本の植民政策は語れない、ということか?
余計な事だが「007は二度死ぬ」に福岡の黒竜会が出て来るのもIPRのノーマンの仕業だったわけだ。
京都寺町通りの横井小楠の碑 [2017年07月07日(Fri)]
19875576_1236624916464260_3458838653213096845_n.jpg


19665207_1236624909797594_307009905688254159_n.jpg


後藤新平の日本膨張論に出てきた横井小楠。
いつも通る、同志社大学への通学路上に、暗殺された場所があって碑が立っている。
昭和7年に再建、とあるから1932年。新渡戸が亡くなる前年だ。
少なくともその頃までは多くの人の記憶にあったのであろう。
『国是七条』が後藤が参考にした国家論であろう。
wikiで知った範囲だが、約150年前、日本には凄い人がいたんだ。
今その余裕はないが、『国是七条』読んでみたい。

19756399_1236624906464261_6941293144322218367_n.jpg


19665255_1236624913130927_4133157206946028439_n.jpg
後藤新平の博士論文は36頁 [2017年06月30日(Fri)]
special_zoom_03.jpg


岡山大学姜克實教授の後藤新平の論文に興味深い事が書いてあった。

1890年、ドイツに留学した後藤は3ヶ月で博士号を取得する。博士論文はドイツ語で36頁!
論文名は「衛生行政と公衆衛生ー日本と他国の比較視点」


そしてその後藤のドイツ語の力を育てのが、師であった司馬凌海の「道楽」であったという。
道楽のため、金遣いが荒く、小遣い稼ぎが必要。そのためドイツ語の医書翻訳を引き受けていた。後藤はこの翻訳の記録。校正を行っていたのである。

新渡戸の後藤像によれば、後藤は新渡戸より100倍位優秀だったそうだ。
後藤新平のドイツ語、聞いてみたかった。
それにして36頁! 羨ましい!
後藤新平の国家衛生思想 [2017年06月29日(Thu)]
はやり、1冊分のホロコースト関連資料を読むのは精神的に良くないような気がする。
以前ハンナ・アーレントの映画を観た後も、しばらく重い気持ちが続いていた。

ナチスの「人種衛生学」という文字を見て気になったのが後藤新平の「国家衛生思想」。
後藤の方は全く中身を知らないが、もしやどこかでつながっているのでは?と不安になってダメもとでウェッブサーフィンしたら、かなり上質な学術ペーパーに巡り会えた。
「上質な学術」と私が判断するのは、先行研究をきちんと整理し、後藤新平のオリジナル記述と、後藤が参考にしたであろう各論文、資料を確認しているからだ。著者は岡山大学姜克實教授。


a. 日本における社会政策の準備 一後藤新平の思想と活動を中心に
岡山大学文学部紀要 (52), 67-86, 2009-12
http://www.cc.okayama-u.ac.jp/~jiang/pdf/goto3.pdf

b. 後藤新平の国家衛生思想. ~初期の思想と著書をめぐって
岡山大学文学部紀要 (50) 59-77 2009年1月
http://www.cc.okayama-u.ac.jp/~jiang/pdf/goto1.pdf

c. 後藤新平の国家衛生思想 ー初期の思想と著書をめぐって(2)
岡山大学文学部紀要』51/2009.7/pp89-108
http://www.cc.okayama-u.ac.jp/~jiang/pdf/goto2.pdf

後藤は留学先のドイツで社会政策を、イギリスの救貧・公衆衛生制度を学んだ。(上記の資料a p.84)
具体的には唯物論科学者ルイス・パッペンハイム(1818-1875)と観念論政治学者ローレンツ・フォン・シュタイン(1815-1890)である。(資料b p. 61) 

パッペンハイムが衛生行政論の動機を重視したのに対し、後藤は結果・目的を重視した。
それは「人類の生活目標に関する「福祉」、「福寿」、「最大幸福や、また「社会健全生活」「公衆の健康福寿」など、あらゆる欲望、幸福実現の意味」として拡大解釈した理論となった。(b. p. 73)

