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大人の国語ゼミの報告(4)日本語をさらに洗練発展させていくために。 [2013年02月11日(Mon)]
 8日の「大人の国語ゼミ」の報告の続きです。


●漢文調で表現できるものとできないもの。
●石川啄木の言語表現の変化。
●現代日本語はまだ発展途上。
●カタカナ語の氾濫について。
●どうしてカタカナ語で言われると権威ある言葉のように感じるのか?
●カタカナ語を漢語にすれば分かりやすくなるか?
●単語のイメージに依存しすぎる問題。
●言葉による思考、吟味、検討、議論をもっともっとしよう。
●話し言葉と書き言葉。
●本音の言語と建前の言語。
●日常生活の中で、話し言葉による会話の幅を広げていこう。
●話し言葉で語る世界を広げていけば・・・。

 というような話をしました。
 
大人の国語ゼミの報告(3)美辞麗句の力と弱点。 [2013年02月10日(Sun)]
 8日の「大人の国語ゼミ」の報告の続きです。
 
 ●森鴎外のドイツ留学と「舞姫」。
 ●坂本龍馬と中江兆民と幸徳秋水。
 ●明治時代の労働者の境遇と社会主義思想。
 ●足尾鉱毒事件と田中正造の政治活動。
 ●幸徳秋水と田中正造。
 ●対句表現について。
 ●漢語の力と問題点。
 ●漢文書き下し調は格調高いけれども・・・。
 ●漢文調で表現できるものとできないもの。
 ●石川啄木の言語表現の変化。
 ●現代日本語はまだ発展途上。

 そして・・・
                   (つづく)
大人の国語ゼミの報告(2)外国語の翻訳も漢文調で・・・。 [2013年02月09日(Sat)]
 昨日の「大人の国語ゼミ」の報告の続きです。
 
 ●現代日本語はどのように形成され、定着していったのか?
 ●明治時代の様々な試み。
 ●明治維新直後に外国の文章の翻訳が盛んになされているのは凄い!
 ●共通文語としての漢文書き下し文。
 ●寺子屋教育と漢文素読。
 ●訓読という文化遺産。
 ●西洋語の翻訳と漢語の素養。
 ●今も残る漢文表現。
 ●「西国立志編」と自立自助の精神。
 
 そして・・・
                   (つづく)
大人の国語ゼミの報告(1)明治時代の文章を読む。 [2013年02月08日(Fri)]
 今日は、「大人の国語ゼミ」をしました。
 まずは近代日本語の原点を確認しようということで、明治時代の文章を読みました。
 今回取り上げたのは、
 ●中村正直訳の「西国立志編」
 ●森鴎外の「舞姫」
 ●幸徳秋水の「吾人は飽くまで戦争を否認す」
 の3つです。

                             (つづく)
9月22日の国語ゼミ(5)知性と感性のバランスを大切に [2012年09月24日(Mon)]
 ということから、またいろんなことについて話しました。
 
●競争と孤立
●内発的動機付けと外発的動機付け
●「花さき山」
●意識と無意識
●外からの情報は意識の領域を広げ、無意識を遠ざける。
●共感とつながり
●相田みつをと芥川龍之介
●旭岳の自然とエゾアカマツとリス
●人間が作れないもの
●無意識の利他的行動によって世界はつながっている。
●人間の細胞とガイア
●クロマニョン人はどうして洞窟に絵を描いたのか?
●おといねっぷ美術工芸高校
●感動は人を動かす、人を変える。
●知識では人は動かない、変わらない。
●何を豊かと感じるか?

 などの話をしました。
 これで今回の国語ゼミの報告を終わります。また次回をお楽しみに!
 



