• もっと見る
« 2025年02月 | Main | 2025年04月»
報告:GK新ひだか(共同主催) [2025年03月24日(Mon)]
こんばんは。
障害当事者団体ベクトルズ 内田貴之です。

今日は起床後から「GK新ひだか」の事後処理に明け暮れました。
自殺予防団体-SPbyMD-の事務局長名義で、
「第22回目 こころの通う対話のできるゲートキーパー養成講習@新ひだか」
活動報告・収支報告および受講者感想(一部抜粋)を作成し、
自殺予防団体-SPbyMD-公式ブログ(下記リンク)に掲載いたしました。

受講者感想は"原文ママ"にしておくか迷いましたが、
せっかく記事を開いてもらえたなら「読める」ようにしておきたいな…と思い、
文章校正してあります。
言葉が省略されている文章については推測で加筆しました。
https://blog.canpan.info/spbymd/archive/358

今後も障害当事者団体ベクトルズは、
自殺予防団体-SPbyMD-と一緒に「ゲートキーパー養成講習」を
創り続けていく方針ですので応援よろしくお願いします!

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表理事 内田貴之
Posted by 内田 at 20:50 | 活動報告 | この記事のURL | トラックバック(0)
私の好きな詩『旅人』を紹介 [2025年03月19日(Wed)]
こんばんは。
障害当事者団体ベクトルズの尾侍です。

この世を生きて、そして死を迎える。
しかしながら「死によって無になる」「全てが終わりになる」と
思い込んでいる人は現代に多くいらっしゃると思います。

ここで私の好きな詩『旅人』を紹介します。

旅人よ
この世を行く
澄みわたった青い空を仰ぎ
芽吹きの野を歩む

花咲く草原を過ぎ
ときには
砂漠を越え
険しい岩場をも行く

一歩いっぽ
花のかおりに誘われて
また確かに
大地をふみしめて行く

短いこの世の旅ではあるけれど
自らの学びを深め
与えられた時を行く

春が来て夏を思い
夏過ぎて秋風と遊ぶ
やがて白い花が降り積もる頃
春のほほえみを夢見る

時めぐり全てが流れて行く
我が旅
流転の中にあって
この世に自らの学びと
人々の幸せを願い生まれ
そして故郷である天へと還る

人生は旅
この時代にこの名前で生まれて旅をし
死を迎えてひとつの旅が終わる

またそこから
新たな旅が始まる

(引用:護国寺住職・詩人 杉田寛仁の著書)

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
学生時代の想い出:内田貴之編 [2025年03月18日(Tue)]
こんにちは。
障害当事者団体ベクトルズの内田です。

保護課の家庭訪問が終わり少し時間に余裕ができたので
「学生時代の想い出」コラム記事企画に僕も参加します。
では大学生時代にタイ王国へ渡航した想い出を書きましょうか。

僕は2009年に江別市にある北海道情報大学に入学しました。
情報メディア学部情報メディア学科メディアデザイン専攻WEBデザインコースです。
1年生は必須単位の教養科目も多かったのですが
メディアデザインに関する必須単位の専門科目もありました。

今はもう廃止されてしまった「Adobe Flash」を学ぶ演習で
「アニメーション演習」と「Flashプログラミング演習」がありました。
アニメーションのほうは結構好きで課題も難なくクリアできましたが、
プログラミングは算数の知識が必要で最初からつまづき…
プログラミング演算の式もさっぱり意味不明で友人にやってもらってました。

それから「WEBデザイン基礎演習」があり、
Photoshopでデザイン制作→パーツをスライスして
Dreamweaverでコーディングするという、
WEBデザイン入門の流れを一通り学ぶ科目ですね。

その演習科目を通じて僕はWEBデザインが面白い!!と思いまして、
気の合う友人と2人で「学内WEBデザインコンテスト」に応募することにしました。

その友人はプログラミングがめっちゃ得意分野かつ
ゲームBGMの作曲まで出来ちゃう凄腕だったので、
コンテストの作品制作は友人が全て担当し
僕はその作品制作に必要な情報収集を担当しました。

そして友人のおかげで共同制作作品が学内コンテストに入賞!

