CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 小学生の疑問に答えないけど一緒に考えるゼミ | Main | 中学生の疑問に答えないけど一緒に考えるゼミ»
最新コメント
最新記事
<< 2020年01月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
最新トラックバック
お勉強 (05/11)
武装した男の持つ力とは・・・。 [2020年01月24日(Fri)]
(713)
 そして、武装した男は、私の心に怒りをかき立たせる力を持っています。
 そのせいで、我々は互いに敵同士になってしまうという、実に奇妙な状態に陥るのです。



 「泥棒が自分の父親である場合にも、武装した男である場合にも、いずれにしても彼らは私に対してある力を持っている」とガンディーは言いました。そのうち、「父親が持っている力」とは、「私に深い憐れみを感じさせ、涙を流させる力(712)なのだそうです。
 では、「武装した男」の持っている力とは何なのかと言うと、「私の心に怒りをかき立たせる力」なのだそうです。この場合の「力」も、"strength"です。若者の言っているような「相手に恐怖を与え、その恐怖によって自分の意志に従わせる力("force")」ではありません。
 確かに、武装した男はその強い暴力性によって少なからぬ恐怖を他者に与えうる存在なのですが、ガンディーにとってそれはあまり重要ではないのです。彼にとって重要なのは、「自分の心に怒りが生じること」であり、「自分たちが敵同士になってしまうこと」なのです。つまり、自分の体が傷つけられるより、自分の命が奪われることより、自分の心が罪に陥ることの方が恐ろしいことであると彼は考えているようです。
 それから、続けてガンディーは・・・
肉親に対する愛情。 [2020年01月23日(Thu)]
(712)
 私の父が持つ力は、私に深い憐れみを感じさせ、涙を流させる力です。


 
 「自分の家に泥棒が侵入した場合、大事なのはとにかく泥棒を追い出すことなのだから、どんな手段を用いるかは問題ではない」と言う若者と、「いやいや、そうではない。その泥棒がどんな人間かによって、取るべき対処法は違ってくる(709)」と主張するガンディーの論争の続きです。
 ただ、ここでガンディーは、従来の主張と少し違ったことを述べています。それは、「その泥棒が自分の父親である場合にも、武装した男である場合にも、いずれにしても彼らは私に対してある力を持っている」という主張です。
 自分の父親が持っている力とは、つまり父に対する肉親の情によって自分が極度の憐れみ・悲しみに陥り、その悲嘆のあまりに自分の財産が盗まれるのを防ごうという気力さえ失ってしまうということを指しているのだそうです。
 これも、ガンディーに言わせれば「力」なのです。ある人の感情や意志や行動に影響を与えるという意味では、確かに力であるとも言えるでしょう。若者が言っていたような、「相手に恐怖を与え、その恐怖によって自分に従わせる力」だけが力ではないのです。
 ちなみに、ここで出て来る力は"strength"、そして若者が言っていたのは"force"です。
 では、武装した男の持つ力とは・・・
私を屈服させる力とは・・・。 [2020年01月23日(Thu)]
(711)
 その理由は、第一に、私の父親が武器を持っている可能性だってあるからです。
 そして第二には、その泥棒が自分の父親である場合にも、武装した男である場合にも、いずれにしても彼らは私に対してある力を持っています。それは、私を屈服させ、自分の持ち物が盗まれるのを防ぐことさえすっかり諦めさせてしまうような力です。


 
 その直前まで、「相手が違えば、対処法も異なる」と言っていたガンディーですが、「しかし、私はこういうことも考えた」と、まったく矛盾するような話を始めます。それは、「自分の家に忍び込んだ泥棒が自分自身の父親であろうが、あるいは武装した強そうな男であろうが、いずれにしても、私は眠っているふりをするべきだ」というもの(710)です。このように、ガンディーの思考は非常に柔軟性・融通性に富んでいるのです。
 さて、その理由の第一は、恐らく多くの読者の皆さんにとっても予想外のものだったと思います。なんと、「自分の父親が、武器を持っているかもしれない」という可能性を彼は考えるのです。確かに、そうであれば、これはそもそも2つの異なる場合ではなくなってしまうのです。
 そして、第二の理由は、「父親も、武装した男も、いずれにしても私に対してある力を持っている」からだそうです。
 その力とは、果たして・・・
泥棒に入られたら、眠っているふりをしよう。 [2020年01月22日(Wed)]
(710)
 そしたまた、私はこんなふうにも思うのです。その泥棒が自分の父親であろうが、あるいは武装した強そうな男であろうが、いずれにしても、私は眠っているふりをするべきなのではないかと。
 


