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それは自己破壊である。 [2018年09月15日(Sat)]
(229)
 現代の文明とはこのようなものです。人々は何もしなくてよい。ただ、どんなに非人間的な状況でも耐え凌げさえすればよいのです。
 しかし、それはそれすなわち自己破壊にほかなりません。



 ガンディーの文明批判の続きです。女性の雇用労働の増加とその非人間性の告発の次は、再び現代文明そのものの総括的批判に戻ります。
 この文明は、人々に安楽を与えます。人々もまた、安楽を求めます。その結果、「人間は何もしなくてよい」状況に限りなく近付いて行くのです。ところが、それが人間にとって本当に安楽な状態かと言うと、決してそうではないのです。(221)では、そのことが「文明の無残な失敗」と表現されていましたね。
 それにしても、「人間は何もしなくていい」のに「非人間的な状況でも耐え凌げる力」が要求されるというのはとても奇妙に思えます。この部分は、原文では「人は忍耐強くありさえすればよい」と書かれています。
 「人間が何もしなくていい」ということは、つまり「あらゆる場面において人間が受け身の存在になる」ということです。「人間の仕事を機械がやってくれる」ということは「人間の主体性を機械に奪われる」ということかもしれませんし、「人間の生活が機械によって規定される」ということかもしれません。
 また、ソローが指摘しているように、便利な生活を享受するためにはその代価を支払わなければなりません。つまり、人間の生活が便利になればなるほど、生活に必要な労働は増えていくのです。しかも、その労働は人間の本来の生活と離れた、単にお金を稼ぐということ以外には意味のないものになっていきます。自らの労働によって生み出された価値がそのまま自分のものになるのであれば、労働が苦しみになることも疎外になることもないでしょう。しかし、労働がお金を得るための手段になれば、それはどうしても非人間的なものにならざるを得ないのではないでしょうか?
 だから、文明人はそのような非人間的な労働や生活に耐えなければなりません。ただ、安楽を求めることによって虚弱になってしまった文明人(224)は、意志の力で耐えるというよりは鈍感になることによって、つまり非人間的な状況を非人間的だと感じなくなることによって受け入れるしかないのです。
 そのことを、ガンディーは「自己破壊」と呼んでいるのではないでしょうか。
 さらに・・・
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