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国民会議も、弁護士なしではやっていけない。 [2019年05月25日(Sat)]
(478)
 それから、その、あなたが大いに称賛していた国民会議だって、弁護士たちの貢献がなければ組織を維持することも活動を継続することもできないのではありませんか?



 ガンディーの弁護士批判に対する若い読者の反論の続きです。
 確かに、国民会議の歴史的意義をガンディーはとても高く評価していました。(第2章の(58)など)
 これに対して、急進的な若者は穏健的な国民会議に対してかなり不満を持っていたのです。それが、ここでは国民会議を肯定的に評価し、その国民会議の中で弁護士が大きな役割を果たしていることをガンディーへの反論の根拠にしています。対話の中で、若者の考えも変化したのでしょうか。
 そうだとすれば、「あなたのお話を聞いて、ぼくも国民会議の意義を見直したのですよ。それなのに、その国民会議の中で重要な地位を占めている弁護士をそんなに悪く言うとは一体どういうことなのですか?」というような気持ちだったのかもしれませんね。
 さらに、若い読者のガンディーへの抗議は続きます。
 ・・・
貧しい人々の弁護を無料で・・・ [2019年05月24日(Fri)]
(477)
 例えば、故マンモハン⁼ゴース氏は、貧しい人々の弁護を無料で引き受けていましたね。



 弁護士を高く評価する若い読者の主張の続きです。
 弁護士は、貧しい人たちを保護し、社会正義の実現を確かなものにしてくれる(476)と述べた後、ゴース氏という弁護士の名を挙げます。この人が誰なのかは断言できないのですが、多分ベンガル出身の弁護士のマンモハン⁼ゴース(ゴーシュ) (1844-1896)のことではないかと思います。彼は、インド国民会議の創設者の一人でもあったそうです。
 いずれにしても、貧しい人たちの弁護を無料で引き受ける良心的な弁護士もいたのは事実でしょう。それはやはり、社会正義の実現と弱者救済に対する彼らの使命感の表れであったというのは確かに言えることなのではないかと思います。
 さらに、彼は続けて・・・

もしも弁護士がいなければ・・・。 [2019年05月23日(Thu)]
(476)
 もしも弁護士がいなければ、誰がぼくたちに独立への道を示してくれるのでしょうか? 誰が貧しい人たちを保護するための活動をしてくれるでしょうか? そして、誰が社会正義の実現を確かなものにしてくれるでしょうか?



 「弁護士たちは、インドを奴隷の国にしている(474)」と主張するガンディーに対する若い読者の反論の続きです。
 この若者にとっての弁護士とは、法律に関する高度な専門知識を活用して社会正義の実現に寄与するという崇高な使命を持った人々と考えられているようです。日本の弁護士法第1条に書かれている「基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とし、その使命に基いて誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力する」という精神とまったく同じですね。
 特に、この当時のインドの状況としては「イギリスからの独立」「貧困に苦しむ人々の保護救済」「社会正義の実現」が早急な解決が切実に求められる重要課題であり、そのためには弁護士の力が必要不可欠であると若者は考えているのです。
 さらに・・・
批判するのは簡単だが・・・。 [2019年05月22日(Wed)]
(475)
<読者>
 あなたが主張するような批判はただ口に出して言うだけなら簡単です。しかし、あなたは自分の主張が正しいということを一体どうやって証明するのですか? それは恐らくとても難しいのではないかと思います。



 弁護士は「インドを奴隷化し」、「ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を激化させ」、「イギリスの権威を裏付け」ている(474)と厳しく批判するガンディーに対して、若い読者は上のように極めて冷静な反応をします。
 確かに、何の根拠もなくただ非難・糾弾・告発するだけなら、それは誹謗中傷と変わりません。「弁護士はこのような悪い影響をインド社会に与えている」と主張するのであれば、どのような理由で、あるいはいかなる根拠によってそのように言えるのかを明らかにしなければなりません。
 つまり、ガンディーが弁護士を批判するのであれば、どうしてそのような主張が成り立つのかを証明する責任がある。もしも証明できないのであれば、決して軽々しくそれを口に出すべきではないのではないかということです。
 もっともな意見だと思います。さらに・・・
弁護士たちは、インドを奴隷の国にしている。 [2019年05月21日(Tue)]
(474)
 私の確固たる意見を述べますと、弁護士たちの働きはインドを奴隷化し、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の意見の衝突を余計に激化させ、そしてイギリスの権威を裏付ける結果になってしまっています。