 「自分の家に泥棒が侵入したら、どんな方法で彼を追い出すべきかなど問題ではない。大事なのは、とにかく泥棒を追い出すことだ」と主張する若者に対するガンディーの反論の続きです。 
 さて、「相手が違えば、対処法も異なる(709)と言ったガンディーですが、その直後に別の見解も示しています。それは、「自分の家に忍び込んだ泥棒が自分自身の父親であろうが、あるいは武装した強そうな男であろうが、いずれにしても、私は眠っているふりをするべきだ」というものです。
 父親の場合は、「お互いに気まずくなるから」でしょうか、それとも、「父親と争ったり、父親を犯罪者にするのは道徳に反しているから」でしょうか?
 これに対して、武装した男の場合の理由は容易に想像できますね。恐らく、「どんな財産よりも自分の体や命の方が大事だ。戦って傷つけられたり殺されたりするよりも、眠ったふりをして盗まれるままにしておいた方がいい」ということではないでしょうか?
 ガンディーは続けて、その理由を述べるのですが・・・
相手が違えば、対処法も異なる。 [2020年01月20日(Mon)]
(709)
 このように、その相手が自分の父親である場合から武装した男である場合まで、実に様々な状況が考えられます。それによって、私たちが取るべき手段も違ってくるでしょう。



 「自分の家に泥棒が侵入したら、どんな方法で彼を追い出すべきかなど問題ではない。大事なのは、とにかく泥棒を追い出すことだ」と主張する若者(679)に対するガンディーの反論の続きです。
 つまり、「その泥棒がどんな人間なのかによって、取るべき対処法も違ってくる」と彼は言うのです。具体的に言及されていたのは、「父親」「知り合い」「見知らぬ人」「白人かインド人か」「自分より弱い相手か、同等の相手か、それとも武装した強い相手か」です。
 まあ、確かに、「相手が違えば、対処法も異なってくる」というのは当然そうだろうと思われます。
 しかし、ガンディーは・・・
もしも武装した泥棒だったら・・・。 [2020年01月19日(Sun)]
(708)
 さらに、ひょっとすると、その泥棒は頭のてっぺんから足のつま先まで完全武装で身を固めているかもしれません。
 その場合は、私は声を上げずにじっとそのまま隠れているでしょう。


 
 「自分の家に泥棒が侵入したら、どんな方法で彼を追い出すべきかなど問題ではない。大事なのは、とにかく泥棒を追い出すことだ」という若者の主張に対するガンディーの反論の続きです。
 「その泥棒が自分より弱いか、あるいは互角の強さか」によって、彼を追い出す手段は違ってくると言った(707)後、ガンディーはさらに、「もしも、泥棒が武装していたら、つまり強盗だったら?」と尋ねるのです。
 確かに、相手が強力な武器を持っている場合、彼と戦うという手段によって得られる結果は「泥棒を家から追い出す」のではなくて、「自分が殺されてしまう、あるいは大怪我を負わされてしまう」ということになる可能性が高いでしょう。もちろん、「泥棒と戦う」と主張している若者の立場に立っても、戦うことは目的ではなく手段なのですから、泥棒を追い出すという目的を達成できないのに戦って負けてしまうのでは意味がありません。
 ですから、その場合は、「声を上げずにじっと隠れている」のが賢明な対処法だとガンディーは言うのです。極めて常識的な判断だと思います。
 このように述べた後、ガンディーは・・・

戦う相手が強いか、弱いか? [2020年01月18日(Sat)]
(707)
 あるいは、その泥棒が明らかに自分より弱そうだったらどうでしょうか? 身体的強さにおいて自分と対等と思われる人間を相手にするのと、果たして同じ手段を選ぶでしょうか?
 


 「自分の家に泥棒が侵入したら、どんな方法で彼を追い出すべきかなど問題ではない。大事なのは、とにかく泥棒を追い出すことだ」と主張する若者に対するガンディーの反論の続きです。
 「その泥棒が白人だった場合とインド人だった場合で、それに対応する手段は異なるのではないか?」という指摘(706)に続いて、次は、「自分の戦うべき相手が強いか弱いかによっても、その手段は違ってくるのではないか」とガンディーはさらに問いを重ねます。
 それはまあ、確かに取るべき手段は違ってくるでしょうね。
 「これは、なかなか老獪なディベート技術だ」と感心する人もいるでしょうし、「屁理屈、揚げ足取りではないか」と思う人もいるでしょう。しかし、ガンディーの目的は決して相手を論破することではないはずです。恐らく、「厳しい闘いに臨むためには、狭い視野で単純・安易な考えに埋没・固執してはならぬ、複眼的な思考によって物事の本質に迫っていく必要がある」と言いたいのではないでしょうか?
 そして・・・
泥棒が白人だった場合とインド人だった場合。 [2020年01月17日(Fri)]
(706)
 また、もしその泥棒が白人だったとしたら、どうでしょう? あなただったら、インド人の泥棒の場合とは違った手段に訴えると言うかもしれませんね。



