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愛の力、魂の力、真理の力。 [2020年03月20日(Fri)]
(768)
 魂、または真理の力。それは、愛の力と呼んでも同じものです。

 

 さて、ここでガンディーは用語についての整理を行います。確かに、これに関しては今まで用語上の混乱が見られました。若者は、「魂の力」とか「真理の力」とか(763)言っていましたが、ガンディーは「愛と魂の力」と呼んでいました。(749)
 端的に結論を言うと、「愛の力」、「魂の力」、「真理の力」の3つはどれも同じだということです。ということは、人間の魂は宇宙の真理とつながっており、そこから沸き起こって来る感情、あるいは力こそが愛であると彼は考えているのかもしれませんね。
 そして・・・
二と二を足せば四になるのと同じように。 [2020年03月19日(Thu)]
(767)
 これは、まさしく真理である。私はそう思います。
 二と二を足せば四になる。これと同じくらい確かな真理として私はそのことを信じます。



 「我々は生きている限り慈悲の心を棄ててはならないのだ」という詩人トゥルシーダースの言葉を引用(766)した後、ガンディーは全面的な賛同の意を表してこう言います。
 なぜなら、「宗教、慈悲、愛」といった精神性こそが人間存在の根底にあるもの、そして基盤だからです。これは、疑いようのない確かな真理であると彼は言います。
 その象徴的な例がどうして「2足す2は4」なのか、「1足す1は2」ではないのか、それは分かりませんが、いずれにしても拘泥すべき部分ではありません。
 「1足す1は2」の証明は実はとても難しいのだそうですが、ガンディーにとっては数学的・論理的な意味での証明は恐らくどうでもいいのです。真理とは、むしろ感覚的に把握されるものだと考えているのではないでしょうか?
 そして・・・
 
利己心は幹、愛は根。 [2020年03月18日(Wed)]
(766)
 詩人のトゥルシーダースはこう言っています。
 「宗教、慈悲、愛。これらは木で言えば根のようなものだ。これに対して、利己心は幹である。だから、我々は生きている限り慈悲の心を棄ててはならないのだ」。



 「あなたは魂の力とか真理の力とかおっしゃいますが、そういったものに力があるなんてことは歴史上の事実によって証明されていないではありませんか」という若い読者の反論(763)に対するガンディーの再反論は、上のように詩人の言葉の引用から始まりました。
 ゴースワーミー=トゥルシーダースは、インドの詩人というか、哲学者というか、宗教家というか、すなわち聖者です。16〜17世紀の人のようです。思想的な立場は、ヒンドゥー教のヴィシュヌ派だそうです。
 利己心は、彼によれば樹木における幹のようなものだそうです。それに対して、宗教や慈悲や愛は根だと言っています。確かに、利己的な言動の方が表面に現れやすいかもしれませんね。だから、表面的な事象だけを見て、「利己心こそが人間の本質なのだ。すべての人は、ただ利己心のみに従って生きているのだ」と思ってしまう人も多いでしょう。
 しかし、人間にとって本当に根本的な部分は、利己心を超えた宗教的な心の領域にこそあるのだとこの詩人は言っています。あるいは、人間存在を支える基盤となるものとも言えるでしょう。
 そして、そのような人間としての根の部分を決して放棄してはいけないと彼は説いています。
 幹を伐っても、しばしば切り株からまた芽は新たに出て来ます。しかし、根を抜いてしまえば幹は絶対に生きていけませんね。そう考えると、人間の生命の本質は確かに幹ではなくて根の部分にあるような気もします。
 このような詩人の言葉を引用した後、ガンディーは・・・

   
悪い行為をやめさせるためには・・・。 [2020年03月17日(Tue)]
(765)
 悪いことをする人にそれをやめさせるためには、やっぱり実体的な罰が必要なんじゃないでしょうか? ぼくにはどうしてもそう思えます。
 
 

