代表・町田武士の歩みとこれから [2018年01月01日(Mon)]
2012年7月、ラムサール条約登録湿地になった『渡良瀬遊水地』。 そこから1キロほど離れた集落に私は生まれた。 ここ藤岡は、縄文時代の遺跡もたくさん発掘され、起伏に富んだ地形は、 歴史と自然の豊かさを物語っている。 昭和30年代頃は、道路もアスファルトにされておらず、 雑木山や田畑・水路には、多様な生き物が溢れていた。 農村の草の匂い、土の感触に育てられた私にとっての原風景である。 その後日本は、経済の高度成長・効率優先の工業化社会となっていった。 農業は農薬や化学肥料中心の栽培になり、 水田の基盤整備、大型機械の導入は、田園の生態系をすっかり変えた。 私は、実家の農業が時代遅れの職業で恥ずかしいと思いながら、小・中学時代を過ごした。 高校生になった時、化学の教師である猿山先生が大気汚染や河川の水質調査をしていて、 環境が大変深刻な状況だと教えていただいた。 同時に、公害問題や社会問題に関する本をむさぼるように読んだ。 そして、死の直前まで「自治村・谷中村」の復活を希求してこの世を去った 田中正造の思想に感銘を受けた。 足尾鉱毒事件で家屋を強制破壊された後も、 残留村民たちは、麦をまき、漁をして仮小屋で生活を続けた。 正造は、国家形成以前の様な原初的で、 たくましく自然と共存する彼らの姿に神々しさを見出した。 そして、「村民を指導する」から「村民に学ぶ」に変わっていったという。 やがて私も、そこに通じるような生き方、自給的な農業に関心が向いていった。 そんな時見たテレビ番組のなかで、1人の若者が四国・伊予の福岡自然農園を紹介している言葉にひかれた。 高校を卒業した7月の夏に、私は農業の実習でそこへ行くことにした。 堂ケ谷というみかん山を、月明かりの中、福岡さんに案内された場所は、ろうそくの灯りだけの物置を改造したあばら屋だった。 電気も水道もなく、調理は土のかまど一つ。玄米と1汁1菜の食事。 朝早くから谷に水を汲みに行き、ヤギ用の草刈り、マキ作りと目まぐるしく働いた。 田んぼの草取りやみかん園の草刈りと、すべて手作業の仕事は驚きの連続だった。 自然農法の提唱者であった福岡さんは、不耕起・無除草、無農薬を試験的におこなっていたが、 実際は理論通りにはいかず、難しい技術だと私は実感した。 だが、みかん園の道標に福岡さんが書いた、「1木1草に神宿る」という言葉が印象に残り、 身近なものや日本的な衣食住の大切さを見直すきっかけとなった。 そして、1年半ほど過ごした山小屋を様々な想いを抱いて出発。 自分の力を試すため、玄米と味噌と梅干を持って、栃木まで歩いて帰った。 自炊と野宿を基本に、道に生えている野草を食べながら約50日間の旅を終えて、 大きな充足感、畳の上に寝られることの安心感を得、 ただ生きていることのありがたさに感謝したのだった。 1974年、私は20歳となり自宅で農業を開始した。 まずは稲の不耕起栽培を試みたが発芽に失敗し、 急遽、水苗代の手植えに切り替えて、水田2枚(3反5畝)と畑2反からスタートした。 当時は、無農薬や有機栽培の指導書がなく、悪戦苦闘しながら、 ハクサイやダイコンなどをまいたが、うまく出来ず悩んでいた時、 「本物の野菜の作り方」藤井平司氏著に出会い、 実際に何度かご指導を頂き、少しずつうまく出来るようになった。 野菜には、それぞれに育つ環境があること(自生地)、 地下水や風の影響など、今までの栽培学ではあまり触れられていない事実に気づかされた。 野菜の「野」は野性の野で、1人で野に育つともおっしゃっていた。 また、その土地に元々あるしきたりや技術を大切にしなさいと何度も言われ、今も肝に銘じている。 農産物販売は、最初の1,2年苦労したが、色々なところから声がかかり、 栃木・埼玉に共同購入のグループができ、2つの保育園の給食にも利用してもらった。 おかげで、20歳〜35歳頃までは安定した収入を得ていた。 しかし、多種類の野菜のタネまきと収穫は忙しく、水田の作業と重なった時期はとても大変だった。 その後、田んぼは成苗2本植え機械の技術を導入して、 少しは労力が軽減したが、草取りだけはずっと重労働だった。 その間に学んだ、農薬を一切使わない栽培の道は簡単だが難しく、 自然界が厳しさと優しさが表裏一体なのと同じ様に感じた。 アブラムシやヨトウムシ、病原菌の中でも命をつなぐ植物たちの姿は、 あらゆるものを受け入れて存在する地球上の奇跡と言えるかもしれない。 すべてが紙一重で成り立つ法則があるように思う。 最初のころは自然農薬を作り、対処療法を試みたが、今はほとんど何もしていない。 私たち家族は、病気になってもあまり薬や現代医療に頼らず、 自分の中にある力と、家族の力で助け合って、この40年間過ごしてきた。 野菜の育て方も、人間の身体の育て方も「いのち」という観点からすると、 かなり共通していることがあると気付き、なんとなく上手く出来るようになった。 日本列島にリゾート開発の嵐が吹いていた頃、遊水地にも「アクリメーション構想」 というゴルフ場を3つも作る計画があると知った。 そんな時、1989年8月に藤岡町で開催されたシンポジウムに、 県のゴルフ場問題連絡会で活動されていた日本野鳥の会の高松さんがパネラーとして呼ばれた。 