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死刑に関する個人的見解 [2025年07月02日(Wed)]
こんにちは。
障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事です。

先日、死刑執行があったことについて学友から「死刑についてどう思うか」と質問を受けました。私は10年以上前に一度、スピリチュアリズムを学び始めた頃に死刑について自分の考えを述べて書籍として出版したことがあります。その書籍データを管理してくれている内田代表理事にその記述を探してもらいましたが、出版物が多過ぎて見つけ出せなかったとの報告でした。

そこで私は思いました。当時の記述を探し出したところでそれは10年以上前の、しかもスピリチュアリズムをまだ学び始めた頃のものです。この機会に改めて私自身、死刑について考えを見つめ直してみることにしました。

これからこのコラム記事で述べることは、あくまでも私の個人的見解であり、障害当事者団体ベクトルズの公式見解ではないことを先に留意点として宣言しておきます。

■死刑と終身刑の違い
我が国には終身刑は存在していません。無期懲役という刑期を定めない制度ならありますが仮釈放の可能性は捨てきれないため、終身刑とは異なります。私は、もし我が国にも終身刑が存在していれば死刑よりも終身刑のほうが良いと考えています。

■魂修行の観点
死刑にせよ終身刑にせよ、それほどに罪が重たければ死後は天国へ還れず地獄という反省の場所へ行くことになります。しかし、魂修行の観点としてはこの世で生きている間に自分の罪と向き合い反省の日々を送り続ける期間が長いほうが良いと思うのです。それは寿命が尽きるまで。それが終身刑という期間の長さです。

■神が罪人を生かしている観点
重たい罪を犯した人間はサッサと死刑執行をして地獄へ行かせたほうが良いのではないか?という考えを持つ方もいることでしょう。死刑執行が寿命なのであればそうでしょうが、それであれば重たい罪を犯した時点で寿命を終わらせればいいとは思いませんか?神は生殺与奪権を唯一握っている存在です。その時点でその人間の心臓を止めて寿命を終わらせる、つまり今世の魂修行を終わらせることが可能なのです。

ところが神は生かしています。その意味をもっと考えたほうが私は良いと思います。神が生かしている限り、その期間は「反省に充てなさい」ということだと私は捉えています。ですから、死刑よりも終身刑のほうが神のご意思を尊重している刑罰だと思うわけです。

■死刑制度の存在と生殺与奪権
先述した通り、生殺与奪権を握っている存在は神が唯一です。死刑という制度は国がその権利を持っていることになります。それを神が許しているということは、神は生殺与奪権を国に部分的に与えているという捉え方もできます。そう捉えると死刑という制度そのものはこのまま存在していても問題はないのでしょう。

■死刑に関する個人的見解
まとめます。私は個人的には死刑よりも終身刑のほうが良いと考えています。それは魂修行という観点からです。人間は神により創られた霊的存在です。人間にとっての実世界は霊界、あの世です。この世はあくまでも魂修行を行うための仮の世界です。霊的存在である人間が肉体という器に定められし期間宿り留まり、この世で様々な課題に臨み魂としての成長を試みるための世界です。

その課題は十人十色、自分自身で計画したものもあれば、神が与えた試練もあります。試練に立ち向かい、たとえ失敗しても寿命が尽きるまで何度でも再挑戦し続けます。神は温かく見守ってくださっていますし、守護霊がいつでも寄り添って応援し続けてくれています。

こうした魂修行の観点で死刑を考えた時、与えられた試練に挑んでいる途中で、国の決断によってプツッと途切れさせてしまうように私は感じます。死刑囚となった者が死刑執行されるまでの期間はまばらです。割と早く執行されることもあれば、何年も期間があることもあり、私としては国の気まぐれで「はい、明日にします」と決めているようにも思えてしまいます。

「死刑についてどう思うか」という質問に対する私の回答は以上を読んでいただけてお分かりかと思いますが、死刑よりも終身刑のほうが良いと個人的には思うものの、命に関わるテーマは奥が深すぎて(=神のご意思は人間には分からないという意味)なぜそう思うのかという核心的なところまで追究することが難しいのです。

今後もじっくりと考えていきたいと思っています。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
7/1「こころの日」 [2025年07月01日(Tue)]
おはようございます。
障害当事者団体ベクトルズの代表補佐理事です。


