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天地創造の時、国境線は引かれなかった。 [2025年12月29日(Mon)]
(1509)
 政府が定めた国境線というものも、この場合はまったく関係ありません。
 天地創造の時に、神は決して国境線など作りはしなかったのです。

             (「ヤングインディア」1931年12月31日)



 「隣人とは誰か?」という問いに対して、「隣人の範囲に限りはない」とガンディーは答えます。(1508)
 つまり、彼は愛国者、ナショナリストであると同時に、コスモポリタンでもあるのです。
 「隣人を愛しなさい」と彼は言いますが、その場合の「隣人」というのは同じ国に属する者という意味ではありません。外国人も、広い意味での「隣人」なのです。
 ところで、「天地創造の時に、神は決して国境線など作りはしなかった」と彼は述べていますが、彼にとっての神とはユダヤ教やキリスト教やイスラム教の神ではありません。ヒンドゥー教の神です。その点においては、民族主義者としての自らの立場をガンディーは明らかにするのです。
(449)
 
 これで、長かった「Village Swaraj 」も遂に完結です。
隣人とは誰でしょうか? [2025年12月14日(Sun)]
(1508)
 我々が奉仕すべき隣人とは、果たしてどこまでの範囲の隣人なのでしょうか?
 隣人の隣人、そのまた隣人と、その範囲は限りなく広がっていきます。
 ・・・

                (「ハリジャン」1939年3月25日)



 これも、「インドと世界」に関するガンディーの意見です。
 彼は、「スワデシ」という理念を掲げています。それは、「『自分が何を利用するか』『何に奉仕するか』を選ぶに当たって、遠くのものではなく自分のすぐ身近にあるものだけにしようという意志を持つ」ことなのだそうです。(443)要するに、現代のグローバリズムとは対極にある立場だと言えるでしょう。
 また、「ヒンド=スワラージ」でも、「私はすぐ近くにいる隣人たちに奉仕するしかない。世界中の人々に奉仕しなければならないと考えるのはとんでもない自惚れだ」と言っていました。
 しかし、注意してほしいのは、決して彼は「内」と「外」の線引きをしていないということです。つまり、「ここまでは奉仕すべき隣人」「ここから先は関係のない異邦人(あるいは、排除すべき者、敵対者)などとは考えないのです。
 では、奉仕すべき(あるいは、配慮すべき、愛すべき)対象は一体どのような範囲の隣人なのかと言いますと・・・
スワラージと世界。 [2025年11月30日(Sun)]
(1507)
 スワラージを通して、私たちは全世界に奉仕します。
 
                    (「ヤングインディア」1931年4月16日)
                    


 スワラージとは、「自治・独立」のことです。
 ガンディーはインドの自治・独立を熱烈に求めているのですが、決してインドだけのことを考えていたわけではありません。「独立とは、孤立することではない(1480)」と述べられていたように、インドの独立を求めることは他国を敵対視したり他国の状況に無関心になったりすることではないのです。
 スワラージは、目的であるだけでなく手段でもあるのです。インドがスワラージを実現できればそれで終わりではなく、そのスワラージを通じて世界に貢献していかなければならないと彼は考えるのです。(1506)
 そうでなければ、「真実と非暴力」という意味を含んだスワラージ(24)の名に値しないということでしょう。
 
個人は共同体のために。では、共同体は・・・? [2025年11月01日(Sat)]
(1506)
 純粋な心を持っていれば、個人は家族のために自らの身を犠牲にするでしょう。
 同様に、家族は村のために、村は周りの地域のために、各地域は州のために、州は国家のために、そして国家は世界全体のために自らを捧げるのです。
 
                (「ヤングインディア」1925年9月17日)



