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早川理恵子博士
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太平洋島嶼国会議ー島サミットの原点 [2015年03月10日(Tue)]
1988年8月26−27日、笹川平和財団主催で太平洋島嶼国会議が開催された。
その記録はデジタル化してあるので、下記から英和アクセスできるようにした。

http://www.spf.org/spinf/spinf_j/profile/conference.html
http://www.spf.org/spinf/profile/conference.html

この会議の後太平洋首脳を北京にお連れしているのである。
これは笹川会長から、時折伺っていたが記録がなく、どんな様子であったか気になっていた。
特に昨今の太平洋のおける中国の影響の記事に接する度、あの北京訪問は大きなきっかけになったのではないか、と考えるからである。


そうしたら、Youtubeにビデオ記録を見つけたので下記にリンクしておきたい。






笹川太平洋島嶼国基金運営委員会 [2015年02月22日(Sun)]
海洋政策財団の寺島常務に立ち話でお話した事である。
しっかり話せなかったのでここに書いておきたい。

1991年に私が財団に入ってすぐに気付いたのが、運営委員会が形骸化されている事だった。
事務局と意思決定機関の運営委員会のバランスは重要なのである。
事務局のさじ加減で決めてしまうのは、自殺行為になる。
幸い、運営委員長だった笹川陽平現日本財団会長も太平洋島嶼国への関心は強く、事務局のさじ加減で事業が決まっていく状況は改善できた。

しかし、1999年に運営委員会の改選が行われる事になり笹川運営委員長も後退する事に。
万事休すと諦めていたところ、幸いにも次期運営委員候補リストを作るよう指示があった。

リストには、渡辺昭夫東京大学名誉教授と産經新聞千野境子記者(元論説委員長)そして『フラジャイル』で関心のあった松岡正剛氏、他2名の計5名を挙げさせていただいた。
結果、渡辺先生と千野氏にお願いしようという事になり、私が笹川会長の名代で口説きに行ったのである。

当時、事務局のさじを持つ人の言葉はさらに難解になり、中身はさらに訳がわからなくなっていた。強い運営委員会が必要だと思ったのだ。
結果、島嶼国基金の最初の10年が試行錯誤もともなった笹川運営委員長が主導した時代であれば、2期目の10年は渡辺昭夫運営委員長が主導したより政策を重視した展開となった。

私は、笹川、渡辺両運営委員長の下で、基金ガイドライン作成(第一次、第二次)から始めて事業開発、評価、広報とやらせていただいた。
現在の運営委員長でもある寺島常務には、基金の方向を海洋問題に大きく舵取りいただき、私も直接寺島常務から学ばせていただける機会を得ている。

     愚かなる者に親しみ近づかぬが良い
     かしこき人々に近づき親しむが良い
     仕うるに値するものに仕うるが良い
     これが人間の最上の幸福である
     「大吉祥経」
イティマイ大臣からのご報告 [2015年02月11日(Wed)]
青字の修正あり。

10858490_775174042560051_1002698844532359925_n.jpg


MV Four Winds



金の切れ目が縁の切れ目にならないように、事業終了後もなるべく関係者との連絡を取るように心がけている。
とはいえ、助成期間が過ぎれば、根掘り葉掘り聞くのも気が引けるし、一歩置いた付き合いに。
さらに、助成期間終了後は手の平を返したような対応をとる助成先もあれば、変わらずつき合ってくださる方々もいる。

先日ミクロネシア連邦のフランシス•イティマイ運輸•通信•インフラ大臣からFacebook経由でご報告をいただいた。
「りえこさん、あなたが喜ぶニュースがあります。先日議会が43億円(47億円、47 million USDでした。)の世銀の融資を承認しました。」

これは笹川太平洋島嶼国基金が2006-2008年の3年に渡り支援した「ミクロネシアICT政策改革支援」の成果なのである。
いよいよ次の段階は入札のようなので是非日本企業に落札して欲しい。
パラオーヤップーグアム と ポナペーチュックを結ぶ海底ケーブルの施設だ。