本日7/1は「こころの日」です。日本精神科看護協会が制定した啓発デーで、この日は、精神疾患や精神障害に対する正しい理解を深め、こころの健康の大切さを考える日とされています。協会の特設ページにも、「こころの日」は、精神保健に関する問題を広く社会に啓発し、精神的な健康を維持・促進するための活動を促進することを目的としています。と書かれています。


障害当事者団体ベクトルズとして取り上げるのは初めてですが、私が所属している別団体の「自殺予防団体-SPbyMD-」では毎年取り上げて「こころの日セミナー」を札幌市内で開催したり、数年前には当別町・月形町・浦臼町・新十津川町などのエリアや、旭川市・東神楽町・東川町・比布町・当麻町・愛別町などのエリアを回って「こころの日の街頭演説」を実施していると活動報告を受けています。


ちなみに、「自殺予防団体-SPbyMD-」は障害当事者団体ベクトルズと同じく私と内田の2人で、2013年に立ち上げた団体です。障害当事者団体ベクトルズとは活動分野的にも親和性が高いため、2024年9月からは一緒に『こころの通う対話のできるゲートキーパー養成講習』を共同主催したり企画協働したりとコラボをする機会が多くあります。


さておき「こころの日」にちなんで本日は、精神疾患や精神障害に対する正しい理解を深め、こころの健康の大切さを考えるをテーマに私なりのスピリチュアリズム視点も交えたコラム記事を執筆してみたいと思います。


障害当事者団体ベクトルズという団体はその名称のとおり、障害者によって構成され運営しています。私も含め現在のメンバーは全員「精神障害」を患っています。私は「社交不安障害」と「強迫性障害」、代表理事の内田は「先天性発達障害」と「睡眠障害」、ほかメンバーには「うつ病」「双極性障害」「統合失調感情障害」など様々な種類の精神障害の当事者が在籍しています。このコラム記事を執筆する際、代表理事の内田に確認したところ発達障害は医療と福祉の分野では精神障害に分類されているとのことでした。精神障害に対する正しい理解を深める啓発デーという趣旨からも、その辺りについては本人に確認しておくことが大切だと思ったわけです。


精神障害を患っている多くの方は「後天性」と言われています。つまり生まれながらにしてではなく、幼少期や大人になってから何らかのキッカケがあり発病するというものです。発達障害に関しては「先天性」なのです。生まれながらにしての障害のため治ることはありません。実は私の知り合いには「先天性の統合失調症」の方がいます。統合失調症に関しては、医学的にも解明されていないことが多いと専門書で学んだことがあります。遺伝性である場合もあるため、先天性もあり得るというそうです。


「精神障害について正しい理解を深めたい」という思いを強く抱く方は、自分自身がその当事者である場合・家族や恋人や友人がその当事者である場合・医療や福祉の分野に仕事やライフワークとして携わっている場合、が大半ではないかと私は個人的に感じています。精神障害に何も関わりのない方にとっては関心すら薄い気がしています。「自分には関係ない」と思う方や「偏見」に凝り固まっている方・「差別意識を無自覚で持っている」方など私はこれまでの人生で出会ってきました。


精神障害は後天性であることが多いため、今は健康状態であっても、いつどのようなことがキッカケとなり精神障害者になるか予測不可能です。精神障害の世間的なイメージには「働きすぎの過労によって鬱病になる」「いじめが原因で社交不安障害になる」といったものがあると、これまで私が出会ってきた色々な人から聞いた話から推察できます。宗教に関わっている知り合いは「精神障害は全て悪霊の憑依によるもの」と固く信じ切っている方もいました。中にはそれが事実であることもあるとは思いますが、それが全てではないと私は思っています。


私はスピリチュアリズムを勉強するかたわら、宗教法人にも所属して宗教観・宗教教義も学んでいます。知り合いが信じ切っている「精神障害は全て悪霊の憑依によるもの」という認識は宗教教義上でそのように言われているため信じて、信仰の力によって憑依している悪霊を祓うことさえできれば治るものだ、と述べているのです。宗教とは信仰ですから、そう信じ切ってしまっていることは仕方ないことです。


スピリチュアリズムにおいて精神障害は、単に「悪霊の憑依」によるものとは限らず、もっと幅広い要因と意味を持つ現象として捉えられています。精神障害は、単なる「病気」ではなく、魂が今回の地上人生で何かを深く学ぶために自ら選んできた経験の一つである場合があります。過去世からの未解決の課題や、人間関係・感情のパターン、他者との相互作用を通じて「魂を成熟させるための課題」として現れることがあるのです。❝苦しみは無意味な罰ではなく、意味ある成長の種である❞というスピリチュアリズム視点を持って欲しいと思います。この視点は「スピリチュアルな成長モデル」として、決して本人を否定せず、むしろ魂の尊厳を守る立場です。