ここはシュタインの国家有機体説の批判的導入があった。生物学的社会進化論だけであれば「適者生存、優勝劣敗」「弱肉強食」という加藤弘之流の理論に陥るのを、シュタインを応用する事で倫理・道徳の防御線を築いた。(c. p. 105)
即ち、後藤の国家衛生論は、生物学を応用しつつも、ナチスのような倒錯に勿論行かず、弱者や貧者救済に重点を置いたものであったのだ。 
ホッ!
後藤新平の植民政策(7)対清政策 [2017年06月22日(Thu)]
藤原書店が2005年に出した「正伝・後藤新平」4巻は満鉄総裁時代を扱っている。
「厳島夜話」の前に「対清政策」(p. 402-486) があって、これも読んでしまった。読んだと言っても当時の歴史的背景やあそこら辺の地域の事を何も知らないので、とても正しく理解できていると思えない。
それでも対中、対ロ、そして英国の動向について後藤の分析記述は初めて知る事ばかりで面白い!

<対清>
後藤の公生涯の最大の関心は社会問題と外交問題であった、と鶴見は始める。
外交政策に関与するようになったのは満鉄時代からだ、そこには「ロシアの復讐的意図」と「支那の覚醒」があったと鶴見は記す。そして鶴見は明治40年4月20日に行われた東三省(満州、黒龍江、吉林、泰天)の政治改革が徐世昌、唐紹儀らによって行われ、天津の袁世凱を訪ねて密会の諜報が紹介している。(当時は日本は諜報活動をしていた!)
内容は現代語に訳されていないので、良くわかりませんでしたが、満鉄経営にとって看過できない一大事、と鶴見は書いている。(p. 403-407)

後藤は日本政府に満州経営に関し「植民高等政策」「北京特派大使派遣」等を提言する。

そして後藤は1907年明治40年5月29日に清国皇帝と西太后に謁見する。この詳細も書かれていて面白いのだが省略します。(p. 422-430)
袁世凱との「箸同盟」談義も興味深いが省略。(p. 430-433)

後藤が、多分時の首相、外相、閣僚にあてに書いた対清政策の中に「帝国がその本文の主張に拠って、露人の痕跡を南満州から削って以来、冷血で猜疑心旺盛な清国人は多く集まって頭を聳やかし、機会を捉えてその独善不遜の私欲を逞しくしようと望んで、利権回収、拝外自強の説が朝野をゆるがしている。」(p. 435)という書いている箇所だけ、書き留めておく。


<対ロ>
色々興味深い記述があるが全て飛ばして、日露戦争後にロシアのの脅威を書いている箇所に移りたい。(p.419から)
後藤は、日露戦争の結果、多くの日本人が露国の損害のみを語り、露国が得た利益に気づいていない事を指摘。その利益とは
1)露国シベリアは戦争の惨禍を蒙らず巨額の収入を得た。
2)シベリアの運輸力は増強した。
3)シベリア人民は戦争で外国品を利用し、工業産業が刺激された。
4)露国の流通経済がシベリアに道を開いた。
(p. 420)

後藤は「日露戦争の勝負は、たまたま列国国際の均衡に影響し、...戦の後に戦来る。日本は戦って露国に勝ったことがすなわち露国以上の強敵を作った原因であることを自覚する必要がる。そのために問う。この強敵は今どこにあるだろうか。・・・」(p. 455) とも書いている。この認識が当時どれだけの日本人に共有されていたのであろう?


<対英>
ここは唸ってしまった!始めて知った英国の狡賢さ!以下(p. 443-444)から。
日英同盟締結時は日本がロシアと戦うことも、まして勝つ事も察知していたわけではない。ところが日本が勝ったとたんに英国は攻守同盟を改訂し(知らなかった!)日本の声勢を利用して東洋の主となり、チベット、アフガン、ペルシア案件の複雑な事件を解決。さらにフランスは長年の嫌猜を解いて英国と手を結ばざるを得ない立ち場に。ロシアも排英を止めて連合を。
後藤は「英国の侮った笑いが、そのまま列国の軽重を制するのを見るのである。・・・日英同盟の利用は、もっぱら英国が行うことができるもので、日本はほとんどその分に与っていないようなものである。英国人ここにありと言うべきである。」(p. 444)と書いている。
この英国に対する認識は7年後にやってきた第一次世界大戦参戦に積極的だった秋山真之も共有していはたのではないだろうか?日英同盟のために日本は第一次世界大戦に参戦したのである。


