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人事異動のお知らせ [2025年05月31日(Sat)]
2025年5月30日(金)付け人事異動のお知らせ

★内田貴之 氏
異動前:事務局長
異動後:事務局次長

★宮澤範生 氏
異動前:当事者会員(正会員)
異動後:理事 兼 事務局長

※補足:当団体の理事は全員「当事者会員(正会員)」であるため、宮澤範生氏については「異動」というより「昇格」が正しい。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
理事会
Posted by 内田 at 01:59 | 活動報告 | この記事のURL | トラックバック(0)
心に響き救われた座右の銘7つ [2025年05月25日(Sun)]
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍です。

私が実際に見聞きして心に響き救われた感覚を持ち、現在では自分の座右の銘としている言葉を7つご紹介してみたいと思います。以前も似たようなテーマのコラム記事を執筆したかもしれません。重なっていたものがあれば、それだけ私の当時の心には響いたということになりましょう。

1)九転十起
一般的には「七転び八起き」という言葉が古くから浸透していますが、この言葉は私が他に所属している団体の重役メンバーから教わったものです。「七転び八起き」よりも回数が多いだけとか「9回失敗しても10回目で成功が訪れる」というニュアンスなのではなく、どれほど失敗しようとも立ち上がり続け信念を持って挑み続ければいつか必ず成功する、という意味が込められています。その「いつか」というのは今世には限定していません。今世では生涯失敗し続けたとしてもその信念は魂に刻まれ、来世の課題として巡ってくるのです。

2)悩みは取り越し苦労なことが多い
悩みと称されるものの実態を見ると、その多くはその人の悩みがちな性格自体から発しています。つまり、悩みは「将来起きるかもしれない」ということに対して、様々な不安なイメージを働かせてしまい、取り越し苦労をする性格に起因することが多いのです。「将来」というと1年後・5年後・10年後などを想像しやすいと思いますが「現在から先」と捉えて構いません。つまり、まだ起きていないことに対してあれこれとネガティブに考えてしまい、ネガティブな思考が不安感を産んで、それが悩みになることも多いという意味です。もちろん悩みの中には過去これまでの経験からの「生きづらさ」などもあります。しかし、私はこの言葉と出会い、実際に取り越し苦労なタイプの悩みを持っていることを実感したことがあります。

3)特に一番深い悩みは試練の問題集
自分の人生の問題集が何であるのかを教えているのが、現在抱えている特に一番深い悩み事である。という言葉には救われました。私が現在抱えている悩みは精神疾患の社交不安障害、その症状の1つ「視線恐怖症」です。これが特に一番深い悩み事です。常に誰から視線が集まっているように感じ、それが恐怖なのです。人生の問題集は、人それぞれ試練として与えられていて、人それぞれ解き方が異なるといいます。しかしながら、それは「試練」であるため、絶対に乗り越えられない物ではないと信じています。絶対に乗り越えられないような試練は魂の成長には繋がらないため与える意味がないからです。私も自分の症状と闘いながら人生を歩んでいきます。

4)死にたいほど辛くなった時は逃げても良い
これは自殺予防を共に学んだ親友から教えてもらった言葉です。先ほどの試練の話にも関連しますが、乗り越えようと必死に闘い過ぎて、かえって死にたいほど辛くなる精神状態に陥ることがあります。そういう時は逃げても構わないといいます。この「逃げる」という行動は決して「試練に立ち向かうのを辞める」という意味ではなく「一旦休息をとる」という意味です。この言葉にどれほど私が救われたかわかりません。

5)誰でも初めてのことは山ほど失敗する
肝心なのは信念を持ち続けて諦めず継続し続けることです。初めての試み・初めての作業・初めての勉強・初めての仕事・初めての恋愛など、何でもそうですが初めてのことに挑むという行動には山ほど失敗が待ち構えているもので、当たり前なのです。失敗を恐れて挑まないのは、不安感が強いからだと思いますが、山ほど失敗したって当たり前。それでも継続し挑み続けていくうちに、失敗しないコツや他のやり方が分かってくるものです。魂の経験値といっても過言ではないでしょう。

