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与那国の自衛隊配備と離島問題 [2015年03月04日(Wed)]
<やしの実大学in与那国>

2月22日、中学生も巻き込んだ与那国の自衛隊配備を問う問う住民投票が行われ、632対445の賛成多数という結果になった。

笹川太平洋島嶼国基金は、島と島を結ぶというテーマで、亜熱帯の八重山諸島、奄美大島と太平洋島嶼国の交流事業を長年行ってきた。その一つが「やしの実大学」である。

1999年には与那国でこの「やしの実大学」を実施。ここには当時の笹川陽平運営委員長に参加いただいた。これがあったから、笹川会長は小渕総理に自信をもって第2回島サミットの沖縄開催を助言されたのではないか、と想像している。

国境の島。与那国は、離島、八重山諸島の中のそのまた離島。
人口減少、医療問題、高校がなく親の負担が大きい事。多くの課題を抱えている。


<海底通信ケーブルは誰のため?>
通信環境が整えば、産業だけでなく、教育医療の改善も望める。
しかし、当時通信ケーブルは西表島まで。人口1500人の与那国は見捨てられた。
ところが、自衛隊配備の話がまとまる中で与那国にもケーブルが繋がる事となった。

「16年度に光ケーブル 与那国」
2014年12月13日 八重山毎日
http://www.y-mainichi.co.jp/news/26423/

通信ケーブル設置は自衛隊が必要だからであって、これに島民が恩恵に浴するという、まさにミクロネシアのクアジェリンーグアムを結ぶ海底通信ケーブルと同じ話である。
たった1500人の国民には使えない税金も、国の安全保障のためにはいくらでも拠出できる、というのが現実なのであろう。


<自衛隊による植民>
1500人の島に200人の自衛隊とその家族が移住するという。
今矢内原先生の植民地政策の本を読んでいるが、この比率からすれば、自衛隊活動以外に島の経済、文化活動にも関わって来ることになり、まさに「植民活動」の範囲に入るであろう。
(「植民」と聞いて西洋の侵略、搾取を想像してしまうと思いますが、「植民」は一つの社会現象なのです。興味のある方は矢内原全集の1−5巻を。)

文化は離島に行けば行く程、濃くなるのである。これは太平洋島嶼国でも共通。
与那国の文化、歴史は八重山諸島のどの離島よりも濃い。きっと自衛隊員とその家族は与那国の文化の影響を多く受けるであろう。正直羨ましい。
そして、これもユニバーサルな傾向であるが、離島に行けば行くほど美男、美女が多いのである。
与那国の美女は得に有名。
「植民」した自衛隊員やその家族が、与那国に家族を持つ可能性も否定できない。

ただ残念なのは、以前は台湾漁民が勝手に島に上がって、与那国にしかない薬草を刈ったり、どなんを買い求めたりしたのだそうだが、そんな長閑な違法入国、国境交流はもうできなくなるであろう事だ。


- - - - -
地元紙の「やいま」が健在だ。嬉しい。
http://jaima.net/
琉球大学サテライトキャンパス開始 [2014年04月14日(Mon)]
昨年琉球大学の学長に就任された大城肇学長の第一弾の事業が琉球大学サテライトキャンパス。
文科省の補助金を得て、那覇、宮古島、石垣島の3カ所にサテライトキャンパスが設置された。

プレス発表資料によると自治体職員の政策形成能力強化や学び直しの機会拡充を提供し、大学と地域が結びついた学びのコミュニティモデルを提供する、とある。

そのプログラムも魅力的だ。
「海洋の科学』という15回の講座もある。講師は海洋地球物理学の松本剛教授。
週一回、19時40分から1時間半の授業で、社会人も参加できる。

3日間の講座でジオガイド認定試験を最終日に設定した、座学、野外巡検、ガイド実習を組み合わせた講座もある。

多くの離島を抱える沖縄。
1950年に設置された琉球大学。その65年の歴史の中で初めて離島を対象とした事業である。
これも離島の離島、鳩間島出身の大城肇学長の視点だからこそであろう。

