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正しい目的を実現するためには、手段の善悪を問うのは二次的な問題である。 [2019年12月20日(Fri)]
(678)
 ぼくが言いたいのは、つまりこういうことです。
 彼らの望みは実現した。これこそが重要なのであって、そのために彼らがどんな手段を選んだかは問題ではないのではないか。正しい目的を追求するためには、どんな手段を用いてでも、たとえ暴力に訴えたとしても、それは是とされるべきなのではないか。



 「暴力に訴えてでも、インドはイギリスからの独立を勝ち取るべきだ」と主張する若い読者の話の続きです。
 彼は、イギリス人も国内における要求実現のために暴力を用いたではないかと言いました(677)。そして、暴力によって確かに彼らは自分たちの要求を実現した。この事実こそが重要なのだ。だとすれば、自分たちインド人の要求だって同じように暴力を使って実現させてもよいのではないか。これが、彼の主張です。
 これは、今まで多くの革命家が、過激な社会運動家が、テロリストが、あるいは軍事的な大国が、自分たちの暴力を正当化するためにしばしば用いてきた論理です。
 重要なのは目的であって、その目的が正しいならば、その実現のためには暴力という手段も場合によっては許されるのではないか。もちろんその目的を達成する手段も正義に則っていた方が望ましいのは当然だ。しかし、もしもそのような手段での目的達成が不可能であれば、暴力に訴えるのもやむを得ないのではないか。
 そうでなければ、正しい目的を断念し、正義に反した状態を放置するということになる。しかし、それが正義であるとは言えないだろう。だから、最善ではないとしても、目的が正しいならば暴力という悪も言わば必要悪として是認されるべきなのではないか。
 つまり、こんなふうに若者は言いたいのでしょう。
 さらに、彼は続けて・・・
求めていたものを、彼らは実際に手に入れた。 [2019年12月19日(Thu)]
(677)
 もちろん、彼らが手に入れたものは彼ら自身を幸福にするものではなかったとあなたはおっしゃるでしょう。
 それは分かっています。でも、ぼくにとって重要なのはそのことではありません。たとえ無益なものを望んだのだとしても、実際に彼らはそれを手に入れたということなのです。



 「暴力に訴えてでも、インドはイギリスからの独立を勝ち取るべきだ」と主張する若い読者の話の続きです。
 彼は、イギリス人も国内における要求実現のために暴力を用いたではないかと言いました。
 しかし、「悪によって善がもたらされることはない(665)」というのがガンディーの見解だったので、当然予想される反論を予測して、若い読者は上のように述べるのです。
 要するに、要求を実現する手段としての有効性だけを自分は問題にするのだと彼は宣言するわけです。得られたものが有益だったかどうかは別として、とにかく彼らは暴力によってそれを手に入れることに成功したではないか。だとすれば、有益なものを獲得するためにも同様に暴力は有効と言えるのではないか。きっとそう言いたいのでしょうね。
 そして・・・
あなたの話は矛盾しています。 [2019年12月18日(Wed)]
(676)
<読者>
 お気付きになりませんか?
 あなたが今おっしゃったことは、それ以前の主張を自ら否定するようなものですよ。
 まさにその通り、イギリス人たちは国内において彼らの要求を実現させました。それが暴力を用いた結果であることは、あなたもご存じのはずです。



 いろいろな観点から暴力の行使について反対していたガンディーでしたが、「私たちが暴力を用いるのは、それによって自分以外の人々にある行動をさせることができると考えるからだ(675)」と、一見、暴力の有効性を認めるような発言をします。
 そこで、すかさず若い読者が上のような反応をしたわけです。
 確かに、暴力は相手の身体に実体的な力を加えて大きな苦痛を与えたり、傷付けたり、あるいは生命を奪うことさえできます。実際に暴力を振るわなくても、暴力を背景にした威嚇や脅迫も効果を発揮することができるでしょう。
 この場合、インド人が自分たちの自治・自由・独立を要求しようとしている相手はイギリスなのですが、そのイギリス人も、国内においては暴力によって自分たちの要求を実現してきたではないかと若者は言います。これは、内戦になった清教徒革命や、しばしば暴力を伴った労働運動などのことを指していると思われます。
 さらに、若者は・・・
暴力は、相手の意志に反した行動をするように強制するための手段である。 [2019年12月17日(Tue)]
(675)
 なぜ、私たちは暴力を用いるのでしょうか? それは、暴力によって自分以外の人々にある行動をさせることができると考えるからです。