6)学ぶことに年齢は関係ない
学ぶことは小中高大に限りません。社会人になってからもそうですし、年老いてからもそうです。「興味関心が強くある!」と心にビビッと来たことというのは大抵、今世の課題・使命と関連があるものと言われています。何歳からでも学び初めて「遅い」ということはありません。そして、何のために学ぶのか?といえば魂の経験値を上げるためです。魂の経験値を上げ、世の中に還元する行動をとる。社会の発展に繋がってゆくのです。

7)どのような環境にあっても一輪の花を咲かせる
私が一番好きな座右の銘です。どのような劣悪な環境の中にいようとも、泥沼の中から咲く蓮の花のように、自分なりの精一杯の美しい一輪の花を人生の中で咲かせる。そう決意して生きて行けば、それなりの花を咲かせることは可能だという言葉です。その花の大きさや形・香り・色などは十人十色であって構わないのです。自分なりの精一杯の花であればタンポポのような小さな花であっても良いのです。

誰かに教えてもらった言葉が、自分の心を支えて救ってくれることが人生の中では多々経験します。今回は特に私自身が「心に響き救われた言葉」そして「自分の座右の銘としている精神を支えてくれている言葉」をピックアップしてみました。これらの言葉が、読者の皆様のうち、どなたかの心にも響いて救われることを願っています。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
命をいただくということ〜「食」と「生命の連鎖」〜 [2025年05月22日(Thu)]
お久しぶりです。
障害当事者団体ベクトルズ 尾侍です。
「命をいただくということ」と題して「食と生命の連鎖」をテーマにコラム記事を執筆しました。近年散見される「ヴィーガン思想」に対しても私の個人的な意見を申します。

私たち人間は、日々の暮らしの中で多くの命をいただいて生きています。肉や魚、野菜や穀物――そのどれもが、かつては生きていた存在であり、それぞれの命がこの地球の中で役割を果たしながら存在していました。そして今、私たちの口に運ばれ、体の一部となり、生命をつなぐ力となってくれているのです。

スピリチュアリズムでは、人間は肉体だけの存在ではなく、霊体、そして魂を持った三層構造の存在であると考えます。この魂は永遠であり、肉体の死をもって終わるのではなく、成長と学びの旅を続けていく存在です。

そうした霊的な視点に立つと、「命を食べる」という行為もまた、単なる生理的な営みではなく、魂がこの地上での学びを続けていくための、神聖なプロセスの一部であると理解できるようになります。

命をいただくということは、「奪うこと」ではありません。むしろ、他の命の犠牲のうえに自分が存在するという現実に、謙虚さと感謝の心を持つことが、私たち魂の成長には欠かせないのだと感じています。命をいただくとは、生命の循環の中に自らを位置づけ、そのバトンを受け取り、次へと繋げていく行為なのです。

食事の時間に、ほんのひとときでも「ありがとう」「いただきます」という言葉を、心からの祈りとして捧げることができたなら、それは単なるマナーではなく、霊的な実践にもなり得ます。命あるものすべてが、この地球という霊的学校の中で、それぞれの役割を果たしている。だからこそ、私たちは食べるという日常の中にも、神聖な意識を宿すことができるのです。

私たちは命を食べて、生きています。これはとても自然なことです。けれど、自然であるからこそ、そこに感謝と敬意を忘れてはならない。命をいただくことは、私たち人間に与えられた責任であり、霊的な愛の実践でもあると私は思うのです。

近年、「動物を食べることは人間として愚かであり、植物しか口にすべきでない」とするヴィーガン思想を見聞きする機会があります。その志の高さや動物愛護の精神には敬意を抱きつつも、「動物はだめで植物なら良い」という考え方には、私は少し距離を感じてしまいます。

というのも、スピリチュアリズムの視点では、人間はもちろんのこと、動物も、魚も、植物も、それぞれに魂が宿っている存在であり、それぞれがこの世界での役割を持って生きていると考えるからです。

たしかに動物は鳴き声や目の動きなど、私たち人間に「心がある」ことを感じさせてくれます。一方で、植物には声がなく、動かないぶん、私たちには感情や意思が見えにくいのかもしれません。けれども、だからといって植物に心がないとは、私は思いません。植物もまた、環境に反応し、命を守るために様々な働きを行い、互いに調和しながらこの地上に存在しています。その姿には、霊的な意志が宿っているように私には感じられるのです。

