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本日は不安障害啓発デー [2025年06月10日(Tue)]
こんばんは。
障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事です。
本日はあまり知られていないのですが「不安障害啓発デー」です。

不安障害と大きく括られている中には私や宮澤理事も患っている社交不安障害が含まれていますので、啓発コラムを執筆させていただきたいと思います。

■不安障害の概要(引用)
不安障害とは、日常的な不安や心配が過剰になり、日常生活に支障をきたす精神疾患です。不安が強いことで、精神的な苦痛だけでなく、身体的な症状も伴うことがあります。具体的には、以下のような状態が特徴です。

・過剰な不安や心配:実際の状況と比べて、過剰に不安や心配を抱く。
・日常生活への影響:不安や心配が強すぎて、日常生活に支障が出ている。
・身体症状:動悸、発汗、呼吸困難、震えなど、身体的な症状も伴う。
・精神的な苦痛:精神的な苦痛や不快感を感じる。

不安障害には、様々な種類があり、それぞれのタイプによって症状や特徴が異なります。

社交不安障害:
人前での行動や、他人から注目される場面で、過剰な不安や恐怖を感じる。

パニック障害:
突然強い不安や恐怖に襲われる「パニック発作」が起こる。

全般性不安障害:
漠然とした不安や心配が、日常的に強く、長期間続く。

強迫性障害:
特定の考えや行動に、強迫的にこだわる。

上記は「不安障害とは」で検索した際に表示されるAIの回答です。しかしながら「強迫性障害」が不安障害に含まれていたことは過去の話であり、現在では不安障害とは別の分類となっています。ご存知でしょうが、私は社交不安障害と強迫性障害の2つを子どもの頃から患っている当事者です。

不安障害にはいくつもの種類がありますが、共通している点は、やはり「不安」と「恐怖感」でしょう。それが特定の出来事に対して起こるのか、予測不可能で起こるのか、といった多くの違いでそれぞれ障害名が異なっているのではないかと思っています。

そして例えば、社交不安障害と言ってもその中にはさらに症状が細かく分かれています。不安障害は奥が深いのです。私は特に「視線恐怖症」の症状が強く、宮澤理事は「人前に立って話すことに対する恐怖症」の症状が強くあります。

不安や恐怖感というものについて「慣れの問題」「案ずるより産むがやすし」「怯えてないで立ち向かえばいい」「勇気と気合で何とでもなる」と短絡的に捉えないでいただきたいと思います。「案ずるより産むがやすい」ということを本人は頭では理解していても、不安や恐怖感が嫌でも湧き上がってきてしまう精神障害なのです。その点を多くの方にご理解いただきたいと思います。

障害当事者団体ベクトルズでは講演会の活動も行なっています。そこには、宮澤理事も講演者として登壇しマイクを握ります。これは恐怖感との闘いです。恐らく想像を絶するような壮絶な闘いだと思います。当然、内田代表理事もその点は理解していますし「場数を踏んで慣れてもらう」といった考えは持っていません。宮澤理事は講演を強制されているわけではなく、最も苦手で恐怖感を伴う行動にチャレンジしてみようという本人の意思を尊重しています。ですから講演中に「限界」を感じた際には即座にバトンタッチできる体制を整えています。

啓発コラムとしては、あまり内容が濃くないものとなりましたがご容赦ください。この記事を読んだ方が、この記事をきっかにして「不安障害について自分でも調べてみよう」と思えたならば、啓発としては成功だと私は思っています。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
心に響き救われた座右の銘7つ [2025年05月25日(Sun)]
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍です。

私が実際に見聞きして心に響き救われた感覚を持ち、現在では自分の座右の銘としている言葉を7つご紹介してみたいと思います。以前も似たようなテーマのコラム記事を執筆したかもしれません。重なっていたものがあれば、それだけ私の当時の心には響いたということになりましょう。

1)九転十起
一般的には「七転び八起き」という言葉が古くから浸透していますが、この言葉は私が他に所属している団体の重役メンバーから教わったものです。「七転び八起き」よりも回数が多いだけとか「9回失敗しても10回目で成功が訪れる」というニュアンスなのではなく、どれほど失敗しようとも立ち上がり続け信念を持って挑み続ければいつか必ず成功する、という意味が込められています。その「いつか」というのは今世には限定していません。今世では生涯失敗し続けたとしてもその信念は魂に刻まれ、来世の課題として巡ってくるのです。