<対独>
ドイツが意図的に日本を悪者にし、追いつめていた様子は平間洋一先生の本にあったが、後藤も詳しく書いている。以下P. 459-460から。

後藤は支那満韓シベリアに利権を求めるドイツこそ日本が留意すべきと指摘。
日露戦争の原因は、日本が負けると思ったドイツが、ロシアに「教唆」したこと。さらに一歩進めて、日露戦争の本因は三国干渉でこれもドイツが仕掛人。
日露戦争の結果、日英露仏連合ができ、米国がこれに好感を持ち、ドイツは憤悶の地に立たされているので、今後どんな陰謀を日本に仕掛けるか。この不測の禍因を閉ざす事を後藤は主張する。
後藤は外交官に批判的なようだ。
駐仏大使がドイツが東洋問題に関係を有さないと公言したことを「不穏な雰囲気を国際に遺すもの」(p. 460)と批判する。そしてドイツの東洋政策は「しきりに親清の野心を兆し、清国政界にあってもまた、次第に親独一派の勢力が認められるにいたった。」と解説。


<再び対清>
この外務官僚批判。今に続く日中関係の原因かもしれない。
日清関係について後藤が外相への覚書として書いた文章も掲載されている。(p. 469- 486) 日露戦争後、清に猜疑心を生じさせたのは日本の外交の不味さにあったのだ。ここは長くなるが、そのまま書き写したい。

「同時に、私は平生、心ひそかに疑惑に堪えないものがある。日露戦局がはじめて終わり、小村大使が北京に出かけ、天皇のお使いとして折衝したところ、満州内治の予後に関して、特に急に差し迫ってくるものがあった。ひとたび満州統治について具体的に記して清国の責任を条約条文に明らかにしようと要求するや、当時、非常に適切な清廷の言質が出されて、結局その条文は成立しなかったのだが、清国が満州統治策に関して過大な用心深さを加えるようになったのは、実にこの折衝に起因していたのである。その後西園寺首相やその他朝野の名士が満州視察に往来、それが頻繁となり、内には文人論客の気ままな談論となり、清国にだんだんと恐れを助長させ、皇族大臣の巡視となり、駐満官憲は傲慢となり、新官制が創定され、清朝廷を恐れ動かし、わが満州植民の強敵としてしまっただけでなく、それ以来、一事一事また一事、日本はほとんど常に清国に先着をゆずって、彼のうしろから目を見張っている実情である。これがはたして計を得たものなのか。」

この文章、専門家の意見を聞いてみたい。


7回に分けて後藤新平の植民政策を追って見た。満鉄時代を書いた4巻を再読すると共に、やはり台湾時代も読む必要があるであろう。それにしても先行研究があれば、私のようなこの時代、地域に無知な者でも多少は理解できると思うのだが。



後藤新平の植民政策(6)「厳島夜話」後半 [2017年06月21日(Wed)]
images.jpg

厳島夜話の舞台となった広島の岩惣


伊藤に新旧大陸対峙論を披露した後、後藤は感想を書いている。

この新旧大陸対峙論は、後藤が児玉との最後の会談に述べた内容であった。児玉は翌朝死去する。よって後藤は児玉から4時間に渡って説得されたが躊躇していた満鉄総裁を受けざる得ない状況があった。その際後藤の心には「自ら満鉄経営の任にあたるに及んで、微力ながら欧亜文明融合の実現に努力を惜しまないと誓った理由である。」という思いがあった。(p. 506)

伊藤は「大アジア主義」にも「新旧大陸対峙論」にも冷たかったのだそうだ。その理由は伊藤によると「伊藤はいまだかつて後藤を無視したことはないが、後藤はしばしば伊藤を無視したではないか。」とのこと。
具体的には伊藤は後藤に満鉄だけでなく朝鮮鉄道経営も任せたかったのに、満鉄総裁就任にあたって一事も相談がなかった事を伊藤は怒っていたというのだ。
伊藤博文が1841年生まれ。後藤は1857年生まれ。16歳の差がある。16歳年下の後藤に朝鮮鉄道を任せたいと思い、3日間時間を取って意見を聞こうとした伊藤。この時の後藤は50歳だ。

imgres-1.jpg special_zoom_03.jpg


2日目、夜の11時半まで続いた議論を終えて後藤は白雲洞ミカドホテルに戻る。後藤は、伊藤が米国の将来の脅威を予見していることは共通しているが、と述べる。そして、午前2時近く伊藤に呼び戻される。(伊藤は岩惣に宿泊。会談は明治40年9月28−30日)

