学生時代の想い出:蓬生さつき編 [2025年03月05日(Wed)]
こんにちは、障害当事者団体ベクトルズ 会員 蓬生さつきです。
「学生時代の想い出:○○編」という同じテーマについて 理事や会員が自分のエピソードを自由に書くという コラム記事の企画が前回から始まりました。 1人目は代表補佐理事の尾侍さんでした♪ それでは早速、蓬生さつき編「学生時代の想い出」を書きます。 私は幼小中高大と長年にわたる学生時代の殆どが「不登校」でした。 幼稚園では、年少の頃は神奈川にいて楽しく行けてました。 優しい先生が大好きでいつも一緒に遊んでくれました。 一人で泥団子を作るのが楽しかったです。 でも、、、 年長で北海道に引っ越してからは、 「集団行動」がどうしても苦手で、 並んで集団下校しなきゃいけないのに、 毎日、お母さんに迎えに来てもらい、近隣のスーパーで買い物というのが、 日常でした。 神奈川のときは田舎だったので、集団下校を余儀なくしてましたが、 札幌の集団行動には、馴染めなく「ひとり」が好きでしたね。 そんな私も小学生になり北区の小学校に入学し、 3年生まで楽しく過ごしていまいたが、 隣の区に引っ越してからは、どうも馴染めなくて引っ越してまもなく 学校に行けなくなり、「不登校」になりました。 毎日お母さんと喧嘩しては、お父さんに怯え、 お姉ちゃんと部屋のクローゼットで 一日過ごすのが1年くらい続きました。 私の時代は、土曜日が午前授業で学校があったのですが、 うちのお父さんは土曜日が休みで、、、 怒られるから土曜は仕方なく学校へ行っていました。 巷では、私達姉妹を「土曜の女」と呼ぶようになっていきました(^_^;) 特にいじめられてるわけでもなかったんだけど、 なんか 馴染めなくて、、、。 いじめではなかったけど、スキー遠足で、雪山を登るときに、 私だけ、アイスバーンのとこに行ってしまい、 身動きできなかったできなかった私を見て、笑ったりして、 誰れも助けてくれなかったのを、今でもはっきりと覚えています。 北区にはあった私の「居場所」は、白石にはなかったです。 そんな3年生も自動的に終りを迎え、4年生へと上がりましたが、 登校拒否を1年もやっていると、 今度は、行くに行けなくなってしまって(きっかけがなくて) 困っていたところを、当時の担任の牧先生が、 ある日、家に訪問してきて、話を聞いてくれました。 そして、シール集めが好きだと言った私に、 ハワイの珍しいシールをくれました。 そして、徐々に仲良くなっていって遂には学校も行けるようになりました。 そうして、小学校は4年生の後半から卒業式まで、 登校拒否せず、毎日通うことができました。 そんな日々が永遠と続くと思われた学校生活でしたが、 中学校に上がると、これまで仲良くしてた友達の裏切りで、 ま登校拒否になってしまい、中学1年の夏休みから中3まで 不登校になってしまいました。 学校に行きたくなさ過ぎて、授業時間に事もあろうに電話ボックスで、 小学校の保健の先生に電話して、小学校に逃げたこともありました笑 好きなお笑い芸人のラジオが終了した頃に、 「この人たちも新たな道へと進んで行くのに、私だけ立ち止まってるわけにはいかない!」 と勇気出して友達に電話して、まずは保健室登校という形で投稿し始めたのが、 中学2年の秋のことでした。 中学3年になって担任と和解して、やがて高校進学伴い徐々に教室に顔出すようになり、 酷いいじめに耐え、なんとか卒業しました。 そして見事、高校進学しましたが、 私に勇気が足りなくて高校生活1周間もしないうちに退学届を出しました。 学級担任及び校長に 「こんなことで躓いていたら、どこの学校に行っても同じこと繰り返すよ」 なんて皮肉を言われ退学しました。 退学してからも「高校だけは卒業したい」という思いはあったので、 その時期から入れる高校・定時制・私立とか探しては面談したのですが、 どれもいい感じのところはなく、、、。 