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お勉強 (05/11)
それを消すのはもうほとんど不可能ですし、消す必要もありません。 [2018年04月02日(Mon)]
(68)
 しかし、ベンガル分割に対しては人々の間に抵抗の機運が盛り上がっていました。短期間のうちに民族感情は高まりましたし、何人ものベンガル人指導者たちがたとえすべてを失ったとしても決して屈せずに闘い抜く覚悟を決めていました。
 インド人たちは自分たちの内に秘められた力に気付きました。だから、運動は大きな火となって燃え広がったのです。それを消すのはもうほとんど不可能ですし、消す必要もありません。



 ベンガル分割についての話の続きです。イギリスが一方的に出したベンガル分割令は、インド人たちのナショナリズムに火をつけてしまいました。今までのイギリスによる不当なインド支配に対しての怒りが遂に爆発したのでしょう。
 ちょうどその頃、日露戦争で同じアジアの日本がロシアに勝利していたので、それがインドの人々に刺激を与えたということもいくらかはあったかもしれません。(日露戦争は1904年2月〜1905年9月、ベンガル分割令は1905年)
 イギリスはもちろん、インド人の声などまるで無視してベンガル分割を強行します。それでも、インドの民衆はベンガル分割反対の運動を続けたのです。それは、ベンガル地方だけでなくインド全土に広がったそうです。
 1905年11月にはカーゾン卿が総督を辞任し(ただし、ベンガル分割及びインド人の反英闘争とは無関係のようです)、ミントー卿が第4代インド総督に就任します。しかし、その後もインドの民族運動はずっと続いていたのです。
 「それを消すのはもうほとんど不可能ですし、消す必要もありません」という発言から考えると、このインドにおけるナショナリズムの高まりをガンディーは非常に肯定的にとらえているようですね。
 そして・・・
塩税は決して小さな不公正ではありません。 [2018年04月01日(Sun)]
(67)
 これは、インドでなされた他の不正がベンガル分割に比べればまだましなものだったからというわけではないのです。
 例えば、塩税などは決して小さな不公正ではありません。私たちはこれからも、このような多くの不公正によって苦しめられることでしょう。



 ベンガル分割は、イギリスによるインドの統治策の中で最大の反発を受けました。しかし、それは決してベンガル分割ほどひどい不公正がそれまで行われていなかったからというわけではないそうです。
 その中でも特に、「塩税」をガンディーは挙げています。有名な「塩の行進」は1930年に行われたのですが、それより遥かに前からイギリスはインドに塩税を課していたのですね。
 言うまでもなく、塩がなければ人間は生きていけません。その塩に高い税金を掛けるということは、徴税する方からすれば安定的で確実な良い方法かもしれませんが、税金を取られる方からすれば、まったく逃れようのない、しかも恒常的に収奪され続ける最悪の税金です。
 さらに、「塩税は著しい不公正である」とガンディーが言う理由は、その逆進性です。塩の必要量は、裕福な人でも貧乏人でも変わりません。むしろ、肉体労働に汗を流す貧乏人の方が多くの塩を必要とするでしょう。その塩に税金が掛けられれば、貧富の差はますます増大し貧困に陥った者は二度とその境遇から逃れられないことになってしまいます。
 しかも、これはインド人の意見など少しも考慮せずに支配者であるイギリスが一方的に定め、すべてのインド人に義務として押し付けたものなのです。
 このように、ガンディーはインドに対するイギリスの不公正を非常に厳しい目で見つめていたのです。やはり、彼はダーダーバーイーゴーカレーとは明らかに違った意識を持っていたのです。
 そのようなことを指摘した上で、さらに彼はベンガル分割について・・・
その日は、ベンガル州ではなくイギリス帝国が分割される日であったと・・・ [2018年03月31日(Sat)]
(66)
 彼は侮辱的な言葉を使い、強引にベンガルを分割してしまいました。
 その日は、ベンガル州ではなくイギリス帝国が分割される日であったと見なされることになるかもしれません。
 ベンガル分割令はインド人の大反発を受けました。これは、イギリスの権力が以前に発したどんな法令とも比較にならないものでした。