野鳥を中心に、遊水地の自然の素晴らしさをお話していただいた。 その会場で、前出の高校の恩師、猿山先生と20年ぶりに再会した。 やがて、地元で遊水地に関心のある人たちと「水土と緑を考える会」という市民運動を一緒に発足した。 そして、広大なヨシ原の大切さ、公害の原点である谷中村が歴史的に重要な場所であるということに気づかされた。 その後、20数年間に渡る様々な人たちの運動が「ラムサール条約湿地」の登録という成果を出した。 その中で私は、環境問題や農業のことを考える活動の場の必要性を感じ、 1992年から3年ほどかけて、伝統工法の民家を新築した。 自然素材を使い、マキストーブ、かまど、囲炉裏、五右衛門風呂、 コンポストトイレや井戸などを整え、環境に負荷を与えない家を目指した。 現在活動しているNPO法人渡良瀬エコビレッジ(後出)の拠点となっている。 とはいえ、すべてが順調にとは行かず、家の建築中に梁から落ち、 頭を打つ大ケガをしたり、予算オーバーで借金をしたり、 3人娘の教育費がかかる時期が重なったりと、幾多の苦しみを味わった。 現金収入を得るために、初めて3年間アルバイト生活もした。 やがて借金返済もメドが立って来た頃、妻と共に自家製小麦を使ったうどん屋「あき津亭」を始めた。 しかし、農業と客商売の両立は難しく5年間で店を閉じた。 営業をしていた時、佐野市在住の音楽業界出身で環境問題に取り組む、 NPO法人エコロジーオンラインの上岡さんと25年ぶりに再会し、意気投合した。 彼と交流のあった音楽家・坂本龍一さんの「コンサートの記念Tシャツを和綿でできないか」 という一言から、栽培に名乗りをあげ、2002年日本の在来種である和綿栽培を始め、 5年後の2007年に30kgの和綿から日本初の和綿Tシャツを90枚、 多くの有志の力で完成することができた。 そのTシャツは、元アメリカ副大統領のアル・ゴア氏が発起人となり 世界7大都市で同時開催した環境問題をテーマにしたコンサート「ライブアース」の日本公式Tシャツとなった。 日本で出演した坂本龍一さんにも届けられ、サイン入りTシャツはチャリティオークションで28万円の値がついた。 和綿が形になったことは大変有意義だったが、外国綿と比較にならないコスト高のため、 その後は利用法が決まらなかった。 栽培を縮小するか迷っていたとき、和綿Tシャツの話を聞いて興味を持った 大手繊維商社から商談が舞い込んだ。 2010年には、和綿を使ったストールの製品化が実現した。 その間に、2つの大きなアパレルメーカーとも契約し、 3反の畑から収穫したワタは全量買い取っていただいている。 苦労もあったが、和綿の方は軌道に乗り始めている。 一方、家族経営の有機農業とは別に、隣町の岩舟町で里山再生を手掛けたことを機に、 2007年からNPO法人渡良瀬エコビレッジを設立した。 近隣に住む構成会員たちと共に、里山利用と和綿の栽培を運営の柱にした 循環型農業の普及を目指している。 エコビレッジは特定の村ではなく、伝統工法の家を中心に、 会員、一般参加者、協働する企業の社員やその家族などに向けて、 年間を通じてイベントを開催して活動している団体である。 和綿栽培なら、種まき・草取り・収穫祭。 里山なら、田植えや稲刈り・ツリーハウス遊び・野外コンサートなど、年間に600人ほどを受け入れている。 自家製オーガニックランチも人気で、リピーターが来る大きな理由だ。 ある親子が、5年ほど前からエコビレッジのイベントに毎年参加している。 里山での田植えと稲刈りを楽しみにしていて、お父さんの実家の正月には、 自分たちで手植えをしたモチ米で餅つきをする。 そして小学生の息子さんは、「将来、町田さんみたいに農業をやるんだ」と言ってくれる。 農事イベントだけでなく、今では繊維商社の方と遊水地で一般参加向けの駅伝大会を開催するようになり、今年で4回目を迎える。 そこから、栃木市との連携も出来はじめ、ラムサール条約の担当者の人たちと地元発の和綿商品化に向けて取り組み始めた。 更に今年からは、「タデアイ」を1反(300坪)に植え、藍染に使う染料のすくも作りに挑戦しはじめた。 田中正造は、16歳から19歳の時、佐野市周辺で栽培されていた藍のすくもを販売して得た利益で、社会運動に乗り出したそうだ。 それに習って、この取り組みを「正造ブルー」プロジェクトと名付けた。 江戸時代に訪れたヨーロッパの人々が日本を見て青い国と言い、 藍のことをジャパンブルーと名付けたという。高台にワタを、低地に藍を作る。 自然地形を生かした農業は、多様性を生み、食糧だけでなく、 服も畑から出来ることを実現していけば、新たな仕事の創出になるだろう。 私は父を亡くした後の春先、耕耘が遅れた田んぼをトラクターの上からふっと見た風景が忘れられない。 赤や紫、黄色の花を咲かせた草が、バランスよく立ち並び、虫たちが飛び交う躍動感。 それを美しいと感じたのだ。 たが他方、大規模水田は草一本なく、虫も蛙の声も聞こえず、人の姿も殆ど無いその寂しさ。 そして様々な生き物たちが減り続けるように、農業の後継者も減少している。 我が家を継ぐことになった3女は今年、縁あって藍染師と結婚した。 私はあと10年は現役で、谷あり山ありの農業を楽しみたいと思っている。 衣食住すべて土にあり。ブラボー。 (NPO法人 渡良瀬エコビレッジ理事長 町田武士) |