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不正な目的のために用いている人は多いが・・・。 [2020年08月12日(Wed)]
(908)
 文字の読み書きを知るということも同じです。その知識を不正な目的のために使っている人たちを私たちは毎日のように見ることができます。しかし、それを正しい目的のために用いている人は非常に稀です。


 
 「教育とは文字の読み書きを知ることだが、それは単に手段であるに過ぎない(906)」という話の続きです。
 決して、文字の読み書きを知ることが悪いと言っているわけではないのです。問題は、それをどのような目的のために使っているかです。文字の読み書きを不正な目的のために使うとは、例えば政治家が官僚に文書の捏造や改ざんを行わせたり、あるいは官僚の方が忖度してそのようなことを行ったり、公共的な事業によって不正な利益を得たり、あるいは便宜供与によって見返りを求めたり、企業経営者が不当な商売で大儲けをしたり、労働者を搾取したり・・・いろいろあるでしょうね。
 つまり、文字を読み書きする能力は、他人を騙したり、不正や虚偽を糊塗したり、詭弁を弄したり、自己を正当化したり、自らに都合よく情報を操作したりする手段にもなるのです。
 このように、「文字の読み書きを知ったとしても、ほとんどの人間はそれを善ではなく悪のために使ってしまう」とガンディーは考えているようです。
 そういうわけで・・・
同じ手段でも、使われ方によって善にも悪にもなる。 [2020年08月11日(Tue)]
(907)
 手段は、正しく用いられることもあれば誤った使い方をされることもあります。
 ある病人を治療するのに有効だった手段は、彼の命を奪う手段にもなりうるのです。
 


 「教育とは、手段に過ぎない(906)」と述べた後、ガンディーはこのように続けます。
 確かに、ある手段の善悪や是非については、それがどんな結果をもたらしたかによって評価されるべきでしょう。しかし、同一の手段が常に同一の結果をもたらすとは限りません。ガンディーが指摘するように、使い方によってその手段を用いた結果も大きく変わってしまう可能性があるのです。
 ここでまた、たとえを使って彼は語ります。「病人を治療する手段」とは、投薬や手術や、その他いろいろな治療法のことでしょう。もちろん、それらが効果を発揮して病気を治癒させたり症状を緩和させたり病気の進行を遅らせたりすることはあるでしょう。しかし、同じ治療法を用いたとしても、その用い方、タイミング、病気の特性、患者の状態などによって、結果は大きく変わってくるはずです。場合によっては、不適切な治療によって病気がかえって悪化したり、深刻な副作用が生じたり、最悪の場合は患者を殺してしまうこともあるでしょう。
 こう述べた後、ガンディーは・・・
教育とは、手段に過ぎない。 [2020年08月10日(Mon)]
(906)
 さて、「教育」という言葉が意味するものは果たして何でしょうか?
 それは、簡単に言えば文字の読み書きを知るという意味です。つまり、教育とは単に手段であるに過ぎないのです。



 教育についての議論の続きです。教育を重視し、「この国において義務教育を求める運動が起こっていることに大変注目している(900)」と述べる若い読者に対して、ガンディーの方は、「そのような努力はほとんどすべて無益である(903)」と教育に関して否定的な見解を表明しています。
 しかし、このままでは議論が平行線になってしまいそうなので、ガンディーはここで用語の意味を再確認するのです。教育とは、文字の読み書きを知るということだと彼は言います。これは恐らく、当時のインドで進められていた教育の具体的内容を示すものでしょう。学校教育の第一の役割は、読み書きを習得させること、すなわち識字率の向上だったのです。
 もちろん、文字の読み書きを学ぶことの意義はいろいろ考えられます。しかし、それは彼が言うようにあくまでも手段であり、目的ではないのです。
 これに続けてガンディーは・・・
動機は善であっても、その結果は・・・。 [2020年08月09日(Sun)]
(905)
 しかし、彼らのその努力の結果、一体どういうことになるのでしょうか?
 決して期待されたような成果を生まないことは、隠しようのない事実だと思います。

 