 「彼」というのは、ベンガル分割を行った当時のインド総督、カーゾン卿のことです。彼はインド民衆の抗議の声に少しも耳を貸さず、尊大な優越意識とインド人を見下す傲慢な態度を露骨に示しながらベンガル州の東西分割を強行したそうです。
 しかしガンディーは、「その日はベンガル州ではなくイギリス帝国が分割される日であったと見なされることになるかもしれない」と言っています。つまり、強引なベンガル分割はインド人の反感と独立意識を高め、結局はイギリス帝国からの離反を促すことになるだろう。そのようにガンディーは考えたのです。
 実際にインドがイギリスからの独立を果たすのは1947年ですから、この文章が書かれたのは約40年前です。すなわち、これはガンディーの予言とも言える言葉なのです。この時点で既に、ガンディーは「イギリスからの独立」というビジョンを持ち、それはやがて実現するはずだと見通していたことが分かりますね。
 さらに続けて、ガンディーは・・・
インド人にできるのはぺちゃくちゃと喋ることだけで、一歩だって前に進めはしないだろう。 [2018年03月30日(Fri)]
(65)
 分割令が出された時、ベンガルの人々はカーゾン卿に撤回を訴えました。しかし、彼は自分の権力を笠に着てどんな請願にも耳を貸しませんでした。
 インド人にはぺちゃくちゃと喋らせておけばいい。どうせ彼らにはそれしかできない。一歩だって前に進むことなんてできはしないだろう。そんなふうにカーゾン卿は考えていたのです。



 1905年に「ベンガル分割令」が発せられると、ベンガル州の多くの人々がこれに強く反対したのだそうです。この時のインド総督がカーゾン卿なのですが、彼はインド人の抗議にちっとも耳を傾けようとしなかったとガンディーは言います。自分の権力を笠に着て、インド人を見下す傲慢な態度を示したのでしょうね。
 当時、ガンディーはまだ南アフリカにいたので、きっとその話は現地の報道などから知ったのだと思われます。いずれにしても、インド総督カーゾン卿の強権的な政治姿勢とインド人民に対する差別意識をガンディーがとても批判的に見ていたのは間違いないでしょう。急進的な民族主義者の若い読者と比べると彼はイギリス人に好意的なのかと思いきや、必ずしもそうではないようですね。
 ガンディーもやはり、イギリス人の傲慢さや差別心にかなり腹を立てていたのです。それは、当然のことでしょう。南アフリカで、彼はイギリス人による理不尽な差別とずっと闘い続けていたわけですから。
 ベンガル分割についてのガンディーの歴史的評価はさらに続きます。
 ・・・
本当の目覚めは・・・ [2018年03月29日(Thu)]
(64)
 あなたのおっしゃる本当の目覚めは、ベンガル分割の後に起こりました。
 このことに関して言えば、私たちはカーゾン卿に感謝しなければなりません。
 


 「国民会議はインドの人々に民族的な自覚を持たせる最初の契機を作った。しかし、それはまだ本当の覚醒とは言えない。インド国民の本当の目覚めは、いつ、そしてどのようにして起こるのか?」という若者の質問に対するガンディーの答えです。ここで、章のタイトルである「ベンガル分割」が出て来ました。
 「ベンガル分割」とは、イギリスによるインド民族運動の分断策です。1905年に「ベンガル分割令」という法令が発せられたのですが、この時のインド総督がカーゾン卿なのです。カーゾン卿(ジョージ⁼カーゾン 1859-1925)はイギリスの貴族で、インド総督の後は外務大臣なども務めた人です。
 「私たちはカーゾン卿に感謝しなければならない」。これはもちろん、ガンディーの皮肉でしょう。インド人たちは、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用して反英闘争の弱体化を図ったイギリスの狡猾な分断統治策に激しく反発し、かえって民族的な自覚と連帯意識を強化したのでした。これによって、非常に体制的だった国民会議も一時は急進派(ティラクなど)が台頭して強く自治を要求するようになったそうです。(ただし、イギリスの弾圧や分断策によって再び国民会議は穏健派が主導権を持つようになりましたが)
 しかし、一度目覚めた人々の意識はもう後戻りはしないのです。だから、ガンディーはこれを「本当の目覚め」と言ったのです。
 さらに、ベンガル分割の歴史的意義について彼は詳しく・・・
地面の下の種の働きは、目に見えない。 [2018年03月28日(Wed)]
(63)
<編集長>
 地面の下の種の働きというのは目に見えないものです。そして、種そのものは土の中で朽ちてしまいます。私たちの目に見えるのは、地面の上で成長していく樹木の姿だけなのです。
 国民会議についても、これと同じようなことが言えます。