2)悩みは取り越し苦労なことが多い
悩みと称されるものの実態を見ると、その多くはその人の悩みがちな性格自体から発しています。つまり、悩みは「将来起きるかもしれない」ということに対して、様々な不安なイメージを働かせてしまい、取り越し苦労をする性格に起因することが多いのです。「将来」というと1年後・5年後・10年後などを想像しやすいと思いますが「現在から先」と捉えて構いません。つまり、まだ起きていないことに対してあれこれとネガティブに考えてしまい、ネガティブな思考が不安感を産んで、それが悩みになることも多いという意味です。もちろん悩みの中には過去これまでの経験からの「生きづらさ」などもあります。しかし、私はこの言葉と出会い、実際に取り越し苦労なタイプの悩みを持っていることを実感したことがあります。

3)特に一番深い悩みは試練の問題集
自分の人生の問題集が何であるのかを教えているのが、現在抱えている特に一番深い悩み事である。という言葉には救われました。私が現在抱えている悩みは精神疾患の社交不安障害、その症状の1つ「視線恐怖症」です。これが特に一番深い悩み事です。常に誰から視線が集まっているように感じ、それが恐怖なのです。人生の問題集は、人それぞれ試練として与えられていて、人それぞれ解き方が異なるといいます。しかしながら、それは「試練」であるため、絶対に乗り越えられない物ではないと信じています。絶対に乗り越えられないような試練は魂の成長には繋がらないため与える意味がないからです。私も自分の症状と闘いながら人生を歩んでいきます。

4)死にたいほど辛くなった時は逃げても良い
これは自殺予防を共に学んだ親友から教えてもらった言葉です。先ほどの試練の話にも関連しますが、乗り越えようと必死に闘い過ぎて、かえって死にたいほど辛くなる精神状態に陥ることがあります。そういう時は逃げても構わないといいます。この「逃げる」という行動は決して「試練に立ち向かうのを辞める」という意味ではなく「一旦休息をとる」という意味です。この言葉にどれほど私が救われたかわかりません。

5)誰でも初めてのことは山ほど失敗する
肝心なのは信念を持ち続けて諦めず継続し続けることです。初めての試み・初めての作業・初めての勉強・初めての仕事・初めての恋愛など、何でもそうですが初めてのことに挑むという行動には山ほど失敗が待ち構えているもので、当たり前なのです。失敗を恐れて挑まないのは、不安感が強いからだと思いますが、山ほど失敗したって当たり前。それでも継続し挑み続けていくうちに、失敗しないコツや他のやり方が分かってくるものです。魂の経験値といっても過言ではないでしょう。

6)学ぶことに年齢は関係ない
学ぶことは小中高大に限りません。社会人になってからもそうですし、年老いてからもそうです。「興味関心が強くある!」と心にビビッと来たことというのは大抵、今世の課題・使命と関連があるものと言われています。何歳からでも学び初めて「遅い」ということはありません。そして、何のために学ぶのか?といえば魂の経験値を上げるためです。魂の経験値を上げ、世の中に還元する行動をとる。社会の発展に繋がってゆくのです。

7)どのような環境にあっても一輪の花を咲かせる
私が一番好きな座右の銘です。どのような劣悪な環境の中にいようとも、泥沼の中から咲く蓮の花のように、自分なりの精一杯の美しい一輪の花を人生の中で咲かせる。そう決意して生きて行けば、それなりの花を咲かせることは可能だという言葉です。その花の大きさや形・香り・色などは十人十色であって構わないのです。自分なりの精一杯の花であればタンポポのような小さな花であっても良いのです。

誰かに教えてもらった言葉が、自分の心を支えて救ってくれることが人生の中では多々経験します。今回は特に私自身が「心に響き救われた言葉」そして「自分の座右の銘としている精神を支えてくれている言葉」をピックアップしてみました。これらの言葉が、読者の皆様のうち、どなたかの心にも響いて救われることを願っています。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
命をいただくということ〜「食」と「生命の連鎖」〜 [2025年05月22日(Thu)]
お久しぶりです。
障害当事者団体ベクトルズ 尾侍です。
「命をいただくということ」と題して「食と生命の連鎖」をテーマにコラム記事を執筆しました。近年散見される「ヴィーガン思想」に対しても私の個人的な意見を申します。

