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たこのない者は・・・ [2017年12月31日(Sun)]
(331)
 ・・・たこのない者は、人の食べ残しを食べねばならないのです。

 
 
 一年にわたって続けてきたこのトルストイ「イワンの馬鹿」研究ゼミも、遂に最終回を迎えました。
 イワンの国は、貧しいけれども豊かな国です。貧しいというのは、GDPがゼロで、しかも今後成長する見込みもまったくないからです。なぜかと言うと、イワンの国にはお金がないし、市場取引もないからです。GDP(国内総生産)には市場で取引された財やサービスの生産のみが計上されるので、市場で取引されない経済活動はGDPには含まれないのです。
 しかし、イワンの国は豊かな国です。(329)で、「わしらのところには何でもどっさりあるから」と国民が語っていた通りです。これはつまり、人々の必要・欲求が満たされているということです。確かに、この国にテレビはありません。スマホやゲームもありません。自動車も走っていないし、飛行機も飛んでいません。巨大なビルも建っていません。しかし、そんなものは誰も欲しがっていないのです。欲しくないものがないからと言って、どうしてその人が貧しいと言えるでしょうか?
 イワンの国では欲しいものが何でも手に入ります。ただし、この場合の欲求とは、限りない欲望によって誘発され、様々な社会的刺激によって増幅され肥大していくような欲求ではありません。あくまでも、各自の必要に基づく自然な欲求です。
 イワンの国では、誰でも自由に食卓につき、他の誰かが作ってくれた食べ物を食べて良かったのです。ただし、その際に守られるルールがあったそうです。それは、「手にたこのある者は食卓についていいが、たこのない者は、人の食べ残しを食べねばならない」ということでした。
 紳士に化けた老悪魔は、このことを「法律」と表現していました。しかし、この表現は適切ではありません。そう、イワンの国に法律なんてないからです。
 このルールはまさに、イワンの妹マラーニャの私的な習慣だったのです。イワン王が権力によって全国民に強制したのではなく、恐らく自然に広がっていったのだろうと思われます。
 ということは、やはりイワンの国の人々にとってそれが妥当で当然と思われたのでしょうね。つまり、働かざる者食うべからずです。(282)にも書いたように、これは元々聖書の言葉ですが、トルストイはこのような社会規範を寓話的に示すことによって、明らかに当時の社会で労働者階級を搾取していた資本家階級を批判しているのです。
 また、最後に立派な紳士(その正体は老悪魔)を登場させることによって、「資本主義が発展した結果として生まれる新しい搾取の形態」についても、それを見事に予言した上で否定しているのだと思います。
 資本家階級が雇用労働によって生産活動を行い、その剰余価値を搾取するという古典的な搾取は、あまりにも分かりやすいために労働者階級の反発や抵抗が避けられません。また、搾取と言ってもそれは具体的な生産活動によって生み出された価値の一部でしかありません。
 ところが、「頭を使ってお金を稼ぐ」ということが始まると、実際に生産した物の価値ではなく、「価値があると思われること」自体が価値になってしまうのです。つまり、仮想的・虚偽的・妄想的な価値も経済的な価値になってしまうのです。
 となると、市場においては異なる2種の価値が貨幣を媒介として区別なく交換されることになります。「労働によって生み出された実際の価値」と「人々の期待や欲望に基づく仮想的な価値」とは、本来かなり異質のものです。その価値の増えていくスピードも全然違います。
 そのような2種の価値が貨幣を媒介として交換されるようになったら、一体どんな変化が起こるでしょう? 結果として起こるのは、表面的には合意に基づく等価交換、しかし本質的には不当な富の移転です。このような場合、搾取というのは雇用者と被雇用者の間だけで起こるのではありません。市場システムの中で自分の労働を売ったり消費をしたりする過程で、誰もが意識せぬままに搾取したり搾取されたりするようになるのです。
 このように不条理な格差社会の到来をトルストイは予言しつつ、それを克服する方法をイワンに託して伝えてくれているのではないでしょうか?
イワンの国には習慣があって・・・ [2017年12月30日(Sat)]
(330)
 ただひとつ、イワンの国には習慣があって、手にたこのある者は食卓についていいが、・・・



