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お勉強 (05/11)
体が必要とするものを手に入れるためには、体を使って働かなければならない。 [2022年05月17日(Tue)]
(367)
 体が必要とするものは、体を使った労働によって満たされなければなりません。
 ・・・
 


 「すべての人は、自分自身の手を使って働くことによって自らのパンを得なければならない」という、「パンの労働」に関するガンディーの意見の続きです。
 「知的労働は、肉体労働の代わりにはならない(366)」と彼は断言します。その理由は、上で述べられているように、「衣食住その他の生活必需品は、各人の肉体が必要とするものである。だから、それらの必要はその人自身の肉体を使った労働によって満たされなければならない」ということです。
 もちろん、完全な個人単位の自給自足を求めているのではありませんし、協力や分業を一切認めていないわけでもありません。しかし、頭脳労働のみを自らの役割として肉体労働を免除されるということは認められないと彼は主張します。頭脳労働をする人も、少なくとも自分の食べ物を生産するだけの肉体労働はしなければならない(343)と言うのです。
 それは、一体どうしてかと言うと・・・
体が必要とするものを手に入れるためには、体を使って働かなければならない。 [2022年05月16日(Mon)]
(367)
 体が必要とするものは、体を使った労働によって満たされなければなりません。
 ・・・



 「すべての人は、自分自身の手を使って働くことによって自らのパンを得なければならない」という、「パンの労働」に関するガンディーの意見の続きです。
 「知的労働は、肉体労働の代わりにはならない(366)」と彼は断言します。その理由は、上で述べられているように、「衣食住その他の生活必需品は、各人の肉体が必要とするものである。だから、それらの必要はその人自身の肉体を使った労働によって満たされなければならない」ということです。
 もちろん、完全な個人単位の自給自足を求めているのではありませんし、協力や分業を一切認めていないわけでもありません。しかし、頭脳労働のみを自らの役割として肉体労働を免除されるということは認められないと彼は主張します。頭脳労働をする人も、少なくとも自分の食べ物を生産するだけの肉体労働はしなければならない(343)と言うのです。
 それは、一体どうしてかと言いますと・・・
知的労働は、肉体労働の代わりにはならない。 [2022年05月15日(Sun)]
(366)
 「知的労働によって得たお金で、パンを手に入れてはいけないのでしょうか?」
 「いけません」。
 ・・・

 

 「知的な(intelligent)パンの労働」について語られていた(362)ように、「知的な労働」というものをガンディーが全面否定していたわけではありません。
 しかし、原則はあくまでも、「すべての人は、自分自身の手を使って働くことによって自らのパンを得なければならない」ということなのです。
 しかし、せっかく通貨という便利なものがあるのだから、「自分の食べ物を生産するのと同等の価値を生み出す労働をして、その対価として賃金なり報酬なりを受け取り、そのお金によって食べ物を購入するということはどうなのか? それであれば、得るものと同じ、あるいはそれ以上の価値を生み出す労働をしているわけだから、他人の労働の成果を搾取しているとか横領しているとかいうわけではないのではないか?」という考えもあるでしょう。
 ところが、ガンディはこれにはっきりと"no"と答えるのです。
 果たして、その根拠とは・・・
社会奉仕の仕事とは? [2022年05月14日(Sat)]
(365)
 すべての人々にとっての共通善を実現するために働く者こそが、社会奉仕の仕事をしていると言えます。そして、その仕事に対する賃金を受け取る資格があるのです。
 そういうわけで、このようなパンの労働はどうしても社会奉仕と切り離すことのできないものなのです。
                     (「ハリジャン」1935年6月1日)                   



 「知的な(intelligent)パンの労働」についての話の続きです。
 ここで言われている「社会奉仕」とは、大きな意味を持つもの(364)」なのだそうです。それは、「すべての人々にとっての共通善を実現するための働き」であるとガンディーは言っています。具体的にどのような仕事を指しているかは、分かりません。政治家や公務員のことかもしれませんね。
 日本国憲法の第15条「公務員はすべて国民全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない」に通じる部分が、あるような気もします。
 
 
社会に奉仕する仕事。 [2022年05月13日(Fri)]
(364)
 そうでなければ、どんな労働も社会奉仕であると主張することだって可能になってしまいます。
 しかし、ここで言っている社会奉仕というのはそれよりもっと大きな意味を持つものです。
 ・・・



 「知的な(intelligent)パンの労働」についての話の続きです。
 「社会に奉仕するための労働は、その背後に明確な目的を持っていなければならない(363)」とガンディーは言います。決して、「誰かが喜んでくれれば、広い意味では社会の役に立っていると言える」とか、「それがやがて社会の進歩や発展につながるとすれば、間接的に社会貢献をしたことになる」とか、そういう話ではないのです。
 つまり、「個々人が自らの利益を追求して自由競争していくうちに、見えざる手に導かれて、予期しなかった目的として社会の繁栄と調和を達成することになる」というようなアダム=スミス的な考えを一切彼は認めなかったと言えるでしょう。
 だとすれば、一体どのような仕事が「社会奉仕」の名に値すると言えるのでしょうか?
 ・・・

知的と呼ばれるに値する仕事は・・・ [2022年05月12日(Thu)]
(363)
 社会に奉仕するための労働は、その背後に明確な目的を持っていなければなりません。それをはっきりと示すような労働でなければ、決して「知的な」という形容詞を冠されるにふさわしいとは言えません。
 ・・・