私たち人間は、日々の暮らしの中で多くの命をいただいて生きています。肉や魚、野菜や穀物――そのどれもが、かつては生きていた存在であり、それぞれの命がこの地球の中で役割を果たしながら存在していました。そして今、私たちの口に運ばれ、体の一部となり、生命をつなぐ力となってくれているのです。

スピリチュアリズムでは、人間は肉体だけの存在ではなく、霊体、そして魂を持った三層構造の存在であると考えます。この魂は永遠であり、肉体の死をもって終わるのではなく、成長と学びの旅を続けていく存在です。

そうした霊的な視点に立つと、「命を食べる」という行為もまた、単なる生理的な営みではなく、魂がこの地上での学びを続けていくための、神聖なプロセスの一部であると理解できるようになります。

命をいただくということは、「奪うこと」ではありません。むしろ、他の命の犠牲のうえに自分が存在するという現実に、謙虚さと感謝の心を持つことが、私たち魂の成長には欠かせないのだと感じています。命をいただくとは、生命の循環の中に自らを位置づけ、そのバトンを受け取り、次へと繋げていく行為なのです。

食事の時間に、ほんのひとときでも「ありがとう」「いただきます」という言葉を、心からの祈りとして捧げることができたなら、それは単なるマナーではなく、霊的な実践にもなり得ます。命あるものすべてが、この地球という霊的学校の中で、それぞれの役割を果たしている。だからこそ、私たちは食べるという日常の中にも、神聖な意識を宿すことができるのです。

私たちは命を食べて、生きています。これはとても自然なことです。けれど、自然であるからこそ、そこに感謝と敬意を忘れてはならない。命をいただくことは、私たち人間に与えられた責任であり、霊的な愛の実践でもあると私は思うのです。

近年、「動物を食べることは人間として愚かであり、植物しか口にすべきでない」とするヴィーガン思想を見聞きする機会があります。その志の高さや動物愛護の精神には敬意を抱きつつも、「動物はだめで植物なら良い」という考え方には、私は少し距離を感じてしまいます。

というのも、スピリチュアリズムの視点では、人間はもちろんのこと、動物も、魚も、植物も、それぞれに魂が宿っている存在であり、それぞれがこの世界での役割を持って生きていると考えるからです。

たしかに動物は鳴き声や目の動きなど、私たち人間に「心がある」ことを感じさせてくれます。一方で、植物には声がなく、動かないぶん、私たちには感情や意思が見えにくいのかもしれません。けれども、だからといって植物に心がないとは、私は思いません。植物もまた、環境に反応し、命を守るために様々な働きを行い、互いに調和しながらこの地上に存在しています。その姿には、霊的な意志が宿っているように私には感じられるのです。

命の尊さに優劣はありません。

人間も、動物も、植物も、すべてが魂を持つ存在であり、この地上での役割を担う仲間です。だからこそ私は、「どの命が良くて、どの命が劣る」という考え方ではなく、命そのものに対する感謝と敬意を大切にしていたいと思うのです。

どんな命も、たった一つとして「無意味」なものは存在していません。すべての命には、魂があり、使命があり、この世界の中で互いに支え合いながら生きています。食べるという行為は、そうした命のつながりを受け取り、自らの内に引き継ぐ神聖な営みなのだと、私は信じています。

だからこそ、今日もこうして生きていること、誰かの命をいただいて明日へ歩めることに、静かな感謝と敬意を捧げながら、私は一日を終えたいと思います。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
毒親・精神障害・生きづらさ:魂の視点から見る現代の課題 [2025年05月01日(Thu)]
こんばんは。
障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事 尾侍です。
「毒親・精神障害・生きづらさ」という社会問題をテーマに取り上げます。

"毒親"という言葉が、世間に定着して久しいです。過干渉、人格否定、無関心、支配。そのような親からの影響に苦しみ、いまも心の傷を抱えたまま生きている人が少なくありません。私自身もまた、そうした「親」という存在に心を乱されてきたひとりの当事者です。毒親に育てられた子どもが、大人になったからといって、自動的に回復できるわけではありません。

むしろ問題は、大人になった後に本格化してきます。社会に出れば「親のせいにするな」「いつまで過去を引きずっているんだ」と責められ、語る言葉さえ封じられていきます。その沈黙のなかで、精神のバランスを崩し、精神障害という“生きづらさ”を抱える人も多いのが現代社会です。