 
 (473)のような経緯で、2人(若い読者と編集長(ガンディー))の会話のテーマは「インドにおけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立」から「弁護士」に移ることになりました。
 というわけで、いよいよここから本格的にガンディーの弁護士批判が始まります。彼自身も弁護士なので、これは自己批判でもあると言えそうです。
 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命としているそうです(弁護士法1条1項)。具体的には、刑事事件で被疑者や被告人の弁護をしたり、民事事件(家事事件、商事事件、労働事件、行政事件など)で法律相談、和解・示談交渉、訴訟活動や行政庁に対する不服申立てといった法律事務などを行っているそうです。
 しかし、どうしてその弁護士が「インドを奴隷化し」、「ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を激化させ」、「イギリスの権威を裏付ける」ことになるのでしょうか?
 これに対して若い読者は・・・
あなたの質問は、私たちの議論が次のテーマに移るきっかけを作ってくれました。 [2019年05月20日(Mon)]
(473)
<編集長> 
 あなたが驚くべきことと呼ぼうが呼ぶまいが関係ありません。とにかくそれは真実なのです。
 しかし、あなたの質問は私たちの議論が次のテーマに移るきっかけを作ってくれましたね。すなわち、私が以前に示唆していた弁護士と医者についてです。



 「2人の人がけんかをした時は法廷に行くべきではない」という編集長(ガンディー)の発言を驚くべきことと表現した(472)若い読者に対して、ガンディーは上のようにきっぱりと断言します。
 そして、この若者の質問をきっかけにして議論のテーマを変えるようです。だから、前回から新しい章(第11章 インドの状態(続き) 弁護士)に移っているのです。
 確かに、ガンディーはインドに最も多大な害を与えているものとして「鉄道」「弁護士」「医者」の3つを挙げ、初めに鉄道に対して徹底的な批判を加えた後、「次は弁護士と医者について述べたい」と言っていたのでした。けれども、若い読者が「どうしても、インド人の中の宗教対立について語って欲しい(387)」と非常に熱心に食い下がったので、その前に「ヒンドゥー教徒とイスラム教徒」についての1章が挿入されていたのです。
 さて、・・・
けんかをしたら、法廷に行ってはいけない。 [2019年05月19日(Sun)]
第11章 インドの状態(続き) 弁護士
(472)
<読者>
 あなたがおっしゃることは、つまり、2人の人がけんかをした時は法廷に行くべきではないということですね。この発言にはすっかり意表を衝かれてしまいました。


 
 「たとえけんかをしたとしても、法廷に訴えたくはありません(470)」というガンディー(編集長)の発言を聞いて、若い読者はすっかり驚いてしまったようです。
 彼は、ナショナリズムの志に燃える若いインド人ですが、ヨーロッパの文化や文明にも相当影響を受けています(190)。だから、きっと彼はこのように思ったのではないでしょうか?
 「でも、そもそも法廷というものは人々の間の争い事を公平に解決するためにあるのではないか。もしも、法廷に行ってはいけないのだとしたら、一体誰が争っている2人の間に入って公平な立場で裁定を下したり、あるいは和解を勧告したりするのだろう? それでは、けんかをしている2人はいつまでもけんかを続けるか、さもなくば腕力の強い方が勝利して一方的に自分の言い分を通してしまうことになってしまのではないか?」
 さて、この問いに対してガンディーは・・・
争い事をしている人は、正気を失っている。 [2019年05月18日(Sat)]
(471)
 2人の人が争っているということは、その両方とも、あるいは少なくとも一方が正気を失っている証拠です。
 そんな時、2人の間に一体どうやって第三者が公正な裁定を下すことができるのでしょうか?
 争っている2人の当事者は、結局双方共に痛い目に遭うことなってしまうのではないでしょうか?