 「国民会議のお陰でインドの人々が国民という考えに気付いた。それは確かにその通りでしょう。でも、これはまだ本当の目覚めではありませんよね。インド国民の本当の目覚めは、いつ、そしてどのようにして起こるのでしょうか?」(62)という若い読者に対するガンディーの回答です。
 彼はまず、哲学的な比喩を用いて話を始めます。確かに、植物の種は土の中で芽と根を出し、そうして伸ばした芽と根が自ら栄養を作り出せるようになる頃には、種は自分の中に蓄えていた栄養を使い尽くしてそのまま土に還っていきます。植物はやがて大きく成長し、運が良ければ見上げるほどの大木に育つこともあるでしょう。しかし、どんな大木でも初めは種から出た小さな芽生えに過ぎなかったのです。そして、種の栄養を与えられなければ絶対に自らの成長を始めることはできなかったのです。
 この比喩でガンディーが何を言わんとしているかは明らかでしょう。インドのナショナリズムにとって、国民会議は種のようなものだということでしょう。種から出た芽がほんの小さなものであったとしても、その小さな芽生えがなければ大木は育たない。だから、国民会議の功績はその最初の段階における成果が不十分に思えたとしても決して過少に評価してはならない。そのように彼は考えているようです。
 さらにまた、インドの国民意識が成長していくにつれて、国民会議はやがてその役割を終えるだろうと彼は考えていたとも解釈できますね。
 ただ、この話の主題は決して国民会議ではないようです。続けてガンディーは、若い読者が言うところの「真の目覚め」について語り始めます。
 ・・・
インド国民の本当の目覚めは、いつ、そしてどのように・・・ [2018年03月27日(Tue)]
第2章 ベンガル分割
(62)
<読者>
 あなたのお言葉に従ってこの問題について考えるならば、自治の礎は国民会議によって築かれたというのは確かにその通りでしょう。
 けれども、これが本当の目覚めであるとはもちろんあなたもお考えになってはいないと思います。
 インド国民の本当の目覚めは、いつ、そしてどのようにして起こるのでしょうか?



 ここから、第2章に入ります。
 若い読者は、当時のインド国民会議の保守的な考え方や運動方針に幻滅していました。それで、国民会議などはインドの自治実現を目指すに当たって頼りになる政治勢力ではないと考えていたのです。しかし、ガンディーの懇切丁寧な説明を聞いて、「インドの人々を国民という意識に目覚めさせるきっかけを作ったという歴史的な意義は確かに認めなければいけない」ということについては納得したようです。
 けれども、それはまだ本当の目覚めではないと彼は言うのです。インドの人々は「自分たちがインド国民である」という意識をようやくかすかに持ち始めたに過ぎない。インドが自治を勝ち取るためには、さらに、「自分たちは自分たちの国を作るべきだ」「なのに、今はイギリスが不当に自分たちの国を支配している」「だから、自分たちは団結して、この国に真の自治を実現するまで戦い続けなければならない」というふうに民族意識を高めていかなければならない。きっとこんなふうに考えているのでしょう。
 そこで若い読者は、「インド国民の真の目覚めは、一体いつ、そしてどのようにしてもたらされるのでしょうか?」とガンディーに尋ねるのです。
 章のタイトルの「ベンガル分割」は、この問いの中では言及されていませんでした。ということは、ガンディーの答えの中に出て来るのでしょうか?
 ・・・
 
もしもそれを敵対的なものとして扱ってしまったら・・・ [2018年03月26日(Mon)]
(61)
 私たちが国民として成長していくために、国民会議は欠かせない存在です。
 もしもそれを敵対的なものとして扱ってしまったら、私たちはこの組織の力を自分たちの目的のために用いることができなくなってしまうではありませんか。