 「自分の家に泥棒が侵入したら、どんな方法で彼を追い出すべきかなど問題ではない。大事なのは、とにかく泥棒を追い出すことだ」と主張する若者(679)
に対するガンディーの反論の続きです。
 若者の考えでは、「とにかく重要なのは『泥棒を追い出す』という目的なのだから、『そのためにどんな手段を取るべきか』なんてことは議論を要するような問題ではない」ということなのですが、ガンディーは、「いやいや、そうではない。どんな手段を取るべきかは、いろいろな条件によって変わって来る。目的さえ達成されれば、どんな手段を用いても重要な違いは生じないというのは誤りだ」と言うのです。
 この場合、「その泥棒が白人だった場合とインド人だった場合ではどうか?」ということが問題になっています。「相手が白人だったら懲罰的に、同胞であるインド人であれば寛容的な態度で対応する」とか、「白人だったら敵対的に、インド人だったら温情的に」とか、それによって差を付けるべきだとはガンディーは言っていませんし、考えてもいないと思います。ただ、過激な民族主義思想を持ち、イギリス人に対する不信感や敵対心を表明している若者だったら、そういうことになるのではないかという指摘です。これには、若者も答えに窮してしまったのではないでしょうか?
 さらに・・・
もしも私の物を盗みに来たのが私自身の父親であったなら・・・ [2020年01月16日(Thu)]
(705)
 もしも私の物を盗みに来たのが私自身の父親であったなら、その事態に対して私はある種の手段を用いるでしょう。そうではなくて、それが誰か私の知っている人物であったとしたら、もちろん別の手段を使います。あるいは、その泥棒がまったく見知らぬ人という場合もあるでしょう。その時は、前の二つの場合のどちらとも違った手段を私は選ぶはずです。

 

 「自分の家に泥棒が侵入したら、どんな方法で彼を追い出すべきかなど問題ではない。大事なのは、とにかく泥棒を追い出すことだ」と主張する若者(679)
に対して、上のようにガンディーは反論します。
 つまり、「目的さえ達成されれば、どんな手段を選ぶかは重要な問題ではない」という考えを完全に否定しているのです。どんな手段を取るべきかは、時と場合によって異なる。だから、それぞれの状況において、「どんな手段を用いるべきか、あるいは用いてはならないか」が綿密に検討され、慎重に決定されなければならない。こうガンディーは言うのです。
 この見解の違いがどこから来ているのかと言うと、若者が「家に侵入した泥棒は追い出さなければならない」とある視点から見た単純な図式の中でしか考えていないのに対し、ガンディーの方は、「その侵入者は誰だったのか、その人は自分とどういう関係の人なのか」ということまで複合的に問題をとらえている所でしょう。
 さらに、ガンディーは・・・
泥棒を追い出すためには、どんな手段を使っても構わない。 [2020年01月15日(Wed)]
(704)
 さて、それから、あなたが提示したもう一つの例について考えてみましょう。
 泥棒を追い出す時は、泥棒を追い出すという目的を果たすことが大事なのであって、そのためにはどんな手段を使っても構わない。あなたはこうおっしゃいましたね。しかし、私はそうは思いません。



 「自分の家に泥棒が侵入したら、どんな方法で彼を追い出すべきかなど問題ではない。大事なのは、とにかく泥棒を追い出すことだ」。確かに、若い読者はそのようなことを言っていました。(679)
 「目的と手段は別の問題ではない」と強調するガンディーに対して、若い読者はまったく逆の立場です。「大事なのは目的であって、手段はあくまでも手段に過ぎない。手段の是非にこだわって目的の達成がおろそかにされるなら、本末転倒ではないか」と彼は言うのです。
 若者が言っている上述のたとえは、なかなか説得力があるような気もします。「もしも泥棒に入られたら、泥棒を追い出すことが重要だ」というのは、常識的に考えて間違いないと言えるのではないでしょうか?
 しかし、「私はその意見に不同意です」とガンディーは述べるのです。
 その根拠は、果たして・・・
| 次へ