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「伊藤公」新渡戸稲造著『偉人群像』より [2015年09月28日(Mon)]
朝鮮の問題は全くの門外漢だし、あまり関心が湧かない。が、
ミクロネシアでの日本の統治、即ち日本の植民政策を学ぶ中で他の植民地である台湾、朝鮮の事も比較対象として気にはなる。なぜ、ミクロネシアであれだけ成功した植民が行われ今でも当時を知る島の人々は日本時代を懐かしがっているのに、朝鮮ー韓国は違うのであろうか?

そんな時目にしたのが伊藤博文が「朝鮮は朝鮮人のため」という主義であったという内容だ。新渡戸稲造の「偉人群像」に書いてあるという。
それで早速、新渡戸稲造全集第5巻を手に取った。

エッセイ集「偉人群像」第27章に『伊藤公』がある。
そこに確かに「朝鮮は朝鮮人のため」という記述があった。しかしそれより驚いたのが、伊藤博文自ら、松蔭の教えはそれほど受けていず、寺子屋の先生の影響の方が大きいと述べている事だ。。そして新渡戸稲造が伊藤博文に会った本当の理由が伊藤公に日本人の朝鮮植民を説得する事であった点だ。しかもビスマルクの植民政策論を引いて来て!

同エッセイは下記の8項目からなる。
同胞と偉人
公の偉人観
両親の感化
腹切りの弁
公の植民政策
公の朝鮮人観
ビスマークの植民政策
立身出世の道は難し

松蔭の件は「両親の感化」にある。

「世の中では我輩が吉田松陰の塾に永くをって、松蔭の弟子のようにいつてをるものもあるが、それは事実上間違いであって、我輩は松蔭の世話にあまりならない。従って先生のお教えも受けず、実際当人に会うたことも度々ない、...我輩はむしろ幼少の時にをつた村で寺子屋を建てていた何某こそ偉い人物だと思った。さうしてこの人の教えてくれたことがこれとかあれとか、はっきり挙げることは出来んが、大体において自分の心に染み込んで、今なほあれは偉い先生だつたと、尊敬の念を禁ずることはできない...」(新渡戸稲造全集第五巻、545-546)

寺子屋の先生の存在は宮本常一の「忘られた日本人」のカテゴリーかもしれない。伊藤博文を育てたのが、忘られた寺子屋の先生であった事は、日本社会の低層の厚み、深みを物語っているように思う。


それから新渡戸が伊藤博文に日本人の移民を説得した件。
2時間もプロシアの内国植民の講義を新渡戸が伊藤公にしているのだ。もしかしたらこの新渡戸の2時間の講義は「朝鮮は朝鮮人のため」という伊藤公の主義を変え、日韓合併、即ち伊藤公の暗殺に至ったのではないか?とこれは当方の想像だが。
新渡戸が韓国を訪ねたのはの「東京の帝大で、植民政策の講座を担当しいる際であった」というから1906年から伊藤暗殺の1909年の数年の間である。
新渡戸はどのように伊藤公を説得したか?この文章が書かれたのは新渡戸がジュネーブに行ってからだから1920年代の中頃から終わりだと思う。
伊藤公と会ってから10年以上経っているがその内容を新渡戸はよく覚えている。

「閣下がビスマークにお会ひの時に内地植民の計画についてお聞きではありませんですか。必ずお聞きになったことと私は存じます。...」
「...社会政策上ドイツでは、一つの誇りとしてをる方針である。且つまた歴史に今までなかった試験をしたことで、これに類したことはすでにローマ時代にやってをりましたが、新しい方法を持つての計画に、しかも平和的に一民族を他の民族の中に移植する設計は、政治家の研究する価値の確にあるものと思ひます。...」

新渡戸が亡くなったのが1933年。
伊藤博文に植民講義をし、日本人の移民をかなえ、さらに日韓合併に進み、その後の展開はジュネーブからも良く見えていたであろう。
新渡戸稲造全集のどこかに書かれているに違いない、と思う。
現在の日韓関係を新渡戸稲造が知ったらどう思うか?どのような政策を提案するであろうか?





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