伊藤は後藤に、対支方策の枢要事は二人だけが知っているべき事で口外しない。また桂や友人にも話していないか、と念を押し、沈黙を守る事を誓わさせられた。(p. 513)
伊藤は続けた。この件を進めるのは陛下のお考えを仰ぐ必要がある。陛下は桂や山形に御下門されるかもしれない。そして桂が後藤に意見を求めた時、それは後藤から伊藤に提案した事である、と言われては誤解を招く事があるかもしれない。と。後藤は断じて他言しない事を近い、伊藤の快諾を得たのである。(p. 514)

imgres.jpg imgres-1.jpg

ココツェフ伯爵 外交官ヨッフェ


厳島の会談の後、後藤は第二次桂内閣で逓信大臣として入閣。清では西太后崩御。袁世凱の地位も一変。伊藤は韓国統監の任務と解かれていたところに、後藤と再会し、後藤に腹案を訪ねる。(p. 518-519) そこで後藤は、ロシアの宰相ココツェフ伯爵との面談を提案する。そして同伯爵と伊藤の面談を自らアレンジ、ハルビンで会談する事になる。(p. 518-521)

その時の詳細を後藤は記している。
伊藤は明治42年10月14日日本を出発。当時桂公が後藤に「伊藤公もじっとしてくれればよいのに。」とささやいたそうである。南満を訪ね至る所で歓迎を受けた後、26日午前9時にハルビンの到着。ココツェフ伯爵を車内に招き約半時間、通訳を通して親密に話し合った、と記している。(p. 522) そしてその直後暗殺されるのである。

伊藤は桂に厳島談話の以降の事を初めて打ち明け、伊藤の遺志を桂公と引き継ぐためシベリアを経てロシアに入る直前、明治天皇の崩御の凶電を受け取る。桂も世を去り、後藤は藤桂両公の遺志を継ぐべく、日露国交回復に向けて私人として折衝を重ねた。その一つがロシア外交官ヨッフェを大正12年、東京熱海に療養させた事であったようだ。(p. 526)


ロシア、中国、その他当時の国際政治及び桂、伊藤の確執などがわかっていれば、もっと面白いかもしれないが、私はここら辺が一切わからない。それでも小説を読んでいるよで面白い。伊藤が暗殺された事はさすがに知っているが、その背景を知って歴史の歯車を痛感する。広島厳島も再訪してみたい。

ここで後藤新平の植民政策、終わりにしようとおもったが、「厳島夜話」の前に「対清政策」という後藤の外交政策を知る項がある。そこに日露戦争が世界に与えたリパーカッションのような事が書いてある。バヌアツが英仏共同統治になったのはドイツのウィルヘルム2世のせいだとずっと思っていたが、そうではなかった。これも日露戦争で日本が勝利し、英国が漁夫の利を得た結果であった。
よって、もう一回後藤新平の植民政策を書いておしまいにしたい。
後藤新平の植民政策(5)「厳島夜話」 [2017年06月21日(Wed)]
いよいよ「厳島夜話」である。現代語に編集して下さった藤原書店さんには本当に感謝したい。スラスラ読めるだけで大分違う。
「厳島夜話」(p. 487-526)は、1.伊藤博文に大アジア主義を説く 2.新旧大陸対峙論の提唱、3.伊藤の快諾、 4.藤・桂両公の遺志継承 の4項からなる。
以下、満州の事も当時の時代背景も何も知らない当方が、気に止まったところだけメモする。「厳島夜話」に関する専門家の先行研究があれば、是非拝読したい。



たった1年半の満鉄の任務(えっ!1年半であれだけやったの??)で後藤が目指したのは、満鉄だけではなく、支那大陸とそれを基盤とする日本と世界の関係、即ち日本の世界政策であった、と鶴見は始める。(p. 487)

この後藤の世界政策を知る事ができるのが後藤自身の手記である「厳島夜話」だ、と。後藤は伊藤に向かって3日3晩この世界政策を説いたのである。

日露戦争後の対中、対ロ策は日本の急務であったため、後藤はこれを解決できるのは伊藤しかいないと考え、当時朝鮮統監であった伊藤にその職を辞して「単なる一個の大政治家」として大陸を訪れる事を提案。(p. 494) これが伊藤の死の旅となる。