私たちはいま、ただでさえ厳しい社会の中で、さらに親からのダメージを引きずりながら生きなければならない状況に立たされています。これは単なる個人の問題ではなく、構造的な、社会全体の問題だと私は考えています。

魂の視点から見る「毒親」

スピリチュアリズムの視点から見ると、魂はこの世に生まれる前に「学びのテーマ」を選んでくるといいます。ならば、なぜ私たちは“毒親”という困難な環境を選んで生まれてきたのか?この問いに、簡単な答えはありません。しかし私は、魂が成熟していくためには「感情の痛み」や「自己否定を越えていく力」を学ぶ必要がある、と感じています。毒親との関係のなかで味わう理不尽や、壊されそうになる自己価値感。それを乗り越えるプロセスそのものが、魂の進化に関わっているのかもしれないと思います。

ただし、それは「だから我慢しろ」という話では決してありません。魂の学びと人権侵害は別問題です。苦しみを声にすることは、魂の成長と同じくらい、地上で生きる私たちにとって大切な営みです。

社会が生きづらさを再生産している

精神障害を抱える人々の中には、幼少期からの家庭環境に大きな原因がある人が多くいらっしゃいます。にも関わらず、福祉制度や医療の現場では「家庭の問題」は個人の問題として扱われがちなのです。さらに、社会の中にも無理解や偏見が根強く存在していることも事実です。「甘え」「逃げ」「弱さ」。そうしたレッテルによって、助けを求める声はかき消されてしまっています。

これは、個人が怠けているからではありません。社会そのものが「傷ついた人間」を受け止める想像力を失い、むしろ傷を深めてしまっているのだと私は感じています。

本当の癒しとは何か

私は、癒しとは「正しさを押しつけること」ではなく、「痛みの存在を認め、共にいること」だと思っています。

スピリチュアリズムでは、人と人は魂のレベルでつながっており、互いの学びのために出会うとされています。ならば、苦しんでいる誰かに寄り添うことは、その人の魂を支えると同時に、自分の魂も成長させる営みなのです。傷ついた人を癒す社会とは、優しさを“与える”社会だけに留まらず、優しさを“育て合う”社会だとも思います。

最後に

毒親という言葉の裏には、長い沈黙の歴史があるように思います。精神障害の陰には、見えない傷と涙があります。生きづらさの影には、社会の硬直と無関心があります。私たちはそれらを見つめ、語り、そして変えていく必要があると思うのです。

魂の成長と社会の変化は、決して矛盾しません。むしろそのふたつが重なるところにこそ、私たちが目指すべき「新しい共生社会」があるのではないでしょうか?

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
https://x.com/welfare_samurai
支援と自己責任論の狭間で:本当の優しさとは何か [2025年04月27日(Sun)]
おはようございます。
障害当事者団体ベクトルズ 尾侍です。
今朝は少し社会について考えてみるコラムを執筆しました。

「支援と自己責任論の狭間で:本当の優しさとは何か」

いまの社会には、二つの力がせめぎ合っているように感じます。ひとつは、「誰もが支え合うべきだ」という支援の力。もうひとつは、「自分のことは自分で責任を取るべきだ」という自己責任の力。どちらも、一理あります。どちらか一方だけが正しいわけではないでしょう。しかし、私は思うのです。

魂の成長という視点から見れば、人は本来、支え合うために地上に降りてきたのだと。自立することは尊い。でも、自立とは孤立することではないはずです。他者に頼ることは、魂の弱さではなく、魂の成熟です。スピリチュアリズムが教えてくれるのは、魂同士は本来、つながり合い、助け合うために存在している、ということ。

だから、誰かが「助けてほしい」と言ったとき、それに手を差し伸べるのは、人間性の自然な表れなのです。逆に、「あなたが弱いのは自己責任だ」と切り捨てるとき、私たちは自らの魂の成長の機会を失ってしまうかもしれません。

真の優しさとは、誰かを"甘やかす"ことではありません。真の優しさとは、その人の魂が本来持っている力を信じながら、倒れそうなときにそっと支え、寄り添うことだと思うのです。社会にはいま、優しさの再定義が求められています。

支援と自己責任論の狭間で揺れながらも、私たちはもう一度、魂の目線で問い直さなければならないのではないでしょうか。

"この人のために、私はどんな愛を差し出せるだろうか。"

