死刑に関する個人的見解 [2025年07月02日(Wed)]
こんにちは。
障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事です。 先日、死刑執行があったことについて学友から「死刑についてどう思うか」と質問を受けました。私は10年以上前に一度、スピリチュアリズムを学び始めた頃に死刑について自分の考えを述べて書籍として出版したことがあります。その書籍データを管理してくれている内田代表理事にその記述を探してもらいましたが、出版物が多過ぎて見つけ出せなかったとの報告でした。 そこで私は思いました。当時の記述を探し出したところでそれは10年以上前の、しかもスピリチュアリズムをまだ学び始めた頃のものです。この機会に改めて私自身、死刑について考えを見つめ直してみることにしました。 これからこのコラム記事で述べることは、あくまでも私の個人的見解であり、障害当事者団体ベクトルズの公式見解ではないことを先に留意点として宣言しておきます。 ■死刑と終身刑の違い 我が国には終身刑は存在していません。無期懲役という刑期を定めない制度ならありますが仮釈放の可能性は捨てきれないため、終身刑とは異なります。私は、もし我が国にも終身刑が存在していれば死刑よりも終身刑のほうが良いと考えています。 ■魂修行の観点 死刑にせよ終身刑にせよ、それほどに罪が重たければ死後は天国へ還れず地獄という反省の場所へ行くことになります。しかし、魂修行の観点としてはこの世で生きている間に自分の罪と向き合い反省の日々を送り続ける期間が長いほうが良いと思うのです。それは寿命が尽きるまで。それが終身刑という期間の長さです。 ■神が罪人を生かしている観点 重たい罪を犯した人間はサッサと死刑執行をして地獄へ行かせたほうが良いのではないか?という考えを持つ方もいることでしょう。死刑執行が寿命なのであればそうでしょうが、それであれば重たい罪を犯した時点で寿命を終わらせればいいとは思いませんか?神は生殺与奪権を唯一握っている存在です。その時点でその人間の心臓を止めて寿命を終わらせる、つまり今世の魂修行を終わらせることが可能なのです。 ところが神は生かしています。その意味をもっと考えたほうが私は良いと思います。神が生かしている限り、その期間は「反省に充てなさい」ということだと私は捉えています。ですから、死刑よりも終身刑のほうが神のご意思を尊重している刑罰だと思うわけです。 ■死刑制度の存在と生殺与奪権 先述した通り、生殺与奪権を握っている存在は神が唯一です。死刑という制度は国がその権利を持っていることになります。それを神が許しているということは、神は生殺与奪権を国に部分的に与えているという捉え方もできます。そう捉えると死刑という制度そのものはこのまま存在していても問題はないのでしょう。 ■死刑に関する個人的見解 まとめます。私は個人的には死刑よりも終身刑のほうが良いと考えています。それは魂修行という観点からです。人間は神により創られた霊的存在です。人間にとっての実世界は霊界、あの世です。この世はあくまでも魂修行を行うための仮の世界です。霊的存在である人間が肉体という器に定められし期間宿り留まり、この世で様々な課題に臨み魂としての成長を試みるための世界です。 その課題は十人十色、自分自身で計画したものもあれば、神が与えた試練もあります。試練に立ち向かい、たとえ失敗しても寿命が尽きるまで何度でも再挑戦し続けます。神は温かく見守ってくださっていますし、守護霊がいつでも寄り添って応援し続けてくれています。 こうした魂修行の観点で死刑を考えた時、与えられた試練に挑んでいる途中で、国の決断によってプツッと途切れさせてしまうように私は感じます。死刑囚となった者が死刑執行されるまでの期間はまばらです。割と早く執行されることもあれば、何年も期間があることもあり、私としては国の気まぐれで「はい、明日にします」と決めているようにも思えてしまいます。 「死刑についてどう思うか」という質問に対する私の回答は以上を読んでいただけてお分かりかと思いますが、死刑よりも終身刑のほうが良いと個人的には思うものの、命に関わるテーマは奥が深すぎて(=神のご意思は人間には分からないという意味)なぜそう思うのかという核心的なところまで追究することが難しいのです。 今後もじっくりと考えていきたいと思っています。 以上 障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事 尾侍酔助 |