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日本がなぜUSPNetを支援するか? <その2 プルトニウム輸送の代償としてのUSPNet> [2012年03月09日(Fri)]
<その2 プルトニウム輸送の代償としてのUSPNet>

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(左から故Kabua大統領、Tabai事務局長(当時)、Solofa学長(当時))


 なぜUSPNetが日本のODA案件になったのか。
 このブログを開設せよアドバイスいただいた日本財団笹川陽平会長の判断なのである。
 笹川会長は太平洋島嶼国基金の初代運営委員長。このUSPNet案件の進捗を逐次報告させていただく機会があった。
 やっと南太平洋大学から最終の申請案が届き、報告に伺った数日後だったと思う。「ODA案件にせよ。」の一言。
 まだ辛うじて20代だった。が既に外国政府を動かして日本政府に圧力をかけるという作業を別の組織で数々経験していたので、ヤッテヤロウジャナイカ、と受けて立つ事にした。


 現在USPNet支援を担当されている外務省やJICAの方は想像ができないかもしれないが、90年代前半、フィジーのスバにある日本大使館は南太平洋大学が支援対象とならないので、車で数分の場所にありながら一切コンタクトをしていなかったのである。当方はフィジー出張の際はなるべく日本大使館に赴いてこちらの事業説明と情報交換に努めていたが、南太平洋大学に関してはこちらから情報を提供するばかりであった。日本のODAは基本的に2国間支援で南太平洋大学のような地域機関への支援は当時ほとんどされていなかった。
 それで、南太平洋大学から直接フィジーの日本大使館にUSPNet案件を提出しても本省まで届く見込みはないと判断し、一計を案じた。太平洋の地域機関の中でも日本政府が公式対話相手としている組織、太平洋諸島フォーラムから申請をさせるのである。太平洋諸島フォーラムは南太平洋大学を始め各地域機関の調整役でもあるのでその役割を担う立場にある。
 正直に言って、南太平洋大学のVice-Chancellorが、またフォーラムの事務局長が私の一計を聞いてくれるとは思っていなかった。破れかぶれの構えだったのだ。
 当時、南太平洋大学Vice-Chancellorはサモア人のEsekia Solofa博士。初めての島嶼国出身の大学トップ。フォーラムの事務局長の方は28歳で初代大統領となったキリバスのIeremia Tabai氏だ。今思うとこんな方達と仕事ができたのは幸運としか言いようがない。

 日本政府は毎年フォーラム議長を日本に招聘している。その年1996年は偶々マーシャル諸島のAmata Kabua大統領がフォーラム議長の年であった。さらに偶々その年Kabua大統領は南太平洋大学のChancellorでもあったのだ。
 英国系大学と共通で、実質的学長としてのVice-Cahncellor の外に形式的トップのChancellorの存在があり、南太平洋大学の場合はメンバー国首脳の持ち回りになっている。
 Tabai事務局長と共に来日したKabua大統領はフォーラム議長の帽子と南太平洋大学Chancellorの帽子でUSPNet申請案を直接日本政府に提出した。米国管理下にあるマーシャル諸島が英国系のUSPに参加することになったのはKabua大統領の判断。その思い入れも格別であった。
 これを仕掛けたのが私であることは外務省もわかっていて、「よけいな事をしやがって」と怒鳴られました。

 当初日本政府の反応は後ろ向きであった。
 そこにプルトニウム輸送問題とそれに対応すべく日本政府主催の「太平洋島サミット」の話が1997年に持ち上がっていた。有望な支援案件としてUSPNetは突如ODA案件となった。1992年から日本が実施する太平洋上のプルトニウム輸送に批判声明を出してきた太平洋島嶼国が危険の代償として得た勝利である。

144.jpg

第3回高レベル放射性廃棄物返還輸送に使用された輸送船「パシフィック・ スワン号」


 私にとっては笹川運営委員長(当時)からのimpossible missionがここに完遂。そしてカミセセ•マラ首相と笹川良一名誉会長の約束が果たせた瞬間でもあった。
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