その問いこそが、きっと社会を、そして私たち自身を、優しく強く育てていくと私は信じています。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
先天性の障害を持って生まれてきた方に伝えたいこと [2025年04月20日(Sun)]
こんばんは(私は就寝直前です)。
障害当事者団体ベクトルズの代表補佐理事です。

「先天性の障害」については、私が執筆担当してきたコラム記事では初めて取り上げるテーマだと思います。私の専門分野の1つ「スピリチュアリズム」に基づいて書きたいと思います。

私たち人間がこの世に生まれてくるとき、それは偶然の産物ではありません。この世は「魂の学校」「魂の修行場」とも呼ばれる場所です。魂は、生まれる前に自らの学びのテーマを選び、必要な経験を積むために人生の設計図を描いてきます。

先天性の障害を持って生まれてきた方。その魂は、決して「罰」としてその体を選んだのではありません。むしろ、深い愛と覚悟をもって、その「ハンディキャップ」と呼ばれる体を選び、地上に降り立ったのです。

あなたの魂は、とても成熟しています。地上での不自由さを通して、人の心の痛みを理解し、他者とのつながりを深め、そして「見えない世界の力」を信じる力を育てていくために、あえてこの道を選ばれました。

これは、誰にでもできることではありません。高い志をもった魂にしか選べない「特別な道」なのです。

私自身は生まれてきたときは先天性の障害は持っていませんでしたが、10代前半で後天性の精神障害者になり「社交不安障害」と「強迫性障害」のダブルパンチで大変苦しく深刻な生きづらさを抱え、障害と共に生きてきました。10代前半ですから、まだまだ子供時代です。発症した当時の私は「学校のクラスメイトは普通なのに、なんで自分だけが」と涙を流すこともありました。

けれど、20歳の時にスピリチュアリズムと出会い、ようやく自分の存在に「意味」があることを知りました。魂の視点に立てば、痛みも悩みも、すべてが「成長のための種」だったことが分かりました。「後天性の障害」であっても、生まれてくる前の人生計画の段階で自分自身に用意した試練の1つだったのだと納得しました。

もし人生が苦しく感じるときは「自分の魂がこの道を望んで選んできた」という視点を思い出してください。それは現実逃避ではなく「霊的な事実」です。見えない世界は、いつもあなたを見守り、導いてくれています。あなたは孤独ではありません。

そしてもう一つ。

あなたがそこにいるだけで、周囲の人々に影響を与えています。存在そのものが「気づき」と「学び」の種となり、あなたの在り方が周囲の魂をも目覚めさせていくのです。どんなに体が不自由でも、どんなに社会が冷たく感じても、あなたの価値は揺るぎません。あなたの魂は、美しく、強く、尊い存在です。

最後に。

この人生が終わったとき、あなたの魂は間違いなく光に包まれます。そして、あなたが歩んだ道の意味が、すべて明らかになります。そのとき、きっと、あなたは微笑むでしょう。「生まれてきてよかった」と。

あなたの旅路に、祝福と導きがありますように。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
対面ではなくても、心はつながる [2025年04月16日(Wed)]
おはようございます。
障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事
通称、尾侍(おさむらい)さんです。

久しぶりに「尾侍コラム記事」の原稿を書いたので
代表理事に代理投稿をお願いしました。
(掲載お願いします)

こんにちは。スピリチュアリズムに関心を持ち、長く学び続けてきた私ですが、今日は少し、私自身のことについてお話ししたいと思います。特に「なぜスピリチュアルカウンセラーやセラピストではなく、こうしてブログやSNSを通じてメッセージを発信しているのか」について、正直な気持ちを綴らせてください。

1)社交不安障害という「壁」

私はスピリチュアリズムの教えを深く信じています。魂の成長や死後の世界、目に見えない存在とのつながり――それらが、人生の中で何度も私を救ってくれました。

けれど同時に、私は社交不安障害という心の課題を抱えています。人と直接関わること、ましてや対面で心の内を聴いたり伝えたりすることに、強い不安と恐怖を感じてしまうのです。何度も努力してみましたが、どうしても身体が反応してしまう瞬間があります。

だからこそ、スピリチュアルカウンセラーやセラピストという道は、今の私には現実的ではありません。これは決してあきらめではなく、自分自身を受け入れた上での「選択」だと、今では思っています。

