CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 小・中学生の疑問に答えないけど一緒に考えるゼミ | Main
神に捧げる日々の労働。 [2022年01月28日(Fri)]
(263)
 あなたは神に対して何を捧げますか。いろいろな形の捧げ物があると思いますが、日々のパンを得るための労働というのもその1つになりうるでしょう。
 ・・・



 肉体労働についてのガンディーの見解の続きです。
 「額に汗して、パンを得よ」という聖書の言葉を引用した(262)後、と彼はこのように続けます。つまり、ガンディーの解釈では、労働というのは神から与えられた罰ではなくて、人間が神に差し出すべき捧げ物なのです。
 もちろん、すべての人が、例外なく、労働をもって神への捧げ物にしなければならないとは言っていません。しかし、労働とは神への感謝・神への賛美・神への愛を表すものなのです。
 さて、ここで彼は、「パンを得るための労働(原文では"Bread Labour"、ずばり、『パンの労働』です)」という言葉を使っています。「パン(生活に必要な様々な物を象徴的に表していると思われます)を得るために直接行われる労働」であって、決してそれらを買うお金を得るための労働ではないという点が重要だと思います。
 そして、彼は続けて・・・
額に汗して、パンを得よ。 [2022年01月27日(Thu)]
(262)
 「パンを得るために働け。自らの額に汗して」。
 このように聖書には書いてあります。
 ・・・


 
 これも、肉体労働をすべての人間の務めと考えるガンディーの意見です。
 聖書というのは、ユダヤ教の聖書、キリスト教では旧約聖書と呼ばれる聖典のことです。その冒頭にある「創世記」の第3章に、「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る」と書いてあります。これは、アダムとイブがエデンの園から追放される時に神がアダムに対して宣告した言葉ということになっています。
 この創世記では、労働の義務が神の命令に従わなかった罰として人間に与えられたものと解釈されているように思われます。しかし、ガンディーにとってはそうではありません。働くということは、決して刑罰でも苦役でもなく、生活するための単なる手段でもなく、人間が人間としての幸福を実現するために不可欠のものなのです。(109)
 そして、ガンディーはさらに続けて・・・
働かざる者食うべからず。 [2022年01月26日(Wed)]
2 肉体労働

(261)
 自分の手足を使って労働をしない人には食べる権利もありません。働かないで食べ物を得るのが正当な権利だなんて、一体どうしてそんなことがありうるでしょうか。
 
            (「From Yeravda Mandir」1957年)



 ここからは、肉体労働についてのガンディーの意見です。
 肉体労働というものを、彼は頭脳労働より価値の低い労働、誰にでもできる単純な労働とはまったく考えていません。それどころか、肉体労働だけが真に価値ある労働であると考えているのです。(109)
 そしてここでは、「肉体労働をしない者には食べる権利もない」とさえ言っています。多くの人が、あの有名な言葉「働かざる者食うべからず」という言葉を想起するでしょう。
 この言葉を有名にしたのは、ロシア革命の指導者のレーニンです。(『働かざる者は食うべからず』――これが社会主義の実践的戒律である)
 レーニンの思想や立場を考えれば、「働かざる者」というのが自らは労働せず他人の労働から生み出された富を搾取している資本家や地主たちを指していたことは明らかです。ガンディーが意図していたことも、それに近いと思われます。
 しかし、この言葉はレーニンが考案したものではありません。マルクスでもありません。ずっと昔の、聖書の言葉です。新約聖書の中の「テサロニケの信徒への手紙(二)」に、「働こうとしない者は、食べてはならない」と書いてあるのです。また、「自分で得たパンを食べなさい」「たゆまず善を行いなさい」とも記されています。ですから、やはり、「自らは働こうとせず、他人の労働の成果を受けて暮らしている者」が批判されていると考えられます。全体の文脈から推測すると、「病気などの原因で肉体労働ができない人」に対して「お前は働いていないのだから、食べることも許されない」と言っているとはまったく考えられません。むしろ、「自分は肉体労働よりも重要な仕事をしているのだから」と言って、肉体労働をしている人たちより豊かな生活を享受することが当然の権利であると勘違いしているような人たちに対する厳しい言葉なのではないかと思います。
 なお、出典となっている「From Yeravda Mandir」は、1930年、ガンディーが投獄された際に獄中からアシュラムに送った手紙の内容が後に出版されたもののようです。
権利を得るための義務、権利を守るための対抗手段。 [2022年01月25日(Tue)]
(260)
 生きる権利を得るために必要な義務は、自ら手足を使って働くことです。そして、生きる権利を守るための方策は、自らの労働の果実を奪おうとする者に対して決して協力しないようにすることです。
          (「ヤングインディア」1931年3月26日) 
 