このサテライトキャンパス、今後も増やしていく予定だそうだ。

プレス資料
http://www.u-ryukyu.ac.jp/univ_info/announcement/data/press2014032801.pdf
琉球大学主催「島と海」のシンポジウム [2013年10月30日(Wed)]
先のブログでご紹介した通り、10月27,28日と琉球大学主催「島と海」のシンポジウムに参加する機会をいただきました。
参加というのはコンセプト作りから、参加者の選定、しかも自分の発表までも含み、結構大変な作業になりましたが、海洋政策研究財団の寺島常務のご指導をいただきつつ、勉強させていただく貴重な機会でした。

琉球大学の大城肇教授とは、笹川太平洋島嶼国基金が90年代半ばに開始した、八重山、宮古を含む沖縄、奄美諸島との交流事業をきっかけにご指導をいただいております。
大城肇教授はこの4月に学長に就任され、大学の新たな方向性について、日本財団笹川会長、笹川平和財団羽生会長、海洋政策研究財団寺島常務との協議もされ、島嶼研究と海の課題が上げられていました。

今回のシンポジウムを総括する立場ではないので詳細は差し控えますが、当日は大城学長からご挨拶があり、元海洋研究所所長・元大気海洋研究所所長の西田睦副学長は終日御参加いただきました。
西田副学長とは立ち話ではありましたが島嶼研究に海洋問題は外せないのではないか、というようなお話もありました。西田副学長は研究戦略ご担当で、大学の新たな研究分野を開拓されるお立場です。

それから海上保安庁の方も数名参加いただき、鋭いご質問もいただきました。
第11管区海上保安本部は先にご紹介したOISTと海洋実験事業で協力関係もあるそうです。


大型台風が2つ同時に近づいて、どうなる事かと思いましたが、沖縄滞在は天気にも恵まれました。パラオ、ハワイ、オーストラリアからの参加者とは多くの話ができ、寺島常務とは海に関する面白い話をたくさん伺う事ができました。まだ消化しきれていませんが、少しずつここに書いていきたいと思います。

最後に藤田教授、豊見山和行教授はじめ、琉球大学国際沖縄研究所の皆様に大変お世話になりました。ありがとうございました。
アダムスミスが泣いて喜びそうな離島の話 [2013年08月05日(Mon)]
八重山諸島、 石垣、竹富、与那国。
「癒し」を求めて訪ねたり住み着いたりするヤマトンチューは多い。

兼ねてから書きたかった2つの離島の話。


1つ目は、『道徳感情論』と『国富論』を書いたアダム•スミスが聞いたら泣いて喜ぶような話。
P島の旅館に泊まったときのことである。宿のおばあが出てきて色々と話が始まった。
「内の息子は偉いんだよ」あばあが言った。
郵便局か NTT か忘れてしまったが、島に一つしかないその事務所の整理縮小が進む中で人員整理も。
息子さんの同僚が解雇になる様子であった。
息子さんは、家には畑も、旅館もあるから俺は食っていける。俺が辞める、と言ってその同僚を救ったそうである。
この話を聞いたのは20年くらい前だが、未だにその時の感動が忘れられない。
自分が息子さんの立場であったら同じ事ができるだろうか?

2つ目。
ヤマトで定年退職をし、あこがれの南の島に移住。Q島は次々とやって来る移住者のための畑をつぶして住居地を整理。
しばらくして、その近くに「少年更正施設」が設置される計画が発表された。
反対したのは本土からの移住者。
長い勤務を終え、やっと「南の島の楽園」に終の住処を得たのに、そんなものを近くに作られたらたまらない。
これに反対したのが島の人たち。「誰かが、どこかが引き受けなければならないことだよ。」
その後どうなったのか、知らないのだが、社会の負の部分を自ら受け入れていく、こんな姿勢も八重山から学んだ。