このニュース自体喜んだが、10年前の助成事業なのに一国の大臣からわざわざご報告いただける事も、事業担当者として、また基金としても嬉しい事である。

さて、イティマイ大臣のFacebookには、日本政府が新たに供与した貨客船の報告もあり、コメントがにぎわっている。
11億円の新しい船は"MV Four Winds"四方からの風の意味らしい。
総選挙を控え、チュック州独立運動で揺れるミクロネシア連邦の島々を結ぶ定期航路船になるようだ。
この定期航路を開始したのも、日本統治の時代であった。
Coconuts通信創刊のhidden agenda [2015年02月09日(Mon)]
なぜ、「Coconuts通信」なるニュースレターを創刊する事にしたのか。

1.基金事業の公開
2.太平洋島嶼情報の発信
3.ネットワークの形成

が表向きの理由である。

当方が財団に入った1991年、基金運営は課題山積みであった。
一つがPIFとの関係を整理する事であった。もう一つが基金運営体制そのものであった。
20代の新入社員ではあったが、基金運営が運営委員会という意思決定機関を無視して、事務局の匙加減で進めている事がすぐにわかった。
極端な話、事務局の匙を持つ人にバランス感覚があれば、いいのだが、難解な言葉を話すわりに中身がない、というのも、まだ当方20代ではあったがすぐにわかった。
それに、運営委員会自身も形骸化、ないがしろにされることを好んでいる様子はなかった。
当時、基金運営委員長は笹川会長であった。

運営委員には委員会開催の直前に事業説明をするだけあった。よって、日頃の事業の進捗や、太平洋島嶼国の一般情報が伝える方法として、ニュースレターを創刊したのである。
指示を得て創刊したのではなく、自分の意思であったので、最初は昼休みの休憩時間に作成していた。
「何しているのよ!」と虐めるおばさんもいたが、「予算化しよう」と支持してくれるおじさんもいた。(印刷費10万円ほどでしたが、その時の喜びは今でも忘れられない。)

これが今の、このブログに繋がる情報発信の起源にして hidden agendaでした。
ブログの読者 [2015年02月09日(Mon)]
笹川陽平会長のご指示をいただいて2010年3月に開設したこのブログ。そろそろ6年目になる。
過去5年の記事数約1100。平均すると年間220本だ。
一日100人位が訪れて下さる。一日500−800のページビュー。
数字は年々右肩上がりで、これも大きな励みとなっている。
そして笹川会長始め、見ず知らずの方、大使、女子アナ、学者、ジャーナリス、娘の友達のお母さん、等々、多くの方に励まされ、ここまで続いてきました。
改めて、お礼を申し上げます。

笹川会長は意外と細かな指示をくださる方で、以前は週3本位にしておけ、だったのが最近毎日書け、との号令をいただいた。流石に毎日は書けませんが、太平洋の小さな島々では毎日では足りない程ネタがあるのは事実だ。


実はこの情報発信、笹川太平洋島嶼国基金を担当した1991年の翌年辺りから実行している事である。
笹川平和財団がニュースレターを出す遥か以前に「ココナッツ通信」というニュースレターを創刊し、財団のウェッブができる遥か以前より「やしの実大学」というウェッブを作成した。
現在はどちらも廃止に追い込まれてしまった。

今思うと、基金運営委員長でもあった笹川会長はこのような状況を認識いただいていたのではないだとうか?それでこのブログを立ち上げろとアドバイスいただいたのではなかろうか。
何はともあれ、情報は発信するところに集まる。
それに「書く」という作業は資料をじっくり読まなければならない状況を作り出すので,何よりも自分の勉強になるのだ。
笹川太平洋島嶼国基金とPIF [2015年02月02日(Mon)]
PIF - Pacific Islands Forum. 昔の名前はSouth Pacific Forum.*

当方が財団に入った時の課題がこのPIFで、最初の出張はPIF事務局長に会いに行く事であった。
どういう経緯かは知らないのだが、1989年に設立された笹川太平洋島嶼国基金はPIFをパートナーとして、具体的には事業費の半分はPIFが探してきたものに当てるという協議がされていたようである。