その退学した高校では秋になると学校PRのイベントが行われ、 その内容は、演劇・演奏・合唱などの中学生にPRするイベントがあって、 その中で、ある一人の先生が「退学した生徒へ」と 退学してしまった生徒に宛てて、一通の手紙を読んでたのです。 その手紙には「力になれなくてごめん」と綴られていました。 それは、私に宛てた手紙ではないことは分かっていたのですが、 私はそれを観て「あ、この先生となら頑張れる、この先生がいい」と 直感的に思いました。 そして、私は同じ高校を二回受けて合格し、 晴れて二度目の高校生になれたのでした。 そしたら、なんとも運命的! その先生が私の担任だったのです。 私の二度目の高校生生活は、いじめもあったし、嫌なこともいっぱいあったけど、 そのたんびに、担任に相談して 「俺がいるから、学校来い!」「勉強と本は、裏切らない」という名言を残し、 先生の言うがままに通学していたら、徐々に友達も増え、 楽しい学校生活を送れるようになり、 学年トップで3年間で高校を無事卒業できました。 その先生とは縁があり、出会ってから10年間、共にお世話になりました。 今は飲み友として、交友関係は続いています。 そして、中学の同級生とは1年遅れて、教師になるという夢を持って、 大学に進学したのですが、、、。 当たり前の話ですが、大学には、たくさんの人がいて、、、、。 怖くて怖くてどうしようもなくて、私は3日もしないうちに行かなくなり 半年の更新をしないまま、退学しました。 図書室には行きたいと思ったので、同級生に会わないように、 深く帽子を被って、行っていました。 そして月日は流れ、主婦まがいなこともしながら、幾度の季節を巡り、 25歳のときに、「これからはITの時代だ!」と悟り、 パソコン系の専門学校に入学しました。 でも、現役の18歳と25歳の壁は厚く、 うまく溶け込むことができませんでした。 溶け込むというか、弾かれたと言うか、、、。 クラスで話す人もいなく、ってか次第に気づいたら誰れも話かけても 無視するという状況に陥り、実質いじめが起きてしまい、 退学をせざるを得なくなりました。 それから何年かニート生活に戻ったのですが、 「いつでも結婚できるから心配いらないよ」と元婚約者に言われ、 その言葉に甘えて、また主婦まがいな生活を送っていましたが、、、。 結局縁がなく、結婚には至りませでした。 その方とは、今は飲み友達です。 そんなこんなで30歳を迎えたときに、このままニート生活しながら、 一生を終えていくのは嫌だと、一値発起して、 勇気を出して、職業訓練に4ヶ月休まないで卒業し 生まれて始めて「就活」というのをしました。 ちゃんと卒業したのは、高校以来のことでした。 年の倍ぐらい、書類を出して面接をし、落ちてはまた応募する 忙しい日々が続きました。 就活中に、こころがちょっと疲れて、 ハロワのこころの相談室に通うことにしました。 その中で、今の精神科を紹介してもらい、 それ以降、ハロワではなくその精神科にお世話になること数年。 縁あって、今のB型就労支援に通所している日々を送っています。 行けば行っただけ工賃がもらえると言うことと、 就職の道の手伝いをしてくれると言うこともあって、 用がない限り通所18日以上通所すると言う目標を 持って、毎日通所しています。 通所(社会人になって)思うことは、 高校、大学、専と、莫大なお金を払わせてしまった親に、 少しでも孝行をしたいと思います。 自殺予防も、その一環だと思って活動を続けている日々を送っている次第です。 でも、ボランティアでは、ありません。 私はボランティアという言葉が、嫌いです。 ボランティアという言葉がなくなるくらい、人を助ける、 人の役に立てることが当たり前になってくる 世の中でいてほしいからです。 登校拒否に陥って(もしくはニート)しまった私だからこそ、 できることがあるのなら、なにか世の中のためになることができたなら、 なんか、いいです。 つたない文章になりましたが私のエピソードをそのまま表現しました。 ご精読ありがとうございました。 以上 障害当事者団体ベクトルズ 会員 蓬生さつき |