亡くなられた友寄英正さんから伺った話も忘れられない。
「村八分って言葉あるでしょう。あれは2分残すって事だよ。」

離島の離島、鳩間島出身の大城学長に久々にお会いし、思い出した話である。
大城肇教授 琉球大学学長に [2013年01月12日(Sat)]
年末のグアム、パラオ出張中一大ニュースが飛び込んで来た。
「決まりました」琉球大学の知り合いの先生からのメールだった。

何が決まったのか? 琉球大学の第16代学長に大城肇先生が選ばれたのだ。

大城肇先生はこのブログにも時々登場いただいており、笹川太平洋島嶼国基金とも関係が深い。
当方も公私共々お世話になっており、今回のニュースは喜び以上にずっしりと重い「責任」のようなモノを勝手に感じている。

沖縄と太平洋島嶼国。
以前まとめた記憶があるが再度書いておく。
笹川太平洋島嶼国基金は日本と太平洋島嶼国の交流協力をうたってはいるものの、日本の大都市との交流協力は規模や価値観の違いから困難があった。
例えば島嶼国からの留学生。東京の通学電車をみただけでノイローゼになってしまう。
島嶼国からのメディア招聘。4、5人で経営する島の新聞社と日本大手新聞社の規模は話にならない。
そこで始めたのが沖縄、奄美諸島との交流である。1994年頃の話だ。

2000年、その3年前に開始した「太平洋島サミット」の仕切り直しで故小渕首相が笹川陽平会長に相談されたそうである。「沖縄でやろうと思うがどうか?」
笹川会長は当時笹川太平洋島嶼国基金運営委員長。基金が沖縄との交流に力を入れて来た事を勿論ご存知で、小渕首相の案を大きく後押しする事になった。

そしてこの2000年の島サミットで琉球大学のアジア太平洋島嶼研究センターが設置されたのである。しかし、立ち上げを支援した肝心の日本政府はその後何もして来なかった。
その頃、笹川太平洋島嶼国基金は渡辺昭夫教授を運営委員長に迎え、民間団体ながらも同センターの支援、即ち琉球大学と太平洋島嶼国との交流を支援、協力してきたのである。そのセンター長が大城肇先生だったこともあり、もう10年以上のおつきあいである。

沖縄と言えば「島」「海」。
しかし沖縄の人でこの2つのキーワードに関心がある人は多くはない。
沖縄は差別されている、と聞くしそう思う事もあるが、沖縄の中での差別はもっと鮮明だ。
沖縄本島は宮古、八重山諸島を無視し、差別する。八重山諸島内では石垣島が近隣諸島を無視し差別する。そんな構造が見えて来る。

大城肇先生はこの島の差別構造の末端ともいえる「鳩間島」(2010年の人口は42人)出身である。しかも文系の島嶼経済がご専攻。
「島」の問題を、冷酷な国際政治、国内政治、そして世界経済から身をもって見て来た方ではないだろうか?
ちっぽけな島がグローバルなハイポリティックスに大きな影響を与えうる事もご存知のはずだ。


与那国の田里さんが関連の記事を書いていらしたので下記にリンクさせていただきます。
「大城肇さんが琉球大学学長に!おめでとう!!!」
http://t-chiyoki.no-blog.jp/blog/2012/12/post_5236.html
マリンチェー坂本龍馬ー白州次郎 [2012年06月11日(Mon)]
「テレパシー」とか「虫が知らせる」というのはある、と思う。

喜納育江教授のキーノートアドレス。質問の番が回って来ず、消化不良だった事が喜納先生にテレパシーか、虫が知らせたようだ。明日ランチをしませんか?とメールをいただいた。
琉球大学とオタゴ大学交流のきっかけを作ったのは自分ではあるが、今回の喜納教授の招聘には関わっていないし、自分は一学生なので、声を御掛けする事もなくおとなしくしていた。