しかし、これがなかなかうまく進んでいなかった。
島側は自由に使わせろ、という態度だったようである。
テレビを買えとか,海底鉱山を開発しろ、とかそういうリクエストばかりであったそうである。

多分PIFがどのような組織かよく理解しないまま進めたのではないか、と若干20代の新入社員でしたが、取りあえずPIFがどんな組織なのか、という事から調べた始めた。

PIFは島々か独立して行く中で、一向に島国の声を聞こうとしない旧宗主国(米、英、豪、仏、NZ, 蘭)のSPCに対抗してフィジーのカミセセ•マラ閣下が1971年創設した。この時、豪、NZを入れるかどうかはマラ閣下の苦渋の選択だった、と当時を知るソマレ閣下が述べている。

で、PIF自体は具体的な事業をやっているワケではなく、地域のとりまとめ的な存在である。
で、本来島の声を優先させるべき組織であったが、豪NZが牛耳る結果となってしまった。
しかも、透明性、効率性、等々についてもその頃から批判する声が周辺にあった。

まさにフィジーのイノケ外務大臣がPIFを批判しているそのままの状況が90年代始めには既にあったのだ。

結果、PIFが基金のカウンターパートとして適切かどうか、大きな疑問が浮かび上がった。
しかし、当時、日本の金利は5%強で、30億円の基金の利子は年間1.5億円位であった。その半分でもPIFにとって大きな予算である。これを諦めさせるのは難しいのではないか、とも考えていた。

幸運な事に1992年から、キリバスの初代大統領のイレミア・タバイ氏が事務局長となった。
20代で大統領になり、漁業交渉でソ連と米国を相手にした人物だ。
何度か面談をさせていただいのだが、就任後すぐ、タバイ氏からPIFには基金事業をマネージするキャパない、と断ってきていたいだた。
「なぜですか?」とは聞かなかったが、多分タバイ氏はPIFの運営面の課題をすぐに見抜いたのであろう。

その数年後、笹川会長(当時は基金運営委員長)から任されたUSPNet案件を、当方からタバイ氏に相談し日本のODAにするようPIFとして動いていただいた。
タバイ氏は豪州との事前調整はしなかったようである。なぜかと言うと日本政府が本件を豪州NZに提案したところ、豪州は日本の関与を反対していたからだ。USPも俺たちの縄張りだ、というワケ。
タバイ氏は、PIF内での、また太平洋での豪州の過剰な干渉にも気づいていたに違いない。


多くの課題を抱えるPIF, 現在の事務局長はソマレ閣下の私設秘書もされていたMeg Taylor女史である。外野からの声は、いかにTaylor女史がPIF内の官僚制(即ち非効率、不透明等々を意味するのだと思うが)を打破できるか、にかかっているとの事だ。



1999年,強硬に抵抗するNZのヘレン・クラーク首相と豪州のジョン・ハワード首相をパラオのクニヲ・ナカムラ大統領が押さえ込んで"South"を取りました。
これ、ナカムラ大統領ご本人から伺いました。まさに、大和魂パラオに生きる。
ナカムラ大統領から「日本はもっとしっかりしないとダメだ!」との一言もいただきました。
島サミットの流れを変えた第6回 [2015年01月26日(Mon)]
笹川会長に「早川に聞け」と言われて連絡をくださった、外務省大洋州課課長がもう一人いる。
飯田慎一氏である。お会いした事はない。白山のレストランで奢ってもらってはないが、ちゃんと事後報告してくださり、この方も官僚に珍しく礼儀のある方で、感謝している。
普通官僚は照会をしておきながら事後報告なんかしない。

当方が前回の第6回島サミットに提案したのは米国の参加と海洋問題である。
これが両方とも議事に取り上げられた。

米国の50%以上のEEZが太平洋にあるのである。
そして、島サミットのカウンターパートであるPIFは豪NZ即ち英連邦系で、米国とのつながりが強いミクロネシア3国はメンバーになっているものの、居心地が悪い状況だ。
平たく言うと、下記のような違いだがこの小さな、どうでもよいさそう違いは相当気に障るようである。