 
 「たとえ私たちがけんかをしたとしても、決してイギリス人に助言を仰いだり仲裁を求めたり、あるいはいかなる法廷にも訴えたくはありません(470)」と述べた後、ガンディーはその発言の趣旨をこのように説明しています。
 つまり、争っている当事者は多かれ少なかれ冷静な判断力を失っている。((469)では、「怒りに我を忘れると、人間はいろいろと愚かなことをしてしまうものです」と言っていましたね)だから、それに乗じて第三者が仲介または仲裁する振りをしながら実際には自らの利益になるように事態を誘導してしまうこともしばしば起こるだろう。
 この場合は、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の紛争にイギリスの介入を許したら、結局イギリスが利益を取り、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒は共に大きな不利益を被ることになるだろうとガンディーは指摘しているのです。
 日本のことわざで言えば、「漁夫の利(両者が争っているのにつけ込んで、第三者が利益を横取りすることのたとえ)」ですね。これは、中国の古典「戦国策」から来ている故事成語だそうです。英語でも、"Two dogs fight for bone, and the third runs away with it."ということわざがあるそうです。
 さて、これを聞いた若い読者は・・・
たとえけんかをしたとしても、法廷に訴えたくはありません。 [2019年05月17日(Fri)]
(470)
 しかし、たとえ私たちがけんかをしたとしても、決してイギリス人に助言を仰いだり仲裁を求めたり、あるいはいかなる法廷にも訴えたくはありません。
 


 「ヒンドゥー教徒とイスラム教徒がこの先もう二度と戦うことはないだろうとは私も思いません(467)」と現実的な認識を示した後、「では、実際に争いが起こってしまったらどうするのか?」という問題についてガンディーは話を展開します。
 「イギリス人の助言や仲裁を求めない」という主張は、「パクス=ブリタニカ(イギリスによる平和)を否定する見解を示していたこと(308)などから理解できます。恐らく、「インド人同士の問題はイギリス人の力を借りずにインド人自身の努力によって解決しなければならない。そうでなければ、決して真の自治など獲得できないだろう」と彼は言いたいのではないかと思います。
 しかし、法廷に訴えることまで否定しているのはどういうわけでしょう? ガンディーはイギリスに留学して法律を学び、弁護士の資格を取り、そして南アフリカで実際に弁護士の仕事をしていたのです。そのガンディーがこのように言うのは、完全に自己否定、自己矛盾なのではないでしょうか?
 ・・・
人間、怒りに我を忘れると・・・。 [2019年05月16日(Thu)]
(469)
 怒りに我を忘れると、人間はいろいろと愚かなことをしてしまうものです。こういうことについては、私たちは我慢して大目に見なければなりません。



 インドにおけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立についてのガンディーの話の続きです。
 対立でなく相互理解と相互尊重、そして寛容と協調を強く主張するガンディーですが、その一方で、「ヒンドゥー教徒とイスラム教徒がこの先もう二度と戦うことはないだろうとは私も思いません(467)という非常に現実主義的な判断もしています。
 つまり、人間の弱さや愚かさも、彼はしっかりと直視しているのです。特に、怒りの感情は人間から理性を奪ってしまいます。そのような怒りと理性喪失の連鎖が、激しい対立や闘争につながってしまうことも残念ながらしばしばあるのです。
 だからガンディーは、「決して、人生の中でただの一度も怒らないようにせよ」とは言いません。もちろん怒りの感情に身を任せないように精神性を向上させる努力はすべての人がした方がいいのですが、それでも時には、あるいは頻繁に、怒りの感情にとらわれてしまうのが人間なのです。そして、そのように怒りの感情にとらわれてしまった人に向かって、「落ち着いて、常に広い視野で物事を見よ。感情を抑制し、理性を保て」というのも無理な話です。
 そこで彼は、「怒りのために理性を失ってしまった人がいたとしたら、周囲の人々はなるべくそれを大目に見て許してやるべきだ」と言うのです。
 さらに、この後に続けて彼はまた新たな問題を提起します。それは・・・