2)発信というかたちの癒し

「私にできることは何だろう?」そう自問したときにたどり着いたのが、「書くこと」でした。文章なら、誰かの目を直接見る必要も、声を震わせながら話す必要もありません。けれど、それでも心は伝わると信じています。SNSやブログを通じて、私は日々メッセージを発信しています。

心が苦しい人、生きづらさに押しつぶされそうになっている人、愛を信じられなくなってしまった人たちに向けての、静かな呼びかけです。

3)心の豊かさは、誰にでも訪れる

スピリチュアリズムの世界では、「すべての魂は学びの旅をしている」と言われます。今の状況がどれほど暗く、重く、孤独に感じられても、私たちの魂には本来、光があります。その光を、ほんの少しでも思い出せるような言葉を届けたい。そんな気持ちで、私は今日もキーボードに向かっています。

心の豊かさとは、大きなことを成し遂げることでも、完璧な自分になることでもありません。ありのままの自分を受け入れ、その中にある優しさや、痛みの中から芽生える思いやりを大切にすることだと、私は信じています。「心の豊かさを神々や精霊の大自然パワーによって開拓していきたい男」として私は最初Twitterで「福祉開拓の尾侍さん」という名義でSNS発信をしていました。

人と直接会うことはできなくても、魂同士はちゃんとつながれる。そう信じて、これからも私はこの場でメッセージを届けていきたいと思います。

読んでくださり、ありがとうございました。もし、今、孤独を感じている方がいたら、どうか知っていてください。あなたはひとりではありません。目には見えなくても、そっと寄り添っている存在が必ずいます。また、次回も心を込めて、言葉を届けますね。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
私の好きな詩『旅人』を紹介 [2025年03月19日(Wed)]
こんばんは。
障害当事者団体ベクトルズの尾侍です。

この世を生きて、そして死を迎える。
しかしながら「死によって無になる」「全てが終わりになる」と
思い込んでいる人は現代に多くいらっしゃると思います。

ここで私の好きな詩『旅人』を紹介します。

旅人よ
この世を行く
澄みわたった青い空を仰ぎ
芽吹きの野を歩む

花咲く草原を過ぎ
ときには
砂漠を越え
険しい岩場をも行く

一歩いっぽ
花のかおりに誘われて
また確かに
大地をふみしめて行く

短いこの世の旅ではあるけれど
自らの学びを深め
与えられた時を行く

春が来て夏を思い
夏過ぎて秋風と遊ぶ
やがて白い花が降り積もる頃
春のほほえみを夢見る

時めぐり全てが流れて行く
我が旅
流転の中にあって
この世に自らの学びと
人々の幸せを願い生まれ
そして故郷である天へと還る

人生は旅
この時代にこの名前で生まれて旅をし
死を迎えてひとつの旅が終わる

またそこから
新たな旅が始まる

(引用:護国寺住職・詩人 杉田寛仁の著書)

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助
学生時代の想い出:尾侍酔助編 [2025年03月04日(Tue)]
おはようございます。
障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事です。
今朝もマイナス10度まで冷え込んでいます。
天気予報ではこれからさらにマイナス12度まで冷え込むそうです。
3月に入ってもまだまだ「真冬」さを感じています。

代表理事からの提案でベクトルズのメンバーが
同じテーマを掲げてコラム記事を執筆してみよう!ということになりました。
「学生時代の想い出:尾侍編」と題しまして今朝は私が執筆します。

学生時代の記憶が濃い想い出について語ります。
私は札幌市にある私立高校に入学し、
入学直後の同級生と交流を深める目的のバーベキュー遠足という行事で
同じチームになった内田と仲良くなりました。
そこで仲良くなれたおかげで約20年経った現在もこうして共に活動できています。

高校時代の私には気心の合う「語り合える友人」が3名しかいませんでしたが、
しかしその人数の少なさに「さみしさ」は全く感じたことがありません。
いつでも腹を割って熱く語り合える3名の友人がそばにいたからこそだと思います。

ちなみに私はご存知でしょうが社交不安障害と強迫性障害を持っていまして、
部活動や生徒会に所属した経験がありません。
特に同年代の若者とのコミュニケーションが非常に苦手で
無理をするとパニック発作が起きてしまいます。

そのため帰宅部だったわけですがクラスでは他の同級生たちが「やりたがらない」
学園祭の手描き学級旗づくりには率先して立候補をし、
3年間手がけることができました。
当時から絵を描くことだけは私の得意分野だったからです!