喜納教授との会話は本当に面白かった。空港に向かうまでの3時間ほどの時間があっと言う間だった。
肝心の日本対沖縄の二項対立図式を御伺いするのを忘れてしまった。
たくさん出て来たテーマの中で、このブログのテーマにも関連する事を書いておきたい。
「弱者」とは何か?である。
喜納教授が話されたのは、奴隷で、愛人で、裏切り者のアステカのマリンチェである。
スペイン側に協力したマリンチェを「裏切り者」という評価から、それとは全く反対の能動的、 主体的に人生を切り開いた一人の女性、という見方がされているそうである。
マリンチェはアステカの奴隷で、スペイン人に売られたのである。

弱者で敵に寝返ったといえば「坂本龍馬」である。これは喜納教授が知らなかったのでwikipediaにある程度の内容だが書いておきたい。
下級武士の脱藩者、坂本龍馬がなぜあれだけ活躍できたのかといえば、武器商人グラバーのエージェントになったからである。長崎のグラバー邸のグラバーである。
1860年代、西欧諸国は植民地化の方法に長けていたはずである。自ら手を下すのではなく、内部矛盾を抱える日本に武器を与えて仲間同士で殺し合いをさせれば良い。武器を売った利益と共に勝った側を利用する事ができる。
ニュージーランド先住民マオリはイギリス人が持ち込んだ「マスケット銃」のために国土の3分の一を売り渡し、数万人の同胞を殺した。1800年頃の話である。

この武器商人トマス・グラバーの背後にいたのが香港を拠点にする英国のジャージン・マセソン商会である。そしてジャージン・マセソン商会と言えば白州次郎だ。
英雄扱いされている白州次郎は喜納教授もご存知で「エー!」と驚かれていた。
私も最近知ったのだ。
彼が本やドラマに出て来ない裏の部分でどのような事をしたのか。ウェッブにはたくさん出ているが、まだ把握しきれていないので(把握できないと思うが)まだここには書かない。
ただ、戦後の水産委員会議事録には彼の意外な横顔が登場して来る。
日本の漁業産業は太平洋の海洋問題と関連深い。

そしてもう一言加えると、この議事録にも出て来る戦後の日本の水産業を支援した国会議員が自分の遠い親戚であった事も偶然である。
ご存命の時に「おじさんは国会議員として何をしたのですか?」と聞いた記憶がある。
「633制を作ったんだよ。」という返事だった。
ナアンダそんな事か、と思った当時中学生だった自分の事も覚えている。
戦後の日本がどういう状況であったか知り始めたのは最近だ。
占領下での教育改革の意味を知ったのは最近の事である。





三菱の人ゆかりの人
vol.01 トマス・グラバー (上) (下)
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man01.html
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man02.html
喜納育江教授の沖縄 ー キーノートアドレス [2012年06月09日(Sat)]
昨日、今日の2日間、オタゴ大学で“Reconsidering Gender in Asian Studies: A Pacific Perspective”というシンポジウムが開催された。
2日目のキーノートアドレスが琉球大学の喜納育江教授だ。タイトルは
“Rethinking ‘Empowerment’ of Indigenous Okinawan Women: Feminism, Indigeneity, and Gendered Experience in Okinawa”

南半球に初めていらしたという喜納教授と金曜日にお話ができた。
沖縄をどのように語ればよいか?とのご質問。
ニュージーランドの人はナーニモも知りません。米軍がまだ沖縄にいることも、日本政府がお金を出している事も、話しても理解できないのです。(それほど異常な状況である、ということだが)
世界で一番平和な国ですからね。米国にハッキリと核持ち込みノーと言った国なんです。
密約は秘密通信傍受基地だけです。(今のところwikileaksでバレたのは。)
それに、世界で始めて女性の投票権を認めた国で、差別に対する意識は強いのです。
と応えた。

喜納教授のスピーチは圧巻だった。93年頃から沖縄通いをしている自分にとってはほぼ知っていた話ではあるが、やはり沖縄の事は沖縄の人に語っていただくのが一番である。
30人程の聴衆は取り憑かれたように聞き入っていた。