 「次回が最終回です」と予告していたのですが、書くことがたくさんあったので最後の一文を2つに分けることにしました。
 というわけで、今回はまだ最終回ではありません。
 今まで何度も言及されているように、イワンの国にはお金がありませんでした。つまり、貨幣を媒介にした市場経済がなかったのです。
 それでも、人と人との関係を前提にした物と物、あるいはサービスとの交換は行われていたようです。ただし、それは契約に基づくものでもなく、交換物の価値を数値化することもありませんでした。奇妙に感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、このような形態は「互酬」と呼ばれ、人間社会にとって決して稀なことではないのです。
(261)
 また、社会的分業も行われていました。これは、契約に基づくものではなく、また等価交換という形を取るわけでもなく、「共同体の中で、各自の役割を果たす」という感じだったようです。それぞれの労働によって生み出されたものの間に価値の差はなく、人々は「自分のすべき仕事をし」、「自分の必要に応じて受け取っていた」のです。それで、イワンの国はうまくいっていたのです。
 ただ、やっぱり社会の中で調和や秩序をもたらすには何らかのルールのようなものが必要です。それがこの、「手にたこのある者は食卓についていいが、たこのない者は、人の食べ残しを食べねばならない」という習慣なのです。

 さあ、次回がいよいよ本当の最終回です。
わしらのところには何でもどっさりあるから [2017年12月24日(Sun)]
(329)
 だれでもやって来て、「わたしどもを養ってください」と言えば「よしよし、いっしょに暮らしなさい。わしらのところには何でもどっさりあるから」と言うのです。



 ヨーロッパやアメリカ合衆国では、移民問題がいろいろ問題になっているようです。しかし何と、この国はどんな人でも受け入れるというのです。新天地を目指す人にとっては、まさに夢のような国ではありませんか。
 「わしらのところには何でもどっさりある」というイワンの国は、決してGDP大国ではありません。賃金水準が高いわけでもありません。先進国か発展途上国かと言えば、間違いなく発展途上国です。しかし、この国はそもそもそのような「発展」というものを全然目指してはいないのです。
 イワンの国では、みんなが肉体労働をしています。牛や馬は使っても、機械はまったく使っていないようです。それでも、彼らは十分に豊かなのです。
 「どうすれば人々が豊かに暮らせるようになるか」。これが経済学のテーマだと思われます。そのためには、お金で計られる生産を増やし、それを所得として人々に分配すればよいと考えられているようです。しかし、イワンの国では少しもそんなことはしていません。それでも、すべての国民が自分の生活に満足しているのです。これは、どんなに成功を遂げた国でも実現し得なかった理想の状態と言えるのではないでしょうか? さらに、現代社会の大きな課題である「持続可能性」についてさえも、この国は見事な回答を示しているのです。
 みんながお金を追求すれば、世の中はお金の取り合い競争になってしまいます。そして、冷静に考えれば誰でも容易に理解できるように、すべての人が競争の勝者になることは不可能です。もっと言えば、世界の現実が示しているように、競争が生み出すのはごく少数の富裕層と、圧倒的多数の貧困層です。しかも、富裕層に属する人たちでさえも絶えず激しい競争にさらされます。最終的には、競争社会における絶対的な勝者など一人も存在せず、結局は誰もが犠牲者になってしまうのではないでしょうか?
 しかし、みんなが自分の労働によって生み出したものを享受するのであれば、それは競争しなくても実現可能なのです。ただし、自然に対する影響が持続可能な範囲を越えないようにしなければなりません。でも、イワンの国ではその心配もありませんね。
 しかし、まだ続きがあります。
 次回が、いよいよ最終回です。
 ・・・
 
二人の兄さんもやって来て・・・ [2017年12月18日(Mon)]
(328)
 二人の兄さんもやって来て、イワンが二人を養っています。
 


 そういうわけで、イワンは今でも幸せに暮らしているそうです。足るを知り、決して多くを求めず、ただひたすらに自分の日々の労働に明け暮れる。これこそが、最も強く、最も平安で、そして最も豊かな生き方なのです。
 イワンの国には、そのような暮らしをしたいと願う多くの人々がやって来るそうです。イワンの二人の兄たちも、再び弟の元へ帰って来たそうです。
 二人の兄というのは、軍人セミヨンと布袋腹のタラスです。セミヨンは戦争に負け、またタラスはお金によって生活に必要なものが手に入らなくなり、どちらも生きて行くのさえ困難な状況に追い込まれていたのです。
 それで、二人は弟であるイワンの所に逃げて来たのです。きっとイワンは、「兄さんたちもここで暮らしたいのかい? ああ、いいとも」なんて答えたのでしょう。
 実は、この二人の兄がイワンの所に助けを求めてきたのは二度目((58)及び(94))です。前回は、二人とも居候になるのにちっとも遠慮も恐縮もせず、まったく横柄で傲慢な態度を取っていましたが、今度は流石に反省したかもしれませんね。
 いずれにしても、イワンの国ではどんな人でも受け入れられるのです。移民排斥なんて、まったく無縁の国です。
 ですから・・・
イワンは今でも達者でいて・・・ [2017年12月14日(Thu)]
(327)
 イワンは今でも達者でいて、みんなが彼の国へ押しかけてまいります。



 老悪魔は、遂に破滅してしまいました。イワンが、勝ったのです。ところが、よく考えてみると彼は決して悪魔と戦ってはいないのです。これは、とても奇妙なことにも思えます。
 イワンはただ、自分の生き方を貫いただけなのです。自ら耕し、自ら生産に従事する。労働を厭わず、労苦を悲しまず、便利さ・快適さ・華美・享楽を追わずに、ただただ日々の暮らしを淡々と積み重ねていく。それが結果として、悪魔の誘惑をしりぞけ、悪魔の策略に陥らず、悪魔の攻撃に打ち克つことになったのです。
 悪魔との戦い。それは、自分自身との戦いです。「楽をしたい。利益を得たい。競争に勝ちたい。成功を収めたい。豊かな暮しをしたい。他の人々を支配したい。・・・」そのような欲望に従ってしまえば、その人は気付かないうちに心を悪魔に奪われてしまいます。
 そうなのです。悪魔は決して、「お前を滅ぼしてやるぞ」などと言って私たちに近付いて来るのではありません。反対に、「あなたの苦労を取り除いてあげますよ。あなたに利得を与えてあげますよ。あなたを幸せにしてあげますよ。・・・」などといった甘美な声で私たちにささやきかけて来るのです。
 本当に、恐ろしいことではありませんか。このような悪魔によって我が身を滅ぼされないようにするためには、深遠な叡智と強靭な意志を持った賢者・聖者になるか、あるいはイワンのような人になるかのどちらかしかないのではないかと思います。
 というわけで、この物語の中でイワンやその国の人々は「馬鹿」と呼ばれていましたが、実はそういう人こそが本当に賢い生き方をできるのではないしょうか?
 さて、この物語はまだ終わりではありません。その後、イワンは・・・
 
凄い奴だ! [2017年12月09日(Sat)]
(326)
 イワンは頭を掻きました。
 「ちぇっ、汚らしい奴! また出て来た! きっとあいつらの親分にちがいない。凄い奴だ!」



 立派な紳士が櫓の上から転落して地面の穴に吸い込まれていくのを見て、やっとイワンは彼の正体に気付いたようです。ただ、子分たちはイワンが「神様」という言葉を口にしたことによって地面に吸い込まれたのですが、親分の老悪魔はそうではありません。また、小悪魔たちの場合は「水の中へ石を投げ込んだように、すーっと地面にもぐり込ん」だのですが、老悪魔の場合は「突然地面が裂け」、その中に吸い込まれたのです。
 これはきっと、単に老悪魔が空腹のためにふらふらになって地面に落ちたというだけの話ではないのです。そうではなくて、老悪魔が完全にイワンに敗れたということであり、それはすなわち神に滅ぼされたということなのです。
 つまり、こういうことです。老悪魔は、言葉によってイワンを誘惑しようとしました。肉体労働しか知らない彼に対し、「頭を使って働く方法を教えてあげよう」と言ったのです。これは、旧約聖書の創世記で、ヘビが「善悪の知識の木を食べなさい」と誘惑したのと似ている気がします。「自らの知恵によって富や力を手に入れ、自らの幸福を求めて生きなさい」というのは、実は悪魔の誘惑なのです。そのような誘惑に負けて、悪魔に魂を売り渡してしまう人も確かにいます。しかし、イワンのようにそれを見事にはねつける人もいるのです。
 とにかく、このようにして悪魔は滅ぼされました。そしてその後、イワンは・・・


突然地面が裂けて・・・ [2017年12月07日(Thu)]
(325)
 突然地面が裂けて、老悪魔はその中へ吸い込まれていき、あとには穴だけが、ぽつーんと残りました。



 立派な紳士(その正体は老悪魔)は、櫓の上でふらふらになり、そこから真っ逆さまに転落してしまいました。そこまではまあ、万有引力の法則に従った当然の成り行きだったのですが、ここから急に、物理法則では説明のつかない超自然的な現象が起こります。それはなんと、「突然地面が裂けて、老悪魔はその中へ吸い込まれて」いったということなのです。
 一体、どうしてこんなことが起こったのでしょう?
 それは、今までこの連載を読んでこられた愛読者の方々にはお分かりでしょうが、これがどうやら悪魔の一般的な破滅シーンであるようなのです。彼の子分たちの場合も、同様でしたね。「あとには穴だけが、ぽつーんと残」ったというのも、まったく同じです。
 つまり、悪魔はとうとうイワンの前に敗れ去ったのです。軍人セミヨンも商人タラスも、悪魔によって滅ぼされました。それは、「武力に頼る者は武力によって破滅し、富を追い求める者は富によって身を滅ぼす」からです。つまり、自らの利益・権力・繁栄を求めて様々な企てを重ねても、結局は他者との争いになってしまうのです。そして、そのすべての争いにずっと勝ち続けることはありえません。他者との争いの中に生きる者は、いつかは必ず敗れます。しかも、その敗北・破滅の原因は、しばしば自分自身の内部にあるのです。
 イワンが暴力にも富にも関心を示さないのを見て、老悪魔は別の手段によって彼を破滅に導こうとします。それは、人間誰でも持っている自分自身の幸福を追求したいという欲求に働きかけることによってでした。「幸福になりたい」「今よりもっと良い暮らしをしたい」「少ない努力で、できるだけ多くのものを手に入れたい」・・・それらはきっと、多くの人が当然と思うことでしょう。しかし、これまた多くの人々が、そのように自らの幸福を求めながら、なぜかそれと反する方向に流されていっているようです。まるで、前に進もうとしても目に見えない不思議な潮流に押し戻されてちっとも進めないような奇妙な状況です。(ミヒャエル=エンデのファンタジー作品「モモ」に出て来る「さかさま小路」のようですね。ちなみに、この「さかさま小路」を通って先に進みたければ、後ろ向きに進まなければならないのです)
 しかし、イワンはこの悪魔の誘惑も見事に退けたのでした。
 さて、老悪魔の最期を目撃したイワンは・・・
頭を地面に突っ込みました [2017年12月04日(Mon)]
(324)
 老悪魔は櫓の下まで落ちて、頭を地面に突っ込みました。イワンがそばへ寄って、彼がどれくらい仕事をしたか見ようとすると



 立派な紳士(その正体は老悪魔)は、空腹のあまり遂に櫓の上から階段を転がり落ちてしまいました。
 彼は、「肉体労働をしなくても、頭を使えば効率良くお金を稼ぐことができ、豊かな暮らしをすることができる」という趣旨の演説をしていたのですが、自分自身の知恵と弁舌によって自らの食べ物を得ることにこうして失敗してしまうのです。
 どうしてこんなことになってしまったのか? それは、「頭を使って人々の役に立つことができれば、その貢献との交換として、人々の労働によって生産された物で養ってもらうことができるかもしれない」ということを「頭で働くことによって生きていける」と彼が勘違いしてしまったからなのです。
 自分の労働によって自分の暮らしを成り立たせることのできる人は、頭脳労働をする人がいなくても生きていけます。でも、頭脳労働をする人は、肉体労働をする人がいなければ決して生きてはいけないのです。お金というのは、人間が生きていくために必要なものを絶対的に保障してくれるものでは実はありません。食べる物や着る物を自分が消費する分以上に生産してくれる人々がたくさん存在するからこそ、頭脳労働者や不労所得者は生きていけるのです。
 お金をたくさん稼いでいる人は、「自分はそれだけの価値を生み出しているのだ。このお金が、その証拠だ。肉体労働をする人々の所得は低い。ということは、彼らの生み出す物の価値は私よりもずっと小さいということなのだ」と思っているかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか?
 でも、イワンはまだ紳士が頭で仕事をしたのだと思い込んでいるようです。
 ・・・
あんなことをしたら頭は瘤だらけになるぞ [2017年12月02日(Sat)]
(323)
 「なるほど」とイワンは言いました。「あの紳士が『ときには頭が割れるようなことがある』と言ったのは本当だわい。これは「たこ」どころではない。あんなことをしたら頭は瘤だらけになるぞ」



 立派な紳士(その正体は老悪魔)は、空腹のあまりふらふらになり、高い櫓の上から真っ逆さまに転落してしまいました。その際、彼は櫓の階段にこつんこつんと頭をぶつけながら一段ずつ落ちて行ったのです。
 これを見たイワンは、かつて紳士が言っていたことを思い出します。それは、「ときには、頭が割れそうなことがあります」という発言です。もちろん、紳士は「頭脳労働の困難さ」を表現するたとえとしてこう言ったのですが、イワンはこれを文字通りに受け取ったのです。
 そして、紳士が本当に頭をぶつけながら落ちていくのを目撃したのですから、彼がその光景を以前に聞いた紳士本人の言葉と結び付けて理解したのも当然でしょう。
 というわけで、「これが、頭を使って働くということなのだ!」とイワンは思ったのです。しかし、それは彼にとって真似をしたい働き方では全然なかったでしょうね。
 ただ、頭を使って働くということが非常に大きな苦痛を伴う過酷な労働であるということはイワンにも十分に分かったようです。「たこどころではない」と彼が言っているのは、彼の妹のマラーニャが「手にたこがあるか、ないか」で労働をしているかどうかを判定していたことを指しています。イワンとしては、「手にたこを作って働く以外にも、頭をぶつけながら行う仕事の仕方もあるのだ」という新たな認識が与えられたのでした。
 それから・・・

一段ずつ、こつんこつんと頭をぶっつけながら・・・ [2017年12月01日(Fri)]
(322) 
 ・・・頭から先に櫓の段の上にぶっ倒れ、一段ずつ、こつんこつんと頭をぶっつけながら落ちて行きました。



 立派な紳士に化けた老悪魔は、空腹のためふらふらになり、遂にはよろけて柱に頭をぶつけてしまいます。そしてさらに、柱に頭を強打して脳震とうでも起こしたのでしょうか、なんと今度は頭から櫓の外に転落し、櫓の段の上にこつんこつんと頭をぶつけながら落ちて行ったのだそうです。
 この櫓は、高い段が付いていて、最上部が望楼になっていたそうです。恐らく、イワンの国で一番高い建物だったのではないでしょうか。そのいくつもある段に頭をぶつけながら転落して行ったのですから、相当痛かったのではないかと思います。
 それにしても、どうして紳士はこんなにふらふらになるまでの極度の空腹に苦しむことになったのでしょうか?
 それは、彼が「体を使って働くよりも頭を使って働く方が優れている」「だから、私があなた方に頭で働く方法を教えてあげよう」と言ったからです。
 紳士の論理では、「頭を使って働けば、お金を手に入れることができる。そして、その稼いだお金があれば、食べ物でも何でも手に入るのだ」ということだったのでしょう。ところが、イワンの国の人たちはお金というものを知りません。だから、働くと言えば自分の生活に必要な物を実際に生産することだと思っているのです。
 このように、「お金さえあれば何でも手に入る」という紳士の考えは、実は決して普遍の原理ではありません。そのようなメカニズムが機能しないことだって、当然ありうるのです。一方、「人間は食べ物を食べないでは生きていけない」ということの方が、ずっと間違いのない真理だと言えるでしょう。
 しかし、この紳士のような考えの人は実際たくさんいるのではないでしょうか? すなわち、「都会は豊かだが、田舎は貧しい。我々都会の者が、田舎の人々を養ってあげているのだ。(自分たちの食べている物は、田舎で生産されたものなのに)」とか、「工業化の進んだ先進国では人々の所得が高く、農林漁業以外に産業のない発展途上国に住む人たちは貧困に苦しむしかない。(自分たちの衣食住のかなりの部分を、その発展途上国の人々の労働に依存しているのに)」とか・・・。
 しかし、人間の生活に必要なものを実際には生み出さず、ただお金の金額だけを増やすような経済が、果たして本当の経済と言えるのでしょうか?
 この紳士の姿を見たイワンは・・・
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