なんとちょうどその年から、
学内WEBデザインコンテスト入賞者は教授と共に
タイ王国へ渡航して姉妹校との「国際コンテスト」に出場することとなったのです。
タイ王国にある「ラジャマンガラ工科大学タンヤブリ校」へ行きました♪
(友人よ、ありがとな!)

渡航日の新千歳空港は氷点下10度くらいで猛吹雪。
飛行機も飛べるかどうか心配でしたが無事飛んで一旦東京へ、
そこから乗り換えて一気にタイ王国へ。7時間も座りっぱなしで疲れました。

タイ王国の空港から外に出たら・・・
ぐわわわわ!!!猛烈な熱風とギラギラ太陽!!!
高温多湿な環境での外気温42度でした(;'∀')溶けるぅぅ〜

1週間くらい現地に滞在して、
「国際コンテスト」の表彰式は5日目くらいだった気がします。
それまでは毎日、観光!観光!観光!観光!
色んな観光スポットに連れていかれました。

あっちのゴキブリやばいですよ・・・。
手のひらサイズ、遭遇。ぴゃあああ(´;ω;`)
僕、虫がめっちゃ苦手なのです。。。

そんなこんなでとても楽しい想い出です♪
全てを語ると止まらないのでここらで自制しておきます。

このタイ王国渡航の想い出は僕にとって濃くて深いので
恐らく認知症になるまでは忘れないと思います。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表理事 内田貴之
第7号ニューズレター [2025年03月08日(Sat)]
おはようございます。
障害当事者団体ベクトルズです。
「第7号ニューズレター」を発行します。

今月で設立から丸半年が経過しました!
新たに会員・賛助会員として加わって下さった方々に感謝です。

現在ベクトルズの主な活動は「ブログのコラム記事執筆」です。
代表理事・代表補佐理事・会員それぞれが執筆担当をしているコラム記事、
アクセス分析を見ますと代表補佐理事の記事が圧倒的に訪問者数もPV数も高いです。
スピリチュアルな視点で様々なテーマを解説している記事が多く人気です!

さて、
市民向け講演会やレクリエーション行事ももっと実施したいところですが、
団体の資金難につき季節的に暖かくなるまでお待ち願います。
会場施設を借りられる資金が不足していても活動拠点に集まっての開催ならば
無料…!?かと思いきや冬季は暖房費がとてもかかってしまうのです。

★今後こういう活動をやってみたい!という会員の声

1)お気に入りの音楽をUSBメモリに入れて持ち寄っての「音楽鑑賞会」
2)完全代読ver.霊的価値観から学ぶ障害そして生きる意味「講演会」
3)世界双極性障害デー・世界統合失調症デー・世界発達障害者デー等の「啓発活動」
4)自分にとって新たな趣味開拓を目指す教え合いっこの「レクリエーション」

などのリクエストが寄せられています♪
時間はかかっても着実に実現させていきたいと強く意気込んでいます!
今後とも障害当事者団体ベクトルズをよろしくお願いいたします。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
事務局
学生時代の想い出:蓬生さつき編 [2025年03月05日(Wed)]
こんにちは、障害当事者団体ベクトルズ 会員 蓬生さつきです。
「学生時代の想い出:○○編」という同じテーマについて
理事や会員が自分のエピソードを自由に書くという
コラム記事の企画が前回から始まりました。
1人目は代表補佐理事の尾侍さんでした♪