命の尊さに優劣はありません。

人間も、動物も、植物も、すべてが魂を持つ存在であり、この地上での役割を担う仲間です。だからこそ私は、「どの命が良くて、どの命が劣る」という考え方ではなく、命そのものに対する感謝と敬意を大切にしていたいと思うのです。

どんな命も、たった一つとして「無意味」なものは存在していません。すべての命には、魂があり、使命があり、この世界の中で互いに支え合いながら生きています。食べるという行為は、そうした命のつながりを受け取り、自らの内に引き継ぐ神聖な営みなのだと、私は信じています。

だからこそ、今日もこうして生きていること、誰かの命をいただいて明日へ歩めることに、静かな感謝と敬意を捧げながら、私は一日を終えたいと思います。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
第9号ニューズレター [2025年05月11日(Sun)]
おはようございます。
障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事の尾侍です。
「第9号 ニューズレター」を私のコラム付きで発行します。


■直近の活動
今週、現在応募中のとある助成金のオンライン(zoom)グループワーク面接審査が実施されるため、内田代表理事が「緊張する…」「グループワークで協調性を示すのはASD当事者としては苦手分野だ…」と嘆きつつも準備をしているようです。あなたの肩に今年度の障害当事者団体ベクトルズの大きな活動の命運が乗っかっています、頑張って自信を持ってください!

聞けば、もともとが競争率の高い助成金とのことで、ダメもとで良いではありませんか?当たって砕ける勢いで挑んでいただきたいと思っています。当然ですが、砕ける際は骨折程度ではなく骨もチリになって風で簡単に飛んでゆくくらいの砕ける勢いで、つまり全身全霊で突っ込んできていただきましょう!(苦笑)中途半端より「自分にできることは全部出し切ったぞ!」のほうが、もし審査に落選したとしても後腐れが無いのです。


■講演のコラボレーション
2025年5月4日(日)札幌市白石区民センターを会場に、自殺予防団体-SPbyMD-によって主催された「自殺予防団体-SPbyMD-創立12周年記念イベント〜自殺予防と精神疾患に関する講演会〜」。こちらに障害当事者団体ベクトルズとしてもコラボレーションさせていただき、会員の宮澤さんが登壇し『精神障害者が描く生きづらさを感じにくい社会像』というタイトルで講演を行なったと報告を受けております。

この講演会の一番最後に、自殺予防団体-SPbyMD- 竹内理事長による講演があり、そこでも「私たちSPbyMDの特徴は他団体との積極的なコラボレーションだと思っています!」と発言されており、動画を拝聴した私も感謝の気持ちでいっぱいになりました。障害当事者団体ベクトルズというまだまだ小規模な地域コミュニティですが、歴史と活動実績のある自殺予防団体-SPbyMD-とコラボレーションさせていただける有難さ、感謝でいっぱいです。

私が、自殺予防団体-SPbyMD-の共同創立者であるという事実は公式サイトおよび私の個人Twitterでも公開しておりますので、読者の中には「SPbyMDの共同創立者でもあり、ベクトルズの理事でもあるという立場ならコラボレーションできて当然なのではないのか?」と疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。しかしながら、いくら創立者が同じであったとしても、別の組織である以上、そうした特権のようなものは存在しておりません。


■最後に尾侍コラム記事
Twitterではハッシュタグで『#国は安楽死を認めてください』を付けた上で「安楽死こそが自殺念慮者の救いになる」「自殺願望のある人には安楽死制度こそが救いの道・希望の光」等と語る人が増えていますが、極めて危険な誤解です。生き死にを決める権利は人間にはなく神にあります。
⠀⠀
当然ながら自殺という死、かつ尊厳死であれ安楽死であれ自ら命の流れを断つ行為は霊的に重い責任を伴う“悪い死”です。以前の衆議院選挙でも「安楽死党」を安楽死制度こそ自殺対策に必要だとして応援する方々のツイートが目立っておりましたが、絶対に自殺対策にはなり得ません。
⠀⠀
「なぁんだ、どこぞの宗教か?」と反応する方も実際いると予想されますが、私のこの発言は特定の宗教教義ではなくスピリチュアリズムという思想の上に立っています。そして少々強めの口調で書いたのは警告メッセージだから、という動機があるからです。