たしかに、スピリチュアリズムでも「低級霊の影響」や「憑依現象」が精神に影響を与えることはあるとされています。ですがそれは 一因に過ぎず、すべての精神障害を「悪霊のせい」と一括りにすることは、むしろ魂の尊厳や個人の人生課題の深さを見失う危険があります。霊の干渉を受けやすくなる背景には、過去のトラウマ・心の傷・社会的孤立・感受性の強さなどがあり、これらもまた尊重すべき人間的なプロセスだと思います。


信仰によって霊的波動が高まり、霊障から解放されることがあるのは事実ですが、精神障害を持つ方すべてが「信仰が足りない」わけではないのではないかと私は思います。むしろ、「苦しみながらも生きている」というその姿こそ、魂の修行の最前線であり、信仰の真価が問われる場面です。ですから「信じれば治る」「信じてないから苦しい」という断定は、霊的な真理を狭く解釈してしまっている危険があると感じてならないのです。


精神障害という現象は、知り合いが述べるように単なる「悪霊の憑依」で片づけられるものではないと私は思います。魂の成長のために、自らが選んできた人生の課題かもしれないし、過去から続く深いカルマの浄化かもしれません。スピリチュアリズムの視点では、たとえ苦しみの中にあっても、その人の魂には尊厳と目的があると信じます。私たちにできることは、「憑かれている」と決めつけることではなく、ただそっと寄り添い、魂が回復していく時間を尊重することではないでしょうか。


ということで、7/1「こころの日」にちなんで私なりのスピリチュアリズム視点を交えたコラムでした。「精神障害について正しい理解を深めたい」と関心を持っている方へ私が最後にメッセージとしてお伝えしたいことは、学ぶ入口は医学だけではない、ということです。様々な方向から多角度的に学び始めたほうが理解は深まると私は思っています。


以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
本日は不安障害啓発デー [2025年06月10日(Tue)]
こんばんは。
障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事です。
本日はあまり知られていないのですが「不安障害啓発デー」です。

不安障害と大きく括られている中には私や宮澤理事も患っている社交不安障害が含まれていますので、啓発コラムを執筆させていただきたいと思います。

■不安障害の概要(引用)
不安障害とは、日常的な不安や心配が過剰になり、日常生活に支障をきたす精神疾患です。不安が強いことで、精神的な苦痛だけでなく、身体的な症状も伴うことがあります。具体的には、以下のような状態が特徴です。

・過剰な不安や心配:実際の状況と比べて、過剰に不安や心配を抱く。
・日常生活への影響:不安や心配が強すぎて、日常生活に支障が出ている。
・身体症状:動悸、発汗、呼吸困難、震えなど、身体的な症状も伴う。
・精神的な苦痛:精神的な苦痛や不快感を感じる。

不安障害には、様々な種類があり、それぞれのタイプによって症状や特徴が異なります。

社交不安障害:
人前での行動や、他人から注目される場面で、過剰な不安や恐怖を感じる。

パニック障害:
突然強い不安や恐怖に襲われる「パニック発作」が起こる。

全般性不安障害:
漠然とした不安や心配が、日常的に強く、長期間続く。

強迫性障害:
特定の考えや行動に、強迫的にこだわる。

上記は「不安障害とは」で検索した際に表示されるAIの回答です。しかしながら「強迫性障害」が不安障害に含まれていたことは過去の話であり、現在では不安障害とは別の分類となっています。ご存知でしょうが、私は社交不安障害と強迫性障害の2つを子どもの頃から患っている当事者です。

不安障害にはいくつもの種類がありますが、共通している点は、やはり「不安」と「恐怖感」でしょう。それが特定の出来事に対して起こるのか、予測不可能で起こるのか、といった多くの違いでそれぞれ障害名が異なっているのではないかと思っています。

そして例えば、社交不安障害と言ってもその中にはさらに症状が細かく分かれています。不安障害は奥が深いのです。私は特に「視線恐怖症」の症状が強く、宮澤理事は「人前に立って話すことに対する恐怖症」の症状が強くあります。

