障害を持って生きる人生にも魂のシナリオがある [2026年08月26日(Wed)]
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― 「なぜ自分が」と思う人生を、霊的な視点から考える ―
障害当事者団体ベクトルズの尾侍酔助です。 とても久しぶりのコラム記事になります。 今回は「障害と人生」を大きなテーマとして、私が長年学んできたスピリチュアリズムの視点から考えてみたいと思います。 現代医学では、人間がどのような肉体を持って生まれ、どのような体つきや性質を持つのかについて、遺伝子、つまりDNAの中に多くの情報が組み込まれていると説明されます。確かに、肉体という側面だけを見るなら、DNAは一種の設計図と呼べるものなのでしょう。 しかし、私が考える人間は、それだけではありません。肉体の中には「魂」が宿っています。外から見える肉体と、その中に宿る魂は同じものではありません。たとえば、生まれつき身体のさまざまな部分に不自由がある人がいたとしても、その人の魂そのものまで不自由なわけではありません。 この世に生まれてくる前、霊的世界にいた魂は、肉体に障害のある人も、ない人も、同じように一つの人格を持った霊的存在です。今回の人生では声を出すことが難しい人であっても、魂としては言葉を交わしていた存在かもしれません。耳が聞こえない肉体に生まれた人も、魂そのものが聞く力を失っているわけではありません。 肉体上の制約と、魂の本質とは別のものなのです。 人生の「設定」は、偶然だけで決まるのではありません。もちろん、すべての障害や病気を単純に「生まれる前から決まっていた」と言い切ることはできません。出産時の事故や、人生の途中で起こる事故、病気など、この世で生きる中でさまざまな出来事があります。 しかし、もっと大きな霊的視点から人生を見ると、私たちがどの時代に、どの国に、どの家庭に、どのような肉体を持って生まれてくるのかについて、ある程度の大まかな人生計画が存在していると私は考えています。 この世に、まったく同じ人間ばかりが生まれてきても、魂の学びにはなりません。男性として生まれる人がいて、女性として生まれる人がいる。背の高い人もいれば、低い人もいる。丈夫な身体に生まれる人もいれば、生まれつき病気や障害を持つ人もいる。得意なことも、苦手なことも違います。 そして成長する中で、それぞれの能力や適性、性格、生活環境によって、進む道も変わっていきます。人間が皆まったく同じではないこと自体に、意味があるのだと思います。 思い描いていた人生と違っていても、それも一つの人生です。たとえば、自分が親になる前には「子どもが生まれたら、こんなところへ旅行したい」「こんなことを一緒にしてみたい」「できるだけ自由で活発な家庭にしたい」と、さまざまな人生像を思い描く人がいるでしょう。 ところが、実際に子どもが生まれてみると、先天性の障害がある場合があります。あるいは、成長する過程で病気や障害を抱えることもあります。すると、想像していたよりもずっと大きな責任や負担を背負いながら生活することになるかもしれません。「こんなはずではなかった」「なぜ自分の家庭だけが」そう思うこともあるでしょう。 しかし私は、それもまた「あり得る人生の一つ」なのだと思っています。軽々しく「受け入れなさい」と言いたいわけではありません。現実の介護や支援、経済的な負担、将来への不安は、とても重たいものです。それでも、霊的な視点から見れば、その人生にもまた、その人たちにしか経験できない学びがある。そう考える余地はあるのではないでしょうか。 「人生は一度きり」は、半分正しく、半分違うことについて。よく、アニメでもドラマでも日常生活でも「人生は一度きり」という言葉を耳にします。私は、この言葉はある意味では正しいと思っています。今回の人生は、本当に今回限りだからです。 2026年という時代の日本に生まれ、今の家族や友人と出会い、今の社会制度の中で生活する人生は、一度しかありません。まったく同じ条件の人生を、もう一度やり直すことはできません。しかし、魂という視点から見れば、「人生そのものが一度きり」というわけではありません。私たちはこれまでにも、数多くの人生を経験してきた。そして今回の人生が終わった後も、魂の歩みは続いていきます。 同じ魂であっても、次に生まれる時代も違えば、国も違うかもしれません。仕事のあり方も時代によって様変わりします。社会制度も、価値観も、医学も変わります。だからこそ、まったく同じ人生というものは存在しません。魂は何度も人生を経験しますが、一つ一つの人生はすべて一度きりなのです。 今回は、この肉体で生きてみる。今回の人生で、男性として生まれる人。女性として生まれる人。健康な肉体を持つ人。先天性の障害を持つ人。重い病気を抱えて生まれる人。人生の途中で事故や病気によって身体に大きな変化が起こる人。