 「国民会議が自治の礎を築いたというのは一体どういうことか」という若い読者の質問に対するガンディーの回答の結論部分です。
 「インド国民会議の発足によってこそ、インド人は民族の自覚と自治という共通目標を持つことができた」と述べて、国民会議がインド人をナショナリズムに目覚めさせる契機になったという歴史的意義を彼は強調します。さらにその上で、ガンディーは今後のインドのナショナリズム運動においても国民会議は重要な役割を果たすべき組織であるという見解を明らかにするのです。
 もちろん、これまでの彼の言葉をていねいに読めば分かるように、決してガンディーは国民会議の指導者たちにすべての点で賛同しているわけではありません。インド人たちは彼らの方針に全面的に従わなければならないと考えているわけでもありません。しかし、「決してインド人同士の間に対立や分断を作ってしまってはいけない」と彼は説くのです。
 流石は、南アフリカでの権利回復運動に長く携わっていたガンディーです。社会運動における連帯・一致・協力の重要性を十分に彼は熟知していたのだと思います。
 これで、第1章「国民会議とそのとその議員たち」はおしまいです。
 続く第2章は・・・

私たちインド人に自治という目標を持たせてくれたのは国民会議です。 [2018年03月25日(Sun)]
(60)
 私が言えるのはこのことだけです。私たちインド人に自治という目標を持たせてくれたのは国民会議です。
 その名誉を国民会議から奪ってはいけません。そんなことをしたら、私たちは恩知らずということになります。その上さらに、私たちの目標達成さえも遅れることになってしまうでしょう。



 インド国民会議の歴史的意義について、ガンディーは上のように要約します。目指すべき自治の形態やそれを実現する方法論においては独自の考えを持っていた彼でしたが、「インド人に自治という目標を持たせてくれたのは国民会議だ」という点に関しては大いにその意義を認め、感謝すべきだと力説するのです。
 このように、自分と違った考えを持つ人についても認めるべき所はきちんと認めるというのがガンディーの基本方針です。それは、「先人の恩を忘れてはいけない」という倫理的な見地からだけでなく、「民族の自治を実現するために最も重要なのは、民族の一致団結、相互尊重と連帯だ」と彼が考えていたからでもあると思われます。確かに、独善と不寛容は民族の分断と運動の分裂をもたらすだけでしょう。それは結局、インドの自治獲得という目標達成を妨げることにしかなりません。この若い読者との対話の中でも、彼は繰り返し繰り返しそのことを強調していますね。
 というわけで、「国民会議が自治の礎を築いたというのは一体どういうことか」という若者の問いに対するガンディーの回答の結論は・・・

国民会議は、カナダのような自治政府を作ることを目指していました。 [2018年03月24日(Sat)]
(59)
 国の歳入と歳出は国民によって管理されるべきだ。国民会議は一貫してそう主張してきました。そして、カナダのような自治政府を作ることを常に願い求めてきました。
 私たちが果たしてそれを獲得できるのかどうか。あるいは、私たちが願い求めるべきなのは本当にそれなのか。より望ましい自治の形も考えられるのではないか。そういうことは、また別の問題です。


 インド国民会議についてのガンディーの話の話の続きです。
 インド国民会議は当初イギリス帝国からの独立を主張はしませんでしたが、それでも財政上の自治は一貫して主張していたと彼は言います。つまり、税制、予算の策定と執行、決算の承認などのことでしょう。
 インド国民会議がカナダを模範にしたというのはどういうことかと言うと、当時はカナダもイギリス帝国の一部であり、1867〜1951年までは「カナダ自治領」というのが正式国名だったのです。イギリス領北アメリカ条例に基づき,1867年にノバスコシア・ニューブランズウィック・ケベック・オンタリオの4州でカナダ自治領が発足し、この「ヒンド⁼スワラージ」が書かれた1909年までにマニトバ州(70年)、ブリティシュコロンビア州(71年)、プリンスエドワードアイランド州(73年)、サスカチュワン州とアルバータ州(1905年)が加わっていたそうです。
 しかし、その直後のガンディーの発言から推測すると、彼は決して「カナダ自治領こそがインドの目指すべき模範的な自治形態だ」とは決して思っていなかったようですね。このように、「自分と意見が一致しない部分があったとしても、その相手を敵対者としない。全面的に非難することもしない」というのがガンディーの基本方針なのです。
 この後、彼は自分の見解を要約して・・・