不安や恐怖感というものについて「慣れの問題」「案ずるより産むがやすし」「怯えてないで立ち向かえばいい」「勇気と気合で何とでもなる」と短絡的に捉えないでいただきたいと思います。「案ずるより産むがやすい」ということを本人は頭では理解していても、不安や恐怖感が嫌でも湧き上がってきてしまう精神障害なのです。その点を多くの方にご理解いただきたいと思います。

障害当事者団体ベクトルズでは講演会の活動も行なっています。そこには、宮澤理事も講演者として登壇しマイクを握ります。これは恐怖感との闘いです。恐らく想像を絶するような壮絶な闘いだと思います。当然、内田代表理事もその点は理解していますし「場数を踏んで慣れてもらう」といった考えは持っていません。宮澤理事は講演を強制されているわけではなく、最も苦手で恐怖感を伴う行動にチャレンジしてみようという本人の意思を尊重しています。ですから講演中に「限界」を感じた際には即座にバトンタッチできる体制を整えています。

啓発コラムとしては、あまり内容が濃くないものとなりましたがご容赦ください。この記事を読んだ方が、この記事をきっかにして「不安障害について自分でも調べてみよう」と思えたならば、啓発としては成功だと私は思っています。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
心に響き救われた座右の銘7つ [2025年05月25日(Sun)]
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍です。

私が実際に見聞きして心に響き救われた感覚を持ち、現在では自分の座右の銘としている言葉を7つご紹介してみたいと思います。以前も似たようなテーマのコラム記事を執筆したかもしれません。重なっていたものがあれば、それだけ私の当時の心には響いたということになりましょう。

1)九転十起
一般的には「七転び八起き」という言葉が古くから浸透していますが、この言葉は私が他に所属している団体の重役メンバーから教わったものです。「七転び八起き」よりも回数が多いだけとか「9回失敗しても10回目で成功が訪れる」というニュアンスなのではなく、どれほど失敗しようとも立ち上がり続け信念を持って挑み続ければいつか必ず成功する、という意味が込められています。その「いつか」というのは今世には限定していません。今世では生涯失敗し続けたとしてもその信念は魂に刻まれ、来世の課題として巡ってくるのです。

2)悩みは取り越し苦労なことが多い
悩みと称されるものの実態を見ると、その多くはその人の悩みがちな性格自体から発しています。つまり、悩みは「将来起きるかもしれない」ということに対して、様々な不安なイメージを働かせてしまい、取り越し苦労をする性格に起因することが多いのです。「将来」というと1年後・5年後・10年後などを想像しやすいと思いますが「現在から先」と捉えて構いません。つまり、まだ起きていないことに対してあれこれとネガティブに考えてしまい、ネガティブな思考が不安感を産んで、それが悩みになることも多いという意味です。もちろん悩みの中には過去これまでの経験からの「生きづらさ」などもあります。しかし、私はこの言葉と出会い、実際に取り越し苦労なタイプの悩みを持っていることを実感したことがあります。

3)特に一番深い悩みは試練の問題集
自分の人生の問題集が何であるのかを教えているのが、現在抱えている特に一番深い悩み事である。という言葉には救われました。私が現在抱えている悩みは精神疾患の社交不安障害、その症状の1つ「視線恐怖症」です。これが特に一番深い悩み事です。常に誰から視線が集まっているように感じ、それが恐怖なのです。人生の問題集は、人それぞれ試練として与えられていて、人それぞれ解き方が異なるといいます。しかしながら、それは「試練」であるため、絶対に乗り越えられない物ではないと信じています。絶対に乗り越えられないような試練は魂の成長には繋がらないため与える意味がないからです。私も自分の症状と闘いながら人生を歩んでいきます。

4)死にたいほど辛くなった時は逃げても良い
これは自殺予防を共に学んだ親友から教えてもらった言葉です。先ほどの試練の話にも関連しますが、乗り越えようと必死に闘い過ぎて、かえって死にたいほど辛くなる精神状態に陥ることがあります。そういう時は逃げても構わないといいます。この「逃げる」という行動は決して「試練に立ち向かうのを辞める」という意味ではなく「一旦休息をとる」という意味です。この言葉にどれほど私が救われたかわかりません。

5)誰でも初めてのことは山ほど失敗する
肝心なのは信念を持ち続けて諦めず継続し続けることです。初めての試み・初めての作業・初めての勉強・初めての仕事・初めての恋愛など、何でもそうですが初めてのことに挑むという行動には山ほど失敗が待ち構えているもので、当たり前なのです。失敗を恐れて挑まないのは、不安感が強いからだと思いますが、山ほど失敗したって当たり前。それでも継続し挑み続けていくうちに、失敗しないコツや他のやり方が分かってくるものです。魂の経験値といっても過言ではないでしょう。