質疑応答では多くの質問が出て、自分の番が回ってこなく残念だった。がそれほど刺激的な内容であったのだと思う。また沖縄社会は太平洋島嶼国とも共通する点が多く、聴衆者は多くの興味を持ったに違いない。

私の質問は「沖縄は日本か?」という喜納教授や聴衆者の質問に関連する。「日本人とは何か?」なのである。民俗学者の柳田国夫が「海上の道」を唱える以前は、柳田が嫌った考古学や民族学が日本は多民族国家である事を認めていた。
『単一民族神話の起源』が明らかにされれば沖縄vs日本という二項対立の構図自体が崩れて行き、それは結果として、沖縄の固有性をより自由に語ることになるのではないか、と考えている。
続きを読む・・・
琉球大学と笹川太平洋島嶼国基金 [2012年03月14日(Wed)]
琉球大学と笹川太平洋島嶼国基金

<やしの実大学から琉球大学へ>
 八重山諸島で開催して来た「やしの実大学」は1999年で終了する予定であったが笹川運営委員長(当時)の評価および運営委員会の判断を受けて2004年まで継続することとなった

 この事業が徐々に知られるようになり、琉球大学の大城肇教授も自主的に参加していただいた。大城教授は八重山諸島の鳩間島ご出身である。
 他方「やしの実大学」八重山実行委員会はボランティアの方々の組織だったので、継続が難局を迎えることも多々あり不安定であった。
 そこで、基金運営委員長の渡辺昭夫教授(当時)と琉球大学副学長をされていた嘉数啓教授(当時)が協議をされ、この「やしの実大学」の継続と、さらに2002年に琉球大学内に設置された「アジア太平洋島嶼研究センター」の発展を視野に入れた事業を立ち上げる事となった。


<OPEN – I >
 2006年から2008年3年間、笹川太平洋島嶼国基金は琉球大学が実施する「沖縄太平洋教育ネットワーク・イニシアチブ」(英文にするとOkinawa Pacific Education Network Initiative: OPEN-I)に助成する事となった。
 奄美・沖縄の高校生、大学生を対象に下記のテーマで作文コンテストを実施。受賞者をミクロネシアに派遣し、さらにミクロネシアの学生を沖縄に招聘し沖縄でセミナーを開催した。
 
2006年は「私の島の水問題」
2007年は「島の自然と文化」
2008年は「島の発展と課題」


<太平洋フロンティア外交とアジア太平洋島嶼研究センター>
 2002年琉球大学にアジア太平洋島嶼研究センター(CAPIS Canter for Asia Pacific Islands Study)が設立された。設立の背景は初代所長をつとめられた大城常夫教授の記事*に詳しくあるが、予てより沖縄に島嶼研究の役割が期待されていたことと、2000年に開催された島サミットで森元総理が打ち出した「太平洋フロンティア外交」がある。
 同外交政策の一環として「特に太平洋等諸国を含む周 辺諸国との協力の実績が蓄積されている沖縄におい て、琉球大学を中心とした研究者交流事業を実施す るなど、積極的に人材育成やネットワーク構築を推進していきたい」と表明し、これがCAPIS設置を後押しした。
 
 *「しまたてい」22号「琉球大学アジア太平洋島嶼研究センター」大城常夫センター長(琉球大学法文学部教授)  一般社団法人 沖縄しまたて協会 2002年7月発行

 2000年の島サミットは小渕総理が亡くなられる直前に笹川会長に協力依頼をし、笹川太平洋島嶼国基金が積極的に関わった。当時大洋州課課長であった宮島昭夫氏とはいろいろ意見交換をさせていただく機会があった。多分フロンティア外交を作文されたのは宮島課長だと想像する。そこにはハワイの東西センター設置にもつながったケネディ政権の「ニューフロンティア政策」があったとも想像している。当初、沖縄に南北センターを設置する案もあった。何はともあれCAPISは日本政府の外交政策である太平洋フロンティアを背負った組織であったのだ。


