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赤字経営はいけない。 [2025年02月11日(Tue)]
(1363)
 あなたがたは、もちろん、村で行うことのできる、そしてそれを売る市場を見つけられそうな品物を生産する何かほかの産業も始めるでしょう。
 しかし、以下のことに注意してください。いかなる店であっても、赤字を出すことなく経営されなければいけません。また、それを売る市場がないような品物を作ってもいけません。
 あなたがたの1日のうち8時間を使って、あなたがたが好きな家内工業に従事してください。そうすることであなたがたが賃金を得られるという実例を示すことによって、自分たちも8時間の労働で同じように賃金を得ることができると村人が気付くようにしてほしいのです。
 ・・・


  
 村の産業についてのガンディーの話の続きです。村の産業の中心になるのはカディー作りだが、それは第一に地域内自給のためであり、地域外に売るのは余剰が出た場合のみであると彼は言っていました。(1362)
 しかし、それに続くこの文章を読むと、決して貨幣経済というものが否定されているわけではないことが分かります。当時、貨幣経済はインドの農村でも無視できないくらいに浸透していたのでしょうね。
 それにしても、ただ品物を作って売れば良いというわけではありません。赤字経営はいけない。つまり、支出を下回らない収入が得られる事業をせよとガンディーは言っています。考えてみれば当然で、採算性を無視したらどんな産業も維持することはできないからです。
 もちろん、営利の追求や資本の増殖を目的とすることは明確に否定されています。(564)しかし、非営利の事業であっても経営はやはり重要なのです。また、労働の対価として賃金を得ることも決してそれと矛盾することではないのです。
 それから・・・
まずは、地域内自給。 [2025年02月10日(Mon)]
村の活動者に話したこと

(1362)
 村の産業の中心を占めるのは、間違いなくカディーです。
 しかし、このことは忘れないようにしてください。我々は、村でカディーが自給できるようにすることにまずは専念しなければなりません。村で作ったカディーを商品として売ることは、当然のこととして村の需要を満たした後に考えるべきことです。
 ・・・



 ここから、新しい文章に入ります。これは、村の活動者たちにガンディーが話した講話の内容のようです。
 カディーとは、インドを代表する伝統的な手紡ぎ・手織りの布です。(1328)このカディーを、彼は非常に重視しています。  
 また、産業と言っても、彼が言っているのはお金を稼ぐための手段ではなくて、その主目的はあくまでも自給です。第一に村の需要を満たすための生産を行い、もしも余剰が出たら、地域外に売っても良いということです。
 このことは、(955)でも述べられていました。
 それから、さらに続けて彼は・・・
経済的な平等とは・・・。 [2025年02月09日(Sun)]
(1361)
 しかしながら、もしもそれが経済的な平等という堅固な土台の上に築かれるのでなければ、この計画のすべてはまさしく砂上の楼閣になってしまうでしょう。
 経済的な平等という言葉は、店で売られているような品物をすべての人が同じ量だけ所有するという意味で解釈されてはいけません。そうではなくて、きちんとした家と、十分でバランスの取れた食べ物と、身に着けるカディーをすべての人が持つ。そして、今日世界に蔓延している著しい不平等が純粋に非暴力的な手段によって克服される。これが、経済的平等の意味です。

            (「ハリジャン」1940年8月18日)
 


 村の活動についてのガンディーの話の続きです
 清潔、教育、女性差別の解消、国民の健康、共通言語と、様々な地域課題について述べられてきましたが、それらすべての土台になるのは「経済的な平等」であると彼は言っています。
 経済的な平等というのは、すべての人が同じだけの財産や品物を所有するという意味ではないそうです。そもそも、所有物が多いほど、あるいは多くを消費するほど人間は幸せだというふうには決して彼は考えないのです。(1323)
 そうではなくて、すべての人に人間らしい最低限度の生活を保障することがガンディーの考える経済的平等の意味のようです。
 「では、富裕層の人々が途方もない資産と収入を得て贅沢な暮らしをするのは容認されるのか?」という疑問を抱く人もいるかもしれません。そうではありません。しかしそれは、その人が一般の人々よりも幸福過ぎるからではなくて、そのような暮らしは人間にとって不幸であると彼が考えるからなのです。(410)
 