6)学ぶことに年齢は関係ない
学ぶことは小中高大に限りません。社会人になってからもそうですし、年老いてからもそうです。「興味関心が強くある!」と心にビビッと来たことというのは大抵、今世の課題・使命と関連があるものと言われています。何歳からでも学び初めて「遅い」ということはありません。そして、何のために学ぶのか?といえば魂の経験値を上げるためです。魂の経験値を上げ、世の中に還元する行動をとる。社会の発展に繋がってゆくのです。

7)どのような環境にあっても一輪の花を咲かせる
私が一番好きな座右の銘です。どのような劣悪な環境の中にいようとも、泥沼の中から咲く蓮の花のように、自分なりの精一杯の美しい一輪の花を人生の中で咲かせる。そう決意して生きて行けば、それなりの花を咲かせることは可能だという言葉です。その花の大きさや形・香り・色などは十人十色であって構わないのです。自分なりの精一杯の花であればタンポポのような小さな花であっても良いのです。

誰かに教えてもらった言葉が、自分の心を支えて救ってくれることが人生の中では多々経験します。今回は特に私自身が「心に響き救われた言葉」そして「自分の座右の銘としている精神を支えてくれている言葉」をピックアップしてみました。これらの言葉が、読者の皆様のうち、どなたかの心にも響いて救われることを願っています。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
命をいただくということ〜「食」と「生命の連鎖」〜 [2025年05月22日(Thu)]
お久しぶりです。
障害当事者団体ベクトルズ 尾侍です。
「命をいただくということ」と題して「食と生命の連鎖」をテーマにコラム記事を執筆しました。近年散見される「ヴィーガン思想」に対しても私の個人的な意見を申します。

私たち人間は、日々の暮らしの中で多くの命をいただいて生きています。肉や魚、野菜や穀物――そのどれもが、かつては生きていた存在であり、それぞれの命がこの地球の中で役割を果たしながら存在していました。そして今、私たちの口に運ばれ、体の一部となり、生命をつなぐ力となってくれているのです。

スピリチュアリズムでは、人間は肉体だけの存在ではなく、霊体、そして魂を持った三層構造の存在であると考えます。この魂は永遠であり、肉体の死をもって終わるのではなく、成長と学びの旅を続けていく存在です。

そうした霊的な視点に立つと、「命を食べる」という行為もまた、単なる生理的な営みではなく、魂がこの地上での学びを続けていくための、神聖なプロセスの一部であると理解できるようになります。

命をいただくということは、「奪うこと」ではありません。むしろ、他の命の犠牲のうえに自分が存在するという現実に、謙虚さと感謝の心を持つことが、私たち魂の成長には欠かせないのだと感じています。命をいただくとは、生命の循環の中に自らを位置づけ、そのバトンを受け取り、次へと繋げていく行為なのです。

食事の時間に、ほんのひとときでも「ありがとう」「いただきます」という言葉を、心からの祈りとして捧げることができたなら、それは単なるマナーではなく、霊的な実践にもなり得ます。命あるものすべてが、この地球という霊的学校の中で、それぞれの役割を果たしている。だからこそ、私たちは食べるという日常の中にも、神聖な意識を宿すことができるのです。

私たちは命を食べて、生きています。これはとても自然なことです。けれど、自然であるからこそ、そこに感謝と敬意を忘れてはならない。命をいただくことは、私たち人間に与えられた責任であり、霊的な愛の実践でもあると私は思うのです。

近年、「動物を食べることは人間として愚かであり、植物しか口にすべきでない」とするヴィーガン思想を見聞きする機会があります。その志の高さや動物愛護の精神には敬意を抱きつつも、「動物はだめで植物なら良い」という考え方には、私は少し距離を感じてしまいます。

というのも、スピリチュアリズムの視点では、人間はもちろんのこと、動物も、魚も、植物も、それぞれに魂が宿っている存在であり、それぞれがこの世界での役割を持って生きていると考えるからです。

たしかに動物は鳴き声や目の動きなど、私たち人間に「心がある」ことを感じさせてくれます。一方で、植物には声がなく、動かないぶん、私たちには感情や意思が見えにくいのかもしれません。けれども、だからといって植物に心がないとは、私は思いません。植物もまた、環境に反応し、命を守るために様々な働きを行い、互いに調和しながらこの地上に存在しています。その姿には、霊的な意志が宿っているように私には感じられるのです。