それでは早速、蓬生さつき編「学生時代の想い出」を書きます。
私は幼小中高大と長年にわたる学生時代の殆どが「不登校」でした。

幼稚園では、年少の頃は神奈川にいて楽しく行けてました。
優しい先生が大好きでいつも一緒に遊んでくれました。
一人で泥団子を作るのが楽しかったです。
でも、、、

年長で北海道に引っ越してからは、
「集団行動」がどうしても苦手で、
並んで集団下校しなきゃいけないのに、
毎日、お母さんに迎えに来てもらい、近隣のスーパーで買い物というのが、
日常でした。

神奈川のときは田舎だったので、集団下校を余儀なくしてましたが、
札幌の集団行動には、馴染めなく「ひとり」が好きでしたね。

そんな私も小学生になり北区の小学校に入学し、
3年生まで楽しく過ごしていまいたが、
隣の区に引っ越してからは、どうも馴染めなくて引っ越してまもなく
学校に行けなくなり、「不登校」になりました。

毎日お母さんと喧嘩しては、お父さんに怯え、
お姉ちゃんと部屋のクローゼットで
一日過ごすのが1年くらい続きました。

私の時代は、土曜日が午前授業で学校があったのですが、
うちのお父さんは土曜日が休みで、、、
怒られるから土曜は仕方なく学校へ行っていました。
巷では、私達姉妹を「土曜の女」と呼ぶようになっていきました(^_^;)

特にいじめられてるわけでもなかったんだけど、
なんか
馴染めなくて、、、。

いじめではなかったけど、スキー遠足で、雪山を登るときに、
私だけ、アイスバーンのとこに行ってしまい、
身動きできなかったできなかった私を見て、笑ったりして、
誰れも助けてくれなかったのを、今でもはっきりと覚えています。
北区にはあった私の「居場所」は、白石にはなかったです。

そんな3年生も自動的に終りを迎え、4年生へと上がりましたが、
登校拒否を1年もやっていると、
今度は、行くに行けなくなってしまって(きっかけがなくて)
困っていたところを、当時の担任の牧先生が、
ある日、家に訪問してきて、話を聞いてくれました。

そして、シール集めが好きだと言った私に、
ハワイの珍しいシールをくれました。
そして、徐々に仲良くなっていって遂には学校も行けるようになりました。

そうして、小学校は4年生の後半から卒業式まで、
登校拒否せず、毎日通うことができました。

そんな日々が永遠と続くと思われた学校生活でしたが、
中学校に上がると、これまで仲良くしてた友達の裏切りで、
ま登校拒否になってしまい、中学1年の夏休みから中3まで
不登校になってしまいました。

学校に行きたくなさ過ぎて、授業時間に事もあろうに電話ボックスで、
小学校の保健の先生に電話して、小学校に逃げたこともありました笑

好きなお笑い芸人のラジオが終了した頃に、
「この人たちも新たな道へと進んで行くのに、私だけ立ち止まってるわけにはいかない!」
と勇気出して友達に電話して、まずは保健室登校という形で投稿し始めたのが、
中学2年の秋のことでした。

中学3年になって担任と和解して、やがて高校進学伴い徐々に教室に顔出すようになり、
酷いいじめに耐え、なんとか卒業しました。

そして見事、高校進学しましたが、
私に勇気が足りなくて高校生活1周間もしないうちに退学届を出しました。

学級担任及び校長に
「こんなことで躓いていたら、どこの学校に行っても同じこと繰り返すよ」
なんて皮肉を言われ退学しました。

退学してからも「高校だけは卒業したい」という思いはあったので、
その時期から入れる高校・定時制・私立とか探しては面談したのですが、
どれもいい感じのところはなく、、、。

その退学した高校では秋になると学校PRのイベントが行われ、
その内容は、演劇・演奏・合唱などの中学生にPRするイベントがあって、
その中で、ある一人の先生が「退学した生徒へ」と
退学してしまった生徒に宛てて、一通の手紙を読んでたのです。

