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探究心に溢れる学生たちは、きっといつの世にあっても古典を学ぶだろう。 [2013年10月18日(Fri)]
(463)
 「古典の研究は、やがて現代の実用的な研究に道を譲ることになるだろう」。そんなことが時々言われたりもする。けれども、探究心に溢れる学生たちは、きっといつの世にあっても古典を学ぶだろう。それがどんな言葉で書かれていようと、いかに古い時代に著されたものであろうともである。
  


 このように、ソローは古典を賞賛するのです。彼の立場は、一般教養的な学問を重視するものだと言えるでしょう。しかしながら現代社会の趨勢を見ると、彼の主張とは反対に実用主義の方向に流れて行っているように思われます。
 「世のため人のために役に立つ」。そう言われると、そうでない学問に比べて確かに価値があると思われるかもしれません。しかし、本当に何が役に立つのか、何が重要なのかということは、果たして短期的な視点で正しく把握することができるのでしょうか?
古代の言語のほんの数単語を学ぶだけでも、青春の貴重な日々を費やすだけの価値はある。 [2013年10月17日(Thu)]
(462)
 古代の言語のほんの数単語を学ぶだけでも、青春の貴重な日々を費やすだけの価値はある。それは、浮世の些事から離れてずっと高い所に屹立している。そして時流の変化に左右されることなく、いつでもぼくたちに示唆と刺激を与えてくれるのだ。
 畑で働く農夫が、かつて耳にしたことのあるラテン語の単語を二つ三つ覚えていてふと口ずさむ。そういうことも、決して無駄ではないのである。 
  
  

 現代において「英語を学ぶべし」と言われるのは、例えば「英語が世界中の多くの地域で使われているから」とか、「英語ができれば、世界中のかなり多くの人とコミュニケーションができるから」といった非常に実用的な理由からのことがほとんどのようです。
 また、「英語を学ぶ必要はない」という人の主張の根拠(言い訳)も、大抵は「自分は英語なんて使わないから」というものであることが多いのではないでしょうか?
 しかし、ソローはまったく別の次元から語学の習得を勧めるのです。彼が読んでいた古典は、古代ギリシャ語とかラテン語で書かれていました。どちらもソローの時代にはとっくに死語になっています。つまり、そんな言葉を学んでも実用的には何の役にも立たないのです。それでも、それを学ぶ価値は大いにあると彼は断言するのです。
 
現代は英雄の時代よりずっと堕落してしまっている。 [2013年10月16日(Wed)]
(461)
 英雄物語は、たとえぼくたちの母国語の文字で印刷されていたとしても、やはりその意味を読み取ることはできないだろう。なぜなら、現代は英雄の時代よりずっと堕落してしまっているからだ。 
 ぼくたちは、労苦を厭わずにその一語一語、一行一行を読み解かなければならない。自分たちの知恵と勇気と寛容さを総動員して、その一般的な用法が許す以上に幅広く奥深い意味を推測するのだ。
 現代では大量に印刷された安価な書物が出回っているけれども、たとえ翻訳されたそれらの本を読んだとしても、ぼくたちはちっとも英雄物語の作者に近づいたことにはならない。彼らは今もなお孤独で、本に印刷された文字はぼくたちの目には疎遠で奇妙なものに映る。


 翻訳された現代語で古典作品を読んでも、その精神世界に近づいたことにはならない。このようにソローは言います。なぜかと言うと、現代(ソローが生きていたのは19世紀です)は英雄の時代より遥かに堕落してしまっているからです。だから、単に辞書的に言葉を言い換えただけでは、ぼくたちは真にその本を読んだことにはならない。そのようにソローは考えるのです。
ギリシャ語でホメロスやアイスキュロスを読む学生は・・・。 [2013年10月15日(Tue)]
(460)
 ギリシャ語でホメロスやアイスキュロスを読む学生は、恐らく放蕩に耽ったり贅沢に溺れたりはしないだろう。と言うのは、彼らはある程度はそれらの本に出てくる英雄の生き方を自分の手本にするだろうし、そのような読書は朝という時間を神聖なものにするからである。
 



 ホメロスは古代ギリシャの吟遊詩人で、「イリアス」と「オデュッセイア」の作者とされている人物です。アイスキュロスも古代ギリシャの詩人で、アテネ三大悲劇詩人の一人です。
 ソローは、このような古典を読めば英雄的な生き方を学ぶことになるし、読書の時間を神聖なものにすると言っています。日本で言えば、漢文で「論語」を読めというようなものでしょうか?
 しかし、どうして翻訳ではなく原文で読まなくてはいけないのでしょうか?

夏の間中、ぼくはテーブルの上にずっとホメロスの「イリアス」を置いていた。 [2013年10月14日(Mon)]
(459)
 夏の間中、ぼくはテーブルの上にずっとホメロスの「イリアス」を置いていた。もっとも、そのページを開いてみるのは時々に過ぎなかったけれども。
 それはどうしてかと言うと、まず第一にぼくは家を完成させるための肉体労働に毎日追われていた。それと並行して、豆畑の除草もしなければならなかったのである。それらの仕事のために、ぼくは勉強する時間をほんのわずかしか持つことができなかったのだ。
 けれども、「もう少ししたら、そのような読書をすることもできるようになるだろう」という見通しによってぼくはその時期を耐え忍んでいた。
  
 

 (216)から(232)辺りに書いてあるように、ソローが住み始めた頃の家は未完成だったのです。それはまだ、夏の期間を過ごせるだけの設備しか整っていませんでした。ですから、冬を迎えるまでに煙突を建てたり壁にこけら板を張ったりしっくいを塗ったりといった冬支度を終わらせなければならなかったのです。また、豆畑の除草も、一年目はかなり熱心にやっていたのです。(そんなにやる必要はなかったと後で反省していますが)。
 