 「恐怖によって得られたものは、その恐怖が続く間しか保てない」ということを、ガンディーは泥棒のたとえ話を用いて説明しました。(674)
 しかし、それに続いて、今まで述べていたことと矛盾するようなことを語り始めました。
 けれども、よく考えてみれば必ずしもこれは矛盾ではありません。ガンディーが指摘していたのは「恐怖による行動の強制は持続性がない」ということであって、言い方を変えれば、恐怖から逃れるために服従を選ぶような人に対しては少なくとも一時的には効果があるわけです。
 とは言っても、だから暴力を用いることが短期的には手段として認められるとガンディーが主張しているとは到底思えません。
 果たして、彼の真意とは・・・
罰を受ける恐怖は、犯罪の抑止力になるか? [2019年12月16日(Mon)]
(674)
 もしも私が泥棒だったとしましょう。そして、刑罰が恐ろしいという理由で盗みをやめたとしましょう。
 しかしその場合、自分が罰を受ける恐れがなくなったと感じられれば、きっとすぐにまた私は泥棒を始めるに違いありません。
 こういう経験は多分誰にでもあると思います。


 
 「恐怖によって得られたものは、その恐怖が続く間しか保てない(671)」と主張するガンディーと、それに疑問を呈する若い読者との対話の続きです。
 ここでまた、ガンディーはたとえ話を用いて説明します。
 確かに、泥棒にその犯罪行為をやめさせる手段としては「刑罰によって恐怖を与える」という方法が考えられるでしょう。しかし、恐怖による犯罪抑止は直接的な効果が期待されるかもしれませんが、人間は忘れやすいもので、強い恐怖が持続するということはあまりありません。しばらくの間捕まらなかったり、何らかの理由で刑罰を免れる見込みがあるという期待が持たれたり、「見つからなければ大丈夫」と考えたりすれば、その人は再び犯罪行為を行ってしまうかもしれません。また、刑罰を恐れない確信犯などにも効果は望めないでしょう。
 さて、こう述べた後、ガンディーは・・・。
世の中が平穏な状態に戻り、人々の心がまた鈍くなってしまうと・・・。 [2019年12月15日(Sun)]
(673)
<編集長>
 そんなことはありません。
 1857年の布告は、反乱の結果として勝ち取られたものです。それは、平和を維持するための手段でした。
 しかし、世の中が平穏な状態に戻り、人々の心がまた鈍くなってしまうと、その布告は形骸化して、もはや十分な効果を発揮することがなくなってしまいました。



 「恐怖によって得られたものは、その恐怖が続く間しか保てない」というガンディー(編集長)の意見(671)を聞いた若い読者は、「しかし、一度与えられたものが引き戻されることなんてないのではありませんか?」と疑問を呈します。
 そこで、ガンディーは上のように述べて自説を補強するのです。
 「1857年の布告」というのがどんな内容なのかは不明ですが、1857年と言えば有名な「インド大反乱(昔は「セポイの乱」と呼ばれていました)」の起こった年です。なので、反乱の後、インド民衆の不満が極度に高まらないようにイギリスが一定の配慮を行うようにしたのだと思われます。
 反乱の翌年、1858年1月にインド総督キャニングによって出されたとされるイギリス女王の布告がこれに当たるのかもしれません。そこには、「法律の施行にあたっては古来のインドの権利・慣行を重んじ、宗教への干渉を慎む・・・」などと書かれていたようです。
 しかし、それはイギリスにとってはあくまでも大規模な反乱の再発を防ぐための手段でした。だから、反乱の危機が遠ざかると、当然インド人の権利や文化の尊重などは忘れ去られていきます。もちろん一度出された法令が撤回されたりすることはあまりないでしょうが、まったく形だけで実行されなくなることは大いにありえます。
 そういうわけで、「恐怖によって得たものも、その恐怖を相手が感じなくなれば実質的には失われてしまう」とガンディーは言うのです。
 さらに、彼は・・・
一度手に入れてしまえば、失うことはない。 [2019年12月14日(Sat)]
第16章 暴力
(672)
<読者>
 そんな説を聞くのは初めてです。恐怖によって得られたものは、その恐怖が続く間しか保てないなんて。
 しかし、一度与えられたものが引き戻されることなんてないのではありませんか?