英語よりも、各地の方言を学ぶようにせよ。 [2025年02月08日(Sat)]
(1360)
 英語の習得に夢中になっているうちに、我々は各地方の言葉をないがしろにするようになってしまいました。このことに対する悔い改めという意味でも、村の活動者は村人たちが彼ら自身の話し言葉を愛せるように努めるべきです。
 また、彼はインドで話されている他のあらゆる言語についても同じように敬意を持つでしょう。そして、自分が将来赴任するかもしれない地方の方言を学ぼうとするでしょう。そうすれば、そこの村人たち自身の話し言葉を尊重しながら、その言語によって彼らの心を動かすことができるようにるからです。
 ・・・
                       
  

 言語についてのガンディーの話の続きです。
 「インド国民が一つの国民として統合されるためには共通言語が必要である」と彼は述べていましたが(1359)、決して各地域の方言を廃止して標準語に統一すべきだというわけではないのです。
 それどころか、各地域の話し言葉には十分な敬意を払うべきだと彼は言っています。そして、村の活動者たちにもインドの多様な言語を学ぶことを強く推奨するのです。
 当時、インドはイギリスの植民地であり、またイギリスは世界の超大国だったので、インドの知識人たちも熱心に英語を学んでいたようです。ガンディー自身も、イギリスに留学して英語による高等教育を受けているのです。しかし、インドが自立した国になるためには英語を過度に重視してはいけないと彼は考えるようになっていたのです。(683)
 それから・・・
   
国民の言語。 [2025年02月08日(Sat)]
(1359)
 一つの国民が存在できるようになるためには、共通の言語が必要です。
 ヒンディー語とウルドゥー語の間で生じている論争に心を煩わせることなく、村の活動者はヒンドゥー教徒にもイスラム教徒にも理解できるような国民の言語についての知識を持つようにすべきです。
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 村の活動についてのガンディーの話の続きです
 国民の健康(1358)の次に、彼は言語の問題を取り上げます。
 インドにはたくさんの言語がありますが、「インドに住む人たちが一つの国民になるためには、共通言語が必要である」とガンディーは言います。
 ヒンディー語は、北インドで話されていたヒンドゥー教徒の言語です。文字は、インド固有のデーヴァナーガリー文字が用いられます。
 ウルドゥー語は、北インドの口語の文法をもとにアラビア語・ペルシア語などイスラーム圏の語彙を加えることによってできた言語です。アラビア文字で表記されます。これは、イスラム教徒の間に広まっていました。
 ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の融和と共存を目指したガンディーは、ヒンディー語とウルドゥー語を融合させた共通語として「ヒンドスターニー語」というものを提唱していたのでした。(712)
 しかしながら、彼は決してそれ以外の地方の言語を否定したわけではありません。
 それどころか・・・
スワラージは、不健康な国民には勝ち取ることができない。 [2025年02月07日(Fri)]
(1358)
 スワラージを勝ち取るためには、国民が不健康であってはいけません。
 ですから、国民の健康問題を私たちはもうこれ以上放置し続けてはいけないのです。
 すべての村の活動者は、健康のための一般原則に関する知識を持つようにしてください。
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 村の活動についてのガンディーの話の続きです
 女性差別の解消(1356)の次に取り上げられる問題は、国民の健康です。
 スワラージとは自治のことですが、ガンディーが用いる「スワラージ」という言葉の意味は非常に広範で深遠なものです。(37)
 そのスワラージのためには国民が健康でなければならないと彼は言っています。その意味は、
国民ひとりひとりの健康だけではなくて社会全体の健康も含まれているのではないかと思います。
 それから、・・・

