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それは、私だけの意見ではありません。 [2019年07月05日(Fri)]
(518)
<編集長>
 私があなたにお示しするのは、決して私だけの独自の見解ではありません。私は他の人々の主張から学んで、それを自分の意見として取り入れたのです。
 弁護士についての批判も医者に対する批判も、西洋の著述家たちは私よりもずっと過激な言葉を使って述べています。



 いよいよ、ここからガンディーの医者批判が始まります。(お医者さん及び関係者の皆さん、本当に申し訳ございません。大変遺憾ながら、以後しばらくガンディーの医者批判を紹介しなければなりません)
 が、本論に入る前置きとして、今から語る内容が決して自分だけの考えでないことを彼は強調しています。
 ここで言われている「他の人々」というのが誰を指すのかは不明ですが、恐らく(188)で言及されていたイギリスの文明批判の本の著者たちのことを指しているのではないかと思われます。
 だとすれば、ガンディーの医者批判は医療一般に対する批判というよりは、近代医学に対する批判なのではないかと予想されますが、果たしてどうでしょうか?
 ・・・
弁護士という人が悪いのではなくて・・・ [2019年07月04日(Thu)]
(517)
 弁護士という人ではなく、その職業こそが憎むべきものなのだということに関しては、ぼくも同感です。
 しかし、あなたは弁護士のほかに医者についても言及されていましたね。それは一体どういうことなのでしょうか?



 ガンディーの弁護士批判を聞いた結果、若い読者はその意見に賛同する気になったようです。
 この若者も、当初は「弁護士は、貧しい人たちを保護し、社会正義の実現を確かなものにしてくれる(476)」と言って弁護士という職業をとても高く評価していたのですが、ガンディーの話を聞いて認識を改めたわけです。
 そこで彼は、「弁護士のほかに、あなたは医者についても言及されていましたね」と、既に提示されているもののまだ議論されていない別のテーマについての話に移るように促しています。
 ガンディーが批判すべき対象に医者を加えていたというのは事実です。彼は、インドに最も多大な害を与えているものとして「鉄道」「弁護士」「医者」の3つを挙げていたのでした。(326)
 さて、この若者の要望を受けて、ガンディーは・・・
良い弁護士もいるのは事実だが・・・。 [2019年07月03日(Wed)]
第12章 インドの状態(続き) 医者
(516)
<読者>
 弁護士についてのお話はよく分かりました。弁護士の中に良いことをした人がいるのは事実ですが、それは弁護士という職業が良いものだからではなく、たまたま良心的な人が弁護士だったに過ぎないのですね。



 ガンディー(編集長)の弁護士批判を聞いた若い読者の反応です。
 彼も最初はガンディーの意見に納得せず、貧しい人々の弁護を無料で引き受けたマンモハン⁼ゴース氏の例(477)などを挙げて強く彼に反駁していたのでした。
 しかしガンディーは、「弁護士が良いことをした事例を挙げることはもちろん可能だが、それは彼らが弁護士であったからなされたというよりは彼らの人間性によって生み出されたものだ」という論理で自説を正当化したのでした(482)
 この主張を若者は全面的に受け入れたようです。それで、ここから新しい章に入るのですが、その前に若い読者は弁護士についての現時点における自己の見解を表明します。
 それは・・・
弁護士と裁判官は持ちつ持たれつ。 [2019年07月02日(Tue)]
(515)
 もちろん、私が弁護士についてお話ししたことはそのまま裁判官にも当てはまります。
彼らはまったくの同類であり、互いに持ちつ持たれつの間柄だからです。



 これまでかなりの言葉を費やして弁護士に対する批判を展開してきたガンディーですが、この批判は弁護士だけに向けられたものではなく、近代国家の司法制度が人民支配の道具になっている、つまり、それが国家権力の法の支配の下に人民を置く役割を果たしているという主張なのでした。(509)
 だから当然、弁護士だけでなく裁判官にもまったく同じ批判が向けられることになるのです。
 これで、長かった弁護士批判の章(第11章)は終わりです。
 さて、次の話題は・・・
魚が水に慣れ親しむように、互いに争い合うことや法廷に訴えることに慣れ親しんでいる。 [2019年07月01日(Mon)]
(514)
 私たちは、まるで魚が水に慣れ親しんでいるように互いに争い合うことや法廷に訴えることに慣れ親しんでいます。
 そして、私たちがそう思い込むようにさせるための有効な手段として働いているのが弁護士なのです。