内田は和太鼓部に所属していましたが、
学級旗づくりの際には部活動を抜け出したりサボったりして
手伝ってくれたエピソードもあります。
当時の内田が言うには「和太鼓部は運動部ではなく文化部に分類されるけれど
常に全身運動するから運動系文化部だと感じているよ」だそうです。

そして高校時代、私は毎日の放課後に図書室で友人と集まり
私の大好きな自然(当時は特に魚・川・木)について
図鑑を取り出して見ながら語り合う楽しみがありました。
私が発案者で「緑を守る会」といったような自由同好会を作り、
内田たちと共に市内の川を観察しに出かけたり自然博物館などへ
出かけたりと毎週末がその会の活動で楽しかったのです。

その活動でさらに「熱く語り合える友人」から「熱く語り合える親友」へと
私の気持ち変化がありました。

このようにして私は高校を卒業したのですが
その親友3人組とは大学時代にももっと親睦を深められるようになりました。
お互い20歳になりお酒を飲めるようになったキッカケが大きいでしょう。
しょっちゅう私の家に集まって泊まりでお酒を浴びるほど飲み、
しゃぶしゃぶや焼肉パーティーで大盛り上がりした楽しい想い出があります。

親友3人組のうち一人は医療系大学へ進んでいたこともあり
途中から大学生活の多忙さであまり会える機会がなくなってしまったのですが、
内田だけは大学時代も毎週末に会っていました。
そこで「社会問題である自殺問題について学びを深めよう!」という流れで、
現在の「自殺予防団体-SPbyMD-」の前身団体である「シン研」を立ち上げました。

高校時代に同級生として出会い、
互いに気心の合う親友として学校生活をエンジョイできたからこそ
私も自殺問題について学び、そして自殺予防活動を始められたと思います。
ありがとう!

想い出を振り返りながらの執筆で長文になってしまいましたが、
これにて私の「学生時代の想い出:尾侍編」を終えます。

以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾侍酔助

追伸:3月より私も活動名義を使うことになりました。活動名義の苗字「尾侍」は私がサムライを好きだということから内田が名付けてくれた愛称です。名前「酔助」は酔っ払いを助けるという意味ではなく(笑)以前アルコール依存症を患った私が、現在でも完治ではなくあくまでも寛解という状態であることを自分自身に戒める気持ちで「酔う」という字を当てました。「助」は自殺予防団体で人の命を助ける活動をしていることや、困っている人のお手伝いをせずにはいられない性格、そしてやはりサムライが好きであるという理由から「助ける」という字を当てました。
人生の指針になる覚えておきたい霊的価値観4選 [2025年02月27日(Thu)]
おはようございます。
障害当事者団体ベクトルズ 代表補佐理事です。

Yahoo!ニュースを見ていて、
「これからの人生の指針になる覚えておきたい言葉6選」という記事を読みました。
私が実際に人生の指針となっている霊的価値観をご紹介したいと思いました。


1)未来は訪れるものではなく創るもの
私たちは神から命を賜っている尊い神の子であり霊的存在です。何を解説するのもまずはここからです。神の子である私たちは神のように「創造」する力も分け与えられています。自分の未来を創る力があるということです。未来は待っていて訪れるものではなく、自らの「念い」によって自分が創るものです。自分自身の成長もそうですが「念い」が強いほど自分の周りの環境を変えていくことも、ひいては社会を変えていくこともできます。

あとで触れますが「念い」の中身は必ず善なるものであることが大切です。悪いことを念い続けていると波長同通の法則で同じような悪い人や悪霊を呼び寄せ、結果、悪い未来を創ってしまいます。その点は気をつけましょう。


2)人生には乗り越えられない壁は存在しない
落ち込んでいる人を慰めるような時に使う言葉として世の中に浸透していますが、実際落ち込んでいる人にこの言葉を使っても常套句にしか聞こえず慰められませんし、本来「人生には乗り越えられない壁は存在しない」とはそういう言葉ではありません。神によって与えられた自分という尊い命は、世のため人のために役立てるように使うことが「産まれる理由」のひとつです。ですが、自分の魂を向上させるためでもあります。魂の向上のためには、人生を歩む上で数え切れないほどの試練という名の壁が用意されています。そのたくさんの試練に対して忍耐力を身につけ創意工夫して乗り越えていくことが魂の向上に繋がります。