女性の抑圧はアヒンサーの否定である。 [2025年02月05日(Wed)]
(1357)
 女性を抑圧することはアヒンサーを否定することです。ですから、すべての村の活動者は女性をそれぞれの場合に応じて自分自身の母、姉妹、あるいは娘だと思うようにしてください。そして、十分な敬意を持って女性を見るようにしてください。そのような活動者だけが、村人たちの信頼を得ることができるのです。
 ・・・

 

 女性差別解消についてのガンディーの話の続きです。(1356)
 ここでは、「女性の抑圧はアヒンサーの否定である」と彼は言っています。
 アヒンサーとは不殺生という意味で、絶対的な生命尊重、徹底的な非暴力です。(38)決して直接的・肉体的な暴力を振るわなければ良いということではなく、いかなる差別も、抑圧も、搾取も、疎外も、誰かの人間性を否定することはすべてアヒンサーに反することなのです。
 そして、彼は具体的な助言として、「すべての女性を、あなたにとって大切な肉親と思いなさい」と述べるのです。
 それから、さらに続けて・・・
   
女性と男性は平等でなければならない。 [2025年02月04日(Tue)]
(1356)
 女性は男性の良き伴侶であると言われます。
 ですから、女性が法的に男性と同じ権利を持たない限り、また女の子が生まれた時に男の子が生まれた時と同じ祝福が家族から与えられるようにならない限り、インド社会は部分的に麻痺した状態にあるということを我々は知らなければなりません。
 ・・・.
 


 村の活動についてのガンディーの話の続きです
 教育(1354)の次は、女性差別の解消に彼は言及しています。
 彼の思想は明らかに保守的ですが、女性の権利に関して言うとかなり進歩的です。すなわち、「女性も男性も、法的に完全に同じ権利が与えられるべきである」と断言するのです。
 そして、法的にも、また人々の意識の上でも、女性に対する差別がなくならない限り、インドの社会は不健全であるという認識を示すのです。これは、すべての人が尊重され、能力を伸ばし、能力を発揮することができなければ、社会の健全な成長も調和的発展も決して実現しないということを示唆しているのだと思います。
 そして、さらに・・・
 
成人教育について。 [2025年02月03日(Mon)]
(1355)
 当然のことながら、子どものための基礎教育の後には成人教育が続くことでしょう。
 この新しい教育が根付いた所では、その教育を受けた子どもたち自身がその親の教師になるでしょう。
 いずれにしても言えるのは、村の活動者が成人教育にも取り組まなければいけないということです。
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 教育についてのガンディーの話の続きです。
 彼は近代的な学校教育には大変批判的で、そのアンチテーゼとして「ナイ・タリム(新しい教育)」というものを提唱しています。(1354)
 その対象として考えられるのはやはりまずは子どもなのですが、成人教育の必要性も決して軽視されているわけではありません。特に、この時代のインドの村人たちは子どもの時にほとんど教育を受けていなかったでしょうから、なおさら成人教育の重要性は無視できなかったでしょう。
 しかし、その教育の担い手としてガンディーが考えているのは公務員の教師ではなく、ボランティアの村の活動者だったのです。
 それから、次に彼が取り上げる社会課題は・・・
 
新しい教育の担い手として・・・。 [2025年02月02日(Sun)]
(1354)
 新しい教育、つまりそれは基礎的な教育のことですが、それを導入しない限りインドにいる何百万もの子どもたちを教育することはほとんど不可能です。
 しかしながら、この考えは一般にはまだ受け入れられていないようです。
 ですから、村の活動者はこの新しい教育についての理解を深め、自分自身が教師となって村の子どもたちの基礎的な教育に当たらなければなりません。
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 村の清潔について語った後、ガンディーの話題は教育に移ります。
 彼は、教育についても強い問題意識を持っていました。彼の教育論は、「ナイ・タリム(新しい教育」として第13章で詳しく述べられていました。
 それは、書物による教育ではなく生産活動(特に手工芸)を通じた教育です。無機的な知識を増やすための教育ではなく、生活や職業の中で生かされる豊かな人間的知恵を身に着けるための教育です。
 村の活動者には、その「新しい教育」の担い手としての役割も求められるのです。
 そして、続けて彼は・・・

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