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野分き去り、夜半に雲間の月見かな [2012年10月01日(Mon)]
強烈な勢力の台風17号が日曜の夜から月曜の朝にかけて東日本を縦断。
中秋の名月、月見はあきらめて「月より団子だ」と月見団子にきなこをたっぷりとつけて、おやすみなさい。

雨は予想と違ってたいしたことはなかったようですが、風の音がものすごくてなかなか眠れません。少し、うとうとして目が覚めたら、いつの間にか月が見えていました。台風はもう関東を過ぎてしまったようです。暴風圏が250キロメートルあったとしても、時速50キロの速度なら5時間で通過する計算。日付は10月1日になっていましたが、中天にかかる月は冴え冴えと美しく見えました。団子も良いけど、月見も良いものです。

それにしても、今年の夏は勢力の強い台風の多いこと。910ヘクトパスカル程度に発達した猛烈なものだけで、3個目だったはず。日本の近海でも海水温が高いため、台風の勢力が衰えないまま日本にやって来るのが原因、と天気予報では言っています。地球温暖化の影響なのでしょうか。だとすれば、私たちが考えている以上に深刻な事態が、想像以上のスピードで進んでいるのかもしれません。月見などとしゃれている場合ではないのですが、あえてこういうご時世だからこそ、テレビを消して、電気も消して月を楽しみましょうという暮らしぶりを広めて行きたいものです。
マージャンのプレ・モダンとは何か? [2012年07月18日(Wed)]
最近、電車の中で「何かを読みながら眠っている」人が何を読んでいるかを観察しているという記事を書きました。「通勤の電車の風景:眠りながら書を読む人々 」を参照。

最近は、あまりそういう人を見かけないのは、熱心に探さないからかもしれませんが、運もあるのでしょう。今夜も隣の男性は週刊のコミックに熱中していて、眠りそうにありません。でも、もしかすると、どこかで眠りこけないとも限らないので雑誌の名前だけでも確認しておこうと思い、ちらりと覗いてびっくり仰天。『近代麻雀』とあるではないですか。麻雀はほとんどやったことがないので、こういう雑誌があることさえ知りませんでした。それにしても「近代の麻雀」とは一体いかなるものでしょうか。「近代麻雀」があるからには「脱近代麻雀」とか「プレモダン・麻雀」などもあるのでしょうか。近代化以前の麻雀と近代化された麻雀はどこが違うのでしょうか? 家に帰ってweb検索をかけても答えは見つかりません。

さらに驚いたのは、そのマンガ誌の作品の大胆なコマ割。1ページ3コマとか4コマは当たり前。1ページ1コマもざらにあります。しかも、アップに次ぐアップ映像。人の顔だけでなく「麻雀牌」のドアップ描写がこれでもかと続きます。手を抜くための手法なのかと思いましたが、あれだけ緻密に麻雀牌を描くのは相当な労力がいるはず。アシスタントにまかせれば良いのかもしれませんが、そこだけはものすごく手間暇がかかっているようです。

今、将棋のマンガにはまっているのですが、将棋のコマを一つひとつ描くのはずいぶん苦労するのではないかと観ていました。切り貼りなのかもしれませんが、20枚を切り貼りするのもたいへんですよね。芋版みたいなものでも作るのかな、などとしょうもないことを考えていたら、いつの間にか降りる駅に着いていましたとさ。
足尾鉱毒事件の傷跡 [2012年07月12日(Thu)]
7月11日、秋田に向かう機内でちょっとうたた寝をして目が覚めたら特徴のある風景がひろがっていました。「ここならわかりそうだ」。大きな湖と右手に立派な火山。そして、左(西側)に赤茶色の山肌がくっきり。
赤茶色の崩れた山は足尾鉱毒事件で裸になった山で、そこから一山越えた所にあるのが中禅寺湖。東の火山は男体山で間違いないでしょう。地上からは何度となく観た風景ですが、飛行機の上から見たのは初めてでした。水蒸気が多くてあまり良く見えませんが、何となくわかると思います。

足尾鉱毒事件の傷跡

忘れてはならない景色だと思います。
スカイツリーを見下ろした [2012年07月11日(Wed)]
2011年7月11日は秋田に出張。
羽田を飛び立ったら、スカイツリーが見えました。私の職場は比較的近くにあるのですが、まだ行ったことがありません。悔しいので、見下ろした写真を1枚。