 「基本的な人間の平等性を守るためには、それに応じた義務とそれが脅かされた場合の対抗手段を見つけ出す必要がある」というガンディーの意見の続きです。
 確かに、「基本的人権は、何か義務を果たした報酬としてではなく、また何らかの契約に基づいてでもなく、無条件に、無差別平等に、すべての人に保障されなければならない」という意見もあるでしょう。しかし、よく考えてみてください。仮にすべての人が、「自分には働く義務はないから働くことを拒否する。そして、生活を保障される権利はあるからそれは要求する」と主張したら、どうなるでしょうか? それは、やはり不可能でしょう。仮に何らかの方法でその不可能を可能にできたとしても、それは多かれ少なかれ、他国民からの搾取、自然からの収奪、次世代からの剽窃を意味するのではないでしょうか。
 もちろん、子ども、高齢者、病気や障がいを持った人など、労働の義務を課すべきでない人はいます。そういう人々にも生存権を保障しなければならないのは言うまでもありません。だとすればなおさら、それらの人の生活を支える義務が他の人々によって果たされなければならないのではないでしょうか。
 また、権利というのは与えられることを要求するだけで得られるとは限りません。また、それが脅かされたり侵害されたりした場合、誰かが回復してくれるのを待っていればよいとも限りません。だから、対抗手段が必要だと彼は言うのです。支配者や搾取者に協力しないこととは、(219)で述べられているような非暴力の抵抗運動のことを指していると思われます。
権利と義務、権利とそれを守るための方策。 [2022年01月24日(Mon)]
(259)
 どんな権利も、それと対をなす義務があります。また、その権利に対して何らかの攻撃を受けた場合の対抗手段がなければなりません。
 ですから、基本的な人間の平等性を守るということは、それに応じた義務とそれが脅かされた場合の対抗手段を見つけ出すことができるかどうかという問題にほかなりません。
 ・・・
        


 「すべての人に生きる権利はある」と述べた後、ガンディーはこのように続けます。
 「どんな権利も、それと対をなす義務がある」という言葉を耳にした瞬間に強烈な拒絶反応を示したくなる人もいるかもしれませんが、どうか、落ち着いて聞いてください。
 ガンディーが「すべての人に生きる権利はある」と言う時、それは国家から与えられたものではなく、神から与えられたものです。(249)だから、当然のことながらここで述べられている義務とは国家に対する義務ではありません。特定の人間や人間集団に対する義務でもありません。神に対する義務です。しかも、神によって与えられる権利は恩寵として与えられるものであって、決して義務を果たした報酬ではないのです。(そもそも、神に対する義務を完全に果たすことは人間にとって絶対に不可能なことですから)
 また、人間としての権利は単に要求しただけで実現するものではありませんから、ここで「権利が奪われたり脅かされたりした時に対抗手段」の必要性を指摘されているのはとても重要な点だと思います。
 そして・・・
すべての人に生きる権利はある。 [2022年01月23日(Sun)]
(258)
 生きていくために必要なものを享受する権利は、平等に、すべての人にあります。鳥や獣にも生きる権利はあるのですから、それは当然です。
 ・・・


 
 これも、「村の自治の基本原則」についてのガンディーの意見です。「すべての人に生きる権利がある」という大原則が、ここでも繰り返されます。
 ただ、この文章が書かれたのはまだインドが独立を達成していない時期です。当然、国の憲法などで国民の生存権やそれを保障する国家の責務が明文化されていたわけではありません。世界人権宣言(1948年、第22条に、国の助けを受けて人間らしく生きていく権利があると規定)も、まだありません。だから、ここで彼が言っているのは国家が保障する法的な権利のことではなくて、それ以前に存在すると考えられる自然権のことです。
 恐らく、「明日のことを思い煩うな」という聖書の言葉を引用することによってその前に書かれている「空を飛ぶ鳥や野に咲く花でさえも、神は養ってくださる」という内容が示唆されていたように(254)、「神は他の動植物と同様に、あるいはそれ以上に、すべての人間を愛し、すべての人間に恵みを与えてくださっているはずだ」という確かな信頼を彼が抱き、それを基本的人権の根拠として確信していたということだと思います。ガンディーはキリスト教徒ではありませんが、神の愛に対する絶対的な信頼感についてはきっと深く共感していたのではないでしょうか。
 それから・・・
憩うことや十分な食べ物を得ていることは、恥じるべきこと。 [2022年01月22日(Sat)]
(257)
 健康な体を持っているのに仕事がないとか食べる物に困っているとかいうような人がいてはなりません。もし、仮に一人でも、男であろうが女であろうがそのような人がいるならば、その人が救われない限り、私たちは自分が憩うことも十分な食べ物を得ていることも喜ぶわけにはいきません。むしろ、恥とするべきです。
 