 
 ガンディーの司法制度批判の続きです。
 彼は、「たとえけんかをしても、法廷に訴えるべきではない」と言っています。それは、イギリスの法律に依拠して紛争解決を図るということは、結局イギリスによる支配とインド人の従属状況を強化・固定化してしまうからというのが主な理由でした。
 しかし、多くの人々はけんかをすると弁護士の所へ行き(485)、その解決や裁定を法廷にしてもらおうとすると深く慨嘆していたのでした。
 そのことを、ここでは「まるで魚が水に慣れ親しんでいるように互いに争い合うことや法廷に訴えることに慣れ親しんでいます」と彼は表現しています。これはなかなか上手な比喩だと思います。それは、魚が水に親しみ、水を必要としているだけでなく、周囲に水が存在する状況を当然と感じ、それどころか自分のまわりに水があることも、自分が水に依存していることも、ほとんど意識しなくなっているのと同じように、人間も争い合うことや法廷に訴えることを当然と感じているようだからです。
 さらに、ガンディーは・・・
もしもすべての弁護士が自主的に廃業すれば・・・。 [2019年06月30日(Sun)]
(513)
 もしもすべての弁護士が自主的に廃業すれば、そしてそのような仕事は性の商品化と同じくらい人間性に反していると考えるようになれば、イギリス人によるインド統治はもはや一日でさえ維持することはできなくなるでしょう。



 ガンディーの弁護士批判もいよいよ佳境に入って来ました。これまで彼はかなり厳しく弁護士を批判していましたが、決して弁護士たちが憎いのではなく、弁護士という仕事がイギリスのインド支配の中で重要な役割を果たしていて、結果としてその植民地支配への加担につながっていることを問題視しているのです。
 ここで面白いのは、ガンディーが弁護士たちに自主廃業を勧めていることです。つまり、彼は弁護士という仕事がインドの自治にとって有害であると確信を持って述べていましたが、決して弁護士たちを敵だと考えていたわけではないのです。弁護士たちがその職業を放棄すれば、彼らも味方になるという考えです。
 さて、このガンディーの提案は、日本で言うところの「サボタージュ」に近いと思います。サボタージュとは、労働争議の戦術としての怠業、つまり労働者が一致団結して自分たちの仕事を放棄することです。これは、「サボる」という造語の語源でもあるそうです。ただし、もともとのフランス語のサボタージュ(sabotage)は、「怠ける」という意味ではなくて破壊活動・妨害行為のことなのだそうです。
 さて、「弁護士という職業は性の商品化と同じくらい人間性に反する」と表現した部分は、原文でははるかに強烈で、「弁護士という仕事は娼婦・売春婦と同じくらい下劣だ」となっています。これは、(137)」でも使われていた不適切表現です。このような側面がガンディーの感覚の中にあるのは残念ながら事実だと言えるでしょう。
 そして、・・・
弁護士という職業がどのようにして作られたのか? [2019年06月29日(Sat)]
(512)
 そもそも弁護士という職業がどのようにして作られたのか、そしてどういう理由で彼らが尊敬や好意を受けるようになっているのか、これらのことをあなたはよく理解するべきです。そうすれば、きっとあなたも彼らのしている仕事に対して私と同じような嫌悪感を抱くようになるでしょう。


 
 「司法制度はイギリスがインド人民を支配するための道具になっている。そして、その機能を果たすための制度の担い手としてインド人の弁護士が必要になったのだ」というガンディーの主張(509)の続きです。
 さて、これについては次のような反論がありうるでしょう。
 すなわち、「司法制度は国家権力が人民を支配するための手段ではなく、反対に国家権力の濫用から人民の権利を守るためにあるのだ。特に、弁護士はそういう役割なのではないか。だから、弁護士を権力と共に人民を支配する側ととらえるガンディーの見解は誤解ではないか」というものです。
 もちろん、民主的に設立され、民主政治の諸制度が形式だけでなく常に正しく機能している政府の司法制度であれば、そういう目的かもしれません。しかし、彼は当時のインドの政治状況に照らして、「弁護士は何のために作られたのか?」と問うているのです。
 そして、「どうして弁護士は尊敬されるのか?」とも尋ねています。それは、彼の考えに従えば、「法による支配を権威付ける、または神聖化するため。そして権力が定めた法に従うことの正当性を人民に印象付けるため」だということになるでしょう。
 ですから・・・