しかしながら、魂のレベルにあまりにも見合わない、つまり「乗り越えられない壁・試練」では先に進むことができず魂向上に繋がらず意味がありません。神は私たちが乗り越えられずに潰れてしまうことを望んでいません。魂向上にとって意味のない難しすぎる壁・試練を用意しても無駄ですから「人生には乗り越えられない壁は存在しない」のです。これは神の優しさ・愛です。このことを知ったならば、今みなさんの前に立ちはだかっている壁・試練は必ず乗り越えることができるものだと信じることができるでしょう。乗り越えるためには、自分自身を磨いて成長させることが必要です。

具体的に自分自身(魂)を磨くとはどういう思いでどういうことをすれば良いのか分かりますか?とても参考になるので、我が国の神の子孫(天皇)が創った教育勅語を例に挙げましょう。
「謙遜:自分の言動をつつしみましょう」
「博愛:広く全ての人に愛の手をさしのべましょう」
「修学習業:勉学に励み職業を身につけましょう」
「智能啓発:知識を養い才能を伸ばしましょう」
「徳器成就:人格の向上につとめましょう」
「公益世務:広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう」

ほかにも参考になる言葉が教育勅語には書かれていますので、関心を持った方は明治神宮のホームページを見てください。「人生には乗り越えられない壁は存在しない」これを信じて、みなさん勇気を出して生き抜いて下さい。


3)現在の自分が変われば自分の過去も変えられる
「過去は変えられない」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか?私はあります。過ぎてしまったこと・起こってしまったことを悔やんでも仕方が無いことだといった意味ですね。しかし、物事は捉えようです。現在の自分自身を見つめた時、例えば、もし恋愛にも恵まれず孤独で寂しい状態だと思った際には「ハンサムな肉体に産まれなかったから今こんな寂しい人生なんだ…」と自分の過去をネガティブに捉えるかもしれません。ところがこれからの人生で自分を好きになってくれる異性と出会い幸せな結婚生活を歩めるようになれたとしたら、今までの自分の過去の捉え方はネガティブからポジションなものに変わります。「ハンサムな肉体に産まれることができず恋愛をしたことも無かったけれど、今のこの幸せを手に入れるために必要な糧だったんだな!」と。

人は神の子ですから自分で未来を創ることができます。ですから、現在の自分自身も変えることができるのです。現在の自分自身を変えることができれば状況も必然と変わり、変えることができた状況によって自分の過去さえも変えることができるのです。


4)毎日は一日一生の積み重ね
私たちは自分が死ぬ年月日を知りません。生殺与奪権は神のみが有しているからです。病気を患っていなくとも交通事故に巻き込まれて突然死を迎えるかもしれません。会社の階段で足を滑らせて頭を強く打って死を迎えるかもしれません。そこで毎日、朝起きたら「もし今日、自分が死ぬと仮定したらどのように今日一日を過ごせば善だろうか?」と考えてその日を過ごす心掛けが大切です。それも自我欲な思いで「今日死ぬかもしれないから財産を全て酒や女に注いでしまおう♪」などという考えは善ではありませんよ…。私たちは神から命を与えられている尊い存在であり、世のため人のためになることを使命として成し遂げるため産まれてきています。我が国の教育勅語にある「公益世務:広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう」がまさしくこれに当たります。

このような善なる思いを常に持ち、「自分の命は今日限りかもしれない。ならばどのような一日を過ごせば神の子として善なる生き方になるか」を毎日積み重ねてゆくのです。「面倒くさいから明日でいいや…」とその日放棄したくなるような業務もあるでしょう。私もあります。しかし、その明日がないかもしれないと考えた時、「もういっちょ気合い入れて頑張ろ♪」と思えます。一日一生という言葉は誰もが聞いたことあるものですが、その意味を解説しました。


追伸
なるべく分かりやすいように嚙み砕いた解説を試みましたが、私が解説した霊的価値観についてのご質問があれば、私の個人Twitterまでお気軽にお寄せ下さい。リプよりはDMのほうが長文でご返答できますので有難いです。
https://x.com/welfare_samurai


以上
障害当事者団体ベクトルズ
代表補佐理事 尾垣
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