 「知的な(intelligent)パンの労働」についての話の続きです。
 それは、社会奉仕の最高形態であるとガンディーは言っています。その仕事が結果的に社会に何らかの利益をもたらした、という程度ではいけないということだと思います。その主目的が、自らが利益を得ることではなく、社会への奉仕でなければならない。そのことを、誰の目にも明らかとなるようにはっきりと示すものでなければならない。このように彼は言うのです。
 そういう仕事だけが、「知的な(intelligent)」という形容詞を冠される資格があるのだというのがガンディーの見解です。ちなみに、日本語の「知的な」という単語は形容詞ではなく形容動詞(「知的だ」の連体形)ですが、英語の"intelligent"は形容詞です。
 それから、彼はさらに続けて・・・
知的なパンの労働。 [2022年05月11日(Wed)]
(362)
 知的な能力を使って行うパンの労働というものがあるとすれば、それはいずれにしても社会奉仕の最高形態になるはずです。
 ・・・
            

 
 これも、「パンの労働」についてのガンディーの意見です。
 「真の意味でパンの労働と言える仕事は、農業だけである」と彼は言っていますが、現代社会においてはそれ以外の仕事も「パンの労働」と見なしうるという見解も示されていました。
 (348)で挙げられていたのはすべて体を使って行う労働でしたが、ここでは「知的な(intelligent)パンの労働」について彼は言及しています。
 それは、「社会奉仕の最高形態」なのだそうです。社会に奉仕する仕事と言ってもいろいろあるでしょうが、果たして、ガンディーの考える「社会奉仕」とは・・・
自ら汗を流して働いてみれば、きっと誰にでも分かるだろう。 [2022年05月10日(Tue)]
(361)
 もしもこの主張の正しさを疑う人がいたとするならば、そういう人には自分が食べるパンのために自ら汗を流して働いてみることを勧めます。
 自分の労働によって生み出された物を食べれば、誰もがきっとこれほどおいしいものはないと感じることでしょう。さらに、それは美味であるばかりでなく健康にも良いのです。
 その時彼は、自分が獲得してきたものの多くが実は余計なものに過ぎなかったということを悟るに違いありません。
                    (「ハリジャン」1935年6月29日)
 



 「すべての人がパンの労働を行うようになれば、過剰な労働は必要なくなる。貧困もなくなる。社会的な差別もなくなる(357)」という話の続きです。
 こういう時、必ずと言っていいほど「いや、しかし・・・」「本当に、そうなのかな?」などと懐疑的な見解を示す人はいるものです。けれども、そういう人はいくら丁寧に説明しても決して納得はしないでしょう。
 そこでガンディーは、「いいから、とにかく試しに自分でやってみてください」と言うのです。確かに、こういうことは頭で考えるよりも実践してみた方がよく分かると思います。
 「正しいと理解できたからやる」のでもなく、「みんながやっているからやる」のでもなく、「自分でやってみて本当に良いと分かったからやる」のです。

食べるために生きるのではなく、生きるために食べる。 [2022年05月09日(Mon)]
(360)
 もしそれを実行したら、我々はまさに最低限のもので満足できるようになるでしょう。我々の食事はとても簡素なものになるでしょう。
 つまり、その時こそ本当に、食べることが手段であって生きることが真の目的であるような状態を実現することができるのです。決してもう、食べるという目的のために生きるということを手段にしてしまわなくても良くなるのです。
 ・・・ 



 「パンの労働」についてのガンディーの意見の続きです。
 「それ」というのは、「自分自身の日々のパンを得るのに十分なだけの肉体労働をする(359)」ことです。
 自分で汗を流して働けば、最低限のもので満足できるようになると彼は言います。「足るを知る」ということは、簡単そうで実は非常に難しいことです。しかし、それは必要なものを求めるのではなく欲しいものを求めるからなのです。欲望に限りはありません。けれども、自らの体を使って働けば、本当に体が必要としているものを正しく感じ取れるようになるということだと思います。
 欲望に従ってしまえば、「もっと、もっと、もっと・・・」と人は何でも際限なく欲しくなってしまいます。もはや、自分が欲望に駆られているという自覚さえ持てなくなり、すべてが必要不可欠だ、それが得られなければ自分は不幸になってしまうと思い込んでしまうのです。
 そうなると、もう、「生きるために食べている」のか、それとも「食べるために生きている」のかさえも分からないような状況になってしまうのではないでしょうか?
 しかし・・・
パンの労働は、理想を目指す長い道のりの第一歩 [2022年05月08日(Sun)]
(359)
 神に捧げるべきものを捧げよという法、すなわち我々の存在そのものに関する法とも言えますが、それを完全に実行することができなかったとしても、自分自身の日々のパンを得るのに十分なだけの肉体労働をするだけでも良いのです。
 そうすれば、我々はその理想に向かう長い道のりを進み始めることになるのですから。
 ・・・
 


 「パンの労働」についてのガンディーの意見の続きです。
 「これはあくまでも理想であって、達成することはできないかもしれない。それでも、努力をやめる必要はない(358)と彼は言いました。
 しかし、この場合の「達成しがたい理想」というのは決して「各自がパンの労働を実践すること」ではないのです。それは、やればできることだと彼は考えているようです。「自らのパンのために、自らが汗を流して働く」というのは、彼にとって崇高な理想ではなく、最低限の義務なのです。
 では、一体何が究極の理想なのかと言うと、「神に対して犠牲を捧げるという法」を完全に実行することだと彼は述べています。これは、(337)と同じく「ヤギャ」のことなのではないかなあと思います。
 そして・・・
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