ケアと死を地域に開く[2025年05月24日(Sat)]
前回の投稿で書いた、亡くなったAさんのこと。
昨日は、ウイズタイムホームのスタッフで、Aさんのことを語り合う会をしました。
自分はAさんとどのように出会い、今までどんなふうに関わってきたか、そしてAさんの死にどう向き合っているかを出し合いました。私が見ていたAさんとは違うAさんの姿も見えたし、良い時間でした。
Aさんが亡くなって以来考えているのですが、ケアが必要な人がいるとき、できるだけたくさんの人でケアの苦しみを分かち合いながら最期を迎えられたら、ケアする人にとっても幸せなのではないかなと。
多くの場合、「ケアと死」は家族の中に閉じられていると思います。もちろん、福祉や医療の制度にはつながるとしても、本人・家族・地域・制度的支援といった異なる立場やインフォーマル・フォーマルがグラデーションでつながる感じはなかなか持ちづらい。
そんな現状の中で、核となってケアを支える身寄りがない場合には、施設や病院の中で最期を迎える以外の選択肢が持てないということもたくさんあると思います。
理想通り目標通りには生きられないことへのイライラや、死と向き合う恐怖や、そうはいっても朝になれば起き、お腹がすけば食べて排泄をしてまた眠る、というなんでもない日常を送ること…そんな日々を感情面も含めて一緒に過ごし、苦しんだり悩んだりして人生を終える。そして一人の人の人生が終わった時の、残された人の心にぽっかり空いた穴。
そういう時に、「あのときはこうだったね」「あの人、こんなこと言ってたね」「あの人だったら今、こんなふうに言っただろうね」と語り合える仲間が、できるだけたくさんいたら、ケアをしてきた人も癒される、旅立った人もきっと癒されるのではないかと。
そのために、「ケアと死」というものを、本人や家族といった個人的な経験の中にとどめずに、もっと地域に、社会に開いていけたらいいのではないかと、Aさんの死を通じて改めて考えさせられました。
ウイズタイムハウスで毎週イベントをやっているのも、ケアを地域に開いていくためなのだと思います。
国の制度の動きをみると、地域包括ケアとか、共生社会とかいわれていて、でもそれは福祉を担う人材不足や財政難を解決するために安く地域を利用しようとしている、それをハートのオブラートに包んで見せられているような感じがしてしまって、全然ピンとこない。だからそういう流れとは線を引いて、「私たちが地域でやるべきこと、できること」を考え、実践し、発信していけたらと思っています。
(写真は、ウイズタイムガーデンをハウスの2階から見おろしたもの。 法人代表記)