 愛と慈悲の力によって泥棒を改心させたというたとえ話によって、「愛と慈悲の力は武器の力よりも遥かに勝っている」とガンディーは結論付けました。(738)
 しかし、若い読者はそれとはまったく異なる見解を表明します。つまり、「悪い行動を改めさせるためには、実体的な罰を与えること、あるいはそのような罰を受けるという恐怖を与えることが必要だ」と彼は言うのです。
 この2人の意見の隔たりは、それぞれの人間観の違いに起因していると言えるでしょう。ですから、議論を通じてこの隔たりをなくすのは極めて困難であるように思えます。
 果たして、このような若者の異議申し立てに対してガンディーはどのように答えるのでしょうか?
 ・・・
軍事力や富の力で栄えた国はあっても・・・。 [2020年03月16日(Mon)]
(764)
 どこかの国が、その国民の魂の力によって栄えたなんて。そんな話は全然聞いたことがありませんよ。



 「愛と魂の力に比べれば、武器の力などまったく無力だ」と言うガンディーに対して、若い読者は「魂の力とか真理の力とかあなたはおっしゃいますが、そんなものが成功を収めたという実例が今までにあったでしょうか?」(763)と疑問を投げ掛けた後にこう結論を下します。つまり、ガンディーの主張は歴史的証拠に基づいていない。だから信じるに値しないと言っているのです。
 確かに、古今東西の様々な国や民族の興亡の歴史を見てみると、武力によって覇権を握った国や豊富な資源や経済力によって隆盛を誇った民族の例はいろいろ挙げられるかもしれませんが、魂の力によって栄えたと言える例があるかどうかは疑わしいようにも思えます。少なくなくとも、この若者から見れば「そんな国は今までになかった」と思われたのです。
 さらに、続けて彼は・・・
 
それは、歴史によって証明されているでしょうか? [2020年03月15日(Sun)]
第17章 受動的抵抗
(763)
<読者>
 しかし、それは歴史によって証明されているでしょうか?
 魂の力とか真理の力とかあなたはおっしゃいますが、そんなものが成功を収めたという実例が果たして今までにありましたか?



 ここから、新しい章に入ります。「愛と魂の力に比べれば、武器の力などまったく無力だ(749)」というガンディーの主張に対し、若い読者は猛然と反対意見を述べます。
 ガンディーは「愛と魂の力」と言っていますが、若者は「魂、または真理の力」と言っています。しかし、そのような用語の違いはまったく問題ではありません。(後で、ガンディー自身がそう明言しています)
 とにかく若者は、「あなたが言っていることには証拠がないじゃないか。もしもあなたの主張が正しいなら、歴史の中に一つや二つはそのような実例が見出されるはずではないか」と反駁するのです。
 そして・・・
限りない慈悲の行為。 [2020年03月14日(Sat)]
(762)
 もしもそのような限りない慈悲の行為が可能であるならば、どうぞ実行してください。
 あなたがそれを立派に成し遂げられるように私も願っています。


 
 「火の中に足を突っ込もうとしている子どもがいたとしたら・・・」という若者のたとえ話に対するガンディーの反論の続きです。
 「子どもを救うためには危険な行動を力ずくで阻止しなければならないように、悪事に向かおうとしている人を悪から救うためには、暴力を使ってでも彼の行動を阻止するべきだ」。もしもそう主張するならば、「あなたは彼のために自分の命を捧げなければならない」とガンディーは断言します(761)
 なぜなら、非暴力(アヒンサー)は彼にとって絶対的な掟だからです。やむを得ず身体的な力を行使するとしても、その対象は他人ではなく自分自身でなければならないのです。これも、ずっと前から繰り返し述べられていた彼の持論です。(438)
 というわけで、これで第16章(暴力)はおしまいです。
 次は・・・
悪に向かっている人を救うために、あなたは自分の身を犠牲にすることができますか? [2020年03月13日(Fri)]
(761)
 そうであれば、悪い行いをしている人が誰であろうと関係なく、あなたはすぐにそこへ駆け付けなければならないことになりますね。
 そして悪い子どもの場合と同じように、その人のためにあなたは自分の身を犠牲にしなければならないことになるでしょう。