命の尊さに優劣はありません。

人間も、動物も、植物も、すべてが魂を持つ存在であり、この地上での役割を担う仲間です。だからこそ私は、「どの命が良くて、どの命が劣る」という考え方ではなく、命そのものに対する感謝と敬意を大切にしていたいと思うのです。

どんな命も、たった一つとして「無意味」なものは存在していません。すべての命には、魂があり、使命があり、この世界の中で互いに支え合いながら生きています。食べるという行為は、そうした命のつながりを受け取り、自らの内に引き継ぐ神聖な営みなのだと、私は信じています。

だからこそ、今日もこうして生きていること、誰かの命をいただいて明日へ歩めることに、静かな感謝と敬意を捧げながら、私は一日を終えたいと思います。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
毒親・精神障害・生きづらさ:魂の視点から見る現代の課題 [2025年05月01日(Thu)]
こんばんは。
障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事 尾侍です。
「毒親・精神障害・生きづらさ」という社会問題をテーマに取り上げます。

"毒親"という言葉が、世間に定着して久しいです。過干渉、人格否定、無関心、支配。そのような親からの影響に苦しみ、いまも心の傷を抱えたまま生きている人が少なくありません。私自身もまた、そうした「親」という存在に心を乱されてきたひとりの当事者です。毒親に育てられた子どもが、大人になったからといって、自動的に回復できるわけではありません。

むしろ問題は、大人になった後に本格化してきます。社会に出れば「親のせいにするな」「いつまで過去を引きずっているんだ」と責められ、語る言葉さえ封じられていきます。その沈黙のなかで、精神のバランスを崩し、精神障害という“生きづらさ”を抱える人も多いのが現代社会です。

私たちはいま、ただでさえ厳しい社会の中で、さらに親からのダメージを引きずりながら生きなければならない状況に立たされています。これは単なる個人の問題ではなく、構造的な、社会全体の問題だと私は考えています。

魂の視点から見る「毒親」

スピリチュアリズムの視点から見ると、魂はこの世に生まれる前に「学びのテーマ」を選んでくるといいます。ならば、なぜ私たちは“毒親”という困難な環境を選んで生まれてきたのか?この問いに、簡単な答えはありません。しかし私は、魂が成熟していくためには「感情の痛み」や「自己否定を越えていく力」を学ぶ必要がある、と感じています。毒親との関係のなかで味わう理不尽や、壊されそうになる自己価値感。それを乗り越えるプロセスそのものが、魂の進化に関わっているのかもしれないと思います。

ただし、それは「だから我慢しろ」という話では決してありません。魂の学びと人権侵害は別問題です。苦しみを声にすることは、魂の成長と同じくらい、地上で生きる私たちにとって大切な営みです。

社会が生きづらさを再生産している

精神障害を抱える人々の中には、幼少期からの家庭環境に大きな原因がある人が多くいらっしゃいます。にも関わらず、福祉制度や医療の現場では「家庭の問題」は個人の問題として扱われがちなのです。さらに、社会の中にも無理解や偏見が根強く存在していることも事実です。「甘え」「逃げ」「弱さ」。そうしたレッテルによって、助けを求める声はかき消されてしまっています。

これは、個人が怠けているからではありません。社会そのものが「傷ついた人間」を受け止める想像力を失い、むしろ傷を深めてしまっているのだと私は感じています。

本当の癒しとは何か

私は、癒しとは「正しさを押しつけること」ではなく、「痛みの存在を認め、共にいること」だと思っています。

スピリチュアリズムでは、人と人は魂のレベルでつながっており、互いの学びのために出会うとされています。ならば、苦しんでいる誰かに寄り添うことは、その人の魂を支えると同時に、自分の魂も成長させる営みなのです。傷ついた人を癒す社会とは、優しさを“与える”社会だけに留まらず、優しさを“育て合う”社会だとも思います。

最後に

毒親という言葉の裏には、長い沈黙の歴史があるように思います。精神障害の陰には、見えない傷と涙があります。生きづらさの影には、社会の硬直と無関心があります。私たちはそれらを見つめ、語り、そして変えていく必要があると思うのです。

魂の成長と社会の変化は、決して矛盾しません。むしろそのふたつが重なるところにこそ、私たちが目指すべき「新しい共生社会」があるのではないでしょうか?