その手紙には「力になれなくてごめん」と綴られていました。
それは、私に宛てた手紙ではないことは分かっていたのですが、
私はそれを観て「あ、この先生となら頑張れる、この先生がいい」と
直感的に思いました。

そして、私は同じ高校を二回受けて合格し、
晴れて二度目の高校生になれたのでした。
そしたら、なんとも運命的!
その先生が私の担任だったのです。

私の二度目の高校生生活は、いじめもあったし、嫌なこともいっぱいあったけど、
そのたんびに、担任に相談して
「俺がいるから、学校来い!」「勉強と本は、裏切らない」という名言を残し、
先生の言うがままに通学していたら、徐々に友達も増え、
楽しい学校生活を送れるようになり、
学年トップで3年間で高校を無事卒業できました。

その先生とは縁があり、出会ってから10年間、共にお世話になりました。
今は飲み友として、交友関係は続いています。

そして、中学の同級生とは1年遅れて、教師になるという夢を持って、
大学に進学したのですが、、、。
当たり前の話ですが、大学には、たくさんの人がいて、、、、。
怖くて怖くてどうしようもなくて、私は3日もしないうちに行かなくなり
半年の更新をしないまま、退学しました。

図書室には行きたいと思ったので、同級生に会わないように、
深く帽子を被って、行っていました。

そして月日は流れ、主婦まがいなこともしながら、幾度の季節を巡り、
25歳のときに、「これからはITの時代だ!」と悟り、
パソコン系の専門学校に入学しました。

でも、現役の18歳と25歳の壁は厚く、
うまく溶け込むことができませんでした。
溶け込むというか、弾かれたと言うか、、、。

クラスで話す人もいなく、ってか次第に気づいたら誰れも話かけても
無視するという状況に陥り、実質いじめが起きてしまい、
退学をせざるを得なくなりました。

それから何年かニート生活に戻ったのですが、
「いつでも結婚できるから心配いらないよ」と元婚約者に言われ、
その言葉に甘えて、また主婦まがいな生活を送っていましたが、、、。
結局縁がなく、結婚には至りませでした。
その方とは、今は飲み友達です。

そんなこんなで30歳を迎えたときに、このままニート生活しながら、
一生を終えていくのは嫌だと、一値発起して、
勇気を出して、職業訓練に4ヶ月休まないで卒業し
生まれて始めて「就活」というのをしました。
ちゃんと卒業したのは、高校以来のことでした。

年の倍ぐらい、書類を出して面接をし、落ちてはまた応募する
忙しい日々が続きました。

就活中に、こころがちょっと疲れて、
ハロワのこころの相談室に通うことにしました。
その中で、今の精神科を紹介してもらい、
それ以降、ハロワではなくその精神科にお世話になること数年。

縁あって、今のB型就労支援に通所している日々を送っています。
行けば行っただけ工賃がもらえると言うことと、
就職の道の手伝いをしてくれると言うこともあって、
用がない限り通所18日以上通所すると言う目標を
持って、毎日通所しています。

通所(社会人になって)思うことは、
高校、大学、専と、莫大なお金を払わせてしまった親に、
少しでも孝行をしたいと思います。

自殺予防も、その一環だと思って活動を続けている日々を送っている次第です。
でも、ボランティアでは、ありません。

私はボランティアという言葉が、嫌いです。

ボランティアという言葉がなくなるくらい、人を助ける、
人の役に立てることが当たり前になってくる
世の中でいてほしいからです。

登校拒否に陥って(もしくはニート)しまった私だからこそ、
できることがあるのなら、なにか世の中のためになることができたなら、
なんか、いいです。

つたない文章になりましたが私のエピソードをそのまま表現しました。
ご精読ありがとうございました。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
会員 蓬生さつき
学生時代の想い出:尾侍酔助編 [2025年03月04日(Tue)]
おはようございます。
障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事です。
今朝もマイナス10度まで冷え込んでいます。
天気予報ではこれからさらにマイナス12度まで冷え込むそうです。
3月に入ってもまだまだ「真冬」さを感じています。