 インド独立後のビジョンについてのガンディーの文章の続きです。
 「インドは、自発的かつ献身的に、より良い世界の創造に貢献すべきだ」と彼は言っていました。(1505)
 それは、「個人は家族のために尽くすべきだ」という共同体の倫理を拡大した必然的な結果なのです。
 同様のことは、(1500)でも述べられていましたね。
 ここで重要なのは、奉仕や貢献の対象が国家などで止まってしまってはいけないということです。そうなると、単に集団や組織が個人を犠牲にすることを正当化する欺瞞的な道徳になってしまいます。そうではなくて、その対象を限りなく世界全体にまで広げることが大切なのです。
 世界全体と言っても大き過ぎて漠然としていますが、世界を構成しているのはひとりひとりの個人なのですから、世界に奉仕するということは、つまり目の前にいる個人に奉仕するということなのです。
 すなわち、「一人は万人のために、万人は一人のために(One for all, all for one)」ということになるのだと思います。
より良い世界の創造に貢献する。 [2025年09月23日(Tue)]
(1505)
 私は、インドが自由と力を手に入れ、そうして自発的かつ純粋な自己犠牲の精神によってより良い世界の創造に貢献するのを見たいと願っています。
 ・・・

                 

 これも、独立後のインドに期待するガンディーの意見表明です。この文章が書かれたのは実際にインドが独立を果たした1947年よりも20年以上前の1925年です。つまり、独立を求める運動の最中にあっても、彼は既に独立後のビジョンを描いていたのです。彼にとってイギリスからの独立は最終目標ではなく、通過点に過ぎなかったのです。
 問題は、独立を果たした後、インドがどんな国になっていくか、さらには、そのインドが世界に対してどのように貢献していくかだったのです。
 インドが独立を果たせばそれで良いのではなくて、独立したインドが発展し繁栄を遂げれば良いのでもなくて、より良い世界の実現のために貢献できる国にしようと彼は考えていたのです。まさに、日本国憲法前文の精神を先取りした先進思想であったと思います。(1483)
 そして・・・
普遍的な神の政治を確立せよ。 [2025年09月14日(Sun)]
(1504)
 このようなラーマラージを確立することができれば、それはインドの全国民にとってだけでなく世界中の人々にとっての福利を意味することになるでしょう。

                (「Towards New Horizons」1959年)


 
 「ラーマラージ」についてのガンディーの論説(1503)の続きです。
 ラーマというのはヒンドゥー教の神ですが、ガンディーによれば、それぞれの宗教において崇拝・畏敬・信仰の対象となっている神はすべて本質的には同一であると言うのです。
 だから、宗教の違いによって対立したり争ったりする必要はもちろんないのです。また、自分と同じ信仰を他の人に強要する必要もありません。つまり、宗教的な寛容と相互尊重、そして多様性を認めるということです。
 それは宗教だけではなく、人種や文化や言語や政治的意見などについても言えるでしょうね。ですから、世界中の人々に福利をもたらすという彼の主張も決して誇張ではないのかもしれません。
それぞれの宗教の神は、同一のものである。 [2025年09月03日(Wed)]
(1503)
 私にとってのラーマとは、イスラム教やキリスト教の神、すなわち世界の創造者の別名なのです。
 私は、神の政治を望みます。それは、この地上に神の国が実現するというのとまったく同じ意味です。
 ・・・
 
 
 
 独立後のインドの政治について、ガンディーがそれを「ラーマラージ」という言葉で表現しつつ、「しかし、決してそれはヒンドゥー教徒がインドの支配集団となることを正当化するものではない」と述べた文章(1502)の続きです。
 それならどうして「ラーマ」という言葉を用いたのかと言えば、それはガンディー自身はヒンドゥー教徒であり、彼にとっての神は生涯にわたって「ラーマ」であったからです。
 しかし、彼にとって「ラーマ」に対する信仰はほかの宗教の否定することではなく、ほかの神への信仰や帰依と矛盾するものでもないのです。「ラーマはイスラム教やキリスト教の神と同じである」と述べている部分は、原文では"Khuda"(インドのイスラム教徒の言語であるウルドゥー語の「神」、及び"God"(英語の神、つまりキリスト教の神)となっています。一神教を信仰する人が他の宗教の神を認めるのは難しいのでしょうが、多神教のヒンドゥー教徒であるガンディーは、「ラーマとは、イスラム教やキリスト教の神と同一の存在であり、単に呼び名が異なるだけである」と言い切ってしまうのです。
 (450)では、「ヒンドゥー教ほど寛容性に富んだ宗教はない」とも述べられていましたね。
 そして・・・
多数派が社会を支配して良いわけではない。 [2025年08月30日(Sat)]
(1502)
 ラーマラージをヒンドゥー教徒による統治であると勘違いする人が誰もいないようにしましょう。
 ・・・