スカイツリーが見える(はず)

真ん中のあたりに見えるはずなのですが、ちょっと厳しいかな。電子機器仕様OKのアナウンスの直後に撮影したのですが。
通勤の電車の風景:眠りながら書を読む人々 [2012年07月04日(Wed)]
通勤は極めて日常的な場所の移動だから、劇的な場面に遭遇することは滅多にありません。

たまに、ミニスカートのスーツにハイヒールの若い女性がホームを全力疾走していてぶつかりそうになったり、改札口の前で若い男性が女性の腕をとったまま見つめ合っているシーンを見かけたりすることはありましたが、そういうドラマチックなことはまれにしかないのです。

あるとき、座席にで熟睡している若い女性を見かけて「ぎょぎょぎょ」となりました。膝の上に開いた厚くて大判の本に描かれているのは、大きな人体解剖図。きっと医師か看護師の卵なのでしょう。熱心に勉強をして眠くなったのかと思います。とは言え、満員の通勤電車の中で全裸の男性(一部内蔵が見えている)の絵を見せられるというのは、なかなかに珍しいことと言わなければなりません。

その、翌日のことだったと記憶しています。私の隣に座っている中年男性が眠り始めました。蒸し暑い日でしたが、黒っぽいスーツにネクタイを締めています。膝の上に開いているのは楽譜。英語でラフマニノフの交響曲2番の第二ファゴットの譜面と書いてあります。良くみれば、ずいぶん細くて長い指です。この指であの大きな楽器を鳴らしているんだなぁと思ったらちょっと感動しました。譜面には、鉛筆でいろいろと書き込まれていますが、それを解読する能力は私にはありません。

通勤の電車の中で眠りながら何かを読んでいる人の観察は案外面白い、と気がついたのはそのときでした。あまり良い趣味とは言えませんが.....。

今までで一番衝撃的だったのは、つり革につかまって立ちながら本を読んでいる人が、本を読んだまま眠ってしまったことです。ときどき、足がぐらっと揺れて目が覚めるのですが、ほとんど意識はありません。すごいのは、右手に持った文庫本を落とさないことです。しかも、親指を読みかけのページに挟んだままにしているのには心底びっくりしました。初老の男性です。本には革製のカバーがかかっていて書名は不明ですが、文体と内容から察するところ、司馬遼太郎の『坂の上の雲』のようです。

夜8時ころ、朝日新聞の朝刊を読みながら眠そうな中年男性がいました。「きっと眠るだろう」と思って観察を始めたところ、途中で新聞を読むのを止めてカバンから携帯ゲーム機を取り出して、ゲームを始めました。残念ながら「朝日新聞を読みながら眠る中年男性」の記録はできませんでした。ところが、その翌日、帰りの電車でほぼ同じ時刻に同じ人が目の前に座っていました。朝日新聞の朝刊を眠そうな顔で読んでいます。その日は、新聞をカバンにしまって本格的に眠ってしまいました。全く見ず知らずの人と2日続けて同じ電車の車内で出会ったことに気がついたのは、前日にその人の服装や人相を良く観察していたためです。

通勤電車の奥の深さを実感している今日この頃でございます。
リオ+20で評判の悪かった「グリーン経済」 [2012年06月27日(Wed)]
1992年6月に開催された「環境と開発に関する国連会議(リオサミット)」から20周年にあたる今年、再びブラジルで開催された会議(リオ+20)は、盛り上がりのないままに終わった感があります。

国連の会議史上最大と言われる5万人が参加したそうですが、オバマ大統領をはじめ、欧米の首脳は欠席(日本の野田総理大臣も)し、期待された成果が得られなかったとの見方が多いような気がします。もちろん『われわれの望む未来』の採択やSDGs(持続可能な開発目標)に向けた一歩を踏み出し、失望だけではなかったとは思います。

webで検索をかけると「グリーン経済」についての記述が大幅に後退したという記事がたくさんヒットします。「グリーン経済」は今回のサミットの大きなテーマだっただけに、数値目標もロードマップも示せなかったことを失望する人が多かったでしょう。