本当にさまざまです。 私はそれを「この100年ほどの人生では、一度こういう条件で生きてみなさい」と、神仏から与えられた一つのシナリオのように捉えています。もちろん、生まれてきた本人には、その意味が最初から分かるわけではありません。むしろ「どうして自分だけが」「なぜこんな身体なのか」「なぜこの病気になったのか」と思うほうが自然でしょう。 私たちは、生まれる前に霊的世界で立てた人生計画を、ほとんど覚えていないからです。だからこそ、この世で苦しみながら意味を探すことになります。スピリチュアリズムを学んでいくと、人生の見え方が少し変わってきます。「なぜ自分だけがこんな目に遭うのか」という問いだけではなく「この人生を通して、自分は何を学ぶのだろう」という問いが生まれてきます。 生まれる前の霊的世界において、自分がこれまでどのような人生を歩んできたのか。今回、どのような両親のもとに生まれるのか。どのような環境の中で、何を経験するのか。そうした大きな流れまで含めて人生を考えると「これは魂修行として、今の自分に必要な課題なのかもしれない」と感じられるようになることがあります。 もちろん、そこまで納得するには長い年月が必要な人もいるでしょう。障害や病気を抱えた直後に 「これは魂の勉強です」などと言われても、到底受け入れられない人がいるのは当然です。苦しみの最中にいる人へ、霊的な価値観を押しつけるべきではありません。本人が人生を歩みながら、自分自身で意味を見つけていくものだと思います。 そして他人と比較しすぎなくてもいいという価値観も大切です。特に若い人ほど、他人との違いを強く意識することがあります。「あの人にはできるのに、自分にはできない」「あの人は普通に働けている」「あの人は恋愛も結婚もできている」「あの人は健康なのに」…。比べれば比べるほど、自分の足りない部分ばかりが見えてしまいます。 しかし、そもそも人生のシナリオが一人ひとり違うのであれば、他人とまったく同じ人生を送る必要はありません。「十人十色」という障害当事者団体ベクトルズでも頻繁に使う言葉があります。私は、人間は違っているからこそよいのだと思います。 能力が違う。身体が違う。得意不得意が違う。生きる速度が違う。背負っている課題も違う。それでも、一人ひとりの魂が持つ尊さに上下はありません。私は、その「尊さ」において人間は平等なのだと思っています。さらには、障害があるというだけで、その人間の価値が下がるわけではありません。肉体に制約があることと、魂の価値は別です。 できることが少ないから魂の価値も低い、などということはありません。むしろ、その人にしか経験できない人生があります。障害を持つ本人が学ぶこともあれば、その人と一緒に生きる家族が学ぶこともあります。友人や職場の仲間、支援者が、その人との関係を通じて学ぶこともあります。 一人の人生は、その本人だけで完結しているわけではありません。周囲の人の人生とも交差しながら、多くの魂が一緒に学んでいます。そう考えると、障害を持つ人がこの世に生まれてくること自体にも、大きな意味があるのではないでしょうか。 私は「人生にはシナリオがある」と考えています。しかし、それは何から何まで決まっていて、人間には自由がないという意味ではありません。どのような肉体に生まれるか。どの時代に生まれるか。どのような家庭環境から人生を始めるか。そうした大枠は決まっていたとしても、その中で何を考え、何を選び、どう行動するかは本人に委ねられています。 同じ障害を持っていても、歩む人生は一人ひとり違います。同じ苦しみに直面しても、そこから何を学ぶかは違います。だからこそ魂修行になるのでしょう。シナリオがあるから人生が決まっているのではありません。与えられたシナリオを自分がどう生きるか?そこに自由意志があり、魂の成長があるのだと思います。 まとめにひと言 障害や病気を抱えていると「なぜ自分が」という問いから逃れられなくなる時があります。しかし、霊的な視点から人生を眺めると、その問いを少しだけ変えることができます。「なぜ自分が」ではなく「この人生だからこそ、私は何を経験し、何を学ぶのだろう」と。 今回の人生は、一度きりです。この肉体も、この時代も、この家族も、この環境も、今回限りです。だからこそ、他人の人生を羨んで終わるのではなく、自分に与えられた人生を、自分なりに生きてみる。 障害があってもいい。病気があってもいい。人よりできないことがあってもいい。それらは魂の価値を下げるものではありません。私たちは皆、それぞれ違うシナリオを持って、この世に生まれてきました。そして、その違いの中で経験を積みながら、少しずつ魂を成長させていく。 私は、障害を持って生きる人生もまた、その長い魂の旅路の中にある、かけがえのない一つの人生なのだと思っています。 以上 障害当事者団体ベクトルズ 障害当事者会員 尾侍酔助 |