        

 これは、独立後のインドの政治についてのガンディーの考えが示された文章です。
 「ラーマラージ」とは、神による統治のことです。もちろん、古代エジプトのファラオや日本の天皇制のように政治権力の頂点にいる特定の人間を「神聖にして侵すべからざる存在」にしてしまうのではありません。また、宗教的権威によって特定の個人または集団が専制政治を行うのでもありません。人間を超越した絶対者(神)の教えに従った政治を行い、神によって示される理想の社会状態を実現しようとすることです。
 この用語は、(10)でも出て来ましたね。
 ラーマとは、ヴィシュヌ神の第7の化身で、ヴィシュヌ派では最高神なのだそうです。
 しかし、「ラーマ」という神の名を掲げることによって、「インドではヒンドゥー教徒が多数派なのだから、ヒンドゥー教の教義に基づく政治が行われる。つまり、『ラーマラージ』というのは『ヒンドゥー教に基づく政治』ということだ。ヒンドゥー教徒以外のインド人も、必ずそれに従わなければならない」という解釈も生まれて来る可能性があるのです。
 けれども、ガンディーはこれをはっきりと否定しています。(20)
 さらに、彼は続けて・・・ 

大海から離れてしまった一滴の水は・・・。 [2025年08月23日(Sat)]
(1501)
 広い広い大海原は、巨大な艦隊の航跡さえもすべてその広い胸の上に収めてしまいます。その大海も、一滴一滴の水の集まりです。
 一滴の水は、大海から離れてしまえば何の利益をもたらすこともできないまま蒸発して消え去るしかありません。しかし、大海の中に留まっていれば、その一部として大いなる栄光に浴することができるのです。
 
                (「Towards New Horizons」1959年)
 
                   

 ここから読んだ人は、「一体、これは何の話だ?」と思うかもしれませんが、この文章は、「ナショナリズムはインターナショナリズムと矛盾しない」というガンディーの話(1500)の続きです。
 恐らく、「インドという国は自立を目指しながらも、世界とのつながりも大切にしていく」ということを比喩的に述べているのではないかと思います。
 
個人は共同体のために・・・。 [2025年08月20日(Wed)]
(1500)
 たとえ犠牲の精神を持っていても、その意識が自分の属する共同体の外には決して向かって行かない人もいます。そのような人は、自分自身だけでなく自分の属する共同体までも利己的なものにしてしまいます。
 論理的に考えれば、必ず次のような結論に達するはずなのです。
 個人は、共同体のために自らを犠牲にします。同じように、共同体は地域のために、地域は州のために、州は国家のために、そして国家は世界のために自らを犠牲にしなければなりません。
 ・・・

            

 「自由・自治・自給自足(スワデシ)の国になっても、インドは困っている隣国を助けるだろう」というガンディーの話(1499)の続きです。
 「自分の国を大事にする」ということは、決して「自分の国の利益だけを追求する」ということではありません。だから、彼にとってのナショナリズムはインターナショナリズムにも通じるのです。
 「個人は共同体のために・・・国家は世界のために」という言葉は、内村鑑三の墓碑銘となった有名な言葉「我は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そしてすべては神のため」を思い出させますね。
 そして・・・
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