 「何人かの偉大な指導者たちが、教育の普及を目指して努力している。その動機が純粋なものであることは疑いがない」(904)とガンディーは認めますが、その結果は決して期待通りにはならないだろうと述べています。
 「インドに教育が必要だ」というのは、教育を受ける人が増えれば、そして教育の質が向上すれば、インドの人々の可能性が引き出され、インド社会の発展や近代化につながると考えられるからです。
 教育を受けることで、人は様々な知識や能力を身につけ、また学歴や資格を手に入れることができます。それによって、職業選択の幅が広がりますし、安定的で高い収入と社会的地位を得ることも期待できるでしょう。また、交際範囲も広がりますし、より多くの情報や刺激を得ることができるようになるでしょう。つまり、教育とは幸福な人生への扉を開くものなのです。
 また、社会全体に及ぼす効果としては、科学技術や文化における進歩、生産性の向上、経済的な豊かさ、合理的な考えの普及、様々な迷信や因習の克服、より効率的で望ましい社会制度の実現などが考えられます。
 しかし、そのようなことは幻想に過ぎないとガンディーは言うのです。
 ・・・
それが純粋な動機からなされていることは疑いないが・・・。 [2020年08月08日(Sat)]
(904)
 ガーイクワード3世をはじめとして、ほかにも何人かの偉大な指導者たちが、教育の普及を目指して努力しています。
 それらがまったく純粋な動機からなされていることについては疑いようがありません。ですから、彼らが称賛に値するというのはその通りです。



 ガーイクワード3世は、自分の藩王国において義務教育制度を導入したそうです。(901)
 そのような取り組みを、ガンディーは「ほとんどすべて無益」と酷評していますが、決してガーイクワード3世のような指導者たちをけなしているわけでも非難しているわけでもないのです。「彼らの動機は純粋である、それは疑いようがない」と言っていますが、それは、彼らが純粋にインドのことを思って、またインド人民の生活の向上を願ってそうしていることはガンディーも全面的に認めているという意味です。だから、彼らは称賛に値するのです。
 つまり、教育の普及や充実に熱心に取り組む指導者たちの想いに共感し、その努力に敬意を払うという点では若い読者とガンディーの考えは同じなのです。ただ、「教育は本当に社会の望ましい発展や人々の生活の向上に役立つのか」という点においては大いに違う意見を持っているのでしょうね。
 さらに、ガンディーは続けて・・・

教育は、無駄な努力? [2020年08月07日(Fri)]
(903)
<編集長>
 私たちの文明こそが最高のものであると考えるなら、残念ながらこう言わなければなりません。あなたがおっしゃったような努力は、ほとんどすべて無益です。



 教育の必要性についての見解を若い読者に問われた(902)ガンディーの回答です。多分、また非常に長くなるのではないかと思います。
 どうやら、教育の普及や充実を目指す開明的な人々の努力は無益であると彼は言いたいようです。ただし、それには前提条件があります。すなわち、「我々(インド人)の文明が最高のものと考えるなら」です。
 さて、第13章 真の文明とは何か?の中で力説されていたように、「インドの文明は、世界中どこにも匹敵するものがない」というのが彼の持論です。なので、ガンディーにとっての結論はやはり、「教育の普及や充実を目指す努力は無益だ」ということになると言えるでしょう。ただし、この場合の教育とは、西洋文明を子どもたちに学ばせる教育のことです。
 さらに、続けてガンディーは・・・
すべての国民に教育を保障しようとする努力は、無意味なことなのか? [2020年08月06日(Thu)]
(902)
 しかし、このような努力もすべて無益であるとあなたはおっしゃるのですか?



 教育の必要性についてのガンディーの見解を問う若い読者の発言(900)」の続きです。
 「このような努力」とは、サヤージー⁼ラーオ⁼ガーイクワード3世が自分の藩王国において義務教育制度を導入したような、インドの民衆に教育の機会を保障しようとする取り組みのことを指しています。もちろん、この当時は学校教育などはほとんど存在していませんでした。ですから、圧倒的多数のインド人民は読み書きもできない状態のまま、年少の頃から単純肉体労働に従事したり、女性であれば結婚して因習的な家庭生活に束縛されることになったりしていたのだろうと思われます。
 若い読者は、このような状況が改善されない限りインド民衆の生活水準の改善も意識の向上も望めないし、インド社会の発展も実現できないと考えていたのでしょう。また、社会の近代化が進まなければいつまで経ってもインド人はヨーロッパ人に対する従属的な立場から脱することができないし、自分たちが求める民族の自治・独立も果たすことができないと考えていたでしょう。だから、教育の普及や充実がインドにとって非常に重要な課題だと思ったのでしょう。
 これに対して、「教育の必要性についてあなたは関心を示していないようだが、一体どう考えているのですか?」とガンディーに尋ねるのです。
 さて、この問いに対して、ガンディーは・・・
ガーイクワード3世。 [2020年08月05日(Wed)]
(901)
 サヤージー=ラーオ=ガーイクワード3世は、自分の治める藩王国に義務教育を取り入れています。この先進的な取り組みには大きな関心が寄せられていますし、ぼくたちは藩王の英断に感謝しています。