ひとつ所に坐していながら、精神世界の至る所を駆け巡る。 [2013年10月13日(Sun)]
(458)
 ぼくが読んだ本は、元来は木の皮に書かれたものであったが、今ではリンネル紙に印刷されることが時々あるだけである。
 詩人のミル=カマル=ウディン=マストはこう言っている。
 「ひとつ所に坐していながら、精神世界の至る所を駆け巡る。これこそ読書によって私が味わった醍醐味である。たったグラス一杯のワインで陶然とした至福の気分に浸る。深遠な哲理の酒を飲む時、私はかくのごとき快楽を享受するのだ」。
   
 

 ソローが読んだのは、主として古典だったようです。
 確かに、読書にはこのような効用がありますね。書物を読みながらぼくたちは、数千年の太古の昔に思いを馳せることだってできますし、遥かな未来を夢見ることもできます。遠い遠い異国の都を旅することも、絶海の孤島でのサバイバル体験も、可能です。喜怒哀楽、様々な感情を、現実の自分を越えた様々な立場で味わうこともできます。とりわけ深遠な哲理に触れる時、ぼくたちは何とも言えない至福の感覚に包まれ、まるでこの世に生きる苦しみややりきれなさからさえも永遠に解き放たれるように、そして限りない生命力に自らが満たされるようにも感じたりするのです。
ぼくの住まいは大変思索に適していただけでなく、真面目な読書のためにも大学以上に都合の良い場所だった。 [2013年10月12日(Sat)]
(457)
 ぼくの住まいは大変思索に適していただけでなく、真面目な読書のためにも大学以上に都合の良い場所だった。
 ぼくは普通の巡回図書館が決してやって来ない所にいたけれども、世界中を駆け巡っている書物による影響を今まで以上に受けるようになった。



 ソローがウォールデンの森の中に住んだのは、自然に親しんだり自然的な農業をするためだけではありませんでした。そこは、静かに思索に耽ったり読書に没頭したりするのに絶好の環境だったのです。
 「巡回図書館」は”circulating library”、そして「世界中を駆け巡っている書物」は"those books which circulate round the world"です。
ぼくたちが本当に用いることのできる時間は、過去でも現在でも未来でもない。 [2013年10月11日(Fri)]
(456)
 エジプトあるいはインドに現れた人類最初の哲学者は、神像を覆っていたヴェールの一端を引き上げて見せた。その衣の裾は、今もなお引き上げられたまま風に揺れている。
 そして、今ぼくが見ている輝きは、大昔の哲学者が目撃したのとまったく同じ新鮮さを持っている。なぜなら、その時大胆にも神の姿を顕わにしたのは彼の中のぼくであり、今そのビジョンを再び目の当たりにしているのはぼくの中の彼だからである。
 その衣服には塵の一つだって積もってはいない。その神性が世に示されて以来、少しの時間も経過してはいないのである。ぼくたちが本当に用いることのできる時間は、過去でも現在でも未来でもないのだ。
  


 真理探究の営みにおいて、時の隔たりはまったく存在しないも同然なのです。数千年の歳月を経過してもなお、真理に触れた時の感動はまったく変わらない新鮮さであらゆる時代のあらゆる人の心を満たすのです。
真理に関わる営みの中では、ぼくたちは永遠不滅の命を持つ。 [2013年10月10日(Thu)]
(455)
 自分自身や子孫のためにどれだけの財産を蓄えたとしても、一つの家族や国家を築き上げたとしても、あるいはいかなる名声を獲得したとしても、ぼくたちはいずれ死を迎える運命から逃れることができない。しかし、真理に関わる営みの中では、ぼくたちは永遠不滅の命を持つことができるのだ。だから、どんな変化も不慮の出来事も、恐れる必要はまったくない。  



 地上の財産は、、生きている間にさえ損なわれたり失われたりする可能性が大いにあります。そして、もしいくらかの財産を築き、何とか保つことができたとしても、ぼくたちがやがて死ぬという運命を変えることは決してできません。当然、地上の生命が終われば地上において獲得された富も失われるのです。
 それはまあ当たり前だとして、「真理の探究をしていたって、人間はやっぱり死ぬんじゃないか?」と疑問に思う人が多いのではないでしょうか。しかし、ソローはそうではないと言うのです。
もしも人々がもう少し思慮深く自分の仕事を選んでいたら・・・。 [2013年10月09日(Wed)]
第3章 読書
(454)
 もしも人々がもう少し思慮深く自分の仕事を選んでいたら、恐らく誰もが本質的には学生や観察者になっているだろう。学問研究をしたり観察をしたりするということの性質や運命は、どんな人にとっても確かに興味深いはずだからだ。



 仕事というものをどのようにとらえるかによって、その選択の仕方は随分変わってくると思われます。「仕事はお金を得るための手段である」と考えるなら、できるだけたくさん給料をもらえる仕事が良いということになるでしょう。「仕事とは、社会的な地位や自分の所属集団を決めるものだ」と考えるなら、有名企業の正社員や公務員になるのが良いということになるかもしれません。
 しかしここでソローが言っている仕事とは"pursuit"で、元々は追求するものという意味のようです。お金を追えば、そのために多くの時間を犠牲にすることになります。地位を追えば、出世競争に明け暮れることになります。しかし、それで良いのでしょうか?「もっと思慮深く、自分が生涯をかけて追求していくものを選択すべきなのではないか?」とソローは言うのです。