「環境と調和した経済を目指す」「そのためのプログラム、目標値、ロードマップを示す」単純に考えると、反対する理由はなさそうですが、貧困問題に悩む途上国にとって、持続可能性は「環境・経済・社会」の3つの柱で成り立つものであり、「環境と経済」にフォーカスすることによって「社会的公正」の視点が薄れるという疑いを持ったということかもしれません。あるいは「環境と経済の調和」が経済発展の障害になる可能性を感じたのかもしれません。

環境NGOや先住民の人権を扱うNGOにも受けが良くありませんでした。

例えば、エネルギー源をバイオマスに転換することは、化石燃料や原子力への依存を減らすことになり、新たな産業を興すことにつながります。けれども、木質バイオマスの生産が、従来型の「工業生産的効率性」を追求して行われるならば、森は一面の単一樹種となり、伐採されるときは数百ヘクタールにわたる皆伐。木が切られた後は泥だらけになり、気候の厳しいところでは回復までに長い年月を要するかもしれません。また、森を生活の場とする先住民の暮らしの基盤を奪うことにもなりかねません。今の「グリーン経済」がほんとうに「持続可能な生態系の利用」につながるのか、疑心暗鬼になっているのです。

その理由の一つは「グリーン経済」が明確に定義されて来なかったことにあるのかもしれません。このままでは、自然収奪型の経済・格差助長型の社会がさらに進むことになるかもしれない。少なくとも、そのようなものではないことを明確に示せなかったのかもしれません。トウモロコシでエタノールを作った結果、穀物相場が上がって食料価格が上がる、といったことが無いようにしなければなりません。
電車に泣く [2012年06月19日(Tue)]
6月19日、朝の出勤で地下鉄都営新宿線が止まっていた。人身事故があったらしい。仕方なく、迂回して30分遅刻で出勤しました。
帰りは台風4号が関東直撃の時間にあたり「小田急線止まるなよ」との祈りが通じたのか、運休はしていなかったが、人身事故のため代々木上原で動かなくなった。復旧までに2時間くらいかかりそうとのことなので、東京メトロ千代田線で表参道へ。半蔵門線→田園都市線と迂回して自宅に着いた頃は、台風の影響でひどい雨と風。1日に2回人身事故に遭遇するというのは、運が悪いとしか言いようがありません。
流れ去る時間・積み重なる時間 [2012年06月07日(Thu)]
「時の流れ」という言葉が象徴するように、時間は、川のように流れ去り、元に戻ることのない一本の線としてイメージされるのが一般的な感覚だと思います。

ところが現代では、今の生活が過去や未来と連続したものであるとの意識さえ持ちにくくなっているような気がします。今の子どもたちは、自分の親や祖父・祖母の生活を思い描くことさえ難しくなっているのではないでしょうか。未来さえもが現在の延長線上に見えなくなってきているような気がしてなりません。現在と未来の不連続。つまり、いつか破局的な事象が起こってしまうのではないかとの意識が、3.11以降、より現実味を帯びているように思います。

現代の日本人がイメージする「時間」は、ダムで寸断されたような川なのかもしれません。

かつて、私たちの暮らしは「過去の蓄積」として意識されていました。滋賀県の嘉田知事のインタビューをしたことがあります。嘉田知事は、風景の中に時間を見る達人でした。風景をかたちづくる一つひとつのものは人の営為が産みだしたものであり、川の堤防の歴史を問えば、いつ・どこの・誰が・何をしたということを語る人がいたとおっしゃっていました。過去は、決して過ぎ去ってしまったものでなく、そこに蓄積されてあるものなのです。

また、かつては、現在と未来の連続性を体で実感する暮らしがありました。木を植える人は、自分が死んだ後も木が育ち、森となり、自分の子や孫の世代を豊かにすることを信じています。人生のはかなさを嘆くこともありません。棚田の石垣、川の堤防、全てがそうだったのでしょう。

過去の蓄積の上に現在があり、現在の営為が未来につながっていると感じられる暮らしは「持続可能な発展」そのものであると思います。そのような暮らしをする人たちは、時間を「積み重なっていくもの」としてとらえます。今一度、そのような実感の持てる生活へと向かうことが、持続可能な社会への道と言えるのではないでしょうか。