日露戦争に勝利した日本はその戦後処理が上手く出来たいなかったようである。支那もロシアもそして米国からも猜疑の目が向けられていたようで、当時「米清同盟説」も噂されていた。そこで後藤は「中国の有力者を啓導して国際上の真の知見を会得させ、・・・大アジア主義の本旨に悟入させることこそ、東洋平和の根本策を定める理由である云々。」(p. 496)と説く。これに対し伊藤は激しく応酬した。
「・・・いわゆる大アジア主義とはそもそも何であるか。およそこの種の論法を口にするものは、深く国際間の虚実を察せず、ややもすれば軽率な立言を為すがゆえに、たちまち西洋人に誤解され、彼等に黄禍論を叫ばせるようになる」(p. 497)
これに対し後藤は「黄禍論が出て来るのは外交術が拙劣であるからである、」と反論するが伊藤は納得しない。


これに対し、後藤が用意していた「第二策」が「新旧大陸対峙論」である。
後藤は「世界の今後の趨勢は、これを大処より達観すれば、すなわち新大陸と旧大陸との対峙に帰着するからで、そして欧州各国は東洋諸国と共にひとしく旧大陸として、共通の立場と利害を有するものである」(p. 500)と、日英同盟を維持しつつも、露独英仏との協力を提案。

この「新旧大陸対峙論」について後藤は台湾時代に読んだEmile Schalkの"Natur und Staat"という仏独同盟論を骨子とした論文を伊藤に紹介している。鶴見はシャルクを「千古の卓論」であると形容し、ヨーロッパが米国に叩頭するに至ったのはシャルクの論を聞かずに独仏が戦ったせいである、と。(p. 502)

伊藤に、それでは日本はどうすべきか、と聞かれ、後藤は自論を展開する。シャルクの独仏同盟では狭すぎる。大西洋を挟んだ新旧大陸対峙論を太平洋に押し広げ「太平洋の両岸に国する新旧大陸を包含させることによって、はじめて日本帝国本意の世界の恒久的平和が維持され、人類全般の幸福を享有し得るべきもの信じられるもの、これが私の主張の由来である。」(p.504)

新渡戸の太平洋の架け橋はここにあったのである
また先般の安倍総理の"Asia's Dream: Linking the Pacific and Eurasia" も後藤とつながっている。
安倍総理は後藤の「新旧大陸対峙論」を知っているのであろうか?

「厳島夜話」長くなったので、2回に分けます。
後藤新平の植民政策(4)満州植民 [2017年06月19日(Mon)]
小島嶼国の誕生の背景に英国のコモンウェルスがある。これを発想したのはチャタムハウスを創設したライオネル・カーティスで、彼は後藤新平にも新渡戸稲造にも会っている事を知って、放っておいた後藤新平の植民政策を再度確認したいと思い、本を手にした。

藤原書店から出ている『正伝 後藤新平』の4巻目が満鉄時代。
5節の「文装的武備」は16項目あり、4項目からは旅順始め、満州での後藤の植民改革が記されている。多分項目を書くだけでどれだけの成果をあげたかわかると思う。

4.旅順と陸海軍
5.旅順経営論
6.伊藤博文へ呈書
7.山本権兵衛への封書
8.旅順工科学堂
9.大連病院と南満医学堂
10.東亜経済調査局
11.満鮮歴史地理調査
12.中央試験所その他
13.大規模の都市計画
14.新聞対策
15.特殊金融機関設置論の不成立
16.東洋銀行設立案

ここと、また第3巻目の台湾時代をじっくり読めば、後藤新平の植民政策とその実践が理解できるであろう。しかし伊藤博文との「厳島夜話」に行きたいので、ザッと読んで気になった箇所だけメモしておきたい。

鶴見は「ロシアが旅順を極東経営の策源地となしたるごとく、伯はこの地をもって、帝国の大陸経営の中心地として選定したかったのである。」(p. 276)と説明する。そして日本の大陸経営は、即ち植民はロシアの軍港要塞と違う「文化的人道的」な経済と文教の中心地とする事であった。

しかし、軍部の反発は大きく、後藤は伊藤に長い手紙を書く。これを鶴見は「伯は例のごとく文書外交を開始した。」(p. 291)と書く。この文書への伊藤からの返事は確認されていない様子だが、伊藤と後藤の三日三番の談義、「厳島夜話」につながる事になる。
この手紙に後藤の「文装的武備」を知る表現があるので長くなるが引用しておきたい。
(現代語にしてくれた藤原書店さんに感謝!)