<太平洋島サミットが沖縄で開催される意味>
 本年5月に第6回島サミットが再び沖縄で開催される。しかし、沖縄を積極的に巻き込もうとする動きはない。外務省が立ち上げを支援したCAPISとは何も連携がないのは残念だ。(今CAPISは学内の各研究を統合し国際沖縄研究所として活動を継続。)
 文科省から5年間の支援を受け同研究所に「新しい島嶼学の創造」プロジェクトが昨年より立ち上がった。琉球大学の島嶼研究のネットワークを太平洋に拡大し、そのキャパシティを充実させる機会を模索している。
 私がこの1月、沖縄に呼んでいただき講演させていただたのはこの事業の一環である。
 そして、先週琉球大学副学長の大城肇教授、「新しい島嶼学の創造」コーディネーターの藤田陽子准教授が私の所属するオタゴ大学を訪ねられた。
 微力ながら森元総理が提唱した「太平洋フロンティア外交」がきっかけで生まれた沖縄のイニシアチブを引き続きお手伝いさせていただくこととなった。

HenryOshiro.png

(オタゴ大学ヘンリー教授と大城副学長。ヘンリー教授はジャージー島出身で沖縄音楽も研究している。)


 沖縄と太平洋の島々。
この視点を早くから開拓した笹川太平洋島嶼国基金の役割はまだまだあるようだ。


友寄英正さんと笹川太平洋島嶼国ーその2 [2012年02月04日(Sat)]
八重山の友寄英正さんとの10年は結構濃かった。いろいろ思い出しました。

 友寄さんはタダのジャーナリストではなかった。
 活動家だ。島興しのリーダーだった。ご本人からは直接お伺いする事はあまりなかったが周りから、友寄さんの活躍が聞こえてきた。
 白保の珊瑚礁も、台湾との農業交流も、サトウキビの援農隊も友寄さんとその仲間でリードしてきたらしい。

 友寄さんは理論家だった。
『八重山開拓移民』という本も出している。ペンネームは金城朝夫。
 この本は島社会を理解するには格好の本だ。一機に読んでしまった。
 島の人口は結構移動している。「島固有の文化」という時、島が外にどれだけ開かれて来たのかも知っていた方がよい。

 友寄さんはロマンチストだった。
 有り難いことに八重山の方達は、私が公益のお金を預かっていることを理解してくれた。世のため人のためになる事業をみんなが真剣に考えてくださった。
 友寄さんから多くを学んだ。映画『七人の侍』のように、最後は「百姓の勝利だ」と言って静かに去って行かなければならないと教わった。そんな友寄さんはロマンチストに見えた。

 友寄さんは強引だった。
 友寄さんを中心に八重山のリーダー達が集まってくださり、笹川太平洋島嶼国基金と10年以上事業を展開。
 「やしの実大学」を八重山の全離島で開催しようとしたのは友寄さんだ。最初はみんな(私も)反対した。石垣でやるのも難しいのに、西表、与那国、竹富、鳩間でどうやってやるのか。最後はみんな友寄さんに折れた。
 でも今思うと各離島で開催されたことは重要だったと思う。毎回多くの参加者を得る事ができた。一般参加者は2、3万円を自腹で払って参加されていた。
 本土や沖縄本島でもこのやしの実大学事業が知られる様になって、琉球大学の先生など自主的に参加された。

「第1回やしの実大学報告書 in 石垣」(1998年4月)
「第2回やしの実大学公開講座 in 八重山」(1998年12月)
「第3回やしの実大学公開講座 in 与那国」(1999年10月)
「第4回やしの実大学公開講座 in 西表」(2000年8)
「第5回やしの実大学公開講座 in 新城島/黒島」(2002年6月)
「第6回やしの実大学公開講座 in 波照間島」(2003年6月)
「第7回やしの実大学公開講座 in 鳩間/小浜島」(2004年6月)