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
https://x.com/welfare_samurai
支援と自己責任論の狭間で:本当の優しさとは何か [2025年04月27日(Sun)]
おはようございます。
障害当事者団体ベクトルズ 尾侍です。
今朝は少し社会について考えてみるコラムを執筆しました。

「支援と自己責任論の狭間で:本当の優しさとは何か」

いまの社会には、二つの力がせめぎ合っているように感じます。ひとつは、「誰もが支え合うべきだ」という支援の力。もうひとつは、「自分のことは自分で責任を取るべきだ」という自己責任の力。どちらも、一理あります。どちらか一方だけが正しいわけではないでしょう。しかし、私は思うのです。

魂の成長という視点から見れば、人は本来、支え合うために地上に降りてきたのだと。自立することは尊い。でも、自立とは孤立することではないはずです。他者に頼ることは、魂の弱さではなく、魂の成熟です。スピリチュアリズムが教えてくれるのは、魂同士は本来、つながり合い、助け合うために存在している、ということ。

だから、誰かが「助けてほしい」と言ったとき、それに手を差し伸べるのは、人間性の自然な表れなのです。逆に、「あなたが弱いのは自己責任だ」と切り捨てるとき、私たちは自らの魂の成長の機会を失ってしまうかもしれません。

真の優しさとは、誰かを"甘やかす"ことではありません。真の優しさとは、その人の魂が本来持っている力を信じながら、倒れそうなときにそっと支え、寄り添うことだと思うのです。社会にはいま、優しさの再定義が求められています。

支援と自己責任論の狭間で揺れながらも、私たちはもう一度、魂の目線で問い直さなければならないのではないでしょうか。

"この人のために、私はどんな愛を差し出せるだろうか。"

その問いこそが、きっと社会を、そして私たち自身を、優しく強く育てていくと私は信じています。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
先天性の障害を持って生まれてきた方に伝えたいこと [2025年04月20日(Sun)]
こんばんは(私は就寝直前です)。
障害当事者団体ベクトルズの代表補佐理事です。

「先天性の障害」については、私が執筆担当してきたコラム記事では初めて取り上げるテーマだと思います。私の専門分野の1つ「スピリチュアリズム」に基づいて書きたいと思います。

私たち人間がこの世に生まれてくるとき、それは偶然の産物ではありません。この世は「魂の学校」「魂の修行場」とも呼ばれる場所です。魂は、生まれる前に自らの学びのテーマを選び、必要な経験を積むために人生の設計図を描いてきます。

先天性の障害を持って生まれてきた方。その魂は、決して「罰」としてその体を選んだのではありません。むしろ、深い愛と覚悟をもって、その「ハンディキャップ」と呼ばれる体を選び、地上に降り立ったのです。

あなたの魂は、とても成熟しています。地上での不自由さを通して、人の心の痛みを理解し、他者とのつながりを深め、そして「見えない世界の力」を信じる力を育てていくために、あえてこの道を選ばれました。

これは、誰にでもできることではありません。高い志をもった魂にしか選べない「特別な道」なのです。

私自身は生まれてきたときは先天性の障害は持っていませんでしたが、10代前半で後天性の精神障害者になり「社交不安障害」と「強迫性障害」のダブルパンチで大変苦しく深刻な生きづらさを抱え、障害と共に生きてきました。10代前半ですから、まだまだ子供時代です。発症した当時の私は「学校のクラスメイトは普通なのに、なんで自分だけが」と涙を流すこともありました。

けれど、20歳の時にスピリチュアリズムと出会い、ようやく自分の存在に「意味」があることを知りました。魂の視点に立てば、痛みも悩みも、すべてが「成長のための種」だったことが分かりました。「後天性の障害」であっても、生まれてくる前の人生計画の段階で自分自身に用意した試練の1つだったのだと納得しました。

もし人生が苦しく感じるときは「自分の魂がこの道を望んで選んできた」という視点を思い出してください。それは現実逃避ではなく「霊的な事実」です。見えない世界は、いつもあなたを見守り、導いてくれています。あなたは孤独ではありません。

そしてもう一つ。

あなたがそこにいるだけで、周囲の人々に影響を与えています。存在そのものが「気づき」と「学び」の種となり、あなたの在り方が周囲の魂をも目覚めさせていくのです。どんなに体が不自由でも、どんなに社会が冷たく感じても、あなたの価値は揺るぎません。あなたの魂は、美しく、強く、尊い存在です。