インド人の裁判官やインド人の弁護士がいなければ・・・。 [2019年06月28日(Fri)]
(511)
 インド人の裁判官やインド人の弁護士がいなければ、イギリス人は彼らの法にインド人を服従させ、彼らの法によってインド人を支配することができないのです。


 
 「もし、イギリス人の裁判官、イギリス人の弁護士、イギリス人の警察官しかいなかったらとしたら、イギリス帝国がその法の下に支配できるのはイギリス人だけだったはず(510)」という発言の続きです。
 これはどういうことかと言うと、まず第一に言葉が通じないことが多いので、イギリスの法制度をインド人に理解させることができないということが考えられます。また、イギリス人の数はインド人に比べて非常に少ないので、全インド人を対象とする規模で司法制度を運営することは無理だったのかもしれません。
 だから、「インド人の弁護士や裁判官がいなければ、イギリスによるインド支配は不可能だった」とガンディーは述べるのです。このことは((502)で既に述べられていましたが、それはこういうことだったのです。
 そういうわけで・・・
法の下に支配できるのは・・・。 [2019年06月27日(Thu)]
(510)
 もし、イギリス人の裁判官、イギリス人の弁護士、イギリス人の警察官しかいなかったらとしたら、一体どうなるだろうと想像してみてください。
 彼らがその法の下に支配できるのは、イギリス人だけだったはずです。
 


 イギリスの法によるインド支配についての話(509)の続きです。
 力(戦争などの物理的暴力、軍事力を背景とした間接的な圧力も含む)は、植民地的な支配従属関係を生み出すきっかけになることは確かです。しかし、暴力によって始まった支配は、常に別の暴力によってくつがえされる可能性があります。
 ですから、非常に矛盾していますが、暴力によって権力を握った支配者は、自らの統治下にあるすべての人に対して暴力による反逆・抵抗・闘争を禁じます。そして、人民間の暴力も、暴力に対する報復行為も、さらにはあらゆる私的な制裁や支配従属関係も国家権力の統制下に置こうとします。つまり、国内の秩序の維持、紛争解決に関する役割を国家が独占的に果たすようになるのです。
 さて、ここで大きな意味を持つのが法律・法令です。これによって国家権力はすべての人々を自らの管理下・統制下に置くのです。ただ、その目的は単に法を定めるだけでは達成されません。もしも国民がその法を無視したり従わなかったりすれば、法はその効力を発揮できないからです。
 それで、国家は法に違反した人に(より正確に言えば、法に違反したと国家が認定した人に)刑罰を与えるのです。
 だからガンディーは、ここで「裁判所がなければ、国家権力は人民を支配することができない」と言っているのです。そして、「仮に裁判所があったとしても、その機能を担う人たちがすべてイギリス人であれば、イギリス人を支配下に置くことしかできないのだ」と指摘するのです。
 そして・・・
法廷は人民支配の道具である。 [2019年06月26日(Wed)]
(509)
 けれども、最も肝心なことがしばしば忘れられてしまっています。それは、弁護士がいなければ法廷というものを設立することも運営することも不可能だった。そして法廷がなければイギリス人がインドを統治することもできなかったということです。



 ガンディーの弁護士批判は司法制度批判に発展し、さらに司法制度批判はイギリスの植民地支配に対する批判へと展開していきます。
 「イギリスによるインドの植民地支配を可能にしている主な力は軍事力ではない」と彼は論じていました。(260)その時は経済的な面からイギリスとインドの関係が考察されていたのですが、今度は「法による支配」についてです。
 確かに、ある政治権力が(その権力が国内にあろうが海外の宗主国にあろうが、また専制国家であろうが民主国家であろうが)国を統治できるのは、その国民が法に従うからです。そして、もしも法に従わない者がいればその人を断罪し処罰するシステムが機能するからです。だから、「そのような司法制度が機能しなければ、ある国を統治することなど不可能なはずではないか」とガンディーは言うのです。
 さらに、彼はこの問題についての検討を続けます。
 ・・・