「旅順をわが保護領土における学術的覇業の府とするという説を採って、これをかの文装策に対比すれば、あるいは一流の文装策と称することができるだろう。しかしながら私の言うところの文装策なるものは、旅順を文弱でうるわしい地に変じようというのではない。要するに武装の虚威を張ることをやめ、文教平和の名を正すとともに、実業教育政策によって武備の実力を充実することにある。したがって今仮にこれを名付けて文装的武備という。文装の名は列国の感情を緩和するに足り、武力の実は意を内顧に強くするのに足る。文武の名実を兼備両得すれば、旅順の重要性は今日の虚威色荘(空威張りして厳かさを繕うこと)に百倍千倍するであろう。旅順がこの学術的覇府たるに適していることは、私の保障するところである。」(p. 297)

鶴見は 「文装の名は列国の感情を緩和するに足り、武力の実は意を内顧に強くするのに足る。」の箇所はいまにも伊藤公の喜びそうな考え方、と指摘している。

このような後藤の苦労の末にできたのが「旅順工科学堂」。興味深いのは植民地に日本人の学校を作ることで現地の、即ち中国人が入れてくれと言ってくるのであって、最初から中国人の学校を作って入れと言っても入らないのだそうである。(p. 319) なんとなく、わかる。

後藤は植民政策の要諦を、武力よりも、経済よりも、文化に求めんとし、宗教、教育、衛生の3つに着目。

上田恭輔*は
「また植民地には、とかく子供のための娯楽機関を施設し、冬期長い間、一面雪でおおわれる満州であるからとて、大きな温室を建て、終始青々としたものを見られるような施設をこしらえるとか、あるいは大規模の講演を開設するとか、こういうところまで絶えず(後藤は)注意しておられました。」(p. 322)と語っている。

そして病院だ。
ここら辺が、現在中国が押し進める一帯一路と違うところ、ではなかろうか?


日本の開戦の正当性を訴えた米国の政治学者チャールズ・ビアードは後藤新平の親友で、後藤のことを「世界の有す唯一人の「科学的政治家」と激賞した」(p.327)
後藤は東亜経済調査局始め数々の研究所も立ち上げたのである。それを評価したのは国内よりも海外であったという。しかも調査・研究に終わらず実地に成果をあげていたようだ。
上田恭輔によると満州北部に適した大豆改良をし、手を出さない百姓にデモンストレーションで成果を示し、ただで豆を供与。豆の生産を増加。南では水田を奨励し、乞食でも裸足にならない支那人にデモンストレーションをして水田の有効性を示し年間3百万石の生産額となっり地方が潤った。それだけでなく、これらの穀物を運ぶために鉄道が利用され、一挙両得であった、と。(p. 349-350)


都市開発もすごかったらしい。
「この町が、振興満州帝国の首都となった今日においてこそ、人はその都市計画を不思議とは思わないのであるが、当時雑草茫々たる荒野に、突如として大市街地を建設せんとしたのであるから、世人はこれを目して、後藤式誇大妄想と嘲笑し、甚だしきは三井財閥と結託して、私利を営むものであるとさえ批難したのである。」(p. 359)

後藤を読み進めると、笹川良一氏が重なることがある。
25歳の笹川青年は67歳の後藤新平に会っているのだ。

「笹川良一青年は後藤新平に説教していた!」
https://blog.canpan.info/yashinomi/archive/1457

新聞の後藤叩きもひどかった様子が書いてあるが、これも笹川良一氏と同じく、一切放任であった。(p. 363)


後は金融機関設立の話も詳しく書かれているのだが、省略して「厳島夜話」に移りたい。



*比較言語学者、植民地政策の専門家であった上田恭輔も興味深い存在だが、調べ始めると厳島夜話に辿り着かないので。
後藤新平の植民政策(3)文装的武備 [2017年06月15日(Thu)]
19060195_1216794875113931_4084776141756184492_n.jpg 19105550_1216794878447264_4488165000710964340_n.jpg



後藤新平の植民政策について無体系に読み散らかしている。

藤原書店が鶴見祐輔著の『正伝 後藤新平』8巻を発行。4巻が満鉄時代を扱っており、(2005年、藤原書店)後藤の植民政策を知る文章がいくつかありそうなので手に取った。特にここには「大アジア主義」を伊藤博文に説いた「厳島夜話」が入っている。