9月22日の国語ゼミ(4)常識思考は地獄ゆき [2012年09月24日(Mon)]
 カンダタが考えたのは、実は極めて常識的な発想・思考です。
●人数が多ければ多いほどその重みは増し、蜘蛛の糸にかかる力は大きくなる。
●蜘蛛の糸にかかる力が大きくなれば、それだけ糸が切れる危険は増す。
●極楽に行ける人数は限られているから、ほかの人が極楽に行けば自分はいけなくなってしまう。
●自分が幸せになるためには、ほかの人と競争・奪い合いをしなければならない。
 などです。
 このような心は、ぼくたち自身の中にも結構たくさんあるのではないでしょうか?
 ・・・・・・

                     (つづく)

9月22日の国語ゼミ(3)地獄極楽は心の中にある。 [2012年09月23日(Sun)]
 ここで、参考に、「地獄極楽と長い箸」の話をしました。地獄も極楽も、客観的にはまったく同じ状態なのだという話です。
 となると、地獄・極楽とは場所の問題ではなくて、その人の心のあり方や生き方の問題なのだということになってきます。

 そうすると、そもそも「極楽が上にあって地獄が下にあって・・・」という話ではなくて、「蜘蛛の糸にどれだけの力が加わるのか、蜘蛛の糸はどれだけの人数の重みに耐えられるのか?」という物理的な問題ではまったくないのだということが分かってくるでしょう。

 発想を変えて考えてみれば、蜘蛛の糸が切れたのは不思議ではなくて、当然のことに思えてきます。カンダタが再び地獄に落ちてしまったのは、利己的な思いに対して罰が与えられたのではなくて、彼の利己的な思いそのものが彼自身を極楽から遠ざけてしまったのだというふうにも感じられます。

 しかしそれにしても、カンダタはどうして地獄に戻ってしまうような思考法に陥ったのでしょうか?

・・・・・・

                     (つづく)

9月22日の国語ゼミ(2)地獄・極楽とは何なのか? [2012年09月23日(Sun)]
 「蜘蛛の糸」は、例えば、「地獄と極楽を結ぶもの」、「人を地獄から極楽へ導く道筋」と考えられます。
 そうなると、
 「では、地獄とか極楽とは一体何なのだろうか?」
 という疑問が湧いてきます。

 もちろんそれは、実際にある場所のことではありません。
 でも、実際にそういう場所がないからと言って、「そんなのはまったくウソなのだ。意味がないのだ」というわけでもないのです。文学とか物語の世界では、「ないけれど、ある」ものがあるのです。そこでは、目に見えるものだけがあるわけではないからです。

 それでは、地獄や極楽とは果たして何なのでしょうか?
 ・・・・・・

                     (つづく)

9月22日の国語ゼミ(1)蜘蛛の糸はどうして切れたのか? [2012年09月23日(Sun)]
 昨日は、国語ゼミをやりました。
 今回の題材は、芥川龍之介・作、「蜘蛛の糸」でした。

 蜘蛛の糸の切れる場面を読んで、それから、

 「蜘蛛の糸は、どうして切れたのだろう?」

 と考えました。
 お釈迦様が、カンダタの利己主義に怒って糸を切ったのではないのです。それは、最後の場面の描写を見ても明らかです。
 つまり、この物語は決して「罪と罰」、「勧善懲悪」の教訓話ではないのです。

 では、「蜘蛛の糸」はなぜ切れたのでしょうか? そしてそもそも、「蜘蛛の糸」とは何だったのでしょうか?

 ・・・・・・

                     (つづく)

自分の感受性くらい・・・ [2012年05月19日(Sat)]
 第1回大人の国語ゼミナールの報告です。
 参加者は3人でした。

 今回の教材は、茨木のり子「自分の感受性くらい」でした。たった18行の詩ですが、4人で語り合って1時間半、話題は尽きることがありませんでした。

●コミュニケーションの質
●地域のコミュニケーション力と民主主義
●言葉のやりとりはあっても、コミュニケーションはないこともある。
●感受性とは何か?
●知性の発達と感性
●人間の尊厳とは何か?
●戦争、強制収容所、北海道の山中で13年・・・極限的非人間的状況の中で「光るもの」は?
●外から与えられるものは選べない、変えられない。
●決して放棄してはいけないもの
●頭で考えても分からないことは、感性でとらえる。
●どうして「自分の感受性」なのか?
●甘え社会と癒されない渇き
●他者に求める心と他人のせいにする心
●やさしさとは?
●主体性とは?
●人間に与えられたものと、それに対する責任
●言葉で表現することと自分と向き合うこと
●言葉による表現と独自性、創造性
●言葉は魂、言葉は存在の根源。
●言葉が豊かになれば、心が豊かになる。

 などの話をしました。
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