正しい目的を実現するためには、手段の善悪を問うのは二次的な問題である。 [2019年12月20日(Fri)]
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ぼくが言いたいのは、つまりこういうことです。 彼らの望みは実現した。これこそが重要なのであって、そのために彼らがどんな手段を選んだかは問題ではないのではないか。正しい目的を追求するためには、どんな手段を用いてでも、たとえ暴力に訴えたとしても、それは是とされるべきなのではないか。 「暴力に訴えてでも、インドはイギリスからの独立を勝ち取るべきだ」と主張する若い読者の話の続きです。 彼は、イギリス人も国内における要求実現のために暴力を用いたではないかと言いました(677)。そして、暴力によって確かに彼らは自分たちの要求を実現した。この事実こそが重要なのだ。だとすれば、自分たちインド人の要求だって同じように暴力を使って実現させてもよいのではないか。これが、彼の主張です。 これは、今まで多くの革命家が、過激な社会運動家が、テロリストが、あるいは軍事的な大国が、自分たちの暴力を正当化するためにしばしば用いてきた論理です。 重要なのは目的であって、その目的が正しいならば、その実現のためには暴力という手段も場合によっては許されるのではないか。もちろんその目的を達成する手段も正義に則っていた方が望ましいのは当然だ。しかし、もしもそのような手段での目的達成が不可能であれば、暴力に訴えるのもやむを得ないのではないか。 そうでなければ、正しい目的を断念し、正義に反した状態を放置するということになる。しかし、それが正義であるとは言えないだろう。だから、最善ではないとしても、目的が正しいならば暴力という悪も言わば必要悪として是認されるべきなのではないか。 つまり、こんなふうに若者は言いたいのでしょう。 さらに、彼は続けて・・・ |