■編集後記
「第9号ニューズレター」は私、尾侍が初めて執筆を担当させていただきました。写真の載せ方といった特殊なブログ機能については未熟なため、必要であれば内田代表理事に加筆・写真添付アレンジなどしていただこうかと思っております。

毎月1回発行し続けている障害当事者団体ベクトルズのニューズレターも、今回で9回目です。日常的なコラム記事もそうですが、このように根気強く継続できる背景には、やはり障害当事者団体ベクトルズとして北海道の障害者福祉を当事者視点から促進させていく一助になりたい!という内田代表理事や私や他の会員の皆さんが持つ強い思いの力が存在するからだと、感じております。

今後も障害当事者団体ベクトルズをよろしくお願いいたします。最後までご精読くださりありがとうございました。


以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
毒親・精神障害・生きづらさ:魂の視点から見る現代の課題 [2025年05月01日(Thu)]
こんばんは。
障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事 尾侍です。
「毒親・精神障害・生きづらさ」という社会問題をテーマに取り上げます。

"毒親"という言葉が、世間に定着して久しいです。過干渉、人格否定、無関心、支配。そのような親からの影響に苦しみ、いまも心の傷を抱えたまま生きている人が少なくありません。私自身もまた、そうした「親」という存在に心を乱されてきたひとりの当事者です。毒親に育てられた子どもが、大人になったからといって、自動的に回復できるわけではありません。

むしろ問題は、大人になった後に本格化してきます。社会に出れば「親のせいにするな」「いつまで過去を引きずっているんだ」と責められ、語る言葉さえ封じられていきます。その沈黙のなかで、精神のバランスを崩し、精神障害という“生きづらさ”を抱える人も多いのが現代社会です。

私たちはいま、ただでさえ厳しい社会の中で、さらに親からのダメージを引きずりながら生きなければならない状況に立たされています。これは単なる個人の問題ではなく、構造的な、社会全体の問題だと私は考えています。

魂の視点から見る「毒親」

スピリチュアリズムの視点から見ると、魂はこの世に生まれる前に「学びのテーマ」を選んでくるといいます。ならば、なぜ私たちは“毒親”という困難な環境を選んで生まれてきたのか?この問いに、簡単な答えはありません。しかし私は、魂が成熟していくためには「感情の痛み」や「自己否定を越えていく力」を学ぶ必要がある、と感じています。毒親との関係のなかで味わう理不尽や、壊されそうになる自己価値感。それを乗り越えるプロセスそのものが、魂の進化に関わっているのかもしれないと思います。

ただし、それは「だから我慢しろ」という話では決してありません。魂の学びと人権侵害は別問題です。苦しみを声にすることは、魂の成長と同じくらい、地上で生きる私たちにとって大切な営みです。

社会が生きづらさを再生産している

精神障害を抱える人々の中には、幼少期からの家庭環境に大きな原因がある人が多くいらっしゃいます。にも関わらず、福祉制度や医療の現場では「家庭の問題」は個人の問題として扱われがちなのです。さらに、社会の中にも無理解や偏見が根強く存在していることも事実です。「甘え」「逃げ」「弱さ」。そうしたレッテルによって、助けを求める声はかき消されてしまっています。

これは、個人が怠けているからではありません。社会そのものが「傷ついた人間」を受け止める想像力を失い、むしろ傷を深めてしまっているのだと私は感じています。

本当の癒しとは何か

私は、癒しとは「正しさを押しつけること」ではなく、「痛みの存在を認め、共にいること」だと思っています。

スピリチュアリズムでは、人と人は魂のレベルでつながっており、互いの学びのために出会うとされています。ならば、苦しんでいる誰かに寄り添うことは、その人の魂を支えると同時に、自分の魂も成長させる営みなのです。傷ついた人を癒す社会とは、優しさを“与える”社会だけに留まらず、優しさを“育て合う”社会だとも思います。

最後に

毒親という言葉の裏には、長い沈黙の歴史があるように思います。精神障害の陰には、見えない傷と涙があります。生きづらさの影には、社会の硬直と無関心があります。私たちはそれらを見つめ、語り、そして変えていく必要があると思うのです。

魂の成長と社会の変化は、決して矛盾しません。むしろそのふたつが重なるところにこそ、私たちが目指すべき「新しい共生社会」があるのではないでしょうか?

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
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