 「火の中に足を突っ込もうとしている子どもがいたとしたら・・・」という若者のたとえ話に対するガンディーの反論の続きです。
 「子どもに当たるのがイギリス人であるならば、その暴力の目的もイギリス人の利益のためでなければならない。しかし決してそうではなく、それは自民族の独立のため、すなわち暴力を用いる者自身の利益のためである。だから、それは別の話である」(759)と述べた後、彼はもう1つの解釈についても言及します。
 それは、「火が象徴しているのはイギリス人の悪しき行いなのだ。イギリス人は無知のためにそのような行動に駆り立てられている。つまり、それは火の恐ろしさを知らずにそこに入って行こうとする子どものようなものだ」というものでした(760)
 しかし、そうであるなら、イギリス人に限らず悪い行いをしようとしている人がいれば、あなたはすぐにそこへ駆け付けて行って、その悪い行いを止めるための身を挺した行動を取らなければならないことになる。
 これが、ガンディーの結論です。彼の考えでは、他人の身体を傷付けようとするなら、それより先に自分自身の身体を傷付けなければならないのです。(例えば、(426)などを参照してください)
 そして・・・
 
火とは、人が無知のために近付いてしまう悪しき行いのことである。 [2020年03月12日(Thu)]
(760)
 けれそも、あなたはこのように言うかもしれません。
 「この場合、火が象徴しているのはイギリス人の悪しき行いなのだ。彼らは無知のためにそのような行動に駆り立てられている。つまり、それは火の恐ろしさを知らずにそこに入って行こうとする子どものようなものなのだ。そこで私は、その無知な子どもを力ずくでも救い出したいと思うのだ」。


 
 「火の中に足を突っ込もうとしている子どもがいたとしたら・・・」という若者のたとえ話に対して、ガンディーは次のように反論しました。
 危険な火に近付こうとする子どもの行動を力ずくで阻止しようとするのは「その子どものため」であるが、それはイギリス人に対する暴力を正当化する根拠にはならない。なぜなら、イギリス人への暴力的な闘争は決してイギリス人のためではなく、自分たちの利益のために行われるものだからだ。(759)
 確かに、その通りです。しかし、もしかすると若者は別の解釈によって再反論を試みるかもしれません。そこでガンディーは、先手を打って考えられる別の解釈についても言及します。もちろん、このような解釈による暴力の正当化も不可能であることを証明しようとしているのでしょうが、果たしてどんな論理でガンディーはそれを否定しようとしているのでしょうか?
 ・・・
そこで問題になっているのはまったく慈悲でも愛でもない。 [2020年03月11日(Wed)]
(759)
 しかし、あなたが示した例は、イギリス人には当てはまりません。
 なぜなら、イギリス人に対して暴力を用いようとするのは決して彼らのためではないからです。それは完全にあなた自身の、すなわち自民族の利益を追求した結果なのです。
 だから、そこで問題になっているのはまったく慈悲でも愛でもないのです。

 

 「火の中に足を突っ込もうとしている子どもがいたとしたら・・・」という若者のたとえ話に対するガンディーの反論(758)の続きです。
 若者の論理はこうでした。
 子どもは、危険と知らずに火に近付こうとしている。その子どもを危険から守るために、暴力を用いてでもその行動を阻止しようとする行為は是認されるはずだ。
 つまり、この場合に暴力の行使が正当化される理由は「その子どものため」ということでした。
 しかし、ガンディーはこう言います。その子どもに対する身体的な力の例をイギリス人に対する暴力を正当化する根拠として利用することはできない。なぜなら、子どもに当たるのがイギリス人であるならば、その暴力の目的もイギリス人の利益のためでなければならない。ところが決してそうではなく、それは自民族の独立のため、すなわち暴力を用いる者自身の利益のためではないか。だから、それはまったく別の話なのだ。
 さらに、彼は続けて・・・