その前に「文装的武備」の節に「後楽園の演説」と「文装的武備」が掲載されているので簡単にメモしておきたい、


明治40年、1907年に後藤が行ったこの演説は、後藤の生涯の内で最も重要な演説の一つ、と鶴見は書く。(p. 253) その時は満鉄総裁として、二十数カ国の代表と日本の閣僚他400名を相手に、新渡戸稲造の通訳で行った、という。(p. 253)

後藤は、キプリングの詩を引用し、「従来東西両文明の絶対的隔絶を説いてきた幾多の旧思想を排除するのに似ている。」と満州の開発を説明する。続いて「東西国境、人種貴賤の差別によって互いをそねみ嫌うことはない、」とその意図を明確にし、満州が世界各国の共同利益になることを強調する。(p. 256)

1907年日露戦争で東西対立が、そして日本の脅威が顕在化された時期ではなかったか?


続いて後藤の植民政策の一つ「文装的武備」の節では後藤が大正3年に幸倶楽部で行った講演を引用し下記のように説明する。

「そこで文装的武備とは、ちょっと言ってみると文事的施設をもって他の侵略に備え、一旦緩急あれば武断的行動を助くるの便を併せて講じ置く事です。」(p.260)


この次の節「三 軍部に拮抗」で「文装的武備」の発想が生まれた背景が書いてある。日露戦争に浮かれた軍部が満州を牛耳っていたのだ。

「それは戦後に横溢せる軍部の勢力に対抗することであった。」「ただ伯の痛感したことは、軍部の見地からのみ、大陸経営に当たることの危険であった。」(p. 264)

「文装的武備」はそれに対する政策であった。また同様の状態が台湾でもあり、これは児玉総督がうまく軍部と後藤の調整をしたという。(p. 266)

鶴見は、満州での後藤の態度を、上田恭輔と松岡洋右の2人の記述を引用し紹介している。両方とも面白いが、松岡は後藤が旅順の偕行社に行った時随行し、臨場感のある記述をしている。

「すると伯は突然、「満州に来てみると、皆が軍人病にかかっている!」と喝破せらた。この喝破の声に、一座の人たちは全くアッケにとられた。」(P. 265)

そして自分の心情を下記の通り書き残している。

「なるほど、後藤さんは脱線される。しかしその脱線は決して無意味の脱線ではない。あの空気、あの場所、ほとんど軍人ばかりのうちで、ああいうああいう喝破されるという事は、この人。実に偉い」(p. 265)

松岡は後に満鉄総裁になる。


次に後藤と軍部の拮抗がさらに鮮明あった旅順の件が書いてある。このまま伊藤博文との『厳島夜話』に移るつもりだったが、後藤の植民政策に戦勝後の浮かれた日本軍部を抑える、という背景がどうもあるようなので、もう少し読み進めたい。
梨木神社便り [2017年06月15日(Thu)]
19114038_1215877451872340_807912497062170762_n.jpg


通学路の途中に萩で有名な梨木神社がある。
京都御苑の一角にある神社の脇道は楠が天高く茂って、歩くのに最適だ。
萩が好きな新渡戸も来たのであろう、と想像するとまた特別な場所に思えて来る。


19105875_1215877448539007_8848350627582249752_n.jpg


4月訪ねた時はまだ、20センチくらいの枝だけだった萩が、あっという間に1メーター前後に成長していた。花はまだのようだが、一カ所だけ咲いているところがあった。
あれっ?萩は秋ではなかったけ?


19105699_1215877438539008_2864101125932002866_n.jpg


神社の門に京都御苑ニュースが置いてあり、京大山極学長のエッセイが巻頭にあった。
生物多様性である。この生物多様性、BBNJの議論でも重要。しかしその意味を私はわかっていない。山極学長は
 「生物多様性という概念は、環境省が提案するように「いのちのつながり」と考えればわかりやすくなる。」
と文章を始めている。

昨年、鞆の浦を初めて訪ね、日本最初の国立公園が神功皇后の時代から、多分もっと前の縄文時代から数千年続いていることを実感した。それはパラオの観光や環境保護のキャッチフレーズである「手つかずの自然」とは違うものだ。
数千年の人間と自然の対話、格闘、和解、妥協、共存。。。
山極学長のエッセイを読みながら再び鞆の浦に行きたくなった。
| 次へ