 
 教育の必要性についてのガンディーの見解を問う若い読者の発言(900)」の続きです。
 サヤージー⁼ラーオ⁼ガーイクワード3世は、インド西部のグジャラート地方にあったヴァドーダラー藩王国の君主です。とても開明的な思想の持ち主で、実行力もあったようです。彼は自分の領国内で1906年に無料の義務初等教育を導入しました。このことを、若い読者は非常に高く評価しています。彼の目には、ガーイクワード3世は模範的な啓蒙専制君主に映ったのでしょうね。
 しかし、ガンディーは一体どのように考えるのでしょうか?
 ・・・
教育の必要性について。 [2020年08月04日(Tue)]
第18章 教育
(900)
<読者>
 これまでずっと議論を重ねてきましたが、その中で教育の必要性についてあなたが説くことは一度もありませんでしたね。
 教育を受ける機会に恵まれないことをぼくたちはいつも嘆いています。だから、この国において義務教育を求める運動が起こっていることにぼくたちは大変注目しているのです。
 


 「杖を持った人が歩いていて、その目の前に突然ライオンが現れた。彼はとっさに杖を振り上げたが、何も恐れない心によって棒を手放した」というガンディーの話(899)を聞いた若い読者は、その話には特に反論することなく、急に話題を変えてしまいます。果たして、彼がガンディーの考えを理解し、完全に納得し賛同する気持ちになったのか、あるいは同意はしないがその主張を受け止めておくことにしたのか、それは分かりません。とにかく、受動的抵抗から次の話題に移ろうと思ったようです。
 その新しい話題とは、教育についてです。一般に、教育は社会の発展や人々の生活水準の向上のために大変重要なものだと見なされています。日本では、福沢諭吉の「学問のすすめ」が有名ですね。
 しかし、これまでの所では確かに教育の必要性については論じられていなかったような気がします。インドの国民形成の基盤作りのために教育問題にも取り組んだゴーカレー教授は少し出て来ましたが。(40)
 ・・・
武器を捨てる勇気。 [2020年08月03日(Mon)]
(899)
 その瞬間、彼は手に持っていた棒を地面に投げ捨てました。
 すると、本当に何物も恐れない心が自分の中に満ちてくるのが分かったのです。
 


 「杖を持った人が歩いていて、その目の前に突然ライオンが現れた」というたとえ話(897)の続きです。
 彼は、本能的に身を守ろうとして杖を持っていた手を振り上げたのですが、その時に、「自分は常日頃勇気について語っていたが、本当の勇気は持っていなかった」と反省したのです。つまり、武器を取って戦おうとするのは勇気がある証拠ではなく、反対に臆病である証拠だと考えたのです。
 そして、彼はなんと、持っていた棒を手から放して地面に捨ててしまったそうです。すると、不思議なことに、何も恐れない心が彼の心を満たすようになったそうです。
 ということは、「武器を捨てるためには勇気が必要」であるだけではなくて、「さらに大きな勇気、何も恐れない真の勇気を獲得するためには、武器を棄てなければならない」ということになります。武器を捨てる、すなわち我が身を守るための闘争を放棄するということは、生命に対する執着を捨て去るということです。だから、何も恐れない心を手に入れることができるのですね。
 この後、ライオンがどんな行動をしたのか、彼の運命がどうなったのか、それはまったく語られません。ガンディーにとっては、生きるか死ぬかよりも真実に目覚めることが大切なのでしょうね。恐らく、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」(「論語」)に通じる心境なのだと思われます。
 さて、この話を聞いた若い読者は・・・