最後に。

この人生が終わったとき、あなたの魂は間違いなく光に包まれます。そして、あなたが歩んだ道の意味が、すべて明らかになります。そのとき、きっと、あなたは微笑むでしょう。「生まれてきてよかった」と。

あなたの旅路に、祝福と導きがありますように。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
対面ではなくても、心はつながる [2025年04月16日(Wed)]
おはようございます。
障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事
通称、尾侍(おさむらい)さんです。

久しぶりに「尾侍コラム記事」の原稿を書いたので
代表理事に代理投稿をお願いしました。
(掲載お願いします)

こんにちは。スピリチュアリズムに関心を持ち、長く学び続けてきた私ですが、今日は少し、私自身のことについてお話ししたいと思います。特に「なぜスピリチュアルカウンセラーやセラピストではなく、こうしてブログやSNSを通じてメッセージを発信しているのか」について、正直な気持ちを綴らせてください。

1)社交不安障害という「壁」

私はスピリチュアリズムの教えを深く信じています。魂の成長や死後の世界、目に見えない存在とのつながり――それらが、人生の中で何度も私を救ってくれました。

けれど同時に、私は社交不安障害という心の課題を抱えています。人と直接関わること、ましてや対面で心の内を聴いたり伝えたりすることに、強い不安と恐怖を感じてしまうのです。何度も努力してみましたが、どうしても身体が反応してしまう瞬間があります。

だからこそ、スピリチュアルカウンセラーやセラピストという道は、今の私には現実的ではありません。これは決してあきらめではなく、自分自身を受け入れた上での「選択」だと、今では思っています。

2)発信というかたちの癒し

「私にできることは何だろう?」そう自問したときにたどり着いたのが、「書くこと」でした。文章なら、誰かの目を直接見る必要も、声を震わせながら話す必要もありません。けれど、それでも心は伝わると信じています。SNSやブログを通じて、私は日々メッセージを発信しています。

心が苦しい人、生きづらさに押しつぶされそうになっている人、愛を信じられなくなってしまった人たちに向けての、静かな呼びかけです。

3)心の豊かさは、誰にでも訪れる

スピリチュアリズムの世界では、「すべての魂は学びの旅をしている」と言われます。今の状況がどれほど暗く、重く、孤独に感じられても、私たちの魂には本来、光があります。その光を、ほんの少しでも思い出せるような言葉を届けたい。そんな気持ちで、私は今日もキーボードに向かっています。

心の豊かさとは、大きなことを成し遂げることでも、完璧な自分になることでもありません。ありのままの自分を受け入れ、その中にある優しさや、痛みの中から芽生える思いやりを大切にすることだと、私は信じています。「心の豊かさを神々や精霊の大自然パワーによって開拓していきたい男」として私は最初Twitterで「福祉開拓の尾侍さん」という名義でSNS発信をしていました。

人と直接会うことはできなくても、魂同士はちゃんとつながれる。そう信じて、これからも私はこの場でメッセージを届けていきたいと思います。

読んでくださり、ありがとうございました。もし、今、孤独を感じている方がいたら、どうか知っていてください。あなたはひとりではありません。目には見えなくても、そっと寄り添っている存在が必ずいます。また、次回も心を込めて、言葉を届けますね。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
私の好きな詩『旅人』を紹介 [2025年03月19日(Wed)]
こんばんは。
障害当事者団体ベクトルズの尾侍です。

この世を生きて、そして死を迎える。
しかしながら「死によって無になる」「全てが終わりになる」と
思い込んでいる人は現代に多くいらっしゃると思います。

ここで私の好きな詩『旅人』を紹介します。

旅人よ
この世を行く
澄みわたった青い空を仰ぎ
芽吹きの野を歩む

花咲く草原を過ぎ
ときには
砂漠を越え
険しい岩場をも行く

一歩いっぽ
花のかおりに誘われて
また確かに
大地をふみしめて行く

短いこの世の旅ではあるけれど
自らの学びを深め
与えられた時を行く

春が来て夏を思い
夏過ぎて秋風と遊ぶ
やがて白い花が降り積もる頃
春のほほえみを夢見る

時めぐり全てが流れて行く
我が旅
流転の中にあって
この世に自らの学びと
人々の幸せを願い生まれ
そして故郷である天へと還る

人生は旅
この時代にこの名前で生まれて旅をし
死を迎えてひとつの旅が終わる

またそこから
新たな旅が始まる

(引用:護国寺住職・詩人 杉田寛仁の著書)

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
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