「生殖技術―不妊治療と再生医療は社会に何をもたらすか」 柘植あづみ著 みすず書房
女性の安全と健康のための支援教育センター主催の学習会にいってきました。
題も固く、内容も濃厚な本書は、現代社会を生きる私たちが医療技術の進歩にどのような影響を受けるのか、それはどのように波及していくのかという広がりを見せてくれます。
著者の話の中で賛成か反対かと問われることがあるけれど、(言葉も不妊治療だと賛成派、生殖技術だと反対派と目されるようです)話をして、その中で感じ考えてもらうということをおっしゃられていましたが、技術の進歩をどのように捉え進歩の背景にあるもの、その影響をつかんでいくことの大切さを学びました。
私の理解では追い付かない深いお話がたくさん出たので、以降は自分の感じたことを中心にまとめとして書いた文章になります。
「医療技術が進展する際に強調されるのは『治す』ことができるようになるということ。それではなぜ『治す』ことが良いこと・必要なこととされるのか」というお話の中で感じたのは、「病気が不幸」「不妊が不幸」という思い込みがあるということです。
わたしも看護師として働く中、治療することのできない患者さんも看てきましたが、苦しさ・つらさはあってもイコール不幸ではないということも学ばせて頂きました。家族の関係性を深めた人、死生観を転換させ人生を変えた人、難病になってよかったという人。不幸という枠組みでとらえきれない様々な生き方がそこにありました。
そして、著者が「子どもがほしい」という言葉を解体した時に何が出てくるのかを問い、不妊治療を行っている当事者からインタビューの中からでてきた言葉。
「普通になりたかったんでしょうね」
では、普通とは何か。
最先端の「卵管に卵子と精子を戻す治療」(10何年か前は受精卵を戻すより妊娠率が良いとされた。しかし、子宮外妊娠の危険あり)をされ、「治療はうまく行った。あなたの卵巣の状態が悪かった」と言われ「すみませんでした」と謝る女性。望みどおりに妊娠しない自分の身体、正常でない身体をもった自分としてどんどん自分と身体が乖離していく。
妊娠し子どもを産むのが女性として普通の子と(日本はその前に結婚が入る)。産み育てる存在としての役割をもち、生殖以外に存在が証明できなくなるかのような女性の姿がそこにあると感じた。
不妊でありたくない。普通でありたい。生殖技術の進歩以前であれば不妊も「仕方がない」と受け入れざるを得なかったささやかな欲望が、生殖技術の発展とともに一大産業になっていく。
しかし、排卵誘発剤を打たれ、針を刺して卵子を取り出され、治療の対象となるのは男性が原因の不妊であっても、常に女性の身体である。
女性がもう不妊治療はいやだと思っても男性が子どもをほしいと望む時、負担を負うのは女性の身体である。
「残念でしたね、次は頑張りましょう」と言われるごとに、治療は進展し、気づいたら自分の古い卵子ではなく、20代の若い女性の卵子をもらいDNAだけ取り換えて受精卵を作るようなところまで進みかねないし、代理出産を依頼するようになるかもしれない。
あっという間に、自然から遠く離れてしまった生殖技術を思うとき、それでも個々人の価値観だし仕方がないのかもしれないと思うようにしていたけれど、その影響は私たちの社会や次の世代にも波及していく。
そこには不妊でありたくないと思わせる社会の存在があるし、子どもがいて普通、子どもがいたら幸せという通り一遍の思い込みがある。そして、今では結婚して子どもができなければ不妊治療をしようということがスタンダードになっている気がする。
その中で、ささやかな欲望はどんどん進展し、人の役に立つならと卵子を提供したり、妊娠を肩代わりする女性もいる。それは多かれ少なかれ提供者の女性の身体にマイナスの影響を与えるにもかかわらず。
しかし、今後は採卵する必要はなくips細胞で卵子が作られるようになるかもしれない。そして、技術がどんどん進歩し、たとえば人工子宮で子どもが育てられるようになったとしたら、(胎児は単に成長していくだけでなく子宮の中でも様々な反応を受け取っているのだが)、負担を負う女性の身体はなくなり全てHAPPYということになるのだろうか。
そのように考えていくとわけがわからなくなり、「今後、ips細胞や人工子宮で子どもが生まれてくるかもしれない。そのことをどう考えたらいのかわかりません」という質問をした時に、非常に感慨深い答えを頂いた。
それは、技術というのは「負担を減らそうという考えによって進展するものではない」ということ。
避妊の方法が、女性の側の負担が大きいような方法しか開発されず(毎日副作用もあるピルを飲まなければいけない)、男性側の避妊方法がほとんど取組もなされていないように、進歩も医療者のささやかな欲望に支えられているということ。「新しい技術を開発したという満足感」「名誉になるという欲望」「お金が入ってくるという期待」。
そこに、不妊でありたくないという気持ちや、女性の体への負担を問う考えはない。
それを思った時に、神の見えざる手のように医療が進んでいくと思ったけれど、個々人の研究者の利得によって動いているんだということが、ガーンとショックだった。
医療の進歩といえばすごく良いことで、私利私欲のない研究者という思い込みがそもそも変なのだが、そのように喧伝されるし私の中にそういう思い込みがあって、「なんか不自然だけれど、助かる人もいるし、いいことなんだ・・・よね?」と思っている自分に気付くことができた。
でも、実はわたしも医療者も社会が普通(メジャー)とするそれぞれの思い込みを肯定して生きているだけであって、見方を変えれば多様な世界が広がっていく。
その中で、「マイノリティの側から声をあげていっていい」と柘植さんが言われていて「マイノリティって何%以下を言うんですか?」とお馬鹿な質問をしたのだけれど、何%ではなく主流(メジャー)ではない者のことを指す。と言われ、またガーン。そうか、だから女性はマイナーで性暴力被害者もマイナーで、主流(メジャー)からはわかられず、二次被害を受けたりとんちんかんなあつかいをされたりするんだと(理解が遅いけれど)合点がいった。
そんな世界で普通になりたいとか、私はいらない。だから私はマイノリティとして声を上げていくし、マイノリティ側の多様な価値観が受け入れられるような幅の広い多様性のある社会をつくっていきたい。
そのための、わたしなりの深い学びを得ることができた。
とてもお勧めの本なので、みなさまも読んでみてくださいね。とても考えさせられます♪