ラグビー vs 野球
ビスケット vs クッキー
トマトソース vs ケチャップ

後は学校や金融、その他の社会システムも米英の違いは明確だ。


結果、前回の島サミットに米国の参加があったが、具体的な動きまでには繋がらなかったようだ。今回の島サミットでは是非米国の具体的関与を提案したい。米国もクリントン長官が「太平洋の世紀」と唱えておきながらほぼ、何もしていない。パラオの米国大使は、議会が1年以上保留したあげく、日本の天皇皇后陛下訪問を控え、慌ててこの12月に着任が決まったくらい。日本からの良い意味での圧力を米国も期待している、と思う。


海洋の方は、日本財団が主張する「守られる海から守る海へ」これにつきる。
PEWのようなプロパガンダ組織にやられる前に(もう相当やられているが)日本の水産外交(漁師保護から海洋資源保護に重点を置いた)を進めるべきである。
PEWが、デカプリオが、そしてポールワトソンが「カワイイ」と言っている、鯨、イルカ、亀、ジュゴン、サメを食べる習慣は太平洋島嶼国の伝統でもある。


元祖島サミットー小渕総理が笹川会長のアドバイスを求めた理由 [2015年01月23日(Fri)]
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戦後70周年や天皇皇后陛下パラオ訪問のせいか、このブログを多くの方達、特にマスメディア、学者、外務官僚が読んでいただいているようで、最近問い合わせが多い。
太平洋の小さな島々や、笹川平和財団に関心を持っていただく事は嬉しい事である。

前回書いた「小渕総理が笹川会長のアドバイスを求めると、大洋州課課長からフレンチをおごってもらえる話」では、なぜ小渕総理が笹川会長のアドバイスを求めに来たのかを書き忘れた。

それは、現在日本政府がPIFと実施している3年に一回の太平洋島サミットの元祖大本が笹川平和財団が1988年に実施した「太平洋島嶼国会議」だからである。
この会議の資料は英和共にデジタル化しウェッブに掲載した。

この会議で竹下内閣総理大臣祝辞を代読したのが小渕恵三内閣官房長官。
http://www.spf.org/spinf/spinf_j/profile/conference_opening.html#02

ちなみに同会議の議長が戦後初の太平洋島嶼国政策「倉成ドクトリン」を発表した倉成正衆議院議員(前外務大臣)。
http://www.spf.org/spinf/spinf_j/profile/conference_opening.html#03

だから小渕総理にとって太平洋島嶼国といえば笹川平和財団で、島サミット開催のアドバイスを笹川陽平会長に求められたのは当然の流れなのである。


「太平洋島嶼国会議」の成果として創設されたのが30億円の特別基金「笹川太平洋島嶼国基金」。私はこの基金創設2年後に入団し、うまく立ち上がっていなかった基金運営立て直しとガイドライン策定をやらせていただいた。今思い出すと、20代の小娘にして新入社員にすごい事をやらせていただいた、と思う。当時の基金の運営委員長をされていた笹川陽平会長に改めて感謝したい。
小渕総理が笹川会長のアドバイスを求めると、大洋州課課長からフレンチをおごってもらえる話 [2015年01月19日(Mon)]
風が吹けば桶屋がもうかるような話である。

今年5月に第7回目の開催が予定されている太平洋島サミット。
1997年の初回は橋本内閣の時で、やったかやらなかったのかわからないような扱いであった。

2回目はすごかった。なぜか?
小渕総理がこの2回目の島サミット開催について笹川会長のアドバイスを求めにいらしたのである。
これは25年の当方の太平洋人生でも忘れられない一コマ。

ある日、突如笹川会長から呼ばれ、

笹川会長
「小渕総理が来て島サミットの件でアドバイスを求められた。積極的に実施するよう、また是非沖縄で開催するようアドバイスしたところ、協力を求められた。何ができる?」(正確な発言内容は覚えていませんがだいたいこのような内容でした)