          (「ヤングインディア」1921年10月6日) 

 

 「村の自治の基本原則」についてのガンディーの意見です。ここまで何度も繰り返されてきたように、「すべての人に生きる権利がある(252)」というのがその根本的な主張です。
 しかも、それは決して各人にとっての問題ではなく、共同体全体の問題なのです。基本的には家族、親族、そして村という共同体でしょうが、究極的には世界人類のすべてが生きる権利を享受できていなければならないのです。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(農民芸術概論綱要)と言った、宮沢賢治の思想と似ていますね。
 
真の国策とは・・・ [2022年01月21日(Fri)]
(256)
 本当の国策というものは、インド国民の力を完全に生かし切るということ以外にはありえないはずです。
            (「ハリジャン」1947年3月23日)


 
 国のあるべき経済戦略についてのガンディーの意見の続きです。
 「その国民の力を顧慮しないで天然資源によって利益を得ようとする国策は必ず不健全なものになる(255)」と言った後、彼は上のような結論を提示します。
 つまり、天然資源に頼るのと同様に、機械生産に頼るのも、高度な技術力に頼るのも、商業的な利益を求めるのも、投資などによる利益を求めるのも、彼にとっては決して望ましくはないのです。なぜなら、国の富を増やすことが究極的な目的ではなく、人々の幸せこそが最も考慮されることだからです。
 そして、物質的な豊かさはある程度までは人間が幸福に生きるために不可欠な条件の一つであるにしても、決して豊かさが増大すればするほど人間が幸福になれるのではない。人間の幸福とは、精神的及び道徳的な成長である。このようにガンディーは考えます。(246)
 そして、労働というのは他に収入を得る手段がないから仕方なくするものではなく、それ自体が幸福に生きるために欠かすことのできない営みだと言うのです。
 
                 
国に豊かさをもたらしうるのは、天然資源よりも・・・。 [2022年01月20日(Thu)]
(255)
 ある国にどれだけ豊富な天然資源があったとしても、潜在的にもっと大きな繁栄を国にもたらしうるのは国民の力です。ですから、その国民の力を顧慮しないで天然資源によって利益を得ようとする国策は必ず不健全なものになるでしょう。それによって人間の平等が実現できるとは到底思われません。
 ・・・



 この章のタイトルは「村の自治の基本原則」ですが、ここでは国全体の経済政策あるいは経済戦略について述べられています。
 単に国富の増大のみを求めるのであれば、天然資源によって富を追求するのも一つの方法だと考えられるかもしれません。しかし、そのような政策は必ず不健全なものになるとガンディーは言うのです。
 仮に天然資源によって莫大な富が得られるとしても、それは大資本家または国家権力にほぼ独占されてしまうでしょう。国家の所有する富を国民に平等に分配すればよいではないかと思われるかもしれませんが、国家の富が特定の場所で集中的に生み出されるような国で健全な民主政治が行われるとは到底考えられません。
 国家の富を国民が平等に享受するためには、それがまさに「国民の力によって生み出された富」と言われるようなものでなければならないということを彼は示唆しているのではないかと思います。
 そして・・・
  
国の政治がうまく行っているかどうかの指標は、億万長者の数ではない。 [2022年01月19日(Wed)]
(254)
 よく整っていて乱れのない社会であれば、生計の維持は容易に確保できるはずです。また、そのような社会では世界中で最もそれが実現していると分かるでしょう。
 ある国がきちんと治まっているかどうかを調べる指標は、決して億万長者が何人いるかではありません。大衆の間に飢餓が存在しないということこそがその証拠になるのです。

                     (「Natesan」)



 「明日のことを思い煩うな。これに類することは世界中の宗教によって示されている教えである(253)という話の続きです。意外にも、ガンディーはこれを個人の心の持ち方の問題ではなく、社会のあるべき姿として論じるのです。
 確かに、「明日のことを思い煩うな」と言っている「マタイによる福音書」第6章でも、その前には次のように書かれています。「空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」「野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」。つまり、「明日のことを思い煩わなくてもよいのは、この世界に神の愛が満ち溢れ、そして働いているから」なのです。
 だから、もしも人間が神の愛に反した社会を造り出してしまえば、当然のことながら、そういうわけにもいかなくなってきます、だから、「明日のことを思い煩わなくても誰もが安心して暮らしていける社会にしなければならない」ということになるのです。
 「国が良く治まっているかどうかを示す指標は億万長者が何人いるかではなく、生活に困っている人がいないということだ」という指摘は、本当にその通りだと思います。
| 次へ