 
 「立法参事会で部分的に選挙制度が導入された『モーリー・ミントー改革』は、インド人過激派が行ったテロ活動が影響を与えていたのではないか」という若い読者の意見に対して、ガンディーはその影響を認めます。しかし、だからと言って相手に対する威嚇や脅迫によって自分たちの要求を実現しようとすることを是とするわけではないのです。
 その理由は、「悪によって得られた力で、善をなすことはできない(666)」という原理的なものだけでなく、「恐怖によって得られたものは、その恐怖が続く間しか保つことができない(671)」という実際的な面からも述べられていました。
 ところが、このガンディーの発言に若い読者はまったく納得できなかったようで、上のように激しく異議を唱えています。
 どうやら、この論争の決着が着けられるにはまだまだ多くの対話が必要とされることになりそうですね。というわけで、ここから新しい章に入ります。
 テーマは、ずばり、「正しい目的のために暴力の行使は許されるのかどうか?」です。
 ・・・
恐怖のもとで手に入れたものは、その恐怖が続いている間しか保つことができない。 [2019年12月13日(Fri)]
(671)
 モーリー卿は恐怖のために改革を行いました。しかし、恐怖のもとで手に入れたものは、その恐怖が続いている間しか保つことができないのです。


 
 「立法参事会で部分的に選挙制度が導入された『モーリー・ミントー改革』は、ディングラなどの過激派が行ったテロ活動が影響を与えていたのではないか」という若い読者の意見に対して、ガンディーはその影響を認めるような発言をしています。(670)
 しかし、だからと言って、恐怖によって自分たちの要求が通るように相手に強いる手段を彼は決して支持しないのです。その理由は、「恐怖によって得られたものは永続的なものではない。なぜなら、それはその恐怖が続く間しか保つことができず、相手の恐怖が薄らげば、やがてその効果も失われてしまうから」だと言うのです。
 それにしても、いつの間にかこの章のテーマ(イタリアとインド)から話題がそれてきたようですね。
 というわけで、次からは新しい章に入ります。
 このガンディーの意見を聞いた若い読者の反応は果たして・・・
臆病でもあり、勇敢でもある国民。 [2019年12月12日(Thu)]
(670)
<編集長>
 イギリス人には臆病な部分と勇敢な部分の両方があります。確かに、イギリスは火薬の使用によって影響を受けやすい国だと思います。
 


 立法参事会で部分的に選挙制度が導入された「モーリー・ミントー改革」は、ディングラなどの過激派が行ったテロ活動が影響を与えていたのではないか?(669)という若い読者の意見に対するガンディーの回答です。
 イギリス人について、彼はその長所も短所も認めています。「イギリス人は勤勉で、進取の精神に富んでいます(234)」と述べていた所もありました。だから、「イギリス人は臆病だ」と一方的に否定的な評価を下したりはしません。彼は熱烈な愛国者ですが、他国民を侮辱したり敵視したりすることは決して彼の愛国心ではないのです。
 しかし、そのようなガンディーでさえも、「イギリス人は火薬の使用に影響されやすい」と言っています。ということは、若者の主張をおおむね認めているのでしょうか?
 これに続けてガンディーは・・・
人間の行動変容をもらたすものは、恐怖である。 [2019年12月11日(Wed)]
(669)
<読者>
 しかし、これらの暗殺がイギリス人たちに恐怖を与えているのは確かなのではないでしょうか。そして、モーリー卿が行った改革はまさにその恐怖があったからこそ行われたのではないでしょうか。
 そのことは、きっとあなたもお認めになるでしょうね。



 インド独立運動の過激派でテロを実行したディングラという人を、「彼は愛国者だったが、そのやり方が間違っていた。その行動の結果は祖国にとって有害無益でしかなかった」とガンディーは論評します。(668)
 これに対して、若い読者は上のように猛反論します。つまり、そのようなテロリズムがイギリス人に恐怖を与え、請願だけでは実現しなかったイギリスの譲歩を引き出すことができたのではないかと言うのです。
 モーリー卿(ジョン=モーリー 1838-1923)は当時のインド担当国務大臣です(462)だから、この改革とは、「モーリー・ミントー改革」のことでしょう。インド総督のミントーの名前が出て来ないのは、イギリスや南アフリカにいるインド人にはモーリーの方が知られていたからでしょうか?
 いずれにしても、「この改革にはテロリズムを含む過激な直接行動が確かに影響を及ぼしていたのではないか?」というのが熱心な民族主義者である若い読者の考えだったのです。
 このような反論を受けて、ガンディーは・・・