 実はこの事業は財団ではあまり評価が高くなく、3回目の1999年で終了する予定だった。それが与那国の事業に笹川陽平運営委員長(当時)が参加された事で、大きく評価が変わった。年間3〜4百万円の事業予算だったが、島の方達による自主的な運営と参加があることに驚かれたのではないか、と思う。
友寄英正さんと笹川太平洋島嶼国基金 [2012年01月27日(Fri)]
友寄英正さんと笹川太平洋島嶼国基金

 気骨のジャーナリスト、八重山の友寄英正さんとの出逢いがなければ笹川太平洋島嶼国基金は沖縄と太平洋島嶼国の関係を築けなかったであろう。
 友寄さんとの出逢いを書いておきたい。

 日本と太平洋島嶼国の相互理解・相互交流を目的に設置された基金。
 東京に太平洋の島のジャーナリストを連れて来ても規模が違いすぎて記事にならない。
 日本の島と太平洋の島を結んではどうか?当時基金室長だった長尾真文さんの提案だった。
 島旅専門家の河田真智子さんの記事を示して、この人に会ってみれば?とも。

 早速河田さんに会った。日本の島で国際交流事業をやるなら、佐渡か、奄美か、八丈島あたりよ、とアドバイスをいただき、各島で「島で島を語る会」を開催。その中でも奄美大島が本土並みを越えた南への視点を探求していた。
 奄美では、ばしゃ山村の奥篤次さん、考古学者の中山清美さん、そして南海日々新聞の松井輝美さんが中心メンバーだった。河田さんが『ササカワ』を色眼鏡で見ていたのは自分たちの方だった、と雑誌か何かに書いてくれたことは覚えている。

 沖縄は最初予定にはなかったのだ。
 20代の私が奄美の3人のおじさんを怒らせてしまった。
 「世のため人のために事業をやる気はない。自分たちのロマンを求めたい。」
 「おじさま達のロマンに公益のお金はダセマセン!」
 おじさまのロマンはフラジャイルだった。「もうやらん!」。ただ、南海日日の松井さんは、多少反省があったようだ。その後、私を八重山に連れて行ってくれた。

 人生何が幸いするか分からない。

 八重山ではジャーナリスト協会の方々が集まってくれた。
 読売か朝日か忘れたが、泡盛が進むにつれてササカワ叩きが始まった。私も泡盛の勢いで結構言い返した記憶がある。
 もう二度とこんな島に来るものか!(遠いし。)と朝起きたら友寄英正さん(確か当時はRBCの特派員)と八重山毎日新聞の上地義男編集長から連絡があり、会いたいという。
 そう言えば昨晩地元ジャーナリストは言葉が少なかった。

 「本土の新聞社が勝手に八重山の事を決めてけしからん。俺たちはやるからよろしく。」
 「エッ、昨晩本土の記者が右だ左だ、とネチネチ言ってましたがいいんですか?」
 
 友寄英正さんは、右と左にどんどん行くと最後はぶつかるんだよ、と笑っていた。若い時社会党の帆足計の秘書をしていた。でも左翼が、特に新左翼の傲慢さが大嫌いだと言っていた。
 後で知ったことだが1971年の佐藤栄作首相の沖縄返還演説で爆竹事件があったが首謀者は友寄さんだった。わざと八重山、宮古と違う方言を使う青年を配置し、裁判ではヤマトグチは使わせなかったという。筋金入りの左翼である。イヤ「正翼」だ。

 友寄さんは糖尿病で2007年、あっという間に亡くなられてしまった。約10年、太平洋島嶼国と八重山諸島を結んだジャーナリスト交流事業、そして島で島を学ぶ「やしの実大学」を率いてくださった。

 「バカタレ!」が口癖だった。今でもどこかで友寄さんが見ていて「バカタレ!」と言われているような気がする。
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