「(そんな突然言われても〜)えー、えー、ジャーナリスト招聘でしょうか。。」

1回目はほとんど国内国外共メディアカバレッジがなかったのだ。笹川太平洋島嶼国基金はメディア事業を10年近く実施してきたので、地域に影響力のあるメディアを知っていた。
当時の大洋州課宮島課長が小渕総理に言われて、笹川会長に挨拶に来られ、笹川会長から早川に聞くように、と言われたらしく、宮島課長から連絡があったのも覚えている。

小渕総理は、第2回島サミット直前に亡くなられ、森総理がサミットに参加された。

まだある。サミットの後、JICA, JETROそして笹川平和財団共催で、即ちオールジャパンで、フォローアップ会議をフィジーで開催。ここに森総理が参加。これも笹川会長が動いた。

日本の総理が、太平洋の小さな島国の事業にこんなにコミットするなんて、外務省として大事件だったようである。その時の宮島課長からお礼がしたいと、東京の白山にあるフレンチでディナーをおごっていただいた。
外務省には色々貢献してきたつもりだが、ごちそうになったのはこれだけである。
笹川会長の外務省への貢献は当方と比較できないが、それでも外務省は認識していないのだそうである。人間関係が構築できない官僚外交ここに極まる。
宮島さんは東京都の新設ポスト「外務長」に昨年就任。こういう義のある人は出世する。

ところで、やったかやらなかったか、誰も知らなかった第1回島サミットの目玉事業がUSPNetだった。これも笹川会長の指示で当方がODA案件になるよう、7年くらいかけて仕込んだ案件である。これは外務省から「余計な事をしやがって」と怒鳴られた案件だが、その後日本ODAのICT案件と言えばUSPNet、との地位を築いている。

2003年の第3回、2006年の第4回、2009年の第5回、2012年の第6回。笹川太平洋島嶼国基金はそれぞれ貢献してきた。
天皇皇后両陛下パラオ訪問直後の第7回島サミット。どのような貢献ができるであろうか?


『残心』を読んで(2) [2014年12月09日(Tue)]
「誰かを、何かを支援するということは、水面に小石を投げ入れることに似ていると思う。砂を投げ入れても、波ができるまでにはいたらない。石が大きすぎてもきれいな波はできず、ドボンと沈むだけだ。ー中略ー 波をおこしたい場所に、ちょうどよい大きさの小石をちょうどよいタイミングで投げ入れる。」『残心』291-292頁より。

笹川会長の仕事の流儀である。
この箇所を読んだとき、私と同じ流儀だったので大変嬉しく思った。

私は川の流れを見極めて、どこに、どの角度で、どの早さで、どんな石を投げるか、考え仕事している。確かクラウゼヴィッツの戦争論を永井陽之介教授から教わった時にヒントを得たと記憶している。


今年7月の安倍総理のパプアニューギニア訪問を機に、笹川良一名誉会長が同国の独立を支援した世界で唯一の人物であったことを、積極的に話すようにしている。

「パプアニューギニアの独立支援したのは私のボスのお父さんです。」
「え!何をしたの?」
「えー、ソマレ閣下の自伝によると日本に招聘し、日本の首相との会談をアレンジ。独立を左右する選挙の時にジープとバスを一台ずつ。。」
「それだけ?」
「。。。」

ソマレ閣下の自伝にはそれしか書いていない。
日本に呼んで、ジープとバスを一台ずつ支援することだったら誰でもできそうな話である。
でもきっと、笹川良一氏は慰霊に訪ねたウェワクで偶然出会った革命家ソマレ青年,後の国父の人物を瞬時に見抜いたのであろう。そして支援の時機を見抜き、必要最低限の支援をしたに違いない。
何よりも、日本訪問はソマレ閣下に独立への確信と勇気を与えたようなのだ。白人でなくても経済的成功は得られる。戦争に負け、あれだけ痛めつけられたにも拘らず日本はここまで発展した。
パプアニューギニアが独立発展できないワケはない、と。


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