代表理事からの提案でベクトルズのメンバーが
同じテーマを掲げてコラム記事を執筆してみよう!ということになりました。
「学生時代の想い出:尾侍編」と題しまして今朝は私が執筆します。

学生時代の記憶が濃い想い出について語ります。
私は札幌市にある私立高校に入学し、
入学直後の同級生と交流を深める目的のバーベキュー遠足という行事で
同じチームになった内田と仲良くなりました。
そこで仲良くなれたおかげで約20年経った現在もこうして共に活動できています。

高校時代の私には気心の合う「語り合える友人」が3名しかいませんでしたが、
しかしその人数の少なさに「さみしさ」は全く感じたことがありません。
いつでも腹を割って熱く語り合える3名の友人がそばにいたからこそだと思います。

ちなみに私はご存知でしょうが社交不安障害と強迫性障害を持っていまして、
部活動や生徒会に所属した経験がありません。
特に同年代の若者とのコミュニケーションが非常に苦手で
無理をするとパニック発作が起きてしまいます。

そのため帰宅部だったわけですがクラスでは他の同級生たちが「やりたがらない」
学園祭の手描き学級旗づくりには率先して立候補をし、
3年間手がけることができました。
当時から絵を描くことだけは私の得意分野だったからです!

内田は和太鼓部に所属していましたが、
学級旗づくりの際には部活動を抜け出したりサボったりして
手伝ってくれたエピソードもあります。
当時の内田が言うには「和太鼓部は運動部ではなく文化部に分類されるけれど
常に全身運動するから運動系文化部だと感じているよ」だそうです。

そして高校時代、私は毎日の放課後に図書室で友人と集まり
私の大好きな自然(当時は特に魚・川・木)について
図鑑を取り出して見ながら語り合う楽しみがありました。
私が発案者で「緑を守る会」といったような自由同好会を作り、
内田たちと共に市内の川を観察しに出かけたり自然博物館などへ
出かけたりと毎週末がその会の活動で楽しかったのです。

その活動でさらに「熱く語り合える友人」から「熱く語り合える親友」へと
私の気持ち変化がありました。

このようにして私は高校を卒業したのですが
その親友3人組とは大学時代にももっと親睦を深められるようになりました。
お互い20歳になりお酒を飲めるようになったキッカケが大きいでしょう。
しょっちゅう私の家に集まって泊まりでお酒を浴びるほど飲み、
しゃぶしゃぶや焼肉パーティーで大盛り上がりした楽しい想い出があります。

親友3人組のうち一人は医療系大学へ進んでいたこともあり
途中から大学生活の多忙さであまり会える機会がなくなってしまったのですが、
内田だけは大学時代も毎週末に会っていました。
そこで「社会問題である自殺問題について学びを深めよう!」という流れで、
現在の「自殺予防団体-SPbyMD-」の前身団体である「シン研」を立ち上げました。

高校時代に同級生として出会い、
互いに気心の合う親友として学校生活をエンジョイできたからこそ
私も自殺問題について学び、そして自殺予防活動を始められたと思います。
ありがとう!

想い出を振り返りながらの執筆で長文になってしまいましたが、
これにて私の「学生時代の想い出:尾侍編」を終えます。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助

追伸:3月より私も活動名義を使うことになりました。活動名義の苗字「尾侍」は私がサムライを好きだということから内田が名付けてくれた愛称です。名前「酔助」は酔っ払いを助けるという意味ではなく(笑)以前アルコール依存症を患った私が、現在でも完治ではなくあくまでも寛解という状態であることを自分自身に戒める気持ちで「酔う」という字を当てました。「助」は自殺予防団体で人の命を助ける活動をしていることや、困っている人のお手伝いをせずにはいられない性格、そしてやはりサムライが好きであるという理由から「助ける」という字を当てました。