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第229回楽しく学ぶ歴史ゼミの報告(5)宇治川の戦い。 [2023年03月29日(Wed)]
 3月8日の楽しく学ぶ歴史ゼミの報告の続きです。
 
●源義経は、素早く宇治川に到着。
●義経は、スピードを重視した。
●義仲軍は川を渡る橋を破壊していたが・・・。
●義経軍は馬に乗って川を渡る。
●梶原景季と佐々木高綱との先陣争いは有名。
●結局、義経はここを突破して京都に入り、後白河上皇を救出。
●義仲は、北陸に逃げようとするが・・・。

 そして・・・

                             (つづく)

第229回楽しく学ぶ歴史ゼミの報告(4)源範頼。 [2023年03月27日(Mon)]
 3月8日の楽しく学ぶ歴史ゼミの報告の続きです。

●朝廷との関係を修復した源頼朝は、義仲を倒すため兵を挙げる。
●しかし、自分自身が出陣したわけではなかった。
●弟の範頼と義経を派遣した。
●源義経は有名だけど、範頼は有名じゃない。
●やっぱり、武将としての能力に差があったのかな?
●範頼は瀬田から、義経は宇治から、京都に向けて進撃。

 そして・・・

                 (つづく)
第229回楽しく学ぶ歴史ゼミの報告(3)征夷大将軍になった木曽義仲。 [2023年03月22日(Wed)]
 3月8日の楽しく学ぶ歴史ゼミの報告の続きです。

●木曽義仲と後白河上皇は、いろいろ意見が合わずに対立していた。
●そして、遂に義仲は上皇の御所を襲撃、後白河を幽閉してしまう。
●武力でかなわない上皇は、必死で義仲の暴走を防ごうとした。
●義仲が上皇を連れて北陸に行ったりしないように・・・。
●義仲の機嫌を取るために、なんと・・・。
●彼を征夷大将軍に任命した。

 そして・・・

                 (つづく)
第229回楽しく学ぶ歴史ゼミの報告(2)戦争の前に、やることがある。 [2023年03月17日(Fri)]
 8日の楽しく学ぶ歴史ゼミの報告の続きです。

●義経は、平氏と戦おうと兄の元へやって来たが・・・。
●頼朝は、すぐには動かなかった。
●まず、関東の武士政権の土台を固めなければならない。
●それから、朝廷との交渉や工作も行っていた。
●木曽義仲が京都に入って平氏を追い出しても・・・。
●頼朝は関東で機が熟するのを待つ。

 そして・・・

                 (つづく)
第229回楽しく学ぶ歴史ゼミの報告(1)日本史の人気者・源義経 [2023年03月08日(Wed)]
 今日は、第229回「楽しく学ぶ歴史ゼミ」を開催しました。
 
●源義経も、平治の乱で敗れた源義朝の子どもで頼朝の弟。
●京都の鞍馬寺に預けられたが、そこを脱出して東北地方へ。
●奥州藤原氏、藤原秀衡に保護される。
●やがて、兄の頼朝が反平氏の兵を挙げると・・・。
●義経は兄の元に馳せ参じた。
●源氏のために、平氏と戦います!

 そして・・・
                  (つづく)
第228回楽しく学ぶ歴史ゼミの報告(9)この人に、賭けてみよう! [2023年03月08日(Wed)]
 2月24日の楽しく学ぶ歴史ゼミの報告の最終回です。
 
●政子は、結婚式の前日に雨の中逃げ出した。
●そして、山道を越えて頼朝の元へ辿り着いた。
●北条時政も、遂に2人の結婚を許した。
●自分の運命を頼朝に賭けてみようと思ったのか?
●あるいは、都での見聞から平氏の没落を予感したのか?
●結婚相手に逃げられた山木兼隆は、かわいそうですね。
 

 次回は、今日、8日(水)です。
第228回楽しく学ぶ歴史ゼミの報告(8)北条政子。 [2023年03月07日(Tue)]
 2月24日の楽しく学ぶ歴史ゼミの報告の続きです。
 
●そもそも、どうして頼朝は反平氏の戦いを始めることができたのか?
●彼は流罪になっていて、その身辺は厳しく見張られていた。
●見張り役だったのは、伊豆の豪族の北条時政。平氏の一族。
●北条時政は、都での務めを命じられて3年伊豆を留守にした。
●その間に、娘の政子が頼朝と恋愛関係に陥ってしまった。
●都から帰って来た時政はもちろん激怒した。
●当然、2人の結婚は絶対に許さない。
●山木兼隆という人を政子の結婚相手に決めてしまう。

 そして・・・

                  (つづく)
第228回楽しく学ぶ歴史ゼミの報告(7)国を治めるのに必要なのは軍事力ではない [2023年03月06日(Mon)]
 2月24日の楽しく学ぶ歴史ゼミの報告の続きです。
 
●頼朝は、後白河上皇を味方に付け、東国支配権を公認される。
●年号も、朝廷の定めた「寿永」を用いるようになった。
●戦争に勝った木曽義仲は、政治においては敗れた。
●頼朝はずっと鎌倉にいたが、朝廷工作などもちゃんとやっていた。
●政治の分野を担当する人材として、有能な貴族をスカウトした。
●国を治めるためには、自分の下にいる人々が何を求めているかを知り、その期待に応え・・・。
●上にいる人々の事情や考えも十分に理解しておかなければならない。

 そして・・・

                  (つづく)
第228回楽しく学ぶ歴史ゼミの報告(6)養和の飢饉と東国支配公認。 [2023年03月05日(Sun)]
 2月24日の楽しく学ぶ歴史ゼミの報告の続きです。
 
●1183年、後白河上皇は源頼朝の東国支配権を認める。
●木曽義仲が京都に入り、平氏を追い出したが・・・。
●後白河上皇は、頼朝の方が付き合いやすいと思ったらしい。
●この時の東国には、義仲の勢力圏・木曾なども入っていた。
●また、その頃は養和の飢饉が起こっていた。
●朝廷への年貢納入が途絶えてしまった。
●頼朝の東国支配権公認は、年貢納入が条件だった。

 そして・・・

                  (つづく)
第228回楽しく学ぶ歴史ゼミの報告(5)日本に2つあった年号。 [2023年03月04日(Sat)]
 2月24日の楽しく学ぶ歴史ゼミの報告の続きです。
 
●源頼朝は、富士川の戦いで勝った後も京に攻め込まず、関東に留まった。
●仲間の武士たちが止めたからだと言われている。
●東国の武士たちは、天下統一を目指していたわけではない。
●自分たちの土地が守られる政治体制を確立させたかった。
●当初、源頼朝は朝廷には従わない独自の政権を作ろうとしたらしい。
●平氏政権が定めた「養和」の年号を使わず、治承を使い続けた。
●その後、年号は治承に変わったが、源頼朝はなお治承